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隋唐演異  作者: 八月河
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塩の密売と隕鉄の槍

その年の秋、夕陽が北平の巨大な城壁を赤く染めていた。門前には、新たに徴発された府兵やその家族を見送る群衆、税として納める穀物を積んだ荷車の列が延々と続いていた。私は母姜氏を載せた粗末な荷車の轅を握りしめ、列の最後尾で足を止めた。車上の粗布には、亡き祖父・姜行譚が遺した白樺の木製模擬槍が包まれている。


(これが…父羅芸が治める街か)


胸の鼓動が早まる。北平王幽州総管として文帝より絶大な信任を受ける父とは、生後間もなくして別れ、ついに再会の時を迎える。母の顔は石のように硬く、父の名が話題に上るたび、その目に浮かぶ深い陰りは、この再会に喜びなどないことを物語っていた。


「次! 早くせい!」


若い兵卒が槍の柄で荷車を小突く。門前では、総管府の兵士たちが厳しい検問を行っていた。突厥の脅威が高まる中、文帝が強化した辺境防衛策の一端だ。


「通行税、十五銭だ!」


兵卒が手のひらを差し出す。当時の米価で成人一人が十日間食べられるほどの金額である。懐の銭袋にはわずか十銭しかない。


「お役人、母が病身でして…」


「知らん! 総管様の御達だ! 一文たりとも足らぬ者は通さん!」


兵卒が荷車を強く揺さぶる。車上の母が苦しそうな息を漏らした。


「やめよ」


低く重い声が背後から響いた。振り返ると、そこには身長六尺を超える筋骨隆々の武将が立っていた。磨き込まれた明光鎧の胸甲には「幽州総管 羅」の文字。鷲のような眼光が兵卒を一瞥するだけで、若兵は震えあがった。


「こ、こいつら税を…」


「この男は我が子だ」


父羅芸の一言に、周囲の空気が凍りついた。彼の視線が私を貫く。荷車を引くために鍛えられた肩幅、農作業と武芸の稽古でできた掌の槍マメを、探るように見つめる。長い沈黙が流れた。


「…随分と、逞しくなったな」


「祖父の下で、武芸と書を学びました」


「ふむ」


父は微かにうなずき、兵卒に命じた。


「税は我が禄から引け。通してやれ」


羅松はその日の夜、緊張が解けたのか風邪をひいた。


「松よ、そろそろ薬の時間ですよ」


母姜氏の優しい声で目を覚ます。粗末な長屋の窓から、雪の結晶が舞い込んでいた。羅松は竈の火をおこしながら言った。


「母上、今日は羊肉の粥を作りました。張鉄が山で鹿を仕留めたので...」


姜氏が咳を押さえ微笑む。


「随分と腕を上げたね。父の形見の模擬槍で、薪割りも上手になったそうだ」


「祖父様の教えは『武器も農具も、人の役に立つ道具』と...」


突然、表で騒がしい声がした。


「親分! 大変です! 劉校尉の配給米に砂が混ざってる!」


隻腕の張鉄が怒りながら米袋を担いで現れる。


羅松が袋の中身を掴む。


「これは...明らかに故意だ。どれだけ混ざっている?」


「三袋に一袋は砂だ! 兵士共が『商人の米は当てにならん』と...」


羅松は深く息を吸った。


「張鉄、馬を用意してくれ。総管府へ直訴する」


「姜松よ、こんな寒い日に何用だ?」


物資調達官劉校尉が温かい部屋から出てこない。


「校尉閣下、配給米の件でご相談が」


「ああ?儂の管轄外だぞ」


羅松は懐から帳簿を取り出す。


「では、先月の塩取引の帳簿を校閲しましょうか? 免税分の計算に誤りが...」


劉校尉が慌てて飛び出す。


「待て待て! 米の件はわしが直接調べよう」


「ではお願いします」


羅松は微かに笑った。


「ついでに、明日の市で羊毛を仕入れます。校尉のご親戚の店から優先的に...」


(商人として生きるとは、こういうことか)


帰り道、羅松は張鉄に呟いた。


「汚れ仕事の代償だ」


「若旦那! 太原から鉄鍋が着いたぞ!」


「洛陽の絹商人が値切ってくる! 三割引だって!」


「突厥の馬商人が塩と交換したいと!」


羅氏貨棧は朝から活気に満ちていた。羅松は取引を仕切りながら、常に母の薬の時間を気にしている。


「李四郎、南側の倉庫の湿気が酷い。石灰を撒いてくれ」


「お安き御用で!」


弓の名手は今、貨棧の用心棒兼大工として働く。


昼時、程咬金が現れた。


「おう姜松! 山で猪を仕留めた! 塩漬けにしてくれ!」


「相場は肉十斤で塩一斤だ」


「おいおい! 兄弟の情けは?」


「情けで商売はできん」


姜松は笑いながら肉を受け取った。


「...だが、酒を一壺奢る」


二人で竈の傍らに座る。程咬金が突然真顔になる。


「なあ姜松、お前さんは何で商人になった?」


「生きるためさ」


「ふん...お前の目は商人らしくねえぞ」


夕暮れ、総管府の城壁で父・羅芸とすれ違う。


「...寒さが厳しいな」


「はい、父上。母の咳もひどく...」


「薬草なら府庫にある。必要な時は申せ」


硬い会話が続く。羅芸は龍紋槍を握りしめている。


「先日の米の件...適切に処理したようだな」


「劉校尉のご配慮で」


「ふむ...商人として...確かに才能がある」


沈黟が流れる。遠くで兵士の訓練の声が聞こえる。


「成児は...槍の稽古に熱心だ」


「弟殿の上達は目覚ましいと聞きます」


「...お前も...武芸を忘れるなよ」


「はい」


父の背中を見送りながら、羅松は胸の内で思う。


(父上...なぜ直接『息子よ』と呼んでくれぬのか)


長屋に戻ると、姜氏が灯りの中で何か縫い物をしていた。


「松よ、手を貸してくれるか? 目が霞んで...」


「はい母上」


北斉の金翅鳥紋を刺繍する布を支えながら、母が静かに語る。


「昔、宮中では冬になると皆で雪合戦をしたものよ。高岳様という従兄弟は、いつも私を守ってくれて...」


「その方は今...?」


「周軍が鄴を攻めた時...真っ先に戦死された」


母の手が震える。


「松よ、商人として平和に生きておくれ」


羅松が母の冷えた手を包む。


「母上、私は武者です。祖父様の槍を受け継いだ以上...」


「だが戦うなとは言わん」


姜氏の目が突然鋭くなる。


「守るべきものができた時は...ためらってはならぬ」


ある雪の日、貨棧に白銀の鎧を着た少年が現れた。


「おい! 商人! 父が言ってた薬草はあるか?」


「弟殿...いえ、羅成様」


子供の羅成がふんぞり返る。


「早く出せ! 母が風邪を引いたんだ!」


「かしこまりました。桔梗と甘草を...」


薬包みを渡すと、羅成が貨棧内を好奇の目で見回す。


「広いなあ...これ全部お前の物か?」


「総管府の許可を得て商っております」


「ふん...商人ってのは卑しいって叔父様が...痛っ!」


積み上げた毛皮の山が崩れ、羅成を埋めた。羅松が慌てて助け起こす。


「大丈夫ですか?」


「見、見るな!」


顔を真っ赤にして叫ぶ。


「今日のことは誰にも言うなよ!」


「では、この蜜漬けの杏もお持ちください。口止め料です」


少年は杏を頬張りながら去っていった。


(あの兄さん...案外悪くないやつかも)


後ろ姿がそう囁いているようだった。


「親分! 今年も大儲けでおめでとう!」張鉄が片手で杯を掲げる。


「若旦那の商才がなけりゃ、俺らとっくに野垂れ死んどるわ」


李四郎が焼いた羊肉を運ぶ。


程咬金が乱入してきた。


「おお宴か! 俺にも酒を!」


「山賊風情がよく来たな」


張鉄が笑いながら席を譲る。


羅松は皆に杯を配りながら言った。


「今年も命をつないでくれたことに感謝する」


「親分のお陰です!」若い傭兵が叫ぶ。


その時、不意に母が姿を見せた。


「皆さん、松は大変お世話になって...」


「とんでもねえ! むしろ親分に助けられてます!」


程咬金が立ち上がる。


「姜様も一杯!」


静かな笑いが広がる中、羅松は窓の外に立つ人影に気づいた。城壁の上で、父羅芸が遠くから宴を見守っていた。目が合い、父は微かに頷くと闇に消えた。


(父上...いつかこの宴に迎えられますように)


雪が静かに降り積もる。乱世のただ中で、小さな平穏が息づいていた。


城内は、突厥対策の最前線として活気と緊張に満ちていた。鍛冶屋からは甲冑を打つ金槌の音が絶えず、兵糧を運ぶ牛車が石畳を軋ませる。壁には「突厥襲来に備えよ」との高札が漢語と突厥語で掲げられ、兵士たちの目は常に北方を伺っていた。文帝の治世は「開皇の治」と呼ばれる平和な時代だが、この北辺の地では、その威光も霞んで見えた。


父の屋敷は武人街の奥にあった。玄関を開けた老僕に導かれ中庭へ進むと、武器立てに並んだ鉤鐮槍や眉尖刀が夕闇にくっきりと影を落としていた。


書斎では、父が軍配達と共に深い嘆息を漏らしていた。


「…また西の砦が襲われた。沙鉢略可汗の遊撃隊だ。塩の輸送路が断たれて半月。闇市の価格が五倍に跳ねた」


その「塩」の二字が、私の脳裏に稲妻を走らせた。文帝が開皇三年に導入した塩の専売制は、辺境では機能不全に陥っていた。朝廷の定めた官塩は不足し、価格も高い。ここに巨大な利ざやが存在したのだ。


三日後、決意を胸に書斎を訪れた。


「王よ、北西の『狼の喉笛』で散逸した軍馬の回収を許していただけませんか?」


羅芸の眼光が鋭くなる。


「あの地は突厥の略奪隊が跋扈する死地ぞ。何ゆえの志願だ?」


「馬を探りつつ、突厥の動向を偵察します。回収馬は総管府に献上致します」


炉の炭火がはぜる音だけが響く。父は開皇五銭(文帝の鋳造貨幣)を弄びながら考え込んだ。当時、良馬一頭は農民の年収に相当した。


「…よかろう」


父がようやく立ち上がった。


「だが命を粗末にするな。それが…お前の母への孝というものだ」


背後で息を殺す母の拳が白く震えていた。


「狼の喉笛」は文字通りの危険地帯だった。赤茶けた断崖がそそり立つ細道に、焼け焦げた荷車や白骨が転がる。私は精鋭を選んだ:祖父の弟子で元府兵の張鉄、弓の名手・李四郎、金で雇った傭兵五人。荷車の底には岩塩二百斤を隠し、腰には祖父譲りの鉄槍「青鋒せいほう」を手に向かった。


三日目の夕暮れ、張鉄の警告が飛んだ。


「狼煙三本! 十騎! 風下だ!」


地鳴りのような蹄音と共に、突厥騎兵が襲来した。彼らの複合弓から放たれた矢が傭兵の一人を肩に貫く。


「ぐえっ!」


「環形陣! 馬を狙え!」


李四郎の箭が先頭の二頭を仕留めたが、後続は躊躇なく突進してくる。一騎が眼前に迫った瞬間、祖父の教えが蘇る。


『気を丹田に沈めよ!』


「せいっ!」


青鋒が閃き、馬の頸動脈を断つ。血潮が砂塵を染める。落馬した兵を柄で殴打し気絶させる。


「若旦那! 左!」


張鉄の槍が間一髪で彎刀を受け流す。反転した槍先が敵の脇腹を裂く。鉄臭と内臓の臭いが混じる。


(これが現実の戦いか…!)


背筋が凍る感覚を振り切り、槍を動かし続ける。背後で傭兵が槍に貫かれる!


「くそっ!」


倒れた男の矛を拾い投擲。敵兵の鎖子甲を貫いた。


激烈な死闘の末、突厥兵七人が倒れ、軍馬四頭を奪取した。傭兵一人戦死、張鉄は左腕に深い斬り傷を負う。捕虜の革袋からは、ソグド商人経由と見られるササン朝銀貨が現れた。


凱旋した我々を、総管府の物資調達官の劉校尉が迎えた。


「おお、羅松よ! この栗毛馬は王幢主が探しておった!」


私は近づき声を潜めた。


「塩の件と商税のご配慮を…」


劉校尉は頬を震わせた。


「免税は約束通り。上には二頭と報告する。残り二頭は『手当て用』とな」


(これが辺境の現実か…)


即座に計算する。官塩価格は斗あたり十銭だが、闇市では三十銭。免税で利益率は200%に跳ね上がる。劉校尉への賄賂は、この危険なビジネスを継続させるための必要経費と割り切った。


この循環が始まった。金で買った情報で突厥の小部隊をおびき出し、戦利品で免税特権を得る。しかし代償は大きい。張鉄が毒矢で左腕を失い、若い傭兵の趙狗児が腸を抉られて息絶えた。彼の遺言「家族に金を」に、見舞金として絹十匹(当時で中流農家の年収相当)を送ったが、胸の痛みは消えなかった。


私は「辺境の武商」として名を知られるようになり、城壁近くに倉庫「羅氏貨棧」を構えた。太原からは鉄、洛陽からは絹、蜀からは錦を扱い、総管府の重要な物資調達役となっていた。父・羅芸は複雑な眼差しで私の成功を見守り、母は毎日、戦死者の位牌に灯明を捧げていた。


ある日、父が書斎で机を叩いた。


「高句麗遠征の後始末だ。朝廷より、戦死者遺族への見舞米として粟千石の供出を命ぜられた」


「それは無理な御達です」


即座に反論した。


「幽州の備蓄は三百石が限度。強行すれば兵士の家族が飢えます」


父の目に初めて困惑が浮かんだ。


「ではどうせよ」


「代わりに塩五百斤を献上します。高句麗では塩が金と同じ価値です」


父はしばし黙考し、うなずいた。


「…よかろう」


その夜、母が私の手を握った。


「松よ、商人として生きる道を選んだ貴方を、母は誇りに思う。だが…」


彼女の目が祖父の模擬槍に向く。


「この槍を持つ者の宿命を忘れるな。貴方は商人である前に、武者なのだ」


ある夜、酒楼で老商人の言葉が雷のように響いた。


「昆陽の『落星谷』よ! 昔、劉秀が王莽の大軍を破った時、天から火の玉が降り注いだ! 今も妖星の鉄が転がっとる!」


(隕鉄だ!)


知識が閃いた。昆陽の戦いで隕石雨が落ちたという『後漢書』の記録が現実となっていた。


直ちに行動を開始。昆陽の豪商・陳宝に土地相場の十倍で「落星谷」を買収。前朝・斉の元坑夫頭孫頭と、落魄した名工・欧陽冶を破格の待遇で招いた。


発掘は地獄だった。テクタイト化した岩盤は鉄のノミを刃こぼれさせ、硫化水素が坑内に充満。鉱夫が目を押さえて叫んだ。


「水を! この臭い…!」


坑道崩落で二人が圧死し、水銀蒸気で三人が眼球を溶かしながら悶死した。孫頭が震える声で訴える。


「東家…この鉄は命を喰う妖物です…」


(この犠牲は未来を救う代償だ)


祖父の砥石を握りしめ、労賃を倍増させた。


運命の日、最深部「龍脈穴」から歓声が上がった。


「出たああっ! 神の鉄だ!」


牛ほどの漆黒の塊が松明の光を吸い込んでいた。表面には模様が輝く。触れると異様な冷たさが伝わった。


欧陽冶が神技を発揮した。

穿星槍全長七尺二寸。穂先に流星紋が走る

断芒剣三尺一寸。刃紋が稲妻のように乱れる

隠瞳匕首七寸。暗闇で青く燐光する


「この鉄は呼吸しておる…」


欧陽冶が震える手で穿星を差し出す。


三日後、朝廷は最後に王粛が接触した人物が羅松であると知り谷を五千の討伐軍が埋めた。先頭には隋朝最強の武将たちが並ぶ。


「勅命! 姜松は謀反人! 討伐せよ!」


楊林、羅芸、伍建章、邱瑞の軍旗が翻る。私は穿星を地に立てて叫んだ。


「調べもせずに討つと言うのか!?朝廷なぞクソ喰らえ!」


邱瑞の金背砍山刀が風を切り裂く。穿星が三か所を瞬時に突き、刀身をへし折った。


「ぐおおっ!? この槍術…姜行譚か!?」


忠孝王伍建章


連珠箭が五本同時に飛来。穿星が空中で矢を切断する弧を描く。


「馬鹿な…矢を斬るだと!?」


鉄鞭を穂先に絡められ谷底へ落馬。


靠山王楊林


水火囚龍棒の双竜が襲いかかる。穿星が火花を散らして防御。


「若造! 天下を乱す気か!」


「乱すのは朝廷の貪欲だ!」


三百合の死闘。ついに穿星が楊林の兜の頂を削ぎ飛ばす。


ついに羅芸が前に立った。龍紋槍が夕陽に鈍く光る。


「なぜ刃向う! お前の商才が北平を支えていることは知っている…だが!」


槍が激突。火花が周囲の岩を焦がす。


(この重み…憎しみではない)


七合目、穿星が父の眉間をかすめる。


「母はなぜ貴様を憎む! 真実を言え!」


羅芸の槍が止まった。


「姜氏は…前朝斉の皇族だ。隋に滅ぼされた一族を…この俺が匿った」


衝撃が背骨を走る。


(だから母は隋を憎んだのか…!)


穿星が甲冑の胸板を貫く――が致命傷は避けた。


「帰れ。次に会う時は…本当に殺す」


敗走する軍を見送りながら、穿星の穂先が青く燐光を放った。懐の護符が熱を帯びる。広げると、北斉皇族の紋章が浮かび上がっていた。


朝廷も王粛が調べもせずに羅松を陥れたとして事で決着が着いた。


昆陽の豪商陳宝が機密情報を持ち込んだ。


「洛陽で動きがある。晋王が『驍果衛』を新設し、各地の精兵を集めている」


(これは…太子楊勇を廃することへの布石か?)


史書の知識が警鐘を鳴らす。朝廷内部の権力闘争が、辺境にまで影を落とし始めていた。


突然、張鉄が駆け込んだ。


「親分! 劉校尉が…御史台に連行されました!」


事態は急転した。三日後、漆黒の官服の集団が貨棧に押し入る。侍御史李運が宣告した。


「姜松よ。塩密売の廉で資産没収を命ず!」


(罠だ…晋王派が父の力を削ごうとしている)


王粛が帳簿を奪おうとした瞬間、張鉄の残った腕が鉄の如く彼の手首を掴んだ。


「若旦那の物には触れさせぬ」


「反逆か!」


王粛が絶叫する。


その時、外で蹄音が轟いた。父の羅芸が三百騎を率いて到着し、馬上から宣告した。


「羅松は総管府所属と認む。罪は我が双肩にあり」


李運が嘲笑した。


「では貴公も同罪か?」


父の龍紋槍が閃いた。


「辺境を守る者の苦衷を、都の貴族様に教えてやろう」


その夜、書斎で対峙した。


「なぜ助けた?」


私は問い詰めた。


「これで貴様の立場が危うくなる」


父は酒を啜り、ゆっくりと言った。


「お前の商才が幽州を支えている。それに…」


言葉を詰まらせた。


「母を守ると誓ったのだ」


「その母がなぜ貴様を憎む?」


父の顔が歪んだ。


「姜氏は…前朝斉の皇族に連なる身だ。隋に滅ぼされた一族を…この私が匿った」


衝撃が走る。


(だから母は隋を憎むのか)


父が机の巻物を広げた。そこには文帝直筆の密勅が「羅芸、北斉残党の掃討を急げ」と。


「明日までに決断せよ」


父の声は鉛のように重い。


「お前を討つか、共に反旗を翻すか」


母の部屋では、彼女が北斉の金翅鳥紋を縫い取った小さな旗を仕上げていた。「松よ」


静かな声。


「商人として生きるか、反逆者として死ぬか。選ぶのは貴方よ」


窓の外、狼の遠吠えが響く。私は祖父の模擬槍を握りしめ、決意を固めた。このままでは、父も母も、そして私の関わる者たち全てが巻き込まれる――


北平城外、十里北の長城跡。父羅芸は、側近も連れず、ただ一人、龍紋槍を傍らに立ち、遠く北方の草原を眺めていた。傷を負った胸には厚い布が巻かれている。


「…来たか」


振り向いた父の顔は、疲労と苦痛に満ちていたが、目は奇妙に澄んでいた。


「行く先は?」


「漠北です」


私は短く答えた。背後には、張鉄と李四郎、傭兵数人、荷物を積んだ荷車数台と駿馬十数頭が待つ。


「…ふむ」


羅芸はうつむき、長い沈黙の後、語り始めた。


「…お前の祖父…姜行譚翁に…私は命を救われたのだ」


彼の声は、遠い記憶を辿るようにかすれていた。


「初めて世に出た時…私は貧しい農家の三男坊…食うにも困り、軍に入って身を立てようと、涿郡の募兵所を目指して旅に出た…」


父の目に、若き日の苦労がよみがえる。


「だが…道中、病に倒れた…飢えと寒さで、もはや死を待つのみと思った時…通りかかった姜行譚翁に拾われ、手厚い看病を受けたのだ…数ヶ月、彼の家で過ごし、命を救われた…その恩は…一生忘れぬ…」


私は息を詰めて聞く。祖父が、そんな過去を持っていたとは。


「そして…その家には…美しい娘がいた…お前の母、姜氏だ…」


父の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「彼女は…心優しく…病める私を…献身的に介抱してくれた…やがて…心が通い…」


父は言葉を詰まらせた。


「…私は、軍に入り、必ずや立身出世して迎えに来ると誓い、姜家を後にした…必死に戦い、武勲を立て…わずか数年で校尉の位まで上った…喜び勇んで迎えに行ったのだ…」


その時、父の顔が強く歪む。


「だが…姜家は…火事で全焼した…と聞かされた…近隣の者も、行方知れずだという…翁も…姜氏も…焼け死んだと…」


父は拳を握りしめ、目を固く閉じた。


「…絶望した…せっかくの栄達も…虚しい…ただ…無心に戦い…功を重ね…幽州総管にまで上り詰めた…その間…秦氏を娶った…彼女は…有力な将軍の娘で…政略的な縁組だった…」


父が深く息を吸う。


「それから…十数年後…ある時、姜氏が…生きているとの情報が入った…必死に探した…そして…ようやく見つけ出したのだ…辺境の小さな村で…一人の子を連れて…」


父の目が、私をまっすぐに見つめる。


「…その子が…お前だ…松よ」


風が、草原を渡り、父の鬢の白髪を揺らす。


「お前が…私の実の子であることを…姜氏は言わなかった…お前が身篭ったのも…私が去った後のことだと…」


私は…羅芸の実の子だったのか!


「なぜ…なぜ今まで…!」


「言えるか…!」


父の声が激情を帯びる。


「当時の私は…幽州総管…朝廷の重鎮だ…前朝の皇族を密かに匿い…その間に生まれた実子がいる…それが露見すれば…一族皆殺しは免れぬ! 秦氏の実家も…朝廷に近い…お前たち母子を守れるのは…この立場を保ち…距離を置くことだけだったのだ…!」


父の肩が震えた。それは、積もり積もった無念と後悔の震えだった。


「…だから…お前が商人として成功し…幽州の経済を支えているのを見るのは…せめてもの…慰めだった…しかし…お前が朝廷の目に余る存在となった以上…最早…」


父は言葉を続けられなかった。頬を一筋の涙が伝う。硬骨の武将・羅芸の涙だった。


私は穿星槍を握りしめる。怒り、悲しみ、全てが渦巻くが、その中心には奇妙な静けさがあった。


「…父上」


初めて心からの呼称を口にする。


「…どうか…お体を大切に」


それだけ言い、踵を返した。振り返れば、父は龍紋槍にすがるように立ち、微かにうなずいていた。その背中は、全ての重みに押し潰されそうに見えた。


一行はひたすら北へ向かった。長城を越え、突厥の支配が及ばない漠北の奥地を目指す。追手を逃れるには、隋の影響圏外に身を潜めるしかない。


道中は苛酷を極めた。朝廷は高額な懸賞金をかけ、関所は厳戒態勢。食糧も水も乏しく、野宿を余儀なくされる。張鉄の義手が凍傷で危険な状態になり、傭兵一人が断崖から転落した。


「親分…北の安徳関は…精兵が固めております」


李四郎が斥候の報告を伝える。


「ならば…山越えだ」


険しい山脈を迂回する決死の行軍。深い雪渓、吹きすさぶ寒風。何頭もの馬が力尽きた。飢えと寒さで意識が遠のく度に、父の告白や散った仲間の顔が浮かんだ。


ようやく長城の廃烽火台を越えた時、眼前に広がるのは果てしない草原の大海原。しかし安息は遠い。この地は、突厥に追われた柔然の残党や、様々な小部族が割拠する無法地帯だ。


最初の冬は地獄だった。遊牧を知らぬ我々は竪穴住居で飢えと寒さを凌ぐ。食料は李四郎の獲物と僅かな粟のみ。張鉄の傷が化膿し、高熱を出す。薬もなく、草根で傷を洗うしかなかった。


春、近くを移動する柔然系の小部族と接触。警戒心強い彼らに近づくのは容易でない。李四郎が獲物を分け与え、信頼を築いていく。


ある日、一人の老族長が訪れた。母から託された錦袋の金翅鳥紋と羊皮紙を見るや、深々と頭を下げた。


「…姫君…お慕い申しておりまする…」


老族長は白霊族の長老と名乗った。北斉滅亡時に逃れた武人やその子孫が、漠北でひっそりと生き延びた集団だった。彼らは密かに高氏の再興を願い続けていた。


白霊族の庇護で息をつく。だが生き延び、いつか中原に戻るには力が必要だ。


「李四郎、弓術の指南を頼む」


「張鉄、鍛冶を手伝え。この地には砂鉄が豊富だ」


李四郎は隋軍式の弩の扱いを教え、張鉄は部族のたたら製鉄を助ける。私は僅かな金でソグド商人や漢人商人と接触し、鉄や塩の入手ルートを確保。特に力を注いだのは馬の育成だった。漠北の馬に隋の軍馬の血を入れ、強靭な馬の作出を目指す。


「親分…ようやく…形になりました」


張鉄が新たに打った直刀を差し出す。刃の出来は都の品には及ばぬが、実用に足る。


「ああ…」


広大な草原で、白霊族の若者たちが李四郎の指導で騎射訓練に励む。かつての傭兵たちも指導に加わる。


「…まだ足りぬ」


私は呟く。


「何がです?」


「力が足りぬ…朝廷と対峙するには…」


かつて父と対峙した重圧を思い出す。それを凌駕する力が必要だ。


「…鍛錬だ」


穿星槍を握る。祖父の教えから生死の戦いで得た技まで、全てを洗い直す。この草原こそが修練の場だ。


日は昇り沈む。槍を振るい続ける。風が肌を切り、砂塵が口に入る。それでも止めない。父の告白、母の想い、散った仲間の無念…全てを槍に込めて。


白霊族の若者たちも、いつしか傍らで鍛錬を始めていた。彼らの目に、かつての絶望の影は薄れ、新たな光が宿り始めていた。辺境の武商・羅松は、漠北の地で新たな基盤を築き、再起の時を静かに待つ。



夕陽が北平の巨大な城壁を血のように染めていた。門前には荷車の列が蛇のように延び、兵士たちの検問を受ける人々の息遣いが乾いた風に混じる。私は母・姜氏を載せた粗末な荷車を引き、列の最後尾に立っていた。荷車の上には、祖父・姜行譚の形見である木製の模擬槍が、粗布に包まれて微かに存在感を放っていた。


(これが…父羅芸が治める街か)


心臓が高鳴る。北平王と称される父とは、ついに再会の時を迎える。母の顔が硬直している。彼女が父の名を口にするとき、目に浮かぶ複雑な陰りは確執の深さを物語っていた。


城内は戦時下の活気に満ちていた。鍛冶屋からは金槌の音が絶えず、兵糧を積んだ荷車が石畳を軋ませる。壁には柔然襲撃の警告が張られ、兵士の目は常に北方を伺っていた。父の屋敷は武人街の奥にあった。石造りの門を開けた使用人に導かれ中庭へ進むと、武器立てに並んだ長柄武器が夕闇に鋭いシルエットを刻んでいた。


突然、玄関の影から巨躯の男が現れた。身長六尺を超える筋骨、鷲のような眼光。深い皺が刻まれた顔は岩のように硬いが、口元に微かな震えがあった。


「…来たか」


父羅芸の声は低く嗄れていた。母へは「ご苦労であった」の一言だけ。その視線は複雑な感情に渦巻いていた。


そして鋭い目が私を貫く。全身を探るような視線が、鍛え上げた肩幅や槍マメのある掌を舐めるように見た。


「…お前が、松か」


沈黙の重みが十秒以上続いてから、ようやく言葉が降りてきた。


「…随分と、大きくなったな」


「はい、父上」


私は深く頭を下げた。


「祖父様のもとで武芸と教養を磨いて参りました」


羅芸は微かにうなずくと、質素ながら整った部屋へ案内した。母は疲労からすぐに横になったが、私は窓辺に立ち、城壁上を行き交う兵士の松明を見つめ続けた。


(平穏など幻想だ) 本の知識が警告する。隋は中華を統一したが、この北辺の地では朝廷の威光は砂上の楼閣に等しい。柔然の脅威、飢えた難民、奴隷市場で鎖につながれた異民族の虚ろな目――これが乱世の真実だった。


ある日、羅芸の書斎で軍記録を閲く父が深い嘆息を漏らした。


「また西の砦が襲われた…塩の輸送路が断たれて半月。闇市の価格は天を衝く」


その「塩」の二字が私の脳裏に稲妻を走らせた。隋の塩専売制は辺境では機能不全に陥っている。ここに巨大なビジネスチャンスが潜んでいた。


三日後、私は決意を胸に書斎を訪れた。

「北西の『狼の喉笛』で散逸した軍馬の回収を許していただけませんか?」


羅芸の眼光が鋭くなる。この危険地帯を彼は熟知している。


「柔然の動向を探りつつ、北平軍に献上致します」


炉の火がはぜる音だけが響く。長い沈黙の末、父は立ち上がった。


「…よかろう」


その一言は鉛のように重かった。


「だが命を捨てるな。それがお前の母への孝というものだ」


背後で息を殺す母の拳が白く震えていた。


「狼の喉笛」は文字通りの死地だった。赤茶けた岩肌がそそり立つ細道に、過去の襲撃で焼け焦げた荷車や白骨が転がっている。私は精鋭チームを編成した。祖父の弟子張鉄、弓の名手李四郎、そして金で雇った傭兵五人。荷車の底には岩塩を偽装し、腰には特注の長槍「青鋒」を佩いていた。


三日目の夕暮れ、張鉄の警告が風を切った。


「狼煙三本! 十五騎! 風下だ!」


地鳴りのような蹄音と共に、柔然騎兵が狼の群れのように襲来した。彼らの放つ矢が盾板を貫く。「ぐっ!」傭兵の一人が肩を射抜かれる。


「全員、環状陣形! 馬を狙え!」


李四郎の矢が先頭の二頭を仕留めたが、後続は躊躇なく突進してくる。一騎が眼前に迫った瞬間、祖父の教えが蘇った。


『気を練り、一点に集めよ!』


「せいっ!」


青鋒が閃き、馬の首筋を貫いた。血の噴流。落馬した兵を柄で殴打し気絶させる。


「親分! 左!」


張鉄の槍が間一髪で敵の彎刀を受け流す。私は反転し槍を払い、敵の脇腹を斬り裂いた。温かい血しぶきが顔を覆う。鉄と内臓の臭い。


(これが現実だ…!)


現代人の感覚が逆流するが、思考は止まらない。背後で傭兵が槍に貫かれる!


「畜生!」


倒れた男の矛を拾い投擲。敵兵の背中に突き刺さった。


五分間の死闘で砂塵は血の泥と化した。傭兵一人戦死、張鉄は左腕を斬られる。だが柔然兵十二人が討たれ、軍馬七頭を奪取した。捕虜の革袋から金貨が転がり出た。


凱旋した私たちを、物資調達官・劉校尉が小走りで迎えた。


「おお、羅松よ! この栗毛馬は李都尉が喉から手が出るほど欲しがっておる!」

私は一歩近づき声を潜めた。


「塩の件と商税のご配慮を…」


劉校尉はニヤリと笑った。


「免税は約束通り。上には五頭と報告する。残り二頭は『手当て用』とな」


(汚れ仕事の代償だ)


瞬時に計算する。免税で塩密売の利益率は300%に跳ね上がる。劉校尉への賄賂は長期的投資と割り切った。


この危険なビジネスモデルが確立していった。金で買った情報で柔然をおびき出し、戦利品で免税特権を得る。しかし代償は大きかった。張鉄が毒矢で瀕死になり、若い傭兵趙狗児が私の腕の中で息を引き取った。彼の遺言「家族に金を」に、十倍の見舞金を送ったが、胸の罪悪感は消えなかった。


三年後、私は「辺境の武商」として名を馳せた。城壁近くに三棟の倉庫群「羅氏貨棧」を構え、洛陽・太原・成都に支店網を展開。北平軍の資金源として重要な存在となっていた。父・羅芸は複雑な表情で私の成功を見守り、母は毎日仏壇で無事を祈っていた。



丘の上で振り返る楊林が叫ぶ。


「覚悟せよ! 次は『天宝将軍・宇文成都』を遣わす!」


穿星を天に翳し、私は嗤った。


「望むところだ! この槍で隋の天を穿ってみせる!」


大地が穿星の燐光に照らされ、私の影が巨人のように岩壁に伸びた。遠くで狼の遠吠えが響く。静寂が峡谷を支配した瞬間、張鉄が血糊で固まった左腕を押さえながら近づいた。


「親分…朝廷の本隊が動きますぞ」


私は隠瞳匕首を手にひらりと翻し、闇に吸い込まれる青い軌跡を描かせた。


「良きかな」


匕首を収め、穿星を肩に載せて言った。


「この槍が光る限り、我らは戦い続ける。母の恨み、死んだ仲間の無念、そして」


振り返って丘の下を見下ろす。血に染まった鬼哭峡が夕闇に沈み始めていた。


「この乱世そのものを斬り拓くまでな」


風が突然強まり、砂塵が舞い上がった。その砂のカーテンの向こうで、討伐軍の最後の旗が消えるのを見届けた。李四郎が無言で弓の弦をチェックしている。生き残った傭兵たちが戦友の亡骸を担ぎ、暗がりに消えていく。一つ一つが深い影を引いていた。


「鉄よ」


穿星の柄に触れながら呟く。


「お前は多くの血を吸った。だがこれから吸う血は、もっと深い闇を孕んでいるだろうな」


槍身が微かに震え、低い唸りのような共鳴音を発した。隠鉄が意志を持つかのようだ。


ふと懐の護符が再び熱を帯びる。取り出すと、斉の紋章が燐光を増し、母の面影が浮かび上がった気がした。


(母上…貴女の沈黙の意味が今、理解できた)


護符を強く握りしめ、決意を新たにする。この戦いは商人羅松の終焉であり、反逆者羅松の誕生だった。


「全員、撤収だ」


静かな声が峡谷に響く。


「次の戦場は」


振り返らずに言い放つ。


「長安の宮殿だ」


穿星が最後の夕陽を反射し、一条の青い光線を天空に放った。それは天をも穿つ意志の宣言のように、闇夜に吸い込まれていった。

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