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隋唐演異  作者: 八月河
第二部
15/15

再会

李世民は、十万の大軍が召集されたという報告を受け、満足そうにうなずいていた。しかし、彼の目は名簿の上を慎重に追っている。そして、何度見直しても、あるべき名前が見当たらないことに気づき、眉をひそめた。


「…徐懋功よ」


側に侍る智将徐懋功が進み出る。


「臣、ございます」


「この名簿には、『薛仁貴』という名は見当たらぬのか?」


李世民の口から発せられたその名に、周囲の重臣たちが微妙に動揺する。徐懋功は静かに答えた。


「陛下、名簿には確かにその名は記されておりませぬ。しかし…」


「しかし、どうした?」


「臣の確信いたしまするところ、薛仁貴は必ずや軍中におります。何らかの理由で名簿に現れぬだけでありましょう」


「ほう? なぜそう言い切れる?」


徐懋功はほほえんだ。


「陛下が『夢現賢臣』にお見えになったという、あの白袍の武将。あのような人物が、世に出る機会をみすみす逃すはずがございません。おそらくは…何者かがその出世を阻んでいるのでしょう。しかし、珠はいつまでも塵に埋もれてはいませぬ。大军を山東から登州へと進軍させれば、必ずやそのお姿を現す時が来ると臣は確信しております」


李世民はしばらく沈黙し、徐懋功の言葉を噛みしめるようにしていた。


「…よかろう。その方針で行くのだ。全軍、山東へ向け進軍開始である!」


「御意にございます!」


かくて、大唐の十万の軍勢は、山東の地へとその矛先を向けて進軍を開始した。張士貴は聖旨を受け、先鋒営を率いて先陣を切る。彼の心中は複雑だった。薛仁貴という宝剣を抱えながら、それを輝かせることもできず、むしろその存在を隠さねばならないジレンマ。


大军が天蓋山の険しい山道を通りかかった時、事件は起こった。


「待てえーっ!」


轟くような喊声とともに、数百の山賊が山上からなだれ込んできたのである。その先頭に立つは、赤髯をたくわえ、鬼のような形相の大男――天蓋山の頭領・董奎であった。


「大唐の軍糧、頂きに参った! いさぎよく置いて行けば、命だけは助けてやる!」


張士貴は顔色を失った。


「な、無礼者! 誰か、この賊を討ち取れ!」


息子の張志龍と女婿の何宗憲が勇んで飛び出していく。しかし、董奎の力は桁違いだった。彼の振るう大斧は凄まじい破壊力を持ち、張志龍と何宗憲はたちまちのうちに組み伏せられ、あえなく敗走してしまった。


「ぎゃああっ!?」 「た、強い…!敵わん!」


張士貴は青ざめて後ずさる。軍中には動揺が走った。


その時、一人の人影が静かに前に出た。薛仁貴である。彼は冷静に武器を手に取り、董奎に向かって歩み出る。


「来るな! 賊徒め!」


薛仁貴の叫びと同時に、方天画戟が閃いた。その動きは電光石火――三合も経たぬうちに、董奎の巨体は地を打った。鮮血が斧からしたたり落ち、山賊たちは総崩れになって逃げ去っていった。


「や、やった! 薛仁貴、よくやった!」


張士貴は安堵の息をつくと、すぐに冷淡な表情に戻った。


(くっ…またしても薛仁貴の功績か…! このままではまずい…)


彼は薛仁貴を褒めそやすでもなく、むしろ難癖をつけるように言い放った。


「しかし薛仁貴! お前のせいで炊事班の動きが遅れ、全軍の食事の支度に支障を来した! 時間通りに食事ができなければ、軍法によりお前を罰する!」


周囲の兵士たち、そして薛仁貴の義兄弟たちは憤慨した。


「なっ?! それはないだろう、張将軍!」 「薛大哥が賊を倒したんだぞ!」


薛仁貴自身も一瞬、悔しさに唇を噛んだが、すぐに顔を上げ、閃いたように言った。


「では、スープ掛け飯を作らせてください! 時間も短く、多くの兵を満腹にさせることができます!」


薛仁貴は炊事場に戻ると、持ち前の腕前を発揮した。野菜や肉を刻む包丁さばきは見事としか言いようがなく、巨大な鍋を軽々と操り、見る見るうちに香ばしいスープ掛け飯を完成させてしまったのである。時間は見事に間に合い、兵士たちはその美味しさに歓声を上げた。張士貴の奸計は、再び失敗に終わったのだった。


(この薛仁貴め…武勇のみならず、こうした炊事の才まで備えているとは…厄介な男よ!)


張士貴は内心、歯ぎしりしながらも、表面は笑顔で薛仁貴を褒め、わずかな褒美を与えた。それは薛仁貴の警戒心を解き、再び罠に陥れようとする策略だった。しかし、その策は、密かに薛仁貴を見守る周青(彼自身、尉遅恭の命を受けたもう一人のスパイであった)の機転によって未然に防がれ、薛仁貴は危地を脱した。


(…どうやら、薛仁貴は除かれたようだな)


張士貴はほっと胸を撫で下ろすと、すぐに李道宗への報告書をしたためた。薛仁貴という障害は消えた、と。


しかし、彼の知らないところで、運命の歯車はさらに複雑に回転し始めていた。渤海国の昭陽公主とその侍女・霊采兒は、故国への道中、山賊の李慶紅らに襲われ、窮地に陥る。偶然、薛仁貴と周青がその場に通りかかり、公主を救出。薛仁貴は李慶紅ら四人の山賊と義兄弟の契りを結び、彼らを更生させて従軍させる。さらに、いとこの薛先図らとも合流し、総勢九人の義兄弟として、大唐の軍営へと戻って行ったのである。


薛仁貴は李慶紅ら新たな義兄弟八人を連れ、張士貴の面前に現れ、従軍を願い出た。その一人一人が尋常ならざる武術の持ち主であることに気づいた張士貴は、面食らいながらも、彼ら全員を旗牌官に任じようとした。


しかし、李慶紅は進み出て、きっぱりと言い放つ。


「ありがたき幸せではございますが、我々は薛大哥と行動を共にしたい。どうか、我々も炊事兵として薛大哥の下に置いていただきたい」


「な、なんだと?!」


張士貴は目を丸くした。


「旗牌官という名誉ある地位を蹴って、炊事兵になると言うのか? お前たち、正気か?」


「それが我々の望みでございます」


李慶紅らは一斉にうなずいた。彼らは薛仁貴という男の器量と人徳に、心から惹かれていたのだ。


周青だけは複雑な表情を浮かべていた。彼の本来の任務は、薛仁貴を守りつつ、軍中の奸臣を探ることである。旗牌官の地位は、それを実行するのに都合が良かった。


(薛大哥、すまない…俺だけは、このまま旗牌營に残らせてもらう…)


「周青、お前はどうする?」


薛仁貴が尋ねる。周青は曖昧にうなずいた。


「俺は…俺はこのままでいいよ、兄貴。色々と…動きやすいからな」


その言葉の真意を測りかねながらも、薛仁貴は周青の意思を尊重した。


唐の軍営は、朝もやの中に巨大な獣のように横たわっていた。炊事場では早朝から火の気が立ち上り、食材を刻む音や鍋の揺れる音が、遠くの練兵場から聞こえる兵士たちの威勢のいい掛け声と奇妙な調和を奏でている。その炊事場の片隅で、黙々と薪を割る一人の男がいた。その動きは無駄がなく、一つ一つの動作が洗練され、まるで武術の型を踏んでいるかのようだった。彼の名は羅松。年齢は五十半ばを過ぎているが、鍛え上げられた筋骨は衰えを知らず、静かなる双眸には並々ならぬ経験と知恵が湛えられていた。


「おい、新参のじいさん! その薪、早くしろよ! 朝飯の支度が遅れるじゃないか!」


若い炊事兵の一人が、嘲るように声をかける。周囲からはくすくすと笑い声が上がった。羅松は微動だにせず、淡々と作業を続けるだけだった。


「ふん、何を威張っているんだ。所詮は流れ者の炊事兵じゃないか」


別の兵士が侮蔑を込めて呟く。


その時、一人の大男が炊事場に足を踏み入れた。その姿現れるや、周囲の空気がぴりりと張り詰める。身の丈は八尺有余、眉は八文字に刻まれ、眼光は炯々として人を射るよう。その男こそ、先日の戦いで賊将・董奎を一撃で討ち取ったという、炊事場きっての風雲児、薛仁貴であった。


薛仁貴は、周囲の嘲りの視線などまるで気に留めないかのように、真っ直ぐに羅松へと歩み寄った。そして、彼の口調には、周囲の者たちとは比べ物にならない、深く静かな尊敬の念が込められていた。


「…師匠。おはようございます」


その一声は、囁くように静かでありながら、奇妙な説得力をもって周囲のざわめきを一瞬で消し去った。「師匠」という呼び方に、炊事兵たちは面食らったように二人を見比べる。


羅松はゆっくりと顔を上げ、薛仁貴を見つめた。彼の静かなる双眸に、ほのかな温もりが灯った。


「おう、仁貴よ。朝の冷気は骨身に沁みるな。無理はするでないぞ」


薛仁貴の背後から、彼の義兄弟たち周青、薛先図、姜興本、姜興霸、李慶紅、王心溪、王心鶴、周文、周武の面々がぞろぞろと現れた。彼らは薛仁貴を囲むように立ち、羅松を好奇と若干の侮蔑の混じった眼差しで見下ろした。


周青が大きな口を開く。


「兄貴、このじいさんに、わざわざそんな丁寧な口を利くことありますか? 戟を使うだって? まさか、俺たちの薛大哥が手に入れたあの伝説の宝戟の話か?」


「お前、本当にそれを使いこなせるのかい?」


李慶紅がからかうように言う。


羅松は彼らの言葉には直接答えず、静かに薛仁貴を見つめ続けた。


「…その方天画戟、見事に振るうことができるようだな、仁貴よ」


「はっ! 老師、なかなか目が高いじゃないか!」


薛仁貴は誇らしげに胸を張った。


「俺はまだ未熟者です。老師から教わったことを、ほんの少しだけ形にできたに過ぎません」


「…ふむ」


羅松はゆっくりと立ち上がった。その背筋はしゃんと伸び、たちまちにして彼の周囲に気圧されるような空間が生まれた。先ほどまでの、地味で目立たない炊事兵の印象は、まるで嘘のようだ。


「ならば、ひとつ、手合わせを願おう。お前の戟と、この老躯の槍と、どちらが優れているか、確かめたい」


場が一瞬、水を打ったように静まり返った。そして、次の瞬間、爆笑が起こった。


「な、なんだって?! じいさん、お前、正気か?!」 「薛大哥は董奎を一合で討ち取ったんだぞ!お前如きが敵うと思うのか!」 「いい度胸してるじゃないか、ほんとに!見物だ、見物!」


薛仁貴も目を丸くした。


「老師、それは…」


「怖いのか、仁貴よ?」


羅松の口元が、わずかに、しかし確かに歪んだ。それは挑発的な笑みであった。


薛仁貴の眼中に、一瞬の迷いが走った。彼は羅松がただ者ではないことを感じ取っていた。しかし、周囲の嘲笑や義兄弟たちの侮蔑の眼差しが、彼の若さと血気を刺激した。


「…承りましょう、老師!」


二人は練兵場の空いたスペースに移動した。噂を聞きつけた兵士たちがわらわらと集まってくる。張士貴の子飼いである張志龍や何宗憲も、面白そうに見物に加わった。


「さあ、始めろよ、じいさん! 何合持つか、賭けだ!」 「せいぜい一合、頑張れよ!」


羅松は武器庫から取り出した、ごく普通の長槍を手に取った。その槍は木製の柄に鉄の穂先がついた、兵士が使うような標準的なものだ。一方、薛仁貴が手にしたのは、月明かりのように冷たく輝く方天画戟。その対照的な光景に、周囲の嘲笑はさらに大きくなった。


薛仁貴は戟を構え、深く呼吸を整える。


(…老師、ただ者ではない。油断は禁物だ)


彼はそう心に誓い、戟を一閃させて斬りかかった。その速さは、董奎を倒した時にも増していた。


しかし。


次の瞬間、何が起こったのか、誰も理解できなかった。ただ、ガチャン、という鈍い音とともに、薛仁貴の手から方天画戟が放り出され、地面に転がっているだけだった。薛仁貴自身、呆然と自分の手を見つめ、すぐに前方を見やる。羅松は、まるで最初から動いていなかったかのように、静かに立っていた。彼の槍の穂先は、微動だにしていない。


「…な、何が起こった?」 「今の、見えたか?」 「薛、薛大哥の戟が…!」


周囲の嘲笑は一瞬で止み、驚愕と困惑の声に変わった。


薛仁貴は顔を上げ、羅松をまっすぐ見つめた。彼の額に、一粒の汗が伝った。


(早すぎる…! 老師の槍の動きが、全く見えなかった…!)


「まだだ、仁貴よ」


羅松の声は静かだった。


「本気を見せよ」


薛仁貴は歯を食いしばり、地面の戟を拾い上げると、再び構えた。今度は慎重に、間合いを計りながら、羅松の周囲をゆっくりと回る。彼の全身からは、先ほどまでの余裕は消え、狩人に出会った獣のような緊張感が漲っていた。


(動け…動く気配すら感じられない…まるで山のようだ…!)


薛仁貴は雄叫びを上げ、渾身の力で戟を振るう。縦、横、斜め――ありとあらゆる角度から繰り出される攻撃は、まさに怒涛のようだった。しかし、羅松の槍は、それらすべてを、ことごとく、最小限の動きで受け流し、かわしていく。金属の衝突音が高速で響き渡る。五十合――周青が小声で数えたその時、事態は終わった。


薛仁貴の喉元に、槍の穂先が、かすかに触れていたのである。それ以上、一ミリも進まない、完璧な制御。薛仁貴の動きは完全に止まり、息をのんだ。


「…まいった」


薛仁貴はそう呟き、静かに戟を地面に置いた。彼の顔には敗北の悔しさよりも、圧倒的な驚嘆と尊敬の色が強く浮かんでいた。


周囲は、もはや言葉も出ない静寂に包まれた。張志龍も何宗憲も、口をぽかんと開けたまま固まっている。


羅松は槍を収め、再び静かな炊事兵の様相に戻った。


「…よい戟だ。そして、それを使うお前もまた、並の器ではない。鍛錬を積めば、いつか真の天下無双と呼ばれる日が来るだろう」


「…師匠。なぜ、お師匠様がこんな場所に…?」


薛仁貴が問いかける。彼の声には、驚愕と、そして痛惜の念がにじんでいた。自分が敬愛する師が、なぜこんな場所で嘲られながら薪を割っているのか理解できなかった。


薛仁貴は深く息を吸い、固まっている義兄弟たち、そして集まった兵士たち一人一人を見渡した。彼の声は低く、しかし練兵場の隅々まで響き渡る、熱を帯びた力に満ちていた。


「兄弟たちよ、聞け! 俺は今、お前たちに真実を話す!」


「この方こそは、俺が少年の頃より槍術を学んだ、たった一人の師匠! 隋末の乱世に『槍の羅松』と謳われ、その名を天下に轟かせた、真の天下無双の達人! 羅松老師その人なのだ!」


薛仁貴の言葉は熱を帯び、かつて師から聞いた故事を語りだした。


「俺がまだ子供の頃、老師はよくこう言われたものだ。『槍は仁を貫くための器。己の強さを見せびらかすためのものではない』と。老師のその技と心構えこそが、俺の武の根幹をなしている!」


彼は羅松に向き直り、跪くようにして深々と頭を垂れた。周囲の兵士たちも、その気迫に圧倒され、思わず息をのんだ。


「老師! 弟子である俺の不甲斐なさゆえに、老師にこのような辱めを受けさせ、兄弟たちの無礼を見過ごしてしまいました。どうか、お許しを!」


羅松は静かに薛仁貴の腕を取って起こした。その目は、厳しさの中に深い慈愛をたたえていた。


「よせ、仁貴よ。起きなさい。わしがここにいるのは、わし自身の選択だ。過去の栄光など、もはやどうでもよい。お前の成長した姿を見られ、それが何よりの喜びだ」


しかし、彼のその言葉は、もはや誰一人として「ただの炊事兵」として聞く者はいなかった。空気は一変し、羅松の周囲には、張り詰めた尊敬の念が漂っている。


こうして、薛仁貴率いる炊事班は、天下第一槍の羅松、そして元山賊の猛者たちという、史上最強とも言うべき布陣となったのである。李慶紅らは、炊事場という劣悪な環境にありながら、むしろ薛仁貴というリーダーの下で団結できることを喜び合った。


彼らが合流した時、彼らは薛仁貴の率いる炊事營の実態を見て驚愕した。


彼らは、逆境の中にありながら、強固な絆で結ばれた一つの「陣」がここに誕生したことを感じ取ったのであった。羅松は静かにそれを見つめ、薛仁貴が苦難の中で確かに人を惹きつける将器を育んでいることを、密かに認めていた。


その場の緊張した空気を察知したのか、張士貴の配下の一人がそっと場を離れ、本営へと急ぎ走った。この異常な事態は、速やかに張士貴の耳に入れられなければならない。


張士貴の本営では、主君である張士貴が、深刻な表情で椅子に座り込んでいた。彼の目の前には、李道宗から届いた最新の密書が置かれている。そこには、皇帝・李世民の側近である尉遅恭が、軍中にスパイを放ち、薛仁貴の行方を追っているらしい、という情報が記されていた。


(くっ…尉遅恭め、ここまでして薛仁貴を探しおって…! しかし、ならばだ。逆に、この機会を利用せねばならん)


張士貴は唇を噛みしめ、狡猾な笑みを浮かべた。


(薛仁貴を囮にすれば、尉遅恭のスパイ共をおびき出せる。そうすれば、一網打尽にして、李道宗殿への貢物とできるわい)


彼はすぐに薛仁貴を呼び出し、巧言をもってして説得した。前回の董奎討伐の功績を持ち出し、罪は帳消しにする、今一度、軍務に就くことを許そう、と。純真な薛仁貴は、その言葉を額面通りに受け取り、深く感謝して炊事場への復帰を承諾した。


そして、張士貴の奸計は動き出す。彼は息子の張志虎と女婿の何宗憲を呼びつけ、細かく指示を与えた。


「よく聞け、二人とも。そちららはわざとらしく、炊事場に怪しい人物が潜んでいる、などという噂を流せ。口裏は合わせておけ。だが、決して自分からは動かぬことだ。噂が広まり、尉遅恭のスパイの耳に入れば、奴ら自ら動き出す。それを待つのだ」


「承知いたしました、父上」 「お安いご用で」


張志虎と何宗憲は陰険な笑みを浮かべ、早速行動に移った。


彼らが仕掛けた噂は、野火のように軍中に広まっていった。


「聞いたか? 炊事場に得体の知れない奴がいるらしいぞ」 「あの董奎を倒した薛仁貴ってやつか?」 「いや、どうやら別らしい。妙に目つきの鋭い、年配の兵だとか…」 「何か企んでるんじゃないか?」


やがて、その噂は確かに二人の男――尉遅恭が放ったスパイの耳にも入った。彼らは互いに目配せし、夜陰に乗じて炊事場に近づき、薛仁貴との接触を試みた。そして、薛仁貴の武勇と人柄を確かめ、上司である徐懋功への報告書をしたため始めた。


その時だった。


「待て! お前たち、何をしておる!」


張志龍と何宗憲が、わざとらしいほど大きな声を上げながら現れた。そして、問答無用で刀を抜くと、唖然とするスパイたちめがけて斬りかかった。


「こ、こら! 我々は――!」


スパイの一人が叫びかけるが、その言葉は途中で絶たれた。鮮血が夜色に暗く飛び散る。あっという間に、二人のスパイは息絶え、報告書は張志龍の手に奪い取られた。


「ふん、虫けらめ」 「父上へのご褒美だな」


薛仁貴はその光景を遠くから見つめ、ただ茫然とするしかなかった。彼の胸中には、やるせない憤りと虚しさが渦巻いていた。


(何ということを…なぜ、ただ報告書を書こうとしていただけの者を、殺さねばならぬのか…? この軍で、俺は一体何をしているのだろうか…)


彼の脳裏に、ふと、妻銀環の優しい笑顔がよぎった。あの、貧しくとも温もりに満ちた家。銀環が作ってくれた粗末ながらも心のこもった食事。義兄王茂生との何気ない会話。それらは、この殺伐とした軍営とは対極にある、かけがえのない幸せの時間だった。


(銀環さん…お前は元気でいるか…? 俺は、お前をこんなに苦しい思いにさせてまで、出世など望んではいなかったのに…)


鬱屈した思いに駆られ、薛仁貴は銀環への手紙をしたため始めた。しかし、その筆は重い。


(…いや、待て。今の俺の姿をありのまま伝えれば、銀環は必ずや心配するに違いない。ならば…)


薛仁貴は覚悟を決め、筆を進めた。


《銀環へ、俺は無事である。心配無用。既に軍功を認められ、立派な旗牌官に任ぜられた。衣食にも困らず、每日充実した日々を送っている。どうか、お前も身体を大切に、兄上夫婦と仲良く暮らしてくれ。帰る日を楽しみに待っていてほしい――薛仁貴》


彼はうそをついた。妻を安心させたい、ただその一心から。


一方、龍門県の寒村では、銀環がその手紙を涙ながらに読んでいた。


「ああ…よかった…ご夫君様、無事でいらっしゃるだけではなく、立派な旗牌官にまでなられたのですね…!」


傍らでその様子を見守っていた王茂生とその妻も、安堵のため息をついた。


「ほんとに、薛兄弟はやるなあ! 俺たちも鼻が高いぜ!」 「銀環さん、もう安心ですね。きっと、すぐにご立派になってお戻りになりますよ」


銀環はうなずき、そっと自分のまだ膨らみかけていない腹に手を当てた。


(ご夫君様…あなたがお戻りになる頃には、もう一人、家族が増えていますよ。どうか、どうかお気をつけて…一日も早く、平和な日々が訪れますように)


彼女の目には、幸せな未来への淡い期待が滲んでいた。


こうして、薛仁貴率いる炊事班は、天下第一槍の羅松、そして元山賊の猛者たちという、史上最強とも言うべき布陣となったのである。李慶紅らは、炊事場という劣悪な環境にありながら、むしろ薛仁貴というリーダーの下で団結できることを喜び合った。


しかし、その会話を、帳の外で何宗憲が盗み聞いていた。


(ふん…どうやら周青という男、ただ者ではないな。旗牌營に留まるのは、我々の動きを探るためか…? さては、尉遅恭の手先め…!)


彼は急いで張士貴に報告する。張士貴は苦々しい顔で命令した。


「…仕方あるまい。旗牌營の連中を、薛仁貴の下にやってしまえ。しかし、周青だけは何とかして除くのだ。何宗憲、策を講じよ」


「お任せください!」


奸計は、さらに陰湿さを増して進行していった。


時を同じくして、渤海国では宰相・鉄世文が、各地の守将を集めた軍事緊急会議を開いていた。その場は殺気立ち、鉄世文の冷徹な言葉が響く。


「唐軍など、我が渤海の堅き守りの前には、無力も同然! 各将は命じられた城関を一寸たりとも譲るでない! まずは先陣を、安達児に命ずる!」


場の視線が、一人の武将に集まる。安達児である。彼は複雑な表情でうなずいた。


(鉄世文閣下…あなたの野心のため、我々は大国・唐と刃を交えようとしている…しかし、昭陽公主の願い――和平の道もまた、決して忘れてはなるまい…)


彼の心中は、忠義と和平への願いの間で激しく揺れ動いていた。


安達児が思い悩むその頃、昭陽公主は無事、渤海の王都に戻り、父王である渤海王に一切を報告していた。そして、李世民との邂逅、そして停戦への聖旨を請願する許しを、涙ながらに訴えたのである。


「おお、わが娘よ…よくぞ無事で戻った…」


渤海王は深く感動し、公主の願いを聞き入れることを約束した。


昭陽公主は精兵一隊を率い、前線へと急ぎ出立する。その道中、偶然、唐の勇将・羅通と、はぐれていた侍女の霊采兒と出会う。霊采兒は羅通に助けを求め、公主救出の旅を共にしていたのだ。


「昭陽公主、あなたご無事で!」 「霊采兒!羅通将軍!」


再会を喜び合う三人。しかし、昭陽公主が鉄世文を説得しに行くと聞き、羅通は強く反対した。


「それはあまりに危険すぎる! 羊を虎の穴に放つようなものだ! 鉄世文は和平など望んではおらぬ。あなたの足を引っ張り、むしろ人質にしようとするかもしれん!」


「しかし、私は和平への希望を捨てきれません。どうか、私に行かせてください」


昭陽公主の決意は固かった。


一方、唐の本営では、李世民が「夢現賢臣」の件について、再び徐懋功に相談を持ちかけていた。


「徐懋功よ、あの白袍の将は、いつ現れるのだ? 朕は待ちきれぬ」


「陛下、お待ちを。では、ひとつ献策がございます。海滩にて『龍門陣』を敷かれてはいかがでしょう。陣完成の時、必ずや『夢現賢臣』は現れると臣は確信しております」


「ほう、龍門陣か! よかろう! 尉遅恭! 龍門陣を敷け!」


李世民は即座に命令を下す。しかし、尉遅恭は青ざめて平伏した。


「陛、陛下! 申し訳ございませぬ! 臣、尉遅恭、その龍門陣の敷き方を存じ上げませぬ!」


「な、なんだと?!」


李世民の声は雷のごとく轟いた。


「わが大唐随一の猛将が、陣一つ敷けぬと言うのか!」


場は緊張に包まれる。徐懋功が静かに進み出た。


「陛下、お怒りはごもっともですが、尉遅恭将軍は武勇に優れれど、陣法の細かい知識まではお持ちではございません。ここはひとつ、張士貴に助けを求めさせてはいかがでしょう」


「…ふん、仕方あるまい。張士貴に命じろ!」


その命令は、張士貴の下にもたらされた。彼はまたもや青ざめた。


(龍、龍門陣?! そんなもの、知るわけがないだろ!)


(承前) さて、龍門陣の件である。張士貴はまたしても頭を抱えた。彼自身、龍門陣などという高度な陣法を知る由もない。結局、彼はしぶしぶながらも薛仁貴の元へ赴き、助けを請うた。薛仁貴はしばし考え込んだ後、うなずいた。


「…わかりました。お引き受けしましょう」


彼は懐から一冊の古びた巻物を取り出した。それは恩師・李靖から贈られた兵法の秘籍であった。薛仁貴はそのページを慎重にめくり、深遠なる陣法の知識を吸収していく。彼の脳裏には、李靖から直接陣法の極意を教わった日のことが鮮明によみがえった。


(師匠…この陣法を、ついに実践する時が来ました)


薛仁貴は深く息を吸うと、張士貴に向き静かに言った。


「陣を敷くには、相応の準備が必要です。まずは、兵士たちの戦衣を整えさせてください」


それを聞いた張士貴の女婿・何宗憲は、嗤った。


「ふん、戦衣だと? そんなものは後回しでいい! まずは陣法の図を描け!」


「できません」


薛仁貴の返答は冷静だった。


「兵は陣の骨肉です。その骨肉が整わねば、如何なる妙なる陣も形だけの骸と化します。どうか、お願いいたします」


張士貴は渋々ながらも了承した。しかし、内心では苛立ちを隠せない。


(小賢しい小僧め…いつか必ず、とっとと始末してくれるわ…!)


一方、昭陽公主は独木関にて、渤海きっての猛将・安達児との会見に臨んでいた。しかし、安達児はなかなか面会しようとしない。


(…どうやら、鉄世文の影響を強く受けているようだ。ここは一か八か、賭けに出るしかあるまい)


公主は決意すると、配下の兵士に命じた。


「直ちに旗印を変え、城外を移動せよ! 鉄世文の軍が我々を襲おうとしている、と錯覚させるのだ」


配下の兵士たちは公主の意図を理解し、素早く行動を開始した。城外で不気味に移動する偽装部隊を見て、関所内は動揺する。そして、公主は悠然と安達児の前に現れ、父王である渤海王の停戦の手谕を読み上げ、朝廷との協力を要求したのである。


安達児は複雑な表情を浮かべた。


(公主殿下…お覚悟は、確かか? 鉄世文閣下の怒りは、尋常では済まぬぞ…)


「…承知した。しかし、まずは黒風関より迎えに来る兵馬に対処せねばならぬ。その後で、改めて協議と致そう」


「結構です」


昭陽公主は即座に同意した。第一歩は成功したのだ。


時を同じくして、薛仁貴の龍門陣が完成しようとしていた。海滩に展開するその陣は、まさに圧巻の一言。複雑に入り組んだ兵の配置は、生きるがごとき龍の如く、雄大な気勢を放っている。


李世民は陣を見に来ると、その見事な出来栄えに息を飲んだ。


「す、すばらしい…! これが龍門陣か…!」


徐懋功も満足そうにうなずく。


「陛下、これこそまさに、真の龍門陣でございます」


「…陣を動かせ」


李世民の命令一下、陣は動き始めた。薛仁貴が陣台上に立ち、旗印で指揮を執る。その動きに合わせて、陣形は複雑に、そして精妙に変化していく。それはもはや芸術の域であった。


李世民は遠く陣台上の白袍の将を指さした。


「…あの者こそが、朕の夢に見た賢臣なのか?」


その瞬間、尉遅恭が進み出た。


「陛下! 臣、尉遅恭、直ちに陣中に入り、その者を捕らえて参りましょう!」


「…よかろう。急ぎ参れ」


尉遅恭は馬を駆り、龍門陣へと突入していった。その動きを察知した張士貴は、冷や汗をかいた。


(まずい! 尉遅恭が直接動いたか…! 薛仁貴が捕まれば、すべてが露見する!)


彼は急ぎ薛仁貴の元へ走り、嘘をついた。


「薛仁貴! 大変だ! 尉遅恭が、お前の立てた功績を横取りしようと、捕らえに来たぞ!」


純真な薛仁貴は、その言葉を真に受けてしまった。


(なっ…?! 俺の功績を…!)


彼は尉遅恭の姿を確認するや、すぐに陣台から飛び降り、馬もなく全力で逃げ出した。


尉遅恭が陣中に踏み込んだ時、薛仁貴の姿はすでになかった。陣の動きが変則的になり、尉遅恭はたちまちのうちに陣中に閉じ込められてしまったのである。


「な、なんなのだ、これは?! 陣に閉じ込められたか?!」


その時、張士貴がわざとらしく慌てたふりをして駆けつけた。


「尉遅恭将軍! ご無事で! すみません、陣の動きに誤りがございまして…!」


「ふん! 今し方、陣台上にいた白袍の将は、誰だ?! どこへ逃げた?!」


「は、はぁ…? 白袍の将でございますか? それは、私の女婿・何宗憲でございます。何を慌てていたやら…きっと、将軍の威光に恐れをなしたのでございましょう…」


「何?! 何宗憲だと?!」


尉遅恭は疑念を抱きながらも、すぐに何宗憲を呼び出して問いただした。張士貴の事前の指示を受けた何宗憲は、震えながらも嘘を通した。


「は、はい! 逃げたのは、この私、何宗憲でございます!」


李世民はこの報告を受け、なおも疑念を抱いた。


「…ふむ。武勇は確かなようだが、文才は如何なものか。賢臣たる者、文武両道でなければならん」


徐懋功が進言する。


「陛下、それならば、尉遅恭将軍に『平渤論』を書かせてはいかがでしょう。陣法の知識同様、薛仁貴の文才が現れるかと存じます」


「…よかろう。尉遅恭、『平渤論』を書け」


「は、はっ?!」


尉遅恭は絶句した。彼は武人であり、字すら満足に読めないのである。


(困った…今度は文章だと?! どうすればいいのだ…!)


彼は仕方なく、またもや張士貴に助けを求めるしかなかった。張士貴もまた、薛仁貴に頼るしかない。


「薛仁貴…もう一つの、大きな役目ができた」


薛仁貴はため息をついた。彼は既に、張士貴の言動に矛盾を感じ始めていた。しかし、命令は命令である。


「…承知いたしました」


彼の兄弟たちは心配した。


「兄貴、大丈夫か? 今度は文章だぞ?」 「武芸ならともかく、学問は…」


しかし、周青だけは静かにうなずいた。


「心配するな。薛大哥ならば、きっと書けるさ」


薛仁貴は再び、李靖から贈られた二卷の秘籍を取り出した。そこには、兵法のみならず、治国平天下の道理までもが記されていた。彼はそれを熟読し、渤海の地理、文化、軍備、そして民心に至るまでを深く考察した。


そして、筆を執った。その筆遣いは力強く、文章は見事なまでに理路整然としていた。兄弟たちは、そんな薛仁貴の姿に感嘆の息を漏らすしかなかった。


「す、すごい…薛大哥、本当に書いてるぞ…!」 「あれはただの炊事兵じゃない…いったい、何者なんだ…?」


完成した『平渤論』は、すぐに張士貴の手を経て李世民の下へと提出された。もちろん、張士貴は「これは何宗憲が書いたもの」と偽って。


李世民はその文章を読み、深く感銘を受けた。


「…すばらしい。渤海の国情をここまで深く理解し、その平定には十一年の歳月が必要だと看破するとは…! この心の広さ、洞察の深さ…まさに賢臣の名にふさわしい! 何宗憲を、すぐに呼べ!」


しかし、徐懋功が静かに制した。


「陛下、まだ時期ではございません。無理に呼び出せば、かえって機を逃すでありましょう。焦りは禁物でございます」


「…うむ、そうだな」


李世民はしぶしながらもそれに同意した。


こうして、薛仁貴の名声は、本人の知らぬところで軍中に轟き始めた。多くの旗牌官たちが、薛仁貴の人徳と力量に惹かれ、彼の下で炊事兵になりたいと願い出るほどであった。


「薛大哥の下でなら、炊事兵でも本望だ!」 「あのような人物に、一度でいいから教えを請いたい」


しかし、その会話を、またもや何宗憲が盗み聞いていた。そして、周青が旗牌營に留まっている真の理由――薛仁貴を陥れようとする者を見つけるため――を知ってしまった。


「ふん…どうやら周青め、我々の邪魔をしようというのか…! いいだろう、とっとと始末してくれる!」


張士貴はやむなく、旗牌營の者たちを薛仁貴の下の炊事兵として回した。しかし、何宗憲には周青に対処する策を講じるよう、密かに命じたのである。


李慶紅ら新たな兄弟たちが炊事場に合流した時、彼らは薛仁貴の率いる炊事營の実態を見て驚愕した。


「こ、これは…! 天下第一槍の羅松老師に、俺たち兄弟…それに、こんなに多くの兵が薛大哥に心服しているのか…!」


「ここは、もはやただの炊事場じゃないな…!こここそ、本当の『龍門』かもしれんぞ!」


彼らは、逆境の中にありながら、強固な絆で結ばれた一つの「陣」がここに誕生したことを感じ取ったのであった。


そして、渤海の地では、鉄世文が最後の奸計を巡らせようとしていた。安達児の心の迷いを感じ取り、彼を完全に麾下に組み込むための策である。昭陽公主の和平への願いと、鉄世文の野心その激突が、今、まさに始まろうとしていた。


龍門陣は完成した。しかし、真の戦いは、これからなのである。

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