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隋唐演異  作者: 八月河
第二部
14/15

化かし合い

羅松は彼の成長ぶりに驚愕を隠せなかった。


(恐るべき成長ぶりよ。薛仁貴はまさに天賦の才の持ち主。我が技も、すでに十二分に会得した。いや、やがては我を凌ぐであろう)


月明かりが煌く夜、羅松は薛仁貴を呼び止め、静かに告げる。


「仁貴よ、我が教え得ることは、もう全て教え終えた。後はお前自身が実戦の中で各々の技を磨き、悟りを深めていくのみだ」


しかし、その羅松の表情には一片の翳りがあった。北方の強敵鉄世文の存在が、彼の心を捉えていたのだ。


「しかし、忘れるな。鉄世文の操る九葉飛刀は、並大抵の武芸ではない。その魔術的なまでの剣技は、我々の想定を超えている。我自身もさらなる修行を重ね、対抗する術を見出さねばならぬ」


そう言い残し、羅松は別離を決意する。薛仁貴に多額の銀五万両と、遼国公の令牌を手渡した。


「如何なる困難に遭遇しても、必ず営州へ赴き、この令牌を示せ。助けが得られるであろう。約束だ」


薛仁貴は涙ながらにそれを受け取り、強く頷いた。


「師匠……!このご恩、決して忘れませぬ!」 かくして羅松は旅立って行った。


その後、朝廷に戻った羅松は、李世民に病の全快を報告する。李世民は大いに喜び、その帰還を祝って盛大な宴を催した。


「何だと!?遼国公が?何をしておる!早く通せ」


「はっ!」


「臣羅松、陛下に拝謁いたします」


「おぉ〜!遼国公!病は?」


「はっ、もとより病なぞありませぬ。少々身体を動かすために旅に出ておりました」


「そうか…」


「此度の出征…亡き翼国公の言う通り、尉遅恭では主将は務まりませぬ。これよりは臣も補佐に入らせて貰いすがよろしいか?」


「任せたぞ」


宴席で、三軍の総指揮を任されたばかりの尉遅恭は、酒の勢いも手伝い、羅松に対し尊大に話しかけてきた。


「おう、羅松!炊事場の仕事はどうだ?まさか、わしの配慮に不満はあるまいな?」


それを聞いた程咬金と徐茂公は思わず顔を覆った。


(ああ、また始まった、この大黒柱の自滅行為が……!)


(尉遅恭、何故わからぬ……あの羅松の微笑みの裏の恐ろしさが……)


羅松は依然として微笑みを崩さず、恭しく頭を下げて答える。


「とんでもない。兵士たちに美味しい食事を提供することも、立派な戦いの一端。貴重なご経験をさせて頂き、感謝しております」


その余裕ある態度に、尉遅恭は少しばかり気味悪くなり、そそくさとその場を離れたのだった。


或る日、軍営で行われた人事評議の席。尉遅恭は新たに配属されてきた猛将・羅松を前に、鼻で笑うような態度を見せた。


「ふん、羅松よ。聞けばその腕は未だに衰えておらぬとか、この尉遅恭が直接に見定めるまで、しばし炊事場で力を蓄えるがよい。そこで己の器量を示せ!」


その言葉に、同席していた李世民は思わず眉をひそめる。側近の徐茂公と程咬金は顔を見合わせ、ため息をついた。


(尉遅恭よ、その無鉄砲さはわからぬでもないが、羅松は只者ではない。これで禍根を残さねば良いが……)


徐茂公は小声で呟く。


「尉遅将軍、それはあまりに……」


程咬金も続く。


「そうそう、羅松殿は陛下も認めるほどの……」


しかし、羅松はそれに対しても、静かな微笑を浮かべて深々と一礼するだけだった。


「畏まりました。尉遅恭閣下のご指示とあらば、喜んで炊事場にて尽力いたします」


その余裕ある態度に、尉遅恭はむしろ少し気後れしたが、強気を貫いて背を向けた。李世民らは内心、ひどく気をもんだ。尉遅恭の行く末が、一抹の不安として脳裏をよぎったのである。


一方、朝廷では別の動きがあった。将軍張士貴が李世民に上奏する。


「陛下、十万の兵士募集は無事完了いたしました。但し……志願兵の中に、『薛仁貴』という名の者は一人もおりませんでした」


これを聞いた李道宗とその側室・張美人は密かに語り合う。


「ふむ、薛仁貴か……」と李道宗が低い声で呟けば、張美人がすかさず囁いた。


「あの『応夢賢臣』の噂の男でしょうか?もし我々の手先に引き入れられれば、殿下のご計画も大きく前進いたしますわ」


「そうだ。しかし、どこに潜んでいるやら……」


彼らが知る由もない、薛仁貴が今、故郷の汾河湾で、妻柳銀環と慎ましやかながらも穏やかな日々を送っていることを。


或る日、薛仁貴が空中の雁を矢で射落としていると、一人の旅の壮士と出会う。微服で訪れていた李劍山であった。二人は武芸の話で意気投合し、すぐさま手合わせを始めた。


「これは見事な腕前!」


李劍山は感嘆する。


「いやいや、貴公こそ、並外れたお力の持ち主!」


薛仁貴も応える。 互いを英雄と認め合った二人は、たちまち固い友情で結ばれた。しかし、李劍山は内心、複雑な思いを抱いていた。


(義父李道宗が、かくも優秀な人物を探す真意は何だ?単なる人材探しではあるまい……)


彼は腹心の王成に内情を探るよう密かに命じるのだった。


丁度その時、従軍に向かう途中の旧友周青が薛仁貴を訪ねてきた。


「兄貴!俺、これから軍に入るんだ!お前の腕前を知ってるだろ?一緒に来い!金持ちになれる機会だ!」


実は銀環と結婚してから、薛仁貴は従軍の志を胸にしまっていた。家庭を守りたいという思いが強かったのだ。しかし、銀環は夫の心の内を察する。たとえ自身が身ごもっていることを告げた後でも、夫の志を阻むことはできないと考えた。


「お前さん……」


銀環は静かに、しかし強く言った。


「戦場こそが、お前さんの真価を発揮する場所よ。この銀環、たとえ一人になっても、しっかりとこの家を守ってみせます。どうか、悔いのないよう、ご武運をお祈りしています」


涙ながらの妻の言葉に、薛仁貴は胸を打たれる。


「銀環……!お前のような妻を持った薛仁貴は、この世で一番の幸せ者だ!必ずや、立身出世して、お前を堂々と迎えにくることを誓う!」


かくして、薛仁貴は決意を新たに従軍への道を選ぶのであった。


一方、渤海国では、渤建王が世子の行方不明の知らせを受けて悲嘆に暮れていた。猛将・鉄世文は強硬に主張した。


「陛下!もはや猶予はございません!唐こそが世子殿下の災いの根源!今こそ先制の攻撃をかけるべきです!」


しかし、渤建王はなおも躊躇う。


「……待て。確たる証拠がなければ、軽挙妄動はできぬ」


長安では、王成が李道宗のもとへ薛仁貴の消息を報告に来る。


「ついに見つけ出しました、薛仁貴の居場所を。竜門県におります」


李道宗と張美人は顔を見合わせ、ほほえみを浮かべた。


「よし、我ら自ら竜門県へ赴くぞ。張士貴と共に、薛仁貴対策を練るとしよう」


薛仁貴と銀環の別れは、悲痛を極めた。銀環は村の入口まで薛仁貴を見送り、涙で曇った目で夫の背影が遠ざかっていくのを見つめ、無事を祈らずにはいられなかった。


「どうか……どうかお気をつけて……必ずお帰りくださいませ……」


その頃、昭陽公主とその侍女霊采児が長安へ向かう途中、再び何者かの刺客に襲われていた。必死に逃れる二人。丁度その場を通りかかったのが、羅通であった。


(ん?あの娘たちは……いずこともない様子だ。どうしたというのだ?)


羅通が声をかけようとした瞬間、物陰から刺客が飛び出してきた!


「うおっ!?小癪な!」


羅通は難なく刺客を撃退すると、昭陽公主の傷を手当てした。公主は真実を打ち明ける。


「あなた様……どうか、皇帝陛下にお目通りが叶いますよう、お力をお貸しくださいませ……!」


羅通はためらったが、彼女たちを屋敷に連れ帰り、母親に助言を求めた。


「程咬金殿下が戻られるのをお待ちになるのが、賢明かと存じます」と母親は慎重な態度を示した。


兵營では、先に入隊していた周青が無事に旗牌官に任命され、喜びに沸いていた。


「よっしゃあ!これで兄貴を安心して迎え入れられるぜ!」


そして、薛仁貴が名乗り出た時、張士貴は仰天した。まさか本当に「薛仁貴」が現れるとは思っていなかった。


(まずい!陛下が夢で見たという『応夢賢臣』が、まさか本当に現れるとは!こいつが活躍すれば、我が娘婿・何宗憲の出世の邪魔になる!)


最初は口実を作って薛仁貴を処刑しようとしたが、適切な理由が見つからず、周青が必死に嘆願する。


「張将軍!何とぞお許しを!薛仁貴は並外れた武芸の持ち主です!必ずやお役に立ちまする!」


仕方なく、張士貴は理不尽な理由をでっち上げた。


「『貴』の字がわが名『士貴』の貴と衝突する!不吉である!軍棍四十回の刑!そして兵營から追放する!」


周青は憤慨した。


「兄貴!こんな理不尽な目に遭うくらいなら、故郷に帰った方がましだ!」


しかし、薛仁貴は首を振った。


「いや、耐えよう。たとえ不遇でも、ここでこそ志を果たす道がある。必ずや認めさせてみせる」


一方、羅通は屋敷で昭陽公主の手当てのために軍医を呼び、彼女を慰めようとあの手この手を使い、ついに昭陽の笑顔を引き出すことに成功していた。


「ふふ……あなた様は、随分とお喋りなのですね」


「何を言う、これはこれで真心というものだ!」


張士貴は、薛仁貴が再び兵營に現れるとは思っていなかった。再び同じ手口を使い、今度は軍棍八十回を加えて追い出した。


「よくも戻って来たな!前よりさらに重く罰する!軍棍八十回!そして二度と現れるな!」


遅れて到着した李道宗と張美人はこのことを知り、張美人は李劍山を唆して薛仁貴を説得させようとした。


「剣山さん、あなたの友である薛仁貴を、どうか我々の味方に引き入れて頂戴」


しかし薛仁貴は「瓦崗寨の英雄たちにのみ従う」と頑なに拒否した。


「王のご厚意は感謝する。だが、私はただの兵士として、正々堂々と功を上げるまでだ」


張美人は策を変え、李劍山に薛仁貴を連れてくるよう要求し、李道宗は何宗憲に命じて薛仁貴を抹殺する罠を仕掛けさせた。


「ふん、使えぬなら始末するのみよ」


張美人は冷たく言い放った。


しかし運命のいたずかか、薛仁貴は丁度その時、山中で猛虎に襲われている程咬金を助け出したのである。


「うおおおっ!この虎め!わしもたまには老骨に鞭打つか……!?おっとっと!?」


「老人よ、危ない!退がれ!」


薛仁貴が見事に虎を退治すると、程咬金はその腕前に大感激した。


「おお!ありがたや!若者、その名は?」


「薛仁貴と申します!」


「ほう、薛仁貴!聞いたことのある名だ!志があるなら、わしが力になろう!ほれ、この金皮の令箭を持て!これがあれば、どこの軍營でも好きな所に入隊できる約束だ!」


程咬金が長安に戻ると、待ち構えていた羅通から昭陽公主の件を聞かされた。程咬金は昭陽公主と面会した後、彼女を李世民に引き合わせることを承諾した。


「よし、わしが引き取った!ご安心あれ!」


一方、李劍山は薛仁貴を探し回ったが見つからず、薛仁貴は程咬金の令箭を持って再び兵營に向かっていた。李道宗らは密かに喜び、薛仁貴を訓練場に誘い込んだ。そこには何宗憲が待ち伏せていた。


(ふん、今日とばかりに始末してくれる……!)


薛仁貴は死の罠に気づかず、一歩一歩危険に近づいていった。


危機一髪の瞬間、駆けつけた李劍山が刀を抜き、薛仁貴の前に立ちはだかった!


「何をするか、何宗憲!卑怯者め!」


「李、李劍山公子!?なぜここに……!」


李劍山は李道宗らを激しく非難した。


「義父上!そして張美人!これが我らが為すべきことですか!?」


驚いたことに、王成が進み出て「すべては私の指示だ」と告白した。


「李劍山公子、お怒りはごもっとも。ですが、全ては私が独断で行ったこと。李道宗殿下には何の関係もございません」


李劍山は信じがたい思いでいたが、張美人は機転を利かせ、李道宗に病気を装わせて李劍山を長安に連れ帰らせた。


「まあまあ、剣山さん。殿下もお疲れのようですし、一度お屋敷にお戻りになりませんこと?ごゆっくり話し合いましょうよ」


張士貴は薛仁貴が程咬金の令箭を持っているのを見て、さすがに逆らえず、仕方なく兵營に留めるが、最も卑しい火頭軍(炊事部隊)に追いやった。


「……程咬金殿下のご威光に免じてな。だが、罰は罰だ!火頭軍で反省するがよい!」


周青は不满を抱えつつも、旗牌營に残り、張士貴の動向を探ることを決意した。


(張士貴め、よくも兄貴を……!俺がこの目でしっかりと監視してやるからな!)


一方、張士貴の息子張志龍と何宗憲は薛仁貴を執拗にいじめ、無理難題を押し付けた。最初は「五鞭の料理」を作らせ、苦労して材料を揃え見事に料理を完成させても、また別の難題を吹っかけてきた。


「ふん、まずい!作り直せ!」


「こんなもの、豚も食わん!」


ついに薛仁貴は忍耐の限界に達し、憤然と兵營を去ろうとした。


「もはや我慢の限界だ!ここにいても志は果たせぬ!銀環のもとへ帰るまでだ!」


その時、張士貴は李道宗からの密書を受け取った。そこには「軍中に尉遅恭のスパイが潜入している。注意せよ」と記されていた。張士貴が薛仁貴を呼び出そうとした時、何宗憲が既に追い出したことを報告した。


「あの薛仁貴?とっくに追い出しましたよ。もう二度と戻って来ないでしょう」 張士貴は慌てて薛仁貴を追いかけた。


「待てっ!薛仁貴!待つのだっ!」


そして、ようやく薛仁貴に追いつくと、彼は息を切らしながら真実を打ち明け始めた。


「……実はな、薛仁貴。お前は陛下の夢に現れた『応夢賢臣』なのだ……!陛下はお前を強く求めている」


「な……何ですと!?」


「しかしだ!」


張士貴は続けた。


「同時にお前は『応夢反臣』でもあるとのお告げもある!つまり、お前が出世すればするほど、朝廷に災いをもたらすというのだ!」


純真な薛仁貴は動揺し、顔色を曇らせた。


「そ、それは……」


「だからだ、」


張士貴は偽りの慈愛に満ちた顔で言った。


「お前のためにも、朝廷のためにも、今は名を『薛礼』と改め、ひっそりと功績を立てて、罪を償う機会を待つのがよい。わしがその機会を作ってやろう。これも天命というものだ」


騙されてる事を知らない薛仁貴は、逆に深く感謝し、涙を流して誓った。


「は、はい……!張士貴閣下のご厚情……!この薛仁貴、いや薛礼、命に代えても必ずご恩にお報いしまする!」


「ふふ……そうこなくてはな」


張士貴は内心、ほくそ笑んだのだった。


かくして、薛仁貴は「薛礼」と名を変え、苦難の日々を耐え忍びながら、ひたすらに立身出世の機会を待つこととなった。彼の純粋な忠義心と武勇が、やがて巨大な陰謀の渦の中で輝きを放つ日が来るのか、それとも……。それはまだ、誰にも知る由のない未来であった。

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