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隋唐演異  作者: 八月河
第一部
11/15

外も中も乱れる

隋の朝廷は、もはやかつての輝きを失っていた。大業十四年、煬帝の暴政と放蕩は帝国の基盤を蝕み、天下は混乱の極みにあった。揚州の行宮では、権力闘争が日夜繰り広げられ、中でも禁軍三万を率いる将軍羅松と、煬帝の側近として権勢を振るう宇文化及の対立は、朝廷内で周知の事実であった。


羅松は二十半ばながら、既に禁軍を指揮し、その武勇と知略は広く知られていた。長身で鋭い眼光を持ち、常に冷静沈着でありながら、一度決断すると雷厲風行の行動で敵を圧倒する将軍であった。


「宇文化及め、またもや陛下に諫言する者を弾圧したとの報告が届いておる」


羅松は自邸の軍議室で、副将の李剛に語りかけた。机の上には各地から集まる報告書が山積みになっている。


「将軍、このままでは朝廷は宇文化及の手中に落ちてしまいます。我々が動くべき時ではございませんか?」


李剛は羅松より年長ではあったが、その才覚と人徳に深く敬服し、忠実な副官として仕えていた。


「急ぐな」


羅松は立ち上がり、窓辺に向かった。


「宇文化及は狡猾だ。わずかな隙も見せず、我々を罠におびき寄せようとしている。今は耐える時だ」


しかし、羅松の心中は平静ではなかった。宇文化及が煬帝を唆し、無謀な遠征と奢侈な宮殿建設を繰り返させ、国庫を空虚にしていることを知っていた。そして何より、宇文化及の野望が単なる権力掌握ではなく、帝位そのものに向けられていることに気づいていた。


数日後、宮中での会議で、羅松と宇文化及の対立は決定的なものとなった。


「陛下の御意志として、新たな離宮建設のため、農民からの税を三割増しとする」


宇文化及が高らかに宣言すると、宮中にいる官僚たちはおどおどと同意の声を上げた。しかし、羅松だけは静かに、しかし強く反対した。


「陛下、万万にございません。百姓たちは既に重税に苦しんでおります。これ以上の税は民の反乱を招くだけではございませんか」


煬帝は退屈そうに羅松を見下ろした。


「羅将軍、お前は武人であって文官ではない。政治のことは宇文化及に任せておけばよい」


宇文化及は得意げに微笑み、羅松を挑発するように言った。


「羅将軍は戦場のことは任せておけばよいのでございますか?」


この時、宇文化及の息子である宇文成都が、父親の背後から羅松を睨みつけていた。宇文成都は非凡な武勇の持ち主で、すでに羅松と幾度か剣を交えたことがあった。


会議後、宮殿の廊下で宇文成都が羅松の行く手を阻んだ。


「父上に対する態度、慎まれた方がよろしいでしょうな、羅将軍」


羅松は冷静に宇文成都を見据えた。


「お前がそれを言うのか?政治の表裏も理解せずに、剣だけを振り回していればよいと思うな」


火花散る視線の交換の後、二人はそれぞれの道へと去っていった。この対立は、やがて天下を巻き込む大乱へと発展していくのであった。


隋朝の衰退に乗じ、各地に群雄が割拠する時代となっていた。山西には李淵とその息子たちが勢力を拡大し、河南では王世充が強力な軍団を形成していた。定陽の劉武周、河北の竇建徳、湖北の蕭銑それぞれが地盤を固め、天下を窺う勢いを見せている。


羅松はこうした状況を憂い、禁軍を率いて各地の反乱軍討伐に向かった。しかし、その真の目的は、宇文化及の悪政から民を守り、隋朝の再建を図ることにあるのだった。


ある春の日、羅松は三万の禁軍を率いて河南方面に向かっていた。王世充の勢力が拡大し、ついに朝廷への反抗の意思を明確にしたという報告を受けたためである。


「将軍、前方で王世充軍と遭遇しました!数は約五千、しかし精強な兵ばかりのようです」


斥候からの報告に、羅松はすぐに指揮を執った。


「全軍、戦闘配置につけ!だが、無闇に戦端を開くでない。まずは彼らの意図を探れ」


羅松軍は整然と戦列を組み、王世充軍と対峙した。しかし、羅松はすぐに気づいた。この部隊は王世充の本軍ではなく、偵察隊であると。そして、彼らが朝廷軍を見るや、撤退を開始した。


「追撃するでありませんか?」


李剛が進言した。


「待て」


羅松は举手して止めた。


「これは罠だ。王世充は我々をおびき寄せようとしている」


羅松の予想は的中した。間もなく、別の斥候から報告が入る。


「東西の山間から大軍が迫っております!数は二万以上と見られます!」


「果たしてな」


羅松は微かに笑った。


「では、王世充の思惑通りに動いてやろう。全軍、撤退を装え。だが、陣形は乱すな」


羅松軍はゆっくりと後退を始めた。王世充軍はそれを見て追撃を開始し、勢いづいて前進してきた。しかし、これは羅松の罠であった。


撤退を装いながら、羅松は密かに部隊を二手に分け、側面から奇襲を仕掛ける準備をさせていた。王世充軍が追撃に夢中になっている隙に、羅松自らが率いる精鋭部隊が側面から猛攻撃を加えた。


「なんと!?」


王世充軍の指揮官は驚愕したが、時既に遅し。羅松軍の完璧な連携攻撃の前に、包囲されていたのはむしろ王世充軍の方であった。


戦いは半日で決着がついた。王世充軍は壊乱状態で敗走し、羅松軍の大勝利に終わった。この戦いで羅松の名声はさらに高まり、朝廷内外でその武勇と知略が賞賛されることとなった。


しかし、軍営に戻った羅松を待っていたのは、宇文化及からの新たな挑戦状であった。煬帝は宇文化及の讒言を聞き入れ、羅松の権限を制限する勅令を出したのである。


「将軍、これは明らかに宇文化及の策略です!」


李剛は憤慨した。


「冷静になれ」羅松は静かに言った。「宇文化及が我々を追い詰めようとしているのは明らかだ。しかし、これも天下の趨勢である。耐えよう」


しかし、羅松の心中には怒りが滾っていた。宇文化及の専横が帝国を滅ぼしつつあることを知りながら、手をこまねいているしかない現状に、無力感を覚えずにはいられなかった。


大業十四年三月、江都の離宮で、ついに歴史を揺るがす大事件が発生した。宇文化及が煬帝を弑逆し、自ら皇帝として即位したのである。


この報せは疾風のごとく天下に伝わり、隋朝に残された忠臣たちに衝撃を与えた。羅松がこの知らせを受けたのは、洛陽の自邸でのことであった。


「なんと!陛下が宇文化及に弑逆されただと!?」


羅松は報告をした部下の襟首をつかみ、声を震わせて問い詰めた。これまで冷静沈着を保ってきた羅松がこれほどまでに動揺する姿を見た者は誰もいなかった。


「はい、確かな情報でございます。宇文化及は許国を建て、自ら皇帝を名乗っております」


羅松は部下を解放し、ゆっくりと腰を下ろした。顔には深い悲しみと激しい怒りが浮かんでいた。


「ついに、ついにあの男はここまでやったか……」


その夜、羅松は一人で軍議室に籠もり、考えに耽った。隋朝に仕える将軍として、主君の仇を討たねばならない。しかし、宇文化及は強大な軍事力を持ち、しかも皇帝を弑逆したという事実は、多くの者たちに恐怖を与え、宇文化及に従わせる効果を持っていた。


明け方近く、羅松は決断した。宇文化及を討つために、隋軍の残党を集め、勤王の師を挙げることを。


早速、羅松は配下の将兵たちを集め、決意を語った。


「諸君ら、宇文化及の兇行はもはや看過できぬ。我らは隋の将兵として、主君の仇を討たねばならない。ともに力を貸してほしい」


将兵たちはこぞって賛同し、羅松の下に結束した。しかし、三万の禁軍だけでは宇文化及の軍勢に太刀打ちできないことは明らかであった。


「諸侯に働きかけるべきです」


李剛が進言した。


「宇文化及を天下の公敵と宣言し、連合軍を結成すれば、多くの諸侯が集まるでしょう」


羅松はこの提案を採用し、早速、各地の諸侯に使者を送った。宇文化及を共同で討伐するよう呼びかけたのである。


返答は予想以上に早かった。まず山西の李淵が賛同し、続いて河南の王世充も参加を表明した。かつて羅松と戦った王世充でさえ、宇文化及の専横を危惧していたのである。


定陽の劉武周、河北の竇建徳、湖北の蕭銑も次々と連合軍参加に同意した。彼らにとって、宇文化及討伐は大義名分を得る絶好の機会であった。


こうして、隋朝最後の忠臣・羅松を中心に、宇文化及討伐連合軍が結成される運びとなった。


連合軍は揚州に向けて進軍を開始した。総勢二十万を超える大軍が、宇文化及の野望を打ち砕くために集結したのである。


宇文化及もこれに対抗し、十万の大軍を率いて迎え撃つ態勢を整えた。中でも宇文化及の息子・宇文成都の武勇は連合軍にとって最大の脅威であった。


宇文成都は若年ながらも並外れた武術の才能を持ち、すでに幾多の戦いでその強さを証明していた。羅松でさえ、かつての一騎打ちでは決着をつけられなかったほどである。


連合軍と宇文化及軍の最初の大規模な衝突は、揚州北方の平原で起こった。


戦いは早朝から始まり、日が中天に達する頃には両軍入り乱れての大乱戦となっていた。その中で、宇文成都は獅子奮迅の活躍を見せ、連合軍の武将たちを次々と打ち倒していった。


「奴は化け物か!?」


連合軍の兵士たちは恐怖に震え上がった。


宇文成都の猛攻の前に、連合軍は一時後退を余儀なくされた。しかし、ここで運命の出会いが起こる。山西から参戦した李淵の四男李元覇が宇文成都と対峙したのである。


李元覇は若年ながら怪力無双の持ち主で、両手に持つ巨大な鉄槌を軽々と振り回すことで恐れられていた。


「宇文成都!俺が相手だ!」


李元覇の咆哮が戦場に響き渡った。


宇文成都は冷たく笑い捨てた。


「小僧が生意気だ」


二人の強豪は激突した。鉄槌と長槍が火花を散らし、周囲の兵士たちはその気迫に圧倒されて近づくことすらできなかった。


「馬鹿な…あの李元覇と互角に戦っているのか」


羅松は遠くから二人の死闘を見守り、驚愕を隠せなかった。


李元覇と宇文成都の戦いは百合を超えてもなお決着がつかない。二人とも全身に傷を負いながらも、激しい戦いを続けていた。


しかし、連合軍にはまだ戦力があった。伍雲召、伍天錫、裴元紹といった勇将たちが、疲れを見せ始めた宇文成都に挑みかかったのである。


「宇文成都!ここで終わりだ!」


伍雲召が叫び、槍を突き出した。


宇文成都は三人の勇将を相手に孤軍奮闘した。さすがの宇文成都も、李元覇との死闘で体力を消耗した後では、三人の猛攻に耐えきれない。次第に追い詰められていった。


「くっ…この宇文成都、ここまでか……!」


宇文成都は全身に無数の傷を負い、ついに馬から転落した。連合軍の兵士たちが殺到しようとしたその時、羅松が駆けつけた。


「待て!彼は武人として誇り高く戦った!最後は武人としての尊厳を守らせよ!」


羅松の言葉に兵士たちは逡巡し、宇文成都を見つめた。宇文成都は地面に膝をつき、羅松に向かって微かにうなずくと、自らの剣で喉を掻き切った。最後まで武人としての誇りを貫き通したのである。


宇文成都の死は、宇文化及軍の士気に大きな打撃を与えた。連合軍はこの機を逃さず、総攻撃を開始した。


羅松は自ら先頭に立って宇文化及の本陣へと突撃した。


「宇文化及!出て来い!羅松と勝負だ!」


宇文化及は本陣深处で震え上がっていた。息子の死と、迫り来る連合軍の猛攻に、もはや勝機はないと悟った。


「逃げるのだ!玉璽を持って逃げるのだ!」


宇文化及は側近たちに叫びながら、玉璽を抱えて逃亡を図った。


しかし、羅松は宇文化及の逃亡を見逃さなかった。


「どこへ逃げる、宇文化及!」


羅松は単騎で宇文化及の逃亡部隊に追いつき、たちまち護衛兵たちを蹴散らした。宇文化及は恐怖のあまり玉璽を落とし、地面に這いつくばって許しを請うた。


「羅、羅将軍!どうか命だけは……帝位は譲ります!だから…」


「黙れ!」


羅松の怒声は雷のごとく響いた。


「主君を弑逆した裏切り者に、言葉など必要ない!」


羅松は躊躇なく刀を振り下ろし、宇文化及の首を刎ねた。隋朝を混乱に陥れ、煬帝を弑逆した奸臣の最後は、あっけないものだった。


宇文化及の死によって、その軍勢は完全に崩壊した。連合軍は勝利を収め、隋朝の玉璽は羅松の手に渡ったのである。


戦後、連合軍の諸侯たちは羅松の下に集まった。玉璽を手にした羅松は、形式上は次の皇帝を決定する権限を持っていた。


「羅将軍、玉璽はどうされるおつもりか?」


李淵が代表して問いかけた。


羅松は深く息を吸い、諸侯たちを見渡した。


「私は皇帝にはならぬ。この玉璽は、真に天下を治めるに相応しい者に渡すつもりだ」


場が騒然とする中、羅松は続けた。


「しかし、それを見極めるには時間がかかる。それまで私は穿天寨に戻り、時が来るのを待つつもりだ」


羅松は集まった将兵十五万に向かって宣言した。


「諸君ら、よく戦った。しかし、もはや隋朝はない。君たちは自由だ。それぞれの道を進むがよい」


多くの将兵たちは羅松の下に残ることを望んだが、羅松はそれを固辞した。


「私はもはや、大軍を率いるつもりはない。静かに時が来るのを待つのだ」


こうして、羅松はわずかな配下だけを連れて穿天寨へと向かった。天下の趨勢は新たな段階へと進み、やがて唐の時代が訪れることになるのであった。


穿天寨は山深くに位置する天然の要害であった。羅松が以前から隠れ家として確保していた場所で、わずかな兵士たちと自給自足の生活が可能な土地だった。


「将軍、ようやく穿天寨に到着しました」


李剛が声をかけると、羅松はほっとしたように息をついた。長い旅路の終わりであった。


「ここで静かに時を過ごすのだ。天下が落ち着くまでな」


羅松はそう言って寨の中に入っていった。しかし、その心中は複雑であった。玉璽を手にしながら、自ら皇帝になる道を選ばなかったことへの逡巡がまだ残っていた。


数日後、穿天寨に意外な訪問者が現れた。李淵の使者である。


「羅将軍、李淵公よりの伝言でございます。玉璽について話し合いたいとのことです」


羅松は少し考えてからうなずいた。


「わかった。しかし、ここへ来いと伝えよ。私はもう表舞台に出るつもりはない」


数日後、李淵自らがわずかな供を連れて穿天寨を訪れた。羅松は李淵を丁重に迎え入れた。


「羅将軍、ご無事で何よりです」李淵は笑顔で挨拶した。


「李淵公、よく来られました。さて、玉璽の件ですが」


李淵は真剣な表情で羅松を見つめた。


「羅将軍、天下は新たな指導者を必要としております。あなたが玉璽をお持ちなら、自ら皇帝となるべきでは?」


羅松は静かに首を振った。


「私は武人に過ぎぬ。天下を治める器ではない。むしろ李淵公こそ、人望も実力も備えていると聞いている」


二人は深夜まで語り合った。天下の行く末、民の幸せ、そして新しい王朝の在り方について。


明け方近く、羅松は決断した。


「李淵公、この玉璽を受け取ってください。あなたなら、天下を治めるに相応しい」


李淵は驚いた。「しかし、これは隋朝の正当な後継者である証です。あなたから私に渡すなど…」


「隋朝はもう終わった」


羅松は静かに言った。


「新たな時代が必要だ。どうか、民を苦しみから救う王朝を築いてください」


李淵は深くうなずき、玉璽を受け取った。


「約束します。必ずや、平和な世を築いてみせましょう」


こうして、玉璽は李淵に渡り、やがて唐王朝が誕生する礎となったのである。


大業十四年三月、江都の離宮にて、ついに宇文化及が煬帝を弑逆した。この報せは瞬く間に中原全土に広がり、隋朝の崩壊は天下の英雄たちに野望を抱かせた。各地で勢力拡大の動きが活発化し、まさに戦国時代の様相を呈していた。


洛陽では王世充が皇泰主を擁立して実権を握り、「朕こそが隋の正統な後継者である」と宣言。河北では竇建徳が夏王を自称し、民衆から「竇王は仁政を行う名君」と慕われる。山西では李淵が太原で挙兵し、唐王として台頭。その他、定陽の劉武周、湖北の蕭銑など、数多の群雄が割拠する状況となった。


そんな中、穿天寨に潜伏していた羅松の元に、意外な人物から使者が訪れた。李淵の長子、李建成である。穿天寨は遊牧民と漢民族が入り交じる辺境の地に位置し、多様な文化が融合する独特の雰囲気を持っていた。使者は恭しく頭を下げて言った。


「羅将軍、李淵公の長子・李建成殿下より、貴公の武勇と知略を唐軍にお貸し頂きたいとのお申し出でございます」


羅松は静かに目を閉じ、考え込んだ。彼は宇文化及討伐後、静かな余生を送るつもりだった。しかし、天下はますます乱れ、民衆は苦しんでいた。


数日後、李建成自らが穿天寨を訪れた。整った顔立ちに聡明な眼差しを持つ若者だった。彼は太子洗馬魏徴、左衛中郎将蘇定方、車騎将軍薛万徹ら有能な家臣団を従え、まさに名君の風格を備えていた。


「羅将軍、直々にご挨拶に上がりました。父李淵の名において、貴公の武勇と知略を我が唐軍に貸して頂きたい」


羅松は李建成をじっと見つめ、静かに問いかけた。


「李建成殿、なぜ私のような者をわざわざお招きになるのですか?天下には有能な将軍は数多くおりますはず」


李建成は微笑んだ。


「羅将軍はご謙遜です。貴公が宇文化及を討った武勇談は、天下に轟いております。しかも、単なる武人ではなく、知略にも優れ、民を思う心を持っておられると。まさに、乱世を終わらせるには貴公のような人物が必要なのです」


羅松は少し間を置いてから答えた。


「李淵公の申し出は光栄であるが、私はすでに世の争乱から身を引いた身。天下の趨勢を見守るつもりでおる」


李建成は熱心に語りかけた。


「しかしながら、貴公のような人物が無為に過ごすことは、天下の損失です。どうか、我が唐の正義の旗印の下、平和な世を築くために力を貸して頂きたい。私は貴公を直属の配下として迎え、最大の敬意をもって遇します」


羅松は深く息を吸った。確かに、この乱世を収めるには、誰かが天下を統一する必要がある。李淵は人望も実力も備えていると聞く。その長子である李建成も、有能な家臣団を抱える名君の器である。


「では、一つだけ条件を聞き入れて頂きたい。私は貴公の直属の配下となるが、不義理な戦いには加担しない。あくまで民のための戦いでのみ、力を貸そう。もし、その条件がお受け入れ頂けるならば」


李建成は満面の笑みを浮かべてうなずいた。


「もちろんであります!私は貴公の武士としての信念に敬意を表します。それでは、早速洛陽方面の軍を預からせて頂きます。王世充が皇泰主を擁立して勢力を拡大しております。貴公の力が必要なのです」


こうして、羅松は李建成の配下として唐軍に加わることとなった。李建成は確かに有能な指導者であったが、その弟李世民と比べると常人域を出ない部分もあった。一方の李世民は、並外れたカリスマ性と狡猾さを併せ持ち、時に非情な決断も下すことができた。


一方、かつて最大勢力を誇った李密の瓦崗軍では、内部での確執が深刻化していた。特に単雄信と李密の関係は悪化の一途をたどっていた。


李密は当初、有能な将軍たちを束ねるカリスマ的な指導者であった。しかし、次第に猜疑心が強くなり、特に秦瓊と単雄信といった義兄弟の結束を危惧するようになっていた。


ある日、李密は単雄信を呼び出し、秦瓊の動向を探るよう命じた。


「単雄信、お前は秦瓊と義兄弟の契りを結んでいるそうだな。彼が最近、密かに唐軍と接触しているとの噂がある。お前は何か知っておるか?」


単雄信は驚いて答えた。


「李密公、そんなことはございません。秦瓊は瓦崗軍に忠誠を誓っております」


しかし李密の猜疑心は収まらなかった。


「そうか?ならば、お前の家族をしばらく洛陽で保護するとしよう。秦瓊の動向を報告する間だけの話だ」


単雄信は内心で憤慨したが、表向きは平静を保った。


「…承知いたしました」


この一件以来、単雄信の李密への不信感はつのっていった。同じ頃、秦瓊も李密から同様の嫌疑をかけられており、二人は密かに状況を話し合うようになった。


「単雄信よ、李密公はもはや我々を信用してはおらぬ。このままでは、いつか罠にはめられるかもしれん」


秦瓊は憂いを含んだ声で囁いた。


単雄信は拳を握りしめた。


「しかし、我々には行く当てがありません。家族も人質に取られている」


実はこの時、羅松が密かに動いていた。宇文化及討伐後、彼は単雄信と秦瓊の家族が危険にさらされていることを知り、穿天寨に保護していたのだ。羅松は使者を送り、二人の家族の安否を知らせた。


「なんと!羅松将軍が我が家族を保護して下さっているだと!」


単雄信は驚きと安堵のため息をついた。


秦瓊も決意を新たにした。


「これで悩むことはない。我々は瓦崗寨を去り、新たな道を進むべきだ」


しかし二人の選択は分かれた。秦瓊は李淵の唐軍に仕える道を選び、単雄信は過去の因縁から李淵を許すことができず、王世充の下に向かうことを決意した。


単雄信は李密の下を去る前夜、最後の忠告をした。


「李密公、どうか猜疑心を捨て、将軍たちを信じてください。さもなければ、瓦崗軍は自滅するでしょう」


しかし李密は耳を貸さず、逆に激怒して単雄信を追放した。こうして、瓦崗軍は有能な将軍達を失うこととなったのである。


一方、定陽では劉武周が勢力拡大に躍起になっていた。特に有能な将軍を探しており、配下の宋金剛からある人物の話を聞く。


「劉武周殿、并州に尉遅恭という非凡な武勇の持ち主がおるとの情報が入りました。元は鍛冶屋だったそうですが、その腕前は並々ならぬものと聞きます。百斤以上の鉄鞭を軽々と振り回し、一騎打ちで敵将を討ち取る武勇の持ち主とのことです」


劉武周は興味深そうに眉を上げた。


「ほう、鍛冶屋出身の武人か。面白い。早速、招聘しよう。宋金剛、お前が直接、尉遅恭を迎えに行け」


尉遅恭は当時、地元では名の知れた武芸の達人だったが、その生い立ちから大きな勢力に仕える機会に恵まれていなかった。彼は田舎の鍛冶場で、日々を送っていた。


宋金剛が尉遅恭の元を訪れた時、彼は鍛冶場で刀を鍛えていた。渾身の一打ちで赤く熱した鉄を叩くその様は、まさに職人というより武人そのものだった。


「尉遅恭殿、劉武周公より、将军として迎えたいとのお申し出であります」


尉遅恭は汗をぬぐいながら、宋金剛をじっと見た。


「なぜ、俺のような者を?俺はただの鍛冶屋だ」


「劉武周公は、能力さえあれば出身など問わないお方です。どうか、その武勇を天下に示す機会を与えて頂きたい。現在、天下は乱れ、有能な武人が求められております」


尉遅恭はしばらく考えた。ようやくうなずいた。


「承知した。ただし、一つ条件がある。俺は不義理な戦いには加担せん。あくまで、民のために戦う。それが受け入れられるならばな」


宋金剛は満面の笑みを浮かべて答えた。


「もちろんです!劉武周公も民を思うお方です。では、早速ご一緒させて頂きます」


こうして、尉遅恭は劉武周の配下となり、歴史の表舞台に登場することとなった。彼の武勇はたちまち周囲に知れ渡り、劉武周軍の精鋭部隊を率いる将軍として頭角を現していくのであった。


唐軍に加わった羅松は、李建成の直属部隊として活躍していた。その武勇と知略は唐軍内で高く評価され、次第に重要な役割を任されるようになっていた。特に洛陽方面の王世充軍に対する戦線で、羅松の指揮は光るものがあった。


「羅将軍の采配は見事ですな。あの難攻不落と言われた王世充の要塞を、わずかな損害で落とすとは」


李建成は満足そうに羅松を賞賛した。しかし、羅松は複雑な表情を浮かべていた。


「殿下、戦いに勝利することは確かに重要ですが、それ以上に、戦いを避ける道を探ることも必要ではないでしょうか。民衆は戦乱に疲れ切っております」


李建成は少し不機嫌そうに答えた。


「羅将軍、お前の言うこともわかる。しかし、天下統一のためには、時には力も必要だ。温情ばかりでは、他の群雄たちが付け入る隙を与えるだけだ」


ちょうどその時、急を告げる使者が到着した。


「緊急の報せでございます!劉武周軍の尉遅恭が、唐の領内に侵攻し、三日のうちに三つの城と十一の寨を落としました!現在、太原が包囲される危機に瀕しております!」


李淵は激怒した。


「なんと!たった一人の将軍に、そこまでされるとは!李世民、お前はすぐに尉遅恭討伐に向かえ!」


しかし李世民は冷静に答えた。


「父上、尉遅恭は並々ならぬ武勇の持ち主です。単独での討伐は困難です。太子とともに当たるべきでは」


李淵は考え込んだ後、決断した。


「いや、太子には別の任務を与える。突厥軍が国境を脅かしておる。建成は北方の守りを固めよ。世民、お前は尉遅恭を討つのだ」


李建成の表情にわだかまりが見えた。弟である世民により重要な任務が与えられたことに、不満を感じているようだった。


「父上、それでは私に尉遅恭討伐を任せて頂けませんか?突厥軍への備えは弟に任せて」


李淵は首を振った。


「いや、突厥との戦いはお前の方が経験がある。これで決めた」


この決定が、唐軍内部の確執をさらに深めることとなった。李建成は李世民が父からより重要な任務を与えられたと感じ、李世民は兄が自分の活躍の場を奪おうとしていると疑うようになった。


そんなある日、軍事会議の後、李世民が羅松に近づいてきた。


「羅将軍、尉遅恭討伐にご同行願いたい。貴公の知略があれば、あの猛将も攻略できるでしょう」


羅松は恭しく頭を下げた。


「秦王殿下、お声がけ頂き光栄です。しかし、私は李建成殿の配下でございます。まずは殿下のご許可を頂かねば」


李世民は失望したようにため息をついたが、その目には計算された光が宿っていた。


「残念です。しかし、もし考えが変わられたら、いつでも声をかけてください。『我が』唐軍には、貴公のような人物がより必要とされているのですから」


李世民が去った後、李建成が現れた。彼の表情は険しかった。


「弟が何か言っておりましたか?」


羅松はわざとぼかして答えた。


「いえ、特に何も。ただ、戦況について雑談をしていただけです」


李建成は疑わしそうな目をしたが、それ以上は追及しなかった。


「そうですか。では、次の作戦について打ち合わせをしましょう。王世充軍の単雄信が、我が軍の補給線を脅かしておる。なんとかせねば」


羅松は内心で複雑な思いを抱いていた。単雄信と言えば、かつては同じ隋朝に仕える将軍同士として面識があった。武勇に優れ、義に厚い男である。そんな男と戦わなければならないのかと思うと、胸が痛んだ。


数日後、羅松は単雄信の部隊と対峙することとなった。両軍がにらみ合う中、単雄信が前に進み出た。


「羅松、久しぶりだな。まさかお前が唐軍に仕えるとは」


「単兄、王世充に仕えるとは驚きました。瓦崗寨を去られたと聞いておりましたが」


単雄信は苦い表情を浮かべた。


「李密の元では、もはや民のために戦うことはできなかった。王世充殿なら、違うと思ったのです。しかし、貴公はどうですか?李淵はかつて、無実の者を数多く殺した男ですぞ。そんな男のために戦うおつもりですか?」


羅松は深く息を吸った。単雄信の家族が無事であることを伝えたい衝動に駆られたが、時が熟していないと判断した。


「李淵公の過去の行為については承知しております。しかし、現在の唐軍が民のために戦っていることも事実です。お互い、信念を持って戦いましょう」


戦端が切られると、両軍は激しくぶつかり合った。羅松の巧みな指揮と単雄信の勇猛な突撃が火花を散らす。しかし、羅松はわざと単雄信の部隊を包囲殲滅しないように采配をした。かつての同僚を無駄に死なせたくなかったからだ。


戦いの後、李建成が羅松を詰問した。


「なぜ単雄信の部隊を逃がした?あの機会を逃せば、また後で苦戦するかもしれぬのに」


「殿下、単雄信は武勇に優れた将です。無理に追い詰めれば、我が軍も多大な損害を被ります。今回は兵士たちの犠牲を最小限に抑えることを優先いたしました」


李建成は不満そうだったが、それ以上は追求しなかった。しかし、この一件以来、唐軍内部の確執はより深まっていくのであった。李建成と李世民の後継者争いはますます激化し、それぞれが自分の派閥を強化しようとする中、羅松は板挟みになっていくのだった。


特に李世民は、羅松の武勇と人徳を高く評価し、何度も自らの麾下に招こうとした。李世民のアプローチは巧妙で、兄である李建成への忠誠心を損なわないようにしながら、じわじわと羅松の心を引き寄せようとした。


「羅将軍、貴公の采配は実に見事だ。先日の戦いでは、わずかな損害で敵の補給線を断ったと聞く。ぜひ、その知略を我が軍のより多くの将兵に伝授して頂きたい」


李世民はわざと公の場で羅松を賞賛した。


一方の李建成は、弟が自分の配下の優秀な将軍に接触することに強い不快感を抱いていた。


「羅将軍、お前は我が配下である。弟との不用意な接触は控えてもらいたい」


李建成は露骨に嫌味を言った。


「お言葉ですが、私は常に殿下に忠誠を誓っております。李世民殿が話しかけて来られるので、対応しているに過ぎません」


「ならば、きっぱりと断るべきだ。弟君は甘い言葉でお前を唆そうとしているのだ」


羅松は内心でため息をついた。天下統一目前という重要な時期に、兄弟の権力闘争に巻き込まれるとは思ってもみなかった。彼は静かに言った。


「殿下、今は外部の敵に対処すべき時です。内部での争いは、唐軍全体の力を弱めます」


李建成は不機嫌そうに答えた。


「羅将軍、お前は軍事の専門家だ。政治的事情には口を出さぬでくれ」


この時、羅松は初めて李建成との決別を意識した。李建成は有能な指導者ではあったが、弟との権力闘争に夢中になりすぎていた。天下を統一するには、李世民の方が適任ではないかと考えるようになったのである。しかし、武士としての忠誠心が、簡単に主君を変えることを許さなかった。


そんなある日、羅松は李世民と偶然居酒屋で出会った。李世民はわずかな供回りだけで酒を飲んでいた。


「羅将軍、こんなところでお会いするとは奇遇ですな。よろしければ、一杯如何ですか?」


羅松は少し躊躇したが、つい頷いてしまった。


「では、お言葉に甘えて」


酒を酌み交わす中、李世民は突然真剣な表情で言った。


「羅将軍、天下統一後、どのような世の中を築くべきだとお考えですか?」


羅松は少し考えてから答えた。


「民が安心して暮らせる世の中です。戦乱で疲弊した土地を復興し、誰もが飢えることなく暮らせるような世の中を築くべきでしょう」


李世民の目が輝いた。


「まさに、私の考えと同じです。現在の隋の制度を改め、科挙を充実させ、有能な人材を登用する。そして、民の声に耳を傾ける政治を行う。それができれば、きっと平和な世が訪れるでしょう」


羅松は内心で驚いた。李世民の考えは、まさに自分が理想とする政治に近かった。一方、李建成はどちらかと言えば、既得権益を重視する保守的な考えの持ち主だった。


「しかし、私は皇太子殿下に仕える者です。このような話はご遠慮願いたい」


李世民は寂しそうに笑った。


「すまなかった。つい、熱が入ってしまって。では、失礼する」


李世民が去った後、羅松は複雑な思いで杯を傾けた。ますます、李世民に後継者となってほしいと思うようになる自分がいた。しかし、武士としての誇りが、その思いを抑えつけた。


次の日、羅松は李建成から呼び出された。李建成の表情は冷たかった。


「昨夜、弟と会っていたそうだな。何を話していた?」


羅松は覚悟を決めて答えた。


「天下統一後の政治についてでございます。李世民殿は、民を重視した政治を構想されているようでした」


李建成は嘲笑した。


「民など、所詮は支配される存在だ。重要なのは、如何に効率的に統治するかである。弟はいつもそうだ。現実を見ずに理想ばかり追い求める」


この時、羅松は確信した。自分が仕えるべきは李建成ではなく、李世民だと。しかし、それでもなお、武士としての忠誠心は簡単には変わらなかった。ただ、内心では願っていた。李世民が後継者となることを。


そして、その願いが現実となる日は、思ったよりも早く訪れるのであった。李世民派と李建成派の対立が頂点に達し、ついに玄武門での決定的な衝突へと発展するのである。

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