密かなる使者と和解の絆
四平山の戦塵がようやく沈み、血に濡れた大地に夕闇が垂れこめていた。隋軍本陣へ戻る羅松の背後には、鎧の隙間に乾いた血痕を滲ませた三百の精鋭が従っていた。彼らの足取りは重く、戦塵に汚れた旗指物が風に咽ぶように揺れていた。
その列の最後尾に、分不相応な青銅の鱗甲を着込み、必死に背筋を伸ばして大人びた様子を装う一人の少年がいた。頬に残る雀斑と未だ柔らかな顎線が年若さを露わにする――単雄信の末弟、単英である。重さ三十斤に及ぶ甲冑に押し潰されそうな小柄な体は、疲労で幾度もよろめいた。
「英よ、近う寄れ」
羅松が驪騮の馬上で振り返り、静かに呼びかけた。その声には四平山の死闘による深い疲労がにじみ、銀鼠色の戦袍の肩には矢傷が黒く滲んでいた。
「は、はい! 羅松様!」
単英は慌てて栗毛の駑馬を駆り、主君の傍らに並んだ。鞍の上で震える膝が革鞣に当たり、微かな音を立てる。
「見よ…」
羅松が鞭先で血塗れの丘を指した。
「あの屍山が、お前の兄が守った老英王の最後だ」
少年の喉仏が上下した。夕陽に照らされた無数の屍骸は、烏の餌食となり異様な膨張を見せていた。
「兄貴は今、反王軍陣営で肩を槍に貫かれながらも、怒りに燃えている。我が老英王を討ったことを…『裏切り者』と激しく非難している」
「……」
単英の指が手綱を握りしめた。幼い頃、兄が家令の不正を暴いた時と同じ、あの天地をひっくり返さんばかりの激情を思い出した。
「だが英よ」
羅松の声が鉛のように沈んだ。
「あれは…守るための選択だった」
馬上で甲冑の袖を握る拳が微かに震えた。月明かりが彼の側臉を浮かび上がらせ、稀に見る苦渋の影を刻んでいた。
「楊林は穿天寨に火を放ち、お前たち単家一門を皆殺しにすると脅した。老英王が隋へ内通した証文を突きつけられてな…」
単英の息が止まった。洛陽郊外に広がる単家の田園や、幼い姪たちの笑顔が脳裏をよぎる。
「我が言葉を直接伝えても、今の彼には届くまい」
羅松が驪騮のたてがみを撫でながら言った。
「お前ならば…その真意を信じてくれるか?」
少年は涙をこらえ、歯で唇を噛みしめて頷いた。
「はい! 命に代えても! 羅松様が兄貴を討たねばならぬ理由…必ず伝えてみせます! 俺が…俺が兄貴の心を開いてみせます!」
「よし」
羅松は懐から漆黒の封蝋が施された密書を取り出した。封には穿天寨の紋――穿雲する龍が刻まれている。
「三更に西の物見櫓の陰から抜け出せ。馬は枯れ尾花の駿馬を用意しておく」
単英が密書を受け取ると、羊皮紙には驚くべき内容が細字で記されていた。
《楊林直命の詳細、老英王内通の偽証文提示》
《単家皆殺しの脅迫状写し、宇文家の印章あり》
《穿天寨炎上を防ぐための苦渋の選択》
《単通への謝罪の詞》
「命を懸けて戻れ」
羅松の眼差しが少年を貫く。
「これが将たる者の約束だ」
「必ず!」
単英は密書を肌身離さず胸鎧の内側に縫い込まれていた母の形見袋にしまい、夜陰に紛れて反王軍陣営へ消えていった。残された羅松は月明かりに浮かぶ屍山を見つめ、独り呟いた。
「単通…貴様が『信義』を剣よりも重んじる男であることを、私は知っている」
月明かりが屍累々の四平山を青白く照らす。羅松の背後で軋む車輪の音が不気味に響いた。楊林が送りつけた「戦功確認使」の屍を運ぶ荷車である。
「英よ」
羅松が馬上で密書を渡しながら低く言った。
「この書には楊林の密命も記した。だが最も大事なことは…」
少年が息を詰める。
「お前の兄が『信義の鬼』と呼ばれる所以を伝えよ」羅松の目が遠くの篝火を見据える。「昔、黄河が氾濫した時、単通は自分の食糧を全て流民に分け与え、三日三晩飢えながら堤防を守った」
単英の瞳が潤んだ。その時兄は彼に言った。『強者は弱者を守るのが当然だ』と。
「彼の怒りは義憤だ。だからこそ…」
羅松の手が密書を強く押した。
「真実を信じてくれる」
馬に飛び乗った単英の背に、羅松はひそかに五枚の金貨を縫い込んだ陣羽織をかけた。少年は闇に消える前に振り返り、武者震いする声で叫んだ。
「必ず…必ず兄貴を連れて戻ります!」
反王軍陣営の奥深く、獣脂灯が揺れる天幕内で、深手を負った単雄信は甕酒を浴びるように飲んでいた。肩を貫かれた傷口から滲む血が包帯を赤黒く染め、床には割れた陶器の破片が散乱している。
「羅松め…なぜ…なぜ老英王を…!」
その怒号が天幕を震わせた時、物陰から小姓姿の少年が現れた。煤けた顔に涙の跡が光る。
「兄貴…」
「…英!?」
単雄信は目を見開き、手中の銅杯を落とした。
「お前、何故ここに!? 隋軍の捕虜になったのか!?」
「違います! 羅松様が…密かに連れ出してくれたんです」
単英が懐から封蝋の割れた密書を差し出す。羊皮紙には血痕が滲んでいた。
「ふん…羅松の言い訳か?」
眉をひそめて巻物を広げる単雄信。しかし読み進めるにつれ、その表情が怒りから驚愕へ、そして激しい慚愧へと変わっていった。巻物の端が彼の震える手で握り潰される。
「…証拠か」
声はかすれ、目頭が炎のように赤く染まった。
「あの老英王め…表向きは反王を名乗りながら、裏では楊林と通じていただと…? 宇文家が…一族皆殺しの脅しを…」
「そうです! 羅松様は砦と、俺たち単家の女童たちを守るために…苦しみ抜いて決断されたんです!」
単英が必死に兄の腕を掴んだ。その手に感じる兄の体温が異常に高かった。
「…ぐっ」
単雄信は拳を天幕の支柱に叩きつけた。木片が飛び散り、拳から滴る血が土を染める。
「愚かな…この単通は…友を疑い、憎悪の言葉を浴びせて…」
目を開けた彼の瞳には、赤髪の豪傑として知られた男の顔を伝う初めての涙が光っていた。
「英よ、伝えてくれ」声は砂を嚙んだように荒れていた。「『友を疑ったこの単通、深く詫びる。次に会う時は…太原の汾酒を酌み交わさん』と」
「はい!」単英の顔に安堵の笑みが走り、自身も涙をぬぐった。
一方、隋軍陣営の医師天幕では、羅成が白布を巻かれる肩の槍傷を見下ろしていた。蘭陵王の仮面のような美貌に痛みの色はないが、額に浮かぶ脂汗が苦痛を物語る。
「…下手人は?」
冷たい声が医師を震わせた。
「は、はっ…羅松と判明しております」
羅成は布越しに兄・羅松が放った穿天槍の軌跡を脳裏に反芻していた。
(あの一槍…速さと鋭さだけでない、角度は天枢星の位置を射る…深さはちょうど心臓をかすめる三寸五分、全て…計算尽くされていた)
拳を握りしめ、傷の痛みなど感じないかのように呟く。
「…いつか必ず。この羅成、貴様の槍を越えてみせる…」
天幕の外から届く兵士たちの囁きが聞こえた。
『羅松将軍の一槍は鬼神の如し』
『次期元帥は間違いない』
「覚悟しろよ、兄貴…」
羅成の瞳に燃える闘志の炎が、天幕を朱に染めた。
単雄信が密書を握り潰した瞬間、天幕の入口で鈍い音がした。警戒して剣を抜く兄に、単英が小さく叫んだ。
「待って! それは…」
天幕を這いずる一人の傷兵が血まみれの手を差し伸べていた。その掌には単家の印が刻まれた水筒があった。
「お前は…?」
単雄信が蹲る。
「四平山で…羅松様に助けられた者です」
傷兵は血の泡を吐きながら言った。
「貴公の陣営へ戻れと…」
水筒を開けた単雄信は息を呑んだ。中から現れたのは、幼い単英が彫った粗末な木彫りの馬、彼が「兄弟の証」として羅松に渡したものだった。
「…馬の脚が折れている」
単雄信が嗚咽した。
「戦場で守り切れなかった俺の恥だ」
「違います!」
単英が叫んだ。
「羅松様は言ってました。『この馬は脚を治せば再び駆ける』と!」
その時、傷兵が懐から血染めの布切れを取り出した。広げると、そこには羅松の直筆が認められていた。
単通へ
お前の信義こそが真の強さだ
次は共に駆けよう
赤髪の豪傑は顔を上げた。涙が頬の傷痕を伝い、血の滴りと混ざって土に落ちた。
「英よ」
声は渇いていたが確かな意志を宿す。
「羅松に伝えろ…『次の酒宴には、お前の穿天槍と俺の金頂棗陽槊で武舞を舞おう』と」
四平山の戦いが「隋軍の勝利」として幕を閉じると、敗走した反王連合軍は急速に瓦解した。群雄たちは自勢力の温存に奔走し、裏切りと同盟が乱れ飛ぶ弱肉強食の様相を呈する。略奪を働く敗残兵の群れが村々を襲い、黄河の水さえ血で赤く染まったという報せが飛び交う。
中でも瓦崗山の大魔国では劇的な権力移行が起きていた。聚義庁に並ぶ十八路反王の旗が、夕闇に翻る。
「…ふん。混世魔王の座、そろそろ重くなってきたわい」
程咬金は豪快に笑いながらも、その目は鋭く軍師徐茂公の扇の動きを追い、傍らで控える李密の指先の震えを見逃さなかった。玉座の傍らに立てかけた八卦宣花斧が鈍く光る。
「李密殿!」
声は堂内に響き渡った。
「お前さんにこの玉座、譲るわ! 俺は先鋒大将の方が性に合ってるぜ! はっはっは!」
場内が騒然とする中、李密は慇懃に頭を下げた。しかし俯いた顔の口元に、一瞬だけ刻まれた野心の笑みを、徐茂公だけが見逃さなかった。
「畏まりました。程大王の御厚意、深く肝に銘じます」
こうして瓦崗山の主権は程咬金から李密へ移り、徐茂公の描く「李密推戴」という新たな戦略が動き出そうとしていた。陰で握られた軍師の拳に、冷や汗がにじんでいた。
一方、隋軍本陣の金頂天幕では、李世民が煬帝の前へ恭しく進み出ていた。獣炭の暖気が帳内を満たす中、煬帝の肥満体は豹皮の寝台に沈み込んでいた。
「陛下。四平山の賊徒は壊滅し、御安泰が確かなものとなりました」
李世民の声は澄んでいて、跪く姿勢に一片の隙もない。
「臣、李世民、父唐国公の待つ晋陽に戻り、突厥の侵攻に備えねばと存じます。弟・元覇も同道させていただきます」
煬帝は翡翠の杯を置き、李元覇の巨体を見やった。
「元覇は朕の傍に置く。突厥など辺境の守将に任せよ」
その時、影から宇文化及が静かに進み出て密奏した。
「陛下…李淵の勢力を過度に刺激するのは得策ではありません。三万の精兵を擁する太原は、今乱すに足らず」
煬帝は不承不承ながらも許した。宇文化及が背後で示した手のひらの「殺」の字が、李世民の目に焼き付いた。
「よかろう。元覇の武勇、朕は忘れぬぞ」
「御厚情、深謝いたします」
深々と礼をした李世民は、無言で控える李元覇を促し、静かに晋陽への帰途についた。帳幕を出た瞬間、二人の背後の宇文化及の目が蛇のように冷たく光るのを感じた。
「兄上よ」
李元覇が唸るように言った。
「あの爺様…殺していいか?」
李世民は答える代わりに、弟の巨腕を強く握り返した。その手に込められた決意が、すべてを物語っていた。
瓦崗山の権力移行劇の裏で、徐茂公は密かに北斗七星の配置を占っていた。紫微垣が異常に輝くのを見て眉をひそめる。
「程咬金殿」
徐茂公が玉座の脇でささやいた。
「玉座譲りは妙手です。しかし李密の目には『殺破狼』の気が漂う」
程咬金は斧の柄を撫でながら嗤った。
「わかってるさ軍師よ。あの男が『真龍』かどうか…」
突然、彼の目が獲物を狙う虎のように細まった。
「お前の七星剣で試させてもらう」
一方、煬帝の天幕では宇文化及が巧妙な罠を仕掛けていた。
「陛下、李元覇を晋陽に帰すならば…」
宇文化及が翡翠の香炉に手をかざしながら囁く。
「代わりに李世民を人質に如何ですか?」
煬帝が躊躇うと、宇文化及は用意していた文書を広げた。
「李氏謀反の証拠です。彼らが突厥と通じた密書が先月、雁門関で押収されました」
それは宇文化及自らが偽造した書簡だった。煬帝の目が疑心に曇るのを確認し、宇文化及は袖に隠した「殺」の字が書かれた木札を握りしめた。
李世民が退出する際、宇文化及はわざとらしく呟いた。
「太原の雪は見事でしょうな。…血で染まらなければ良いが」
李世民は振り返らず、指で佩剣の鍔を三度叩いた。義兄の柴紹にはわかる合図だった『三日内に挙兵』。
晋陽への帰路、野営地では夜更けの寒気が兵士たちを震わせていた。突然、李元覇が羅松の天幕を蹴破って押し入った。
「羅松! 出て来い!」
轟くような声には、四平山の狂乱とは異なる奇妙な真剣さが込められていた。
何事かと外に出た羅松を、李元覇は擂鼓甕金鎚を担いで真っ直ぐに見据える。松明の炎が彼の巨体を揺らめく影に変えた。
「あの時、四平山で柱を壊した時…お前、本当はもっと強いんだろ? 逃げただけじゃねえか!」
「……」
「俺はな、お前と本当の勝負がしたいんだ! ここで決着つけろ!」
(…遂に来たか)
羅松は穿天槍を手に取った。月光が槍先に冷たい輝きを灯す。「よかろう。だが…一撃のみだ」
「ふん! それでいい!」
李元覇は背中の金鎚をぶんぶんと振り回した。風圧で周囲の松明が一斉に消え、兵士たちが悲鳴を上げる。
野営地の空き地に、二人が対峙する。物音に気づいた李世民や柴紹、傷だらけの羅成までもが見守る中、張り詰めた空気が肌を刺す。
「行くぞ!」
李元覇の雄叫びと共に、擂鼓甕金鎚が天地を引き裂く勢いで振り下ろされた! 四平山の狂乱とは違い、全ての意志を込めた渾身の一撃が時空さえ歪ませる。
羅松は穿天槍を螺旋に回転させ、鎚の衝撃を流し、威力を地中へ逃がす「穿天流・地龍転」の構えを取る。足は八卦の位に定め、腰は龍が天を穿つ如く反らせた。
ドゴオオオオオーン!!!!!
衝撃が炸裂し、砂塵の柱が天を衝いた。ロ松の足元の地面が直径一丈も陥没し、蜘蛛の巣状の亀裂が周囲十丈に広がる。彼の腕には稲妻が走ったような激しい痺れが走った。
(これが…原作に記されし雷神の力か)
一方、李元覇の金鎚は槍の流しを受け、大きく軌道を外れて地面に深い穴を穿った。彼は一瞬、驚きと満足感の入り混じった表情を浮かべる。
「…はっ! やっぱりお前、強いぜ!」
金鎚を肩に担ぎ、大口を開けて笑う李元覇。
「今日は引き分けだ! だがな…」
彼の目が真剣さを増した。
「必ず次は、本当の勝負をしようぜ! 友達としてな!」
「…約束だ」
羅松は微かに頷き、内心で深く息をついた。
(これで、この怪物とも…一時の休戦を得た)
李世民が駆け寄り、弟の巨体を支えた。その目には感謝と警戒が交錯している。
「羅松将軍」
李世民が深々と頭を下げた。
「この愚弟の命…救っていただき」
羅松は答える代わりに、消えかけた月を仰いだ。その夜、三人の間に結ばれた絆が、やがて天下を分かることなど誰も予想しえない。
李元覇の金鎚が振り下ろされる直前、羅松はあることに気づいた。鎚の軌道が微妙に外れている──わざと致命傷を避けているのだ。
(この怪物め…本気で殺す気はなかったのか)
衝撃を受ける羅松の腕に流れたのは、穿天流の奥義「地龍転」だけではない。彼は無意識に、四平山で老英王を討った時と同じ「心臓を避ける角度」で槍を操っていた。
砂塵が晴れた時、李元覇が獣のような笑みを見せた。
「お前の槍さばき…あの時と同じだな?」
指で自身の左胸をトンと叩く。
「ここを狙わなかった」
羅成が目を見開いた。兄が単雄信を討った時の話だ。
「次はな」
李元覇が金鎚をグルグル回しながら言った。
「お前の本気を見たい。俺を殺せるってわかってて、殺すかどうか…」
李世民が飛び出そうとしたが、羅松が静かに手を挙げて制した。
「約束しよう」
羅松の槍先が月を指した。
「天下が定まった暁には、生死を賭けた勝負を」
「そん時はな」李元覇は巨体を震わせて笑った。
「雷鳴が三日止まんねえほどぶん殴るぜ!」
二人の間に走った奇妙な友情を、羅成は複雑な表情で見つめていた。彼の拳には、いつか両者を超えるという誓いが刻まれていた。
晋陽へ向かう李世民一行の塵埃が消えると、羅松は直ちに行動を開始した。陣幕に招いた斥候隊長に朱筆を走らせる。
《父上 北平王羅芸 膝下
四平山決戦後、賊軍崩壊す。然れども宇文化及の暗躍日増しに猖獗し、穿天寨並びに北平の安泰、優れたる人材の確保に在り。隋朝に恨みを抱く忠義の士、速やかに探索せよ一、伍建章公。二、宇文家に迫害された文官子弟。三、煬帝に諫言し追放された老臣
十万火急》
特に太字で記されたのは、伝説の忠臣伍建章の名だった。
《宇文智及の姦計により一族虐殺さる。もし生存せば最大の戦力》
密書に封をした瞬間、陣外に騒ぎが起こった。煬帝の勅使が金襴の衣を翻して到着したのだ。
「勅命! 龍驤大将軍羅松、出頭あれ!」
羅松が跪くと、絹布に金泥で書かれた勅書が掲げられた。
「羅松、その忠勤深く嘉す。ここに禁軍三万人の指揮権を授く。朕の揚州行幸を護衛せよ」
(禁軍三万…!)
羅松の心臓が高鳴った。表面は護衛任務だが、この三万の精鋭を掌握する絶好の機会だ。
早速、副将羅鉄を呼び、信頼できる配下を要所に配置する工作を命じた。
「各隊に金十両ずつ配れ。隊長には北平産の青海驄を贈れ」
「はっ!」
羅鉄の目が光る。
「ならば兵糧米には紅印を押し、将軍直送と示しましょう」
「良い考えだ」
羅松が微かに笑った。
「乱世の兵の心は、義よりも利に動く」
帳外から聞こえる兵士たちの喚声が、新たな権力構図の始まりを告げていた。
羅松が禁軍掌握のために取った策は、単なる恩賞以上のものだった。彼は密かに「三階級制」を導入する。
さらに巧妙なのは「武功録」制度だ。兵士の戦功を全て記録させ、将来の出世を約束した。ある老兵は涙ながらに訴えた。
「今までの大将は俺たちを駒としか…!」
羅松は自ら負傷兵の手当てをし、夜ごと陣営を巡った。ある夜、兵糧米を盗んだ兵士を取り押さえた時、彼は驚くべき裁きを下す。
「盗みは死罪だが」
羅松が兵士の痩せた腹を見据えた。
「お前の家族を飢えさせたのは俺の不徳だ」
そして自らの佩刀を差し出した。
「この刀で俺を討て。ただしその後は、お前がこの軍を率いよ」
兵士は震えながら跪き、以後、羅松に命を捧げる猛将となった。この逸話は禁軍全体に「羅松は自らの兵を命より重んじる」との信仰を生んだ。
羅松が禁軍を率いて揚州へ向かう中、河北の山中にある廃寺では、羅鉄が密命を受けて二人の男と対峙していた。崩れかけた千手観音の前で、伍雲召と伍天錫が警戒の剣を構える。
「伍雲召、伍天錫。龍驤大将軍・羅松様が、貴公らを穿天寨へ迎え入れたいと申される」
「何!? 羅松だと!?」
伍天錫が烈火の如く怒りだした。
「隋の大将軍めが! 伯父上の仇が! ふざけるな!」
「我らは降らぬ」
伍雲召の声は冷たい断絶に満ちていた。彼らの伯父伍建章は宇文智及の姦計により、一族もろとも処刑されたと信じている。
羅鉄は静かに懐から金襴の袋を取り出した。中から現れたのは、伍家の家紋「忠孝双全」が刻まった玉佩だった。
「…それは!」
伍雲召の息が乱れた。
「父上のかたわらにあった…」
「羅松様は言われた」
羅鉄の声に温もりが宿る。
「『貴公らが復讐を誓う伍建章公は、確かに朝廷によって非業の最期を遂げられた。しかしその死は無駄ではない』」
二人の目がわずかに揺れる。羅鉄はさらに追い打ちをかける。
「宇文成都が率いる虎賁軍に正面から挑むは無謀なり。穿天寨にて力を養い、確かな復讐の機を待つことこそ、真の忠孝と謂わないか?」
伍天錫が拳を岩壁に叩きつけた。
「くっ…!」
「羅松様は約束された」
羅鉄は玉佩を差し出した。
「必ずや真実を語り、宇文家を滅ぼす機を与えると」
「…わかった」
伍雲召がかすれた声で言った。「だが、我らが剣は常に宇文家を狙う」
「ふん! そういうことだ!」
伍天錫も不承不承にうなずく。
「穿天寨へ急がれよ」
羅鉄は二人の背中を見送りながら呟いた。
「真実を知る時、貴公らは羅松様の大義を知るだろう」
廃寺での対峙の裏で、羅鉄は周到な準備を整えていた。堂内に仕掛けた無患子の実が、会話中にパチパチとはぜる合図だ。
「貴公らの復讐は無謀だ」
羅鉄が突然、声を潜めた。
「宇文成都が率いるのは通常の虎賁軍ではない」
懐から取り出した絹布を広げる。そこには不気味な装備の兵士たちの絵が。
「『屍解軍』と申す」
羅鉄の声に戦慄が走る。
「隋軍随一の精鋭であり、一人一人がお主らの武勇に匹敵する」
伍天錫が青ざめた。
「そんな…!」
「羅松様は既に対抗策を研究されている」
羅鉄が火打石で絹布を燃やした。
「だが完成には三年を要する。それまで生き延びられるか?」
瓦礫の陰から現れた十人余りの傷だらけの兵士が跪いた。全員、伍建章の旧部下だった。
「伍将軍…お待ちしておりました」
白髪の老兵が泣き崩れた。
「生きていてくださったとは!」
伍雲召が初めて剣を収め、震える手で老兵を抱き起こした。彼の頬を伝う涙が、固い決意へと変わっていくのを羅鉄は見逃さなかった。
「穿天寨へ急がれよ」
羅鉄が鳳凰の玉佩を差し出した。
「羅松様は既に、貴公らを迎え入れる準備準備できている」
揚州行幸の龍舟の深奥で、宇文化及は夜光杯を翳して狡猾な笑みを浮かべていた。舷窓から漏れる月光が、紫檀の机に散らばった賄賂の黄金を照らす。
「李淵の息子どもが去り、羅松が禁軍に忙しい。楊林も老いて判断鈍る…今こそが好機だ」
息子宇文成都や腹心の司馬徳戡らが暗がりにうごめく。
「まず左屯衛軍の独孤盛を買収せよ」
宇文化及の指が地図上の揚州を刺す。
「皇帝の動きを完全に封じるのだ」
「はっ!」
宇文成都が鎧を鳴らして跪く。
「ならば羅松は?」
「三万の兵はこちらの餌食」
宇文化及が杯を傾けた。
「揚州に着次第、毒酒を賜ればよい」
一方、晋陽唐国公府の書斎では、李世民が父・李淵を強く説得していた。机の上には血判状が広げられ、蝋燭の炎が名前の一つ一つを照らし出す。
「父上、最早猶予はありません!」
李世民の声に切迫感が増す。
「煬帝は宇文化及に操られ、我が李氏への疑念は日に日に深まっております!」
李淵は苦悩に沈み、壁の「忠義」と書いた扁額を見つめた。隋文帝から賜ったという青銅の虎符が机の上で鈍く光る。
「この虎符…先帝より賜ったものじゃ」
李淵の指が震えた。
「隋朝への恩義を裏切れるか」
「父上!」
李世民が跪いた。
「楊玄感が忠義を貫いて滅んだことを忘れますか!? 今こそ宇文化及を討ち、隋室を救うべき時!」
その時、娘婿の柴紹が緊迫した面持ちで入ってきた。
「急報! 宇文化及、近衛軍を掌握! 煬帝は既に幽閉されたと!」
李淵は深い嘆息をつき、虎符を床に叩きつけた。
「…よかろう。諸悪の根源、宇文化及を討つため…挙兵する」
こうして大業十三年、李淵・李世民父子は晋陽宮前にて反隋の兵を挙げた。「宇文化及討伐」の旗印が翻る中、怒涛の軍勢は電撃的に南下し、煬帝不在の長安をわずか七日で占拠。天下は新たな激動の時代へ突入した。
宇文化及の陰謀は想像以上に深かった。龍舟の底倉で行われた密議には、意外な人物が参加していた。
「裴虔通将軍」
宇文化及が杯を掲げる。
「御前近衛の掌握、見事であった」
「かたじけない」
隋の忠臣と謳われた老将が平伏する。
「しかし陛下に毒を盛るとは…」
「ふん、あの暴君め」
宇文化及の目が冷たい。
「だが安心せよ。死には見せぬ。ただ…『狂病』となって頂く」
その時、宇文成都が血まみれで駆け込んだ。
「父上! 李淵が晋陽で挙兵! 既に霍邑を落としました!」
宇文化及は杯を砕いた。
「ならば急げ! 『屍解軍』を動員せよ!」
龍舟最深部の檻の中では、楊林が鎖に繋がれていた。宇文化及が嘲笑しながら近づく。
「大隋の柱石もこれまでか」
「小僧め…」
楊林が血まみれの歯を見せて笑った。
「真の柱は既に動きおったぞ」
その言葉が気になりつつも、宇文化及は毒薬の小瓶を手にした。しかし彼は知らなかっ羅松が楊林に密かに渡した「百毒丹」が、あらゆる毒を無力化することを。
北平王府の最深部、迷路のような廻廊の先にある隠し庭園。羅鉄の手配で密かに移送された一人の老将が、胡床に坐って木片を削っていた。世に「死んだ」とされる隋の忠臣伍建章である。
「…伍兄」
羅芸が漆器の薬碗を携えて静かに近づく。老将の左足には鉄枷の跡がくっきりと刻まれていた。
「ようやく、お待ちかねの報せが届いた」
木彫りの小刀を握る伍建章の手が止まった。白髪の間から覗く目だけが鋭く光る。
「羅鉄からの飛鴿伝書によれば…」
羅芸が声を潜めた。
「雲召と天錫、無事に穿天寨に辿り着き、松の配下として力を磨いている」
「…ふむ」
伍建章は深い息をついた。
「あの者たち…伯父は生きていると知らぬまま、仇を討たんと必死であろうな」
「然り」
羅芸は重々しく頷く。
「松が真実を語る日まで、復讐の炎は彼らを支える糧となる」
月光が老将の彫る木片を照らした。荒削りの材から、翼を広げる鳳凰の形が浮かび上がっていた。
「羅松という若者…」
伍建章の声に力が戻る。
「彼こそが宇文家の闇を断つ剣となろう」
「ではこの老骨も…」
手にした小刀が鋭く閃いた。
「最後の力を振り絞るとしよう」
鳳凰の目に赤い瑪瑙が嵌め込まれ、炎のように輝いた。遠くで響く雷鳴が、乱世の嵐の訪れを告げている。
伍建章が木彫りの鳳凰に瑪瑙を嵌めた瞬間、庭園の池が突然渦を巻いた。水中から現れたのは、全身を黒装束に包んだ三人の男、羅松が送った「水鬼隊」だった。
「忠孝王殿」
隊長が跪いて巻物を捧げる。
「羅松様より」
開かれた巻物には、複雑な水路図と共に驚くべき計画が記されていた。
《揚州龍舟水門突破作戦》
《貴殿の指揮による屍解軍制圧》
「…ふむ」
伍建章の目が初めて輝いた。
「ならばこの老いぼれも、最後の花火を散らすとしよう」
彼が懐から取り出したのは、わずか三寸の銅鑼だった。それを三度鳴らすと、庭園の各所から人影が現れ始めた。全員、伍建章の旧臣で、死を偽って潜伏していた者たちだ。
「見よ羅芸よ」
伍建章が笑った。
「わしが育てた『墓中の虎』を!」
羅芸が差し出したのは、伍家伝来の「九環象鼻刀」。その重さに伍建章は膝を崩しかけたが、老兵が支えた。
「どうか一つ」
羅芸が深々と頭を下げた。
「松を…わが愚息を助け給え」
その夜、北平から十羽の伝書鳩が飛び立った。脚筒には全て同じ文が
鳳凰飛翔ノ時定マリタリ
遠雷が天地を揺るがし、嵐の前の不気味な静寂が訪れた。乱世の最終決戦の幕が、今上がろうとしていた。




