表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
隋唐演異  作者: 八月河
1/10

二つの魂、乱世の岐路に立つ

僕はただの高校生だったのに、今は隋末の槍の達人羅松だ。


祖父の教えは「家族の誇りを守れ」だった。


だが、僕の心にはもう一つの声が響く


「乱世の英雄たちを、救えるのはお前だけだ」と。


「おい。また『隋唐演義』読んでるのかよ? お前ってマジで歴史オタクだな」


クラスメイトの田中が、図書室の机を軽く叩きながら、からかうような口調で言った。その声に、隋唐の乱世に没入していた僕の意識が、急に現代の教室へと引き戻された。僕は顔を上げ、埃っぽい空気と夕暮れに染まる窓の向こうを見た。


「…ああ。ちょうど、羅松のところなんだ」


「ははっ! やっぱりな! お前、羅松にドハマリしすぎだろ? こんだけ読んでりゃ、そりゃあ『羅松』って呼ばれるわな!」


田中は大きく笑い、僕の肩をポンと叩いた。


僕は苦笑を浮かべ、手にした文庫本の表紙を閉じた。そこには躍動感あふれる武将たちの絵が描かれている。


「だから、羅松じゃねぇよ」


口ではそう返すものの、心の奥底では、その呼び名に奇妙な親近感が湧いていた。


(羅松…天下無双の槍…あの豪快な生き様。僕みたいな、勉強もスポーツも中途半端で、休日はベッドでスマホをいじってるだけの、どこにでもいる高校生とは、まるで違う世界の人間だ…)


憧れと劣等感が入り混じった複雑な想いが胸をよぎる。


「まあいいや。オレは先に帰るぜ。また明日な、羅松!」


田中は悪戯っぽくウインクして、図書室を出ていった。僕は再び開いた本のページを、しかし全く目に入らず、ただぼんやりと虚空を見つめていた。


(羅松…あの時代を、自分の目で見てみたい。あの豪傑たちと、本当に会ってみたい…そんなこと、叶うわけないのに)


帰り道、ふと目に入ったのは、通い慣れた商店街の片隅にひっそりと佇む古本屋「蓬莱堂」だった。普段は素通りする店だが、今日は何故か足が向いた。店内は薄暗く、古紙と埃の混ざった独特の匂いが鼻をつく。棚にぎっしりと詰まった古書の背表紙を無造作に眺めていると、奥まった隅の一段、埃をかぶってひときわ分厚く、装丁が異様に古びた一冊が目に飛び込んできた。


「…ん?」


手を伸ばし、慎重にそれを引き抜く。ずっしりとした重み。表紙は分厚い紙のような、でも皮のような、よくわからない素材で、そこには一匹の龍が墨と何か光る顔料で力強く描かれている。奇妙なことに、僕の指が触れた瞬間、その龍の目が一瞬、かすかに七色の光を放ったような気がした。(気のせいか…?)しかし、手のひらに収まったその感触は、妙に馴染む。まるでずっと持っていた自分の物のような、そんな錯覚さえ覚えた。表題は、見慣れたはずの『隋唐演義』。でも、字体も装丁も、図書室の文庫本とは全く異なる、古めかしいものだった。


「…へぇ。こんなバージョンもあるんだなあ」


店主の爺さんに尋ねても、首をかしげるばかり。


「そんな本、入れた覚えはねぇなあ、若いの」


値段もついていない。それでも、この本から放たれる得体の知れない引力に抗えず、お金を置いて店を出た。


(なんだか、運命的なものを感じる…)


自宅の自室。熱いシャワーで現代の埃を流し、ベッドに横たわる。好奇心に駆られ、埃を払ってその古びた『隋唐演義』を開いた。最初のページそこに記されたのは、羅松の祖父、姜行譚の槍術の極意を記したとされる、どこにも載っていない秘伝の章だった。


「…姜家槍の奥義…心をくうにし、気を練り…」


その一行を目にした刹那、ページから眩いばかりの七色の光が爆発的に溢れ出し、僕の視界を、意識を、全てを飲み込んでいった――。


「…ぐっ…」


硬く冷たい感触が背中に伝わる。目を開けると、見知らぬ、低い土壁で囲まれた天井が広がっていた。鼻を突くのは、乾いた土と藁、それにどこからか漂ってくる家畜の匂い。遠くで、鶏のけたたましい鳴き声が聞こえる。


(ここは…どこだ? 夢? あまりにリアルすぎる…)


体を起こそうとすると、全身に重い疲労感が走る。自分の手を見る。大きく、節くれだった、確かに力強いが、明らかに高校生のものではない。


「…目が覚めたか、松よ」


低く、しかし芯の通った老人の声が、すぐ横から響いた。振り向くと、粗末な布団の上に坐禅を組むように座った、痩躯ながらも眼光鋭い老人が、深く刻まれた皺の間から、静かにこちらを見つめている。その姿は、さっきまで読んでいた『隋唐演義』に描かれていた、羅松の母方の祖父にして、伝説的な槍の達人、姜行譚そのものだった。


「…っ! あ、あなたは…姜行譚様…?」


思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。まるで知っているかのように。


老人、姜行譚は微かに、しかし確かに頷いた。


「ふむ。どうやら今日は、少しばかり正気が戻ったようだな。よきことよ」


その口調は淡々としているが、深い眼差しの奥には、孫の異変を案じる気遣いが垣間見えた。


「松よ。床にばかり臥せっていても始まらん。外の空気を吸うがよい。少しばかり、庭で手合わせをしよう」


(羅松…僕は、本当に羅松になってしまったのか? この感覚…動く体…流れ込んでくる記憶の断片…これは夢じゃない!)


混乱と恐怖が渦巻くが、同時に、この老人の威厳と、どこか温かい眼差しに、奇妙な安心感も覚えた。


それからの日々は、驚きと戸惑いの連続だった。瞬時に情報が得られるスマートフォンも、没入できるゲームもない。娯楽と言えば、朝から日が暮れるまで、粗末な庭で祖父姜行譚から授けられる木製の長槍を振るうことだけ。最初はその単調さと肉体的な苦痛に挫けそうになった。


「腰を据えよ! 足の踏み込みが甘い! 槍は生き物だ! 己の延長として感じろ、羅松!」


姜行譚の叱咤は厳しかった。しかし、不思議だった。この「羅松」の身体は、僕が持っていた運動神経とは比べ物にならない潜在能力を秘めていた。祖父の示す複雑な型や、気の流れを重視した独特の呼吸法を、一度見聞きすれば、まるで何度も繰り返してきたかのように身体が覚え、再現していくのだ。重い木槍が次第に軽く感じられ、突けば風を切り、払えば土煙を上げる。


(この力…この感覚…信じられない。僕の中に、本当に羅松の力が眠っていたのか?)


前世では味わったことのない、肉体の躍動感と、技が研ぎ澄まれていく実感が、戸惑いを次第に喜びへと変えていった。


祖父姜行譚は、天下を取れとか、英雄になれとか、そういう大仰なことは一度も言わなかった。


「姜家の槍は、己を守り、守るべき者を守るためにある。天下などという大それたものは、槍の道を極めた者の行く末、自然に見えてくるものだ」


ある夕暮れ、汗を拭いながら語ったその言葉は静かでありながら、重く胸に響いた。彼の眼差しはいつも、天下への野望ではなく、ただひたすらに孫の成長と、姜家の槍術という「家の誇り」が次の世代に確かに受け継がれていくことを、静かに喜んでいるように見えた。


(この人にとって、僕は何でもない。紛れもなく、愛する孫の羅松なんだ…)


その思いが、僕をして祖父の教えに忠実に、必死に従わせた。日々、槍を握り、型を繰り返す。この乱世を生き抜くための力として、そして、この祖父の期待に応えるために。


羅松としての生活にも、少しずつ心と身体が順応し始めた。この時代の全てが、教科書の活字や博物館のガラスケースの向こうの存在ではなく、僕の五感に直接飛び込んでくる「現実」だった。


母姜氏が丹念に磨く素朴な陶器の碗の質感、晴れの日に着る一枚の絹の着物が肌に触れる滑らかさ、そして、たまに連れて行かれる近隣の小さな町の活気。土埃の舞う道を行き交う牛車の軋の音、露天で掛け合う商人たちの威勢のいい声、鍛冶屋から聞こえる規則正しい金槌の響き…。全てが新鮮で、驚きに満ちていた。


中でも僕を強く惹きつけたのは、その町の一角にある庶民向けの食堂だった。簡素な長机と腰掛けが並ぶ店内から漂ってくる、煮込み料理や蒸した穀物の、素朴ながらも食欲をそそる香り。


(あの匂い…どんな味なんだろう? 教科書には『質素』って書いてあるけど…)


前世の高校生として蓄えた、多種多様な料理の知識と味覚の記憶が、この時代の食材と出会った時、ある衝動が湧き上がった。


ある日、夕餉の準備をする母・姜氏の横で、僕は勇気を出して口を開いた。


「…母上。今日は、俺が何か作ってみても…よろしいでしょうか?」


母は手を止め、驚いたように眉を上げた。


「…松よ? お前が…料理を?」


その表情は、槍を振るう姿を見慣れた息子が、突然包丁を持つと言い出したような、戸惑いに満ちていた。


「ええ、少し…興味が湧きまして」


僕は照れくさそうに言った。


「何か…珍しい野菜とか、手に入りましたか? 肉類でも…」


母は怪訝そうな表情を浮かべながらも、息子の珍しい「やる気」を無下にはできなかったようだ。


「…ふうむ。ならば…」


そう言って、台所の隅にある籠から、この時期採れたばかりの新鮮な根菜数種と、ごく少量の羊肉の塊を取り出してくれた。


「これで、何かできるかの?」


「はい! 任せてください!」


(よし! これで何か作れる!)


僕は前世の記憶を必死に辿った。限られた調味料(塩、醤、少しの酢、薬味になる野草)と、手に入る食材で、何ができるか? 母が見守る中、包丁(といっても、よく切れるとは言い難い代物)で野菜を荒めに切り、羊肉を小さくそぐ。深鍋に水を張り、肉と野菜を投入。アクを取りながらじっくり煮込む。香り付けに刻んだ野草を加え、最後に塩で味を調える…。出来上がったのは、見た目は質素な羊肉と野菜の煮込みだが、煮込むことで出た肉と野菜の旨味が絡み合い、深い味わいとなった。別に練った小麦粉の生地を薄く延ばし、熱した石窯のような竈の側面に貼り付けて焼き、簡素な「パン」も添えた。


「…これが…松の作ったものか…」


母姜氏は、出来上がった品々を前に、真剣な面持ちで湯気の立つ汁を一口すくった。その瞬間、彼女の目がわずかに見開かれた。


「…ふむ…」


(まずかったか? やっぱり無理だったか? この時代の味覚に合わなかったか?)


僕の胸は不安でいっぱいになった。


次の瞬間、母の口元がほんのりと緩んだ。


「…風味が深い。羊肉の臭みも巧みに消しておる…」


続けて焼いたパンに手を伸ばし、ちぎって煮込み汁に浸し、口に運ぶ。


「…この…ふわっとしたものも、汁とよく合う…松よ、これは…なかなかのものだ」


隣で祖父姜行譚も、黙々と汁を啜り、焼きパンを齧っていた。彼は無言だったが、普段より明らかに早い箸さばきと、最後に深く頷いた一動作が、その評価を雄弁に物語っていた。


(…美味しいって、言ってくれてる…!)


ほっとした安堵と、小さな達成感が胸に広がった。この異世界で初めて、天野陽介の知識と、羅松の身体と環境が融合して生み出した、自分だけの「何か」が認められた瞬間だった。母が「お代わり」と鍋を覗き込む仕草に、僕は思わず笑みがこぼれた。この慎ましい食卓での、温かな時間。それは乱世の予感が漂うこの時代にあって、かけがえのない小さな喜びとなった。


しかし、その平穏な日常は、残酷なまでに突然、終わりを告げた。


季節は深まり、姜行譚の咳は次第に激しさを増し、痩せ細っていく身体に、かつての槍術の達人の面影は薄れていった。ある寒気の厳しい朝、僕がいつものように模擬槍を持って庭に出ようとすると、母・姜氏が祖父の部屋から出てきて、顔を上げた。その目は真っ赤に腫れていた。


「…松…」 母の声は震えていた。「…お祖父様が…お呼びで…」


背筋に冷たいものが走った。僕は急いで部屋へ駆け込んだ。粗末な布団の上で、姜行譚は微かに息をしているだけだった。かつて鋭く僕の未熟な槍さばきを見据えた眼は、今はかすんでおり、僕の姿をようやく捉えると、かすかに動いた。


「…羅松…よ…」


僕はすぐにその枕元に跪いた。


「祖父様…! 孫です、松です!」


姜行譚は苦しそうに息を吸い、かすれた声で、しかし一つ一つの言葉に力を込めて言った。「…お前は…姜家の…誇りじゃ…」 激しい咳き込みが彼を襲う。僕は無意識に祖父の骨ばった手を握った。その手は冷たかった。


「…わしは…もう…先は…短い…」


咳が収まると、彼は再び僕を見つめ、その深い眼差しは、まるで僕の魂の奥底まで見透かすようだった。


「…槍の道…極めたか…は…問わぬ…」 また咳。「…ただ…姜家の…名に…恥じぬ…生き方を…せよ…」


それが、伝説の槍術家、姜行譚の最期の言葉だった。彼の手から力が抜け、深い皺に刻まれた顔は、安らぎと深い満足感に包まれているように見えた。その顔には、天下を狙う野心や、乱世での栄達への執着は微塵もなかった。ただただ、孫である羅松が、姜家の者として、誇り高く、まっすぐに生きていくことへの、深い願いと信頼だけが満ちていた。


(祖父様…! 最後まで…僕に…姜家の誇りを…)


握りしめた祖父の冷たくなっていく手から、その静かでありながら圧倒的な重みが、僕の腕を通じて全身に染み渡った。涙が止まらなかった。悲しみと、羅松としての喪失感が入り混じり、胸が張り裂けそうだった。


質素な葬儀を終え、祖父が眠る小さな墓の前に立つ。吹き抜ける冷たい風が、頬の涙の跡を刺す。母姜氏は、僕の傍らで、声を殺して泣いていた。祖父という大きな柱を失った家屋は、急に風通しが良くなったように、不安定で空虚に感じられた。


(これから…どうする? このまま母と二人、この田舎で細々と暮らすのか? それとも…)


祖父の遺言が耳朶に焼き付いている。『姜家の名に恥じぬ生き方をせよ』。そして、僕の心の奥底には、もう一つの知識、もう一つの想いがあった。北平にいる、父羅芸の存在だ。母からは「武芸に優れ、北平では名の知れた豪傑」と聞かされていたが、僕羅松が彼に会った記憶はなかった。母は、何か複雑な事情があるようにも思えた。


墓前で、僕は決意を固めた。母の方を向き、できるだけ落ち着いた声で言った。


「…母上。この家と田畑を売り払いましょう」


母は泣き腫らした目を大きく見開いた。


「…松…?」


「そして、二人で北平へ行くのです」 僕は言葉を続けた。


「父上…羅芸の元で、慎ましく暮らすために」


それは、祖父が望んだであろう平穏な道だった。母と共に父の庇護のもと、市井の一員として、ひっそりと生きていく。槍は護身のためだけに使い、乱世の波に巻き込まれることはない。祖父の遺志に沿い、姜家の誇りを守る、一つの形だ。


母・姜氏はしばらく沈黙した。風が彼女の白髪交じりの髪を揺らした。やがて、彼女は深く、深く頷いた。その目には、喪失の悲しみと共に、どこか諦めにも似た安堵の色が浮かんでいた。


「…そう…するがよい…松…お前の言う通りに…」


彼女の声はかすれていたが、決意に満ちていた。


家財道具の整理、わずかな田畑と住居の手配…北平への長い旅路の準備が始まった。母は黙々と働いた。しかし、僕・羅松の心の中では、嵐が渦巻いていた。


目の前の母と、祖父が託した「姜家の誇り」を守り、平穏に生きる道。それは確かに祖父の望みであり、この時代の羅松という若者にとって、賢明な選択だったかもしれない。


だが、僕の脳裏には、『隋唐演義』のページが鮮明に蘇る。これから始まる、血で血を洗う大乱世。隋の崩壊、群雄割拠、唐の台頭…。そして、その激流の中で散っていく数多の英雄たちの姿――李元霸、宇文成都、裴元慶…彼らの豪快でありながらも、多くが儚くも悲劇的な最期を遂げる運命。史実として、物語として知っている僕は、ただ北平の片隅で、その報せを聞き流していればいいのだろうか?


(僕は…知っている。この先、誰が死に、どこの戦いで何が起きるかを…)


胸の内で、二つの声が激しくぶつかり合う。


一つは、羅松としての声だ。


(祖父様の言う通りだ。誇り高く、家族を守って生きる。それが姜家の槍の道だ。乱世に飛び込むのは、祖父様の教えに背くことではないか? 母上を危険に晒すことになる!)


しかし、もう一つの声が、それに強く抗う。


(違う! 知っているんだ! ここで何もしなければ、あの魅力的な英雄たちは、無念の死を迎える! 力があるなら…この槍があるなら…救える命があるんじゃないか? 歴史は変えられるかもしれない! それが僕に与えられた、この異世界での役目なんじゃないか?)


北平への道すがら、僕は黙って荷車を引いた。母は疲れてうとうとしている。僕の視線は、遠く霞む北平の城壁に向けられていたが、心は激しい葛藤に揺さぶられていた。祖父が遺した木製の模擬槍が、荷車の上で微かに軋んでいる音が聞こえた。


(北平…父羅芸…そこで、僕は何を選ぶ? 平穏な生活か? それとも…乱世への飛び込みか?)


道端に咲く名もない野の花が、冷たい風に吹かれながらも、ひたむきに小さな花を咲かせていた。その姿が、この時代を懸命に生きる人々の、そして今まさに決断を迫られる自分自身の姿と重なって見えた。二つの魂、二つの想いが、僕の胸の中で激しくせめぎ合い、北平という巨大な運命の門が、刻一刻と近づいてくるのを感じていた。


冷たい風が、枯れ草の匂いと共に鼻を刺す。荷車の車輪が轍に嵌まり、ガタンと鈍い音を立てて揺れた。母・姜氏は疲れた体を荷物の上に寄せ、うつらうつらとしている。その横顔には、深い悲しみと、それに抗うかのような決意の硬さが刻まれていた。祖父・姜行譚の死から数日。家とわずかな田畑は、思いのほか早く、近隣の顔なじみの農家に引き取られた。代わりに手にしたのは、旅の糧となるわずかな粟と乾き肉、幾らかの銅銭、そして何よりも重い、祖父の形見である木製の模擬槍だ。その槍は、今、粗末な布に包まれ、荷車の上で僕の背中に微かに触れている。まるで祖父の存在を、その重みで絶えず思い出させるかのように。


(北平…父・羅芸…)


その名を心の中で反芻するたび、複雑な感情が渦巻く。母の断片的な話によれば、父羅芸は武芸に秀で、北平では名の知れた豪傑だという。しかし、なぜ僕・羅松が幼い頃から母方の祖父である姜行譚のもとで育ったのか、その理由は曖昧なままだ。母が口を濁す様子から、何か複雑な事情があったことは明らかだった。


(単なる武芸の修行のため? それとも…姜家と羅家の間に、越えられない溝があったのか?)


北平での生活が「慎ましく」なるというのも、この父という存在への一抹の不安と期待が入り混じった、言わば方便に過ぎなかった。


荷車を引く僕の手のひらには、この数ヶ月でできた分厚いマメと、槍を握り続けたために指の関節が太くなった感触がしっかりと刻まれている。天野陽介の頃の、スマホを操作する柔らかい指先は、もう遠い記憶だ。この手は、木製とはいえ重い槍を自在に操り、風を切り、時に祖父さえも唸らせるほどの突きを繰り出すことができる。その力の感覚は、この異世界での唯一無二の確かな拠り所だった。


祖父の死後、家の片付けは、思いのほか静かに、そして速やかに進んだ。母姜氏は、涙をぬぐいながらも、驚くほど実務的に動いた。彼女は、一つ一つ祖父の遺品に触れ、ため息をつきながらも、必要なものとそうでないものを峻別していく。


「松よ…」


母が手にしたのは、祖父が大切にしていた、槍の手入れに使う小さな砥石だった。


「これは…お祖父様が、お前の初めての木槍を作った時に、一緒に買い求めたものよ…」


その砥石は、使い込まれて中央がくぼみ、表面は祖父の指紋で滑らかになっていた。母はそれを僕の手にそっと置いた。


「…持っていきなさい。お祖父様の…思い出に」


(祖父様…あの厳しくも温かい手で、何度もこの石で槍先を研いだのだろう…)


砥石の冷たさと、そこに染み込んだ祖父の手垢の感触が、胸の奥を締め付けた。僕は無言でうなずき、砥石を懐にしまった。この小さな物体が、祖父の存在の重みを、より一層リアルに感じさせた。


家財道具の大半は、近所の人々に分け与えたり、わずかな金銭と引き換えにした。祖父が使っていた立派な長椅子は、村の集会所に寄贈された。最後に家の鍵を閉める時、母はしばらく玄関の土間に立ったまま、じっと見つめていた。そこには祖父がいつも坐り、槍の柄を手入れしていた場所があった。埃一つないその場所が、今は虚ろに僕たちを見上げているようだった。


「…さあ、行くよ、松」


母は深く息を吸い、背筋を伸ばした。その目には、悲しみの奥に、新しい地へ向かう決意の光が宿っていた。


北平への道は、平坦ではなく、時に険しい山道もあった。舗装された道路などなく、轍が無数に刻まれた土の道は、雨が降ればぬかるみ、乾けば砂埃が舞い上がる。荷車の車輪はよく轍に嵌まり、引き抜くのに骨が折れた。僕羅松の身体は鍛えられていたが、荷車を引きながらの長旅は、また別の筋肉を酷使する。肩の紐が食い込み、背中と腰に鈍い痛みが走る。


(現代の楽な旅路なんて、夢のまた夢だ…)


この身体の疲労と不便さをより強く意識させる。


道中では、様々な風景と人々に出会った。広大な麦畑が風にそよぎ、黄金の波が揺れるかと思えば、次の日には荒れ果てた廃村を通り過ぎることもあった。廃村の空き家は、屋根が崩れ、蔦に覆われ、不気味な静寂に包まれている。


(戦乱の兆しか? それとも飢饉? 隋末の動乱は、確実にこの土地の片隅にも影を落とし始めている…)


教科書の一行ではわからない、乱世の前触れの生々しさが皮膚に伝わってくる。


小さな宿場町に差し掛かった時には、異様なほどの人混みと喧騒に圧倒された。商人、旅人、役人、乞食…様々な身分の人間が入り乱れ、生き生きとした、しかしどこか荒々しいエネルギーが渦巻いていた。露天には、見たこともない乾物や、生臭い獣肉、色とりどりの布地が並ぶ。呼び込みの声、値段の掛け合い、時には言い争いの怒号が飛び交う。


(まるで生きている歴史絵巻の中にいるようだ…)


好奇心がむくむくと頭をもたげる。


ふと、路地裏から漂ってくる強烈な臭いに顔をしかめた。


(下水? それとも腐ったもの?)


衛生観念の違いが、嗅覚を直撃する。同時に、焼きたての胡麻餅のような、素朴ながらも食欲をそそる香りも混じってくる。胃がぐうと鳴った。


(あの食堂の…あの味をもう一度…)


しかし、旅の貴重な食料を無駄にはできない。母も疲れている。僕は唾を飲み込み、香りの源を後にする。


夜、野宿する時が最もつらかった。焚き火を囲み、硬い乾き肉を噛みしめながら、母が眠りにつくと、静寂が訪れる。その静けさの中で、頭の中の二つの声がこれでもかと響き渡る。


(祖父様の言葉を思い出せ…『姜家の名に恥じぬ生き方をせよ』。それは何よりも、守るべき者を守ることだ。母上を北平に無事に送り届け、父の庇護のもと、平穏に暮らすことこそが、祖父様の望みに応える道だ。乱世の英雄ごときのために、母上の命を危険に晒すわけにはいかない。知っているからこそ、巻き込まれてはならない。この槍は、あくまで家族を守るためのものだ。天下など、どうでもいい。姜行譚の孫として、私は…)


この想いが強くなると、懐の中の砥石の感触がより一層強く意識される。祖父の厳しいが慈愛に満ちた眼差しが瞼の裏に浮かぶ。荷車の上にある模擬槍の存在感が重くのしかかる。守るべきものの重さだ。


(違う! 知っているんだ! このまま北平で隠れていても、歴史の悲劇は変わらない! 李元霸は天に雷を恨みながら死に、宇文成都は無念の最期を遂げ、裴元慶は…知っているからこそ、見過ごせるはずがない! この力は何のためだ? 祖父が鍛えたこの槍の技は、ただ家族を守るだけのためだけか? それでは…あまりにもったいない! もしかしたら…ほんの少しの力、ほんの一言の警告で、運命を変えられるかもしれない! 歴史の傍観者でいる資格が、僕にはあるのか? 与えられたこの立場と知識と力は、何かをなすためにあるはずだ!)


この想いが高ぶると、胸の内が熱くなる。『隋唐演義』のページが脳裏を鮮明によみがえる。英雄たちの豪快な笑い声、激闘の描写、そして無念の叫び…。特に裴元慶の悲劇的な最期のシーンが、強烈に焼き付いている。


(あの若き豪傑を…救えないのか?)


拳を握りしめると、爪が掌に食い込む痛みを感じる。変えられるかもしれない歴史への焦燥と、英雄たちへの強い共感が、静かな生活への誘いを拒絶する。


旅も終盤に差し掛かり、ようやく北平の巨大な城壁が、地平線の彼方に霞んで見え始めた。それは、土色の巨大な塊のようにそびえ立ち、威圧感すら感じさせる。城門には、細長く人の列ができているのが遠目にもわかる。兵士の姿もチラホラ見える。


(あれが…父のいる街…あれが、僕の運命が決まる場所…)


その光景を見た瞬間、胸の中で激しくせめぎ合っていた二つの声が、突然、鋭い緊張感に変わる。これまで「もしも…」の領域だった選択が、今や現実のものとして、目前に迫ってきたのだ。


荷車を引く手に、思わず力が入る。木の柄が軋んで、微かに呻く。母姜氏が、はっとしたように目を覚ました。


「…松? あれが…北平…?」


「…はい、母上。もうすぐです」 僕の声は、平静を装おうとしたが、どこか硬さが滲んでいた。


母は、遠くの城壁をじっと見つめ、深いため息をついた。そのため息には、長旅の疲労と、未知の地への不安、そして何よりも、これから会う夫羅芸への複雑な想いが込められているように感じられた。


(母上は、どんな思いで父の元へ向かっているのだろう…)


僕の視線は城壁から離れず、心臓が高鳴るのを抑えきれなかった。


(あの中に入ったら…もう後戻りはできない。平穏な生活を選ぶのか? それとも…乱世の渦中へ、自ら飛び込むのか?)


祖父・姜行譚の最期の言葉が、脳裏で再び響く。


『姜家の…名に…恥じぬ…生き方を…せよ』


その「誇り」とは何か? 田舎でひっそりと槍を守り続けることか? それとも、その槍と力で、知りえた悲劇を防ぎ、この乱世に姜家の義を示すことか?


(祖父様…あなたが僕の立場なら…どうされたでしょう…?)


答えは出ない。出せるはずもない。


道端に一輪、寒さに震えながらも凛と咲く小さな白い花を見つけた。風に吹かれても、しっかりと根を張り、精一杯の花を咲かせている。


(この時代の人々も…僕も…懸命に生きるしかないのだ。その生き方の形を…決める時が来た。)


僕は、荷車の上の布に包まれた模擬槍に、そっと手を伸ばした。布越しに伝わる木の感触が、奇妙な安心感を与えた。


(この槍こそが…羅松であり、僕の、唯一の拠り所だ。)


北平の巨大な城門が、刻一刻と大きく、そして重く迫ってくる。門をくぐるその瞬間に、僕は決断を下さねばならない。二つの魂を抱えた一つの身体が、乱世という巨大な歴史の奔流に、自らの意志で足を踏み入れるのか、それとも岸辺で静かに見守るのか。その選択の重圧が、肩にのしかかり、呼吸さえも浅くなっていくのを感じた。足取りは重いが、止まることはできない。運命の門は、もうすぐ目の前だ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ