犬追い
おお、旦那。今日はどんな御用ですかな?
あ?ああ…
さうですか、さうですか、遊興がしたいと、さう言ふことですか。ならば、良ひ処が御座えますが。
え?なんです?
いへいへ、私と旦那の間柄じゃ御座えませんか。お駄賃なぞ全く要りませんよ。
ええ、しかしまあ、私のやうな人間にさういったことを頼むとは、旦那も然程に物好きなもので御座えますなあ。私なんてのは、世の中から見れば相当に溢れた乞食のやうな人間で御座いますから、旦那のやうな貴い人間には面白ひ事の何にも教へることはできませぬが…
へえへえ。例へば芸妓なんぞを呼んでお座敷で遊ばるとか、湖に小舟なんぞを浮かべて游ばるとか…
そんなことが、したひんじゃないんですか?まあ、さふでせうなあ…私のやうな人に訊くんですから…
と、なりますと、やはり博奕でせふなあ。丁半、歌留多、花札…といふのは少し古すぎますな。西欧から来たものの方が、旦那には馴染みがありませうや。ポーカー、ルーレット、あとはスポーツの勝ち負けに賭けるスポーツ賭博…とまで行くと、お縄がかかりさうですが。そもそも、本邦では博奕自体が御法度ですからなあ。うう、寒ひ寒ひ。
さうで御座ひませう?こんなに、がんじがらめに縛られると、心が寒うなるもので御座ひますよ。
おや?旦那のやうなお人が、そんなことを仰られるとは…私も意外で御座ひましたが、さうですか、さうですか。もっと佳い遊びが良う御座ひますか…
ううむ。しかしまあ、裏でやるやうな博奕よりも佳いことで御座ひますか。となりますと…やはり、あちらで御座ひますかな?さう云へば、旦那は確か…ああ、さうで御座いましたな。仕事が忙しくて、妻子を設けることもできませなんだな。この歳まで…あ、いや、そこまで言ふと、旦那さまの名誉が傷付きますな。私も、その姿はやう見ておりましたが、御労しい限りで御座えます…
とにかく、旦那はさういったことを望んでいると、それで宜しいんで御座えますな?ふむ…まあ、思い当たらぬことも無えことは無えですが、それだったら、市井にもありますでせう?そこでなら、何の臆面も無しに…
へ?それでは、足りんのですか?はあ、旦那はそこまで…あ、いや、あまり胸ン内も探るもんでは御座えませんな。失礼いたしやした。
まアしかし、どんなものを望むかにも依りますな。人にも様々あるでせう?
ふむ?…ほう…
さうですか。それならば、佳い処が御座えますが、人に聞かれればお縄ですから、耳を此方にお寄せなすってくだせえ。
ええ、それ程の処ですから…
ええ…まずは、○○県の○○町に在る、○○軒といふ拉麺屋に往かれなされ。そこは、女将さんが一人で切り盛りしているやうな有様でありますから、他の客の仕草もよく見といた方が好いですよ。
ええ、ええ、さうしましたら、食券を使って、「葱拉麺の麵小盛り、味玉と支那竹トッピング、葱の少な目」を買われませ。そしたら、女将が食券を取りに来ますな。普通なら、一回請われたら渡すものですが、此度の目的で往かれるのなら、暫く黙を決められませ。
ええ、さうです。直に出してはなりませんよ。女将は「お客さん、食券は有りますか?」と、訊いて来ませふ。それでも、旦那は黙って居れば良いのです。さうすれば、女将は何度目かに「アンタ、冷やかすなら出ていきな!」と言ふはずです。
ええ、何度目かに。何度、とは決まっておりませんから、旦那はさう言われるまで根気強く座っていれば良いのです。人に依っては十何度と訊かれてから言われるさうですから、その気で居るのが良いかと。まあ、十何度と訊かれても耐えた御人が居たといふことで御座えますから、人といふのは…あ、いやいや、私みたいな卑人がいふのも、いけませんな。はは。
あ?ああ、さうで御座えますな。先を申しませう。まあ、焦っては聞き漏らしますから、落ち着いて聞かれませ。先も申しましたやうに、女将が此方を叱りつけてきましたら、やっと、食券を出されませ。其処で女将が「迷惑はこれっきりだからね」と言ったら、ひと先ずは認められたといふことで御座えますから、旦那はこう言ふのです。「犬追ひがしたい」と…さう言ふのです。
ええ、だから、さうで御座いますなあ。他人に怪しまれたくないのなら、犬の一匹や二匹、連れていくべきでせうなあ。聞く話に依れば、犬を連れて行ったほうが女将から認められやすいんださうで…
へ?ああ、さうで御座いますよ。あちらさんも、やることがやることですから、人を見ているんでせうや。商売道具を傷付けそうな輩は、近付けたくはないでせうからなあ…
ええ。さういふもんで御座えます。あちらも人で御座えますから…
それで?ああ、ええ、さうですな。さうしましたら、出された拉麺は麵を少しばかり残してそれ以外は全て食べられませ。
さうです、汁もです。さうして、女将がそれを確認したら、エプロンを外して裏手から外に出るはずで御座えますから、旦那もそれに従って表の入り口から外に出て、店の裏の方に向かわれませ。女将は此方が来たのを見れば、一目散に山の林の中に行くはずです。何も言いませんから、その背中を只管に追ふんです。さうしたら、次第に小さな山小屋に着くはずですから、そのまま帰っていく女将に謝礼を渡して、そのお返しに鍵を貰ったら山小屋の中に入れますな。
へ?ああ、謝礼は幾らが良いか、で御座えますな…いや、ここまで来れば、もう認められたも同然で御座いますから、幾らでも良いようですな。少なくとも、私はその謝礼が少なかったから不利益を被ったといふ話は聞いたことが御座えませんで…いや、若しかしたら、さういった人は口封じでもされているかもしれませんがねえ、へへっ…
ああ…人の不幸で笑っちゃあ、いけませんなあ。まあ兎角、私が思ふには丸を一つ付けるくらいは用意した方が良いのでせうと、さう思ひますな。
さうです、さうです。その通りの解釈で良いと思ひます。
あ?その後で御座えますか。まあ、それは旦那の好きにされるが宜しいでしょうや。女将の商売道具に傷を付けるやうなことさへせねば、もう、なんなりとされると良ひと思ひますよ?あ、それと、事の済んだ後は、必ず山小屋に鍵を掛けて、元の拉麺屋の裏口の植木鉢の下に隠しておくんですよ?そこも、抜かりが在っちゃなりませんからね、アレが逃げちゃあ、大変な騒ぎになりますから。絶対、鍵を掛け忘れたとか、出来心やら魔が差したやらで鍵を持って行ったとか、さういふ事をしたらいけませんよ?
ええ、勿論ですとも。必ず、取り返しに来ますよ。彼らは。なんせ、あの山小屋にいるのは…いや、これ以上は旦那を怖がらせますな。私からは申し上げません。そのあとは、何喰わない顔で帰られれば宜しいでせうや。ええ、ええ。もう、終わったことなのですから、もっともっと、と血眼になってはいけませんよ?
ええ、どうも、アレの味を知ってしまうと、他には戻れないと言ふ人も居るものですからな…旦那は、さうなってはなりませんよ?
旦那とは長い付き合いだから申し上げますがな。欲といふのは甘露とか、上質な酒のやうなもので御座えます。呑めば呑むほど、欲しくなる。私もさうで御座いました。このまんまでは溺れてしまう、と思った私は、今こうして与へる側へと回ったので御座えますよ…
ええ、ですから、呑みすぎはいけませんよ?体に毒になりますからね…
解った?ああ、それなら、私も本望で御座えます。ええ。金も用意して?犬も買いつけて?往かれるのですね?ええ、私の申したことを心に置いてくだされば、それほど嬉しいことは御座えませんで。私のせいで、身を滅ぼした御方も居りやしたからね…ええ、お気を付けて…
欲は沼、欲は酒、欲は雨、欲は海。嵌るな、呑まれるな、気まぐれにして甚だ広し…旦那には、さうなっては貰いたくありませんな…私が「犬追い」を教えたのも、もしかしたら悪いことをしたやもしれやせんが…
ああ、さうさう。そこで聞き耳立ててた貴方も、気を付けて下せえよ?