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霧雨に消えた旋律(後編)

あの謎めいたメモの切れ端——『月のない夜、森の奥で待つ』——を発見してから数日、捜査は思ったように進展しなかった。


「月のない夜」は周期的に訪れるが、直近でそれに該当する日は既に過ぎていた。


音楽院の裏手に広がる森も、警察と地元消防団によって捜索が行われたが、カノンさんの痕跡は見つからなかった。


「水上さん、何か分かりましたか?」


私の背後から、いつものように明るい声が飛んできた。


古城ひかりだ。


彼女はあれから毎日、甲斐甲斐しく私の身の回りの世話を焼いてくれたり、独自に情報を集めようとしたりしている。


その熱意は買うが、正直なところ、空回りしている感が否めない。


昨日などは、森の入口で近隣住民に聞き込みをしていたところ、逆に不審者と間違われ、警察に連絡されそうになったらしい。


「いや、まだだ。君こそ、あまり無茶をしないように」


「だって、心配なんですもん! カノンさんがいなくなって、音楽院の空気もなんだか重くて……私にできることなら何でもしたいんです!」


彼女の言葉に嘘はないのだろう。


しかし、その「何でもしたい」という気持ちが、時として事態をややこしくする。


そんなある日の午後、私は院長の古城キリエ氏に改めて話を聞いていた。


彼は憔悴しきった様子で、姪であるひかりが私の邪魔をしていないかと何度も詫びてきた。


「いえ、彼女なりにカノンさんのことを心配しているだけでしょう」


「あの子は、昔からああでして……思い込んだら一直線というか……」


古城氏の言葉に、ふと以前ひかりが話していたことが蘇った。


「カノンさんのピアノの音が、前と違って聴こえたんです。焦っているような、何かに追い詰められているような……」。


些細なことだと思っていたが、もしかしたら何か重要な意味が隠されているのかもしれない。


「古城さん、カノンさんのピアノの音について、何か心当たりは?」


「カノンのピアノ……ですか? 相変わらず素晴らしい演奏でしたよ。ただ……そういえば、あの子が失踪する一週間ほど前でしたか、夜中に練習室から聴こえてくるピアノの音が、いつもと少し違うように感じたことがありましたな。まるで、何かに必死に抗っているような……そんな激しさを感じました」



院長の言葉は、ひかりの証言と奇妙に一致していた。


何かがカノンさんを追い詰めていたのだろうか。


その夜、私は一人、カノンさんの部屋を再び訪れた。


あのメモの切れ端、そしてプラスチックのメトロノーム。


それらが何を意味するのか、じっと考えを巡らせる。


ひかりが言っていた「カノンさん愛用の古い木のメトロノーム」は、どこへ行ったのだろうか。


不意に、部屋の隅に置かれた楽譜棚が目に入った。


既に警察も調べているはずだが、もう一度確認してみる価値はあるかもしれない。


大量の楽譜に紛れて、一冊だけ場違いなほど古びたスケッチブックが挟まっているのを見つけた。


開いてみると、それはカノンさんの日記のようだった。


しかし、文字ではなく、五線譜の上に音符で日々の出来事や感情が綴られている。音楽の素養がない私には解読できない。


「そうだ、ひかりさんなら……」


私はスケッチブックを手に、ひかりの部屋へ向かった。彼女は驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情でスケッチブックを受け取った。


「これ、カノンさんの……日記?」


「音符で書かれているようだ。君なら読めるんじゃないか?」


ひかりは頷き、ピアノの前に座ると、スケッチブックの音符を一つ一つ丁寧に拾いながら鍵盤を叩き始めた。


最初は辿々しかったが、次第に滑らかな旋律が部屋に流れ出す。


それは、どこか悲しげで、切ないメロディだった。


しばらく弾き進めたひかりが、突然手を止めた。


「……これ……」


「何か分かったのか?」


「この曲……カノンさんが昔、私だけにこっそり弾いてくれた曲です。『ひかり』っていう題名で……私が落ち込んでいる時に、元気づけようとして作ってくれた……」


彼女の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。


「でも、この日記に書かれている『ひかり』は……音の並びが少し違うんです。もっと……苦しくて、悲しくて……まるで、助けを求めているみたい……」


そして、最後のページ。


そこには、たった一行だけ、震えるような音符でこう記されていた。


『——あの場所で、もう一度だけ——』


ひかりは息を呑んだ。


「あの場所……まさか……!」


「どこか心当たりがあるのか!?」


「はい! 音楽院の裏手にある、古い礼拝堂です! 子供の頃、カノンさんとよく二人で忍び込んで、ピアノを弾いたり、おしゃべりしたりした、私たちの秘密の場所だったんです!」


「なぜ今までそのことを!?」


「ご、ごめんなさい! まさかカノンさんがそんなところにいるなんて、思ってもみなくて……それに、あそこはもう何年も使われていなくて、少し荒れているから……」


彼女の言葉は、まさに「結果的に邪魔をしていた」典型だった。


しかし、今はそれを責めている場合ではない。


「月のない夜……森の奥……いや、違う。『月のない夜』のように真っ暗な礼拝堂の中で、森の木々に隠されるようにひっそりと佇むあの場所で、待っているという意味だったんだ!」


私たちは急いで礼拝堂へ向かった。埃っぽく、蜘蛛の巣が張った薄暗い堂内。


その奥に、一台の古いアップライトピアノが静かに置かれていた。


そして、そのピアノの前に、カノンさんはいた。


衰弱しきってはいたが、確かに生きていた。


彼女の傍らには、ひかりが言っていた「木の温もりがある古いメトロノーム」が置かれていた。


そして、そのメトロノームの底には、小さな鍵が隠されていた。


その鍵は、カノンさんの部屋にあった、あのプラスチックのメトロノームの、電池を入れる部分の蓋を開けるためのものだった。


プラスチックのメトロノームの中には、小さなメモリーチップが隠されており、そこには、音楽院の経営難を救うために、自分の才能を不当に利用しようとしていたある人物の悪事の証拠が記録されていたのだ。


カノンさんは、その人物から脅され、追い詰められていた。


しかし、ひかりが話していた「ピアノの音が違って聴こえた」のは、彼女が密かにその人物との会話を録音し、そのデータをメトロノームに隠す作業をしていたからだった。


そして、最後の手段として、かつてひかりと過ごした思い出の場所に身を隠し、誰かがこの事実に気づいてくれるのを待っていたのだった。


「ひかりちゃん……ごめんね、心配かけて……」


「カノンさんっ!」


ひかりはカノンさんに駆け寄り、泣きながら抱きついた。


その光景は、私の乾いた心にも温かいものを染み渡らせた。


事件は解決した。カノンさんを脅していた人物は逮捕され、音楽院は新たな一歩を踏み出すことになった。


カノンさんも少しずつ元気を取り戻し、再び美しいピアノの音色を響かせるようになった。


数日後、私は霧ヶ丘音楽院を去ることになった。


「水上さん! 本当に、本当にありがとうございました!」


門まで見送りに来てくれたひかりが、深々と頭を下げた。


「君のおかげで解決できたようなものだ。あの音符の日記がなければ、今頃どうなっていたか」


「そんな……私、お邪魔ばかりで……」


彼女は少し顔を赤らめた。


その表情は、いつもの太陽のような笑顔とは違う、どこか儚げで、それでいて強い意志を感じさせた。


「いや、君の真っ直ぐさが、閉ざされた扉を開いたんだ」


私は、少し照れくささを感じながら言った。


組織を離れてから、どこか世の中を斜めに見ていた私にとって、彼女の純粋さは眩しすぎた。


そして、いつの間にか、その眩しさに救われていたのかもしれない。


「あの……水上さん」


「なんだ?」


「また……会えますか?」


ひかりは潤んだ瞳で、まっすぐに私を見つめていた。


その瞬間、私の心の中で、何かがカチリと音を立てて動き出したような気がした。


それは、凍てついていた何かが溶け出すような、温かい感覚だった。


「ああ……また、必ず」


私は微笑んで答えた。


霧はいつの間にか晴れ、柔らかな日差しが私たちを包んでいた。


彼女のドジや空回りが、結果的に事件を解決に導き、そして、私の心の霧をも晴らしてくれたのだ。


この明るい美少女との出会いが、私の止まっていた時間を再び動かし始める予感がした。


42歳の私立探偵と、太陽のような彼女。


この先の物語がどうなるかはまだ分からないが、きっと、悪くない結末が待っているだろう。


そんな確信にも似た思いを胸に、私は霧ヶ丘を後にした。



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