霧雨に消えた旋律(前編)
「また、この霧か……」
私、水上悟は、運転席の窓から見える乳白色の世界にうんざりしながら呟いた。
42歳、独身。元々は警視庁捜査一課に籍を置いていたが、ある事件をきっかけに組織を離れ、今はしがない私立探偵として糊口をしのいでいる。
今回の依頼は、山奥にひっそりと佇む「霧ヶ丘音楽院」の院長、古城キリエ氏からのものだった。
一週間前から行方不明になっている、音楽院の看板ピアニスト、月島カノンさんの捜索願だ。
霧ヶ丘音楽院は、その名の通り、一年を通して霧が発生しやすい高台に建つ、古風な洋館だった。
重厚な鉄の門をくぐり、砂利道をゆっくりと進むと、霧の奥から荘厳な建物がその姿を現した。
まるで、現実の世界から隔絶されたような、静寂と神秘性を纏っている。
出迎えてくれたのは、院長の古城氏ではなく、彼の姪だという女性だった。
「遠いところ、ご足労いただきありがとうございます! 私、古城ひかりと申します!」
太陽のような笑顔と、鈴を転がすような声。
年の頃は二十代前半だろうか。
長い黒髪をポニーテールにし、快活な印象を与えるその女性は、この陰鬱な雰囲気の洋館には不釣り合いなほど明るかった。
彼女こそ、今回の物語のヒロイン、古城ひかりだ。
「水上です。早速ですが、月島カノンさんの部屋を拝見できますか?」
「はい! もちろんです! こちらへどうぞ!」
ひかりに案内されたカノンさんの部屋は、彼女の不在を物語るように、しんと静まり返っていた。
部屋の隅にはグランドピアノが置かれ、譜面台には弾きかけの楽譜が残されている。
窓は固く閉ざされ、カーテンも引かれたまま。
まるで、密室のような空間だった。
「カノンさんは、どんな方でしたか?」
「とても……繊細で、美しい人でした。ピアノの音色も、まるで彼女自身を表しているように、透き通っていて……でも、どこか儚げで」
ひかりは少し寂しそうに目を伏せた。
「何か、思い当たることは? 悩んでいたとか、誰かと揉めていたとか」
「うーん……特に変わった様子はなかったと思います。ただ……」
「ただ?」
「最近、少しだけ……カノンさんのピアノの音が、前と違って聴こえたんです。なんていうか、焦っているような、何かに追い詰められているような……そんな感じがして」
ひかりの言葉は、私の心に小さな棘のように刺さった。
私は部屋の隅々まで丹念に調べ始めた。机の引き出し、クローゼット、ベッドの下。
しかし、これといった手がかりは見当たらない。警察も既に捜査に入っており、めぼしい物は押収されている可能性が高い。
「あのっ、何かお手伝いできることはありますか?」
私の背後から、ひかりが心配そうに声をかけてきた。
その健気さはありがたいが、正直なところ、素人が捜査に首を突っ込むのは邪魔になるだけだ。
「いえ、お構いなく。あなたはあなたの仕事を」
「でも、私もカノンさんのこと、すごく心配で……何かできることがあるなら、何でもしたいんです!」
彼女の瞳は真剣だった。
その純粋な思いを無下にするのも気が引けた。
「そうですか……では、カノンさんが失踪する前日、何か変わったことはありませんでしたか? 些細なことでも構いません」
ひかりはうーんと唸りながら、何かを思い出そうとしている。
その間も、彼女の視線は部屋のあちこちを興味深そうに動き回っていた。そして、ふと、ピアノの上に置かれたメトロノームに目を留めた。
「あっ!」
ひかりが突然声を上げた。
彼女はメトロノームを手に取り、カチカチと左右に振った。
「これ……カノンさんのじゃないかもしれません」
「どういうことです?」
「カノンさんが使っていたメトロノームは、もっと古い型で、木の温もりがあるやつだったんです。
こんな、プラスチックの安っぽいやつじゃなくて……」
確かに、そのメトロノームは、このクラシカルな雰囲気の部屋には少し不釣り合いなほど現代的で、しかもどこか新品のように見えた。
「いつからこのメトロノームが?」
「うーん、いつからでしょう……最近、あまりカノンさんのお部屋にお邪魔していなかったので……でも、カノンさんが失踪する数日前には、もうこれだったような気がします」
これは重要な手がかりかもしれない。
なぜ、カノンさんは愛用のメトロノームを替えなければならなかったのか。
あるいは、誰かが意図的にすり替えたのか。
「ひかりさん、そのメトロノーム、少しお借りしても?」
「はい、どうぞ! もし、これが何か手がかりになるなら!」
彼女は嬉しそうにメトロノームを私に手渡した。
その時だった。
彼女がメトロノームを渡そうと一歩踏み出した瞬間、足元にあった小さなゴミ箱に躓き、派手に転んでしまったのだ。
「きゃっ!」
ガシャン!という音と共に、ゴミ箱の中身が床に散らばった。
中には、くしゃくしゃに丸められた数枚の楽譜の切れ端や、菓子の包み紙などが混じっていた。
「ご、ごめんなさいっ! 私、ドジで……」
顔を真っ赤にして謝るひかり。
私はため息を一つついて、床に散らばったゴミを拾い集め始めた。
その時、ある楽譜の切れ端に目が留まった。
それは、他のものとは明らかに違う、上質な紙質の楽譜で、インクで何か所も塗りつぶされ、破り捨てられようとしていた痕跡があった。
「これは……」
私はその切れ端を慎重に拾い上げた。
そこには、走り書きのような文字で、こう記されていた。
『——月のない夜、森の奥で待つ——』
月のない夜?
森の奥?
これは一体何を意味するのか。
そして、この走り書きは、カノンさんの筆跡なのだろうか。
「水上さん、それ……」
ひかりが不安そうな表情で私を見つめている。
彼女のドジが、思わぬ手がかりを呼び込んだ形だ。
しかし、同時に、この状況はあまりにも出来すぎているような気もした。
「ひかりさん、このゴミ箱、最後に誰かが中身を捨てたのはいつか分かりますか?」
「えっと……多分、カノンさんがいなくなる直前じゃないかと……お掃除の担当者がそう言っていました」
つまり、このメモはカノンさん自身が書いた可能性が高い。
しかし、なぜこんな謎めいたメッセージを?
そして、なぜそれを破り捨てようとしたのか?
霧はますます深くなり、洋館全体を不気味な静寂が包み込んでいた。
カノンさんの失踪は、単なる家出や事故ではないのかもしれない。
この美しい音楽院のどこかに、もっと深い闇が隠されているような気がしてならなかった。
そして、この明るすぎる少女、古城ひかり。
彼女の存在が、この事件にどう関わってくるのだろうか。
今はまだ、彼女の笑顔の裏にあるものが見えない。
だが、私の長年の刑事の勘が、彼女がこの事件の重要な鍵を握っている、と告げているような気がした。