突然の別れ
体が怠い。
一日中眠くて、少しでも気を抜けばうたた寝してしまう。
常に地に足がついていない妙な感覚がしていて、歩くときにフラフラしてしまう。
何をするにも億劫で、最近はダニエル王子の離宮へいる時以外、ほとんどベッドの上で横になって過ごしている。
そんなだらしない生活をしている私を、何故か神官長様は怒らない。
昔は寝坊すると、罰として中庭の掃除を一人でやらされたのに、罰を与えられないどころか注意もされない。
何故かはわからないけれど、あまりにも倦怠感が酷いので、その気遣いに甘えている。
ダニエル王子と会っている時も眠気と倦怠感が治まらず、話の途中でうたた寝してしまう事もあった。
午後の心地よい日差しと、ダニエル王子の柔らかく優しい声が眠気を増幅させ、気づくと船をこいでいるのだ。
話の途中でうたた寝をするなど失礼極まりない事だが、ダニエル王子は「うとうとしている姿が可愛らしい」と、笑って許してくれる。
可愛いなんて言われ慣れていないので、そんな風に言われると、胸の辺りが暖かくむず痒く、とても不思議な感覚になる。
ダニエル王子といると、穏やかで優しい気持ちになるけれど、最近はどきっとさせられる事もある。
ふと話が途切れた時、無言で私を見つめる眼差しは熱を孕んでいて、見つめ合っているとその熱が私にも伝染してきて妙な気持ちになる。
手と手を触れあわせる時も、前は特に何も感じなかったのに、今は触れた瞬間に電気が走った様な感覚がして、触れ合っているところからダニエル王子の体温を感じると、とても落ち着かない気分になる。
それに何より、ダニエル王子はかなり見目麗しくなった。
初めて会った時の衰弱しきった姿から、今はとても健康的になり、服を着て髪を整えたダニエル王子はセドリック王子と並んでも引けをとらないだろう。
そんなダニエル王子に甘い言葉を囁かれたら、ときめいてしまうのは仕方ないことだ。
更に嬉しいことに、先日、ダニエル王子の体質が劇的に改善された事がわかった。
ただの風邪でも拗らせてしまうほど抵抗力が弱かったのが、ここ最近冷える日が続いていたのに一度も体調を崩さなかった。
最近日課にしている散歩のおかげで、衰弱していた体に体力も筋力もついたので、余命宣告は取り消された。
カイル様とヘレナさん始め、離宮で働く人たちはとても喜んでいた。
カイル様は私の前に跪き、深々と頭を下げると「ダニエル様がお元気になられたのは、聖女様のおかげです。聖女様、本当にありがとうございます。このご恩は決して忘れません」と言った。
何度も言うが、聖女に病気治癒の力はないので、私がダニエル王子を回復させたわけではないのだけど……。
それにしてもこの一ヶ月未満の間に、ダニエル王子がまるで別人のように元気になったのは、確かに不思議なことだ。
いったい何がダニエル王子を救ったのかはわからないけれど、この奇跡が嬉しくないわけがない。
ダニエル王子とずっと一緒にいられるのだ。
「僕は、ララと一緒に人生を過ごしていけるんだね。あなたと夫婦になって、子供を授かって、一緒に年を取ることができるなんて、幸せだよ……」
ダニエル王子も、涙ぐんで微笑みながら喜んでいた。
私たち二人は、これからの人生を共に生きていける事に幸せを噛み締めていた。
「ララ様、神官長様がお呼びです」
いつものようにダニエル王子の離宮へ向かおうと支度をしていると、神官見習いが部屋に来てそう言った。
何だろう……?
不思議に思いながらも、ダニエル王子のもとへ行く時間が遅くなってしまってはいけないので、足早に神官長様の執務室へ向かった。
今日はオーダーしていた結婚指輪が届いたので、ダニエル王子と二人で開封する約束をしている。
挙式はまだ先だけれど、その時に手こずらないように、お互いの指にリングを嵌める練習をしようと話していたのだ。
神官長様が何故私を呼んでいるのかわからないけれど、早めに用事を済ませてもらおう。
神官長様の執務室のドアをノックし、神官長様の声を確認してから入室すると、そこには神官長と予想外の人が執務室のソファーに座っていた。
「急に申し訳ない、聖女殿」
「セドリック王子様……」
神官長様とテーブルを挟んで向かいのソファーに座っていたのは、ヴィクトリア様と新婚旅行に行っているはずのセドリック王子だった。
何故セドリック王子がここにいるのだろう?
二人が新婚旅行から帰ってくるのはまだ十日以上先だったはずだが、トラブルか何かで予定が変わったのだろうか。
不思議に思いながらも、神官長様に促されてソファーに腰かけた。
真正面に座るセドリック王子は、美しい金髪が乱れ、肌がくすんでいて顔色が悪く、それに最後にお会いしたときよりもやつれていた。
何だか疲れきっているセドリック王子も、私の隣に座る神官長様も、二人とも表情が固く顔が青ざめていて、部屋の雰囲気がとても重かった。
すぐに済む話ではなさそうだ。
重苦しい空気の中、最初に口を開いたのはセドリック王子だった。
「聖女殿、今日はあなたにお願いがあって来ました。いえ、お願いではなく、これは国王からの命令なのですが……」
セドリック王子の様子から、ただならぬ事態が起きたことは明白だ。
私で力になれるのなら、どんな命令でも受け入れる。
私はそんな気持ちで、言葉を紡ぐセドリック王子を見つめた。
「……実は、ヴィクトリアがエトルリアに誘拐されたのです」
「ヴィクトリア様が……!?」
「はい……。つい先日、旅先の市場を散策中に行方がわからなくなり捜索していたところ、滞在していた屋敷にエトルリアからの書状が届き、ヴィクトリアがエトルリアに誘拐された事がわかった次第です」
「そんな……、ヴィクトリア様……」
エトルリア、名前だけは聴いたことがあるが、隣の国だ。
このグランジアと同じ大陸に存在する唯一の国で、国土はグランジアの五分の一程度。
同じ大陸で地続きとは言え、国境は険しく高い山々で囲まれていて、陸路で入国する事はほぼ不可能。
エトルリアへ行くには一度港まで行って船に乗り、海から行かなければならないので、二国間の行き来は盛んではない。
国交はほぼ無いに等しい、近くて遠い国だ。
幸せな新婚旅行中に誘拐だなんて、私はヴィクトリア様をとても気の毒に思った。
セドリック王子だって、大切な人を奪われてさぞ不安な事だろう。
「あの……ヴィクトリア様はご無事なのでしょうか?」
「ええ。エトルリア側はヴィクトリアの聖女としての力に目を付けて彼女を誘拐したようですから、命を脅かすようなことはしないはずです」
よかった……。
とりあえずヴィクトリア様が無事でいる事に私は安堵した。
「……けれど、ヴィクトリアを取り戻さなければなりません。すぐにエトルリアとの交渉に応じたところ、エトルリアはヴィクトリアの身柄を引き渡す代わりに、あるものを要求してきたのです」
「あるもの?」
セドリック王子は真っ直ぐに私を見つめてきた。
その瞳はまるで私に縋る様に弱々しく、いつもの凛とした瞳からはかけ離れた、助けを乞う眼差しだった。
何故か嫌な予感が胸を走った。
私の問いかけに、セドリック王子はついに口を開いた。
「それは聖女殿、あなたです」
私……?
私がヴィクトリア様の代わりにエトルリアへ行く……?
私は困惑して言葉を失った。
そんな私に構わず、セドリック王子は続けた。
「聖女を差し出せば大聖女はグランジアへ返すと、そう言っているのです……。国王や王妃との話し合いの結果、我々はあなたをエトルリアへ差し出すことを決定しました」
頭から冷水を浴びせられた様に、冷たい何かが全身に流れていった。
国王も王妃もセドリック王子も、私ではなくヴィクトリア様を選んだ。
私は選ばれなかった。
けれど、私はその結果に納得していた。
だってそうだろう。
大聖女と聖女、どちらかを選ぶなら大聖女を選ぶに決まっている。
その上ヴィクトリア様は皇太子妃。
エトルリアが何故大聖女ではなく聖女を要求しているのかはわからないが、聖女を差し出して大聖女が戻ってくるのなら安いものだ。
それに私がエトルリアへ行くことは、既に決定事項で命令だ。
私は聖女として、王宮に逆らうことは許されない。
「どうか、行っていただきたい……。ヴィクトリアを失っては……この国は……いえ、私は、生きてはいけない。愛しているのです」
セドリック王子が悲痛な面持ちでそう訴えた。
その声は呟きにも近いほど細く、私はその切ない声に胸を締め付けられた。
私が命令通りにすれば、みんなが救われる。
私は微笑んで、セドリック王子を見た。
「もちろんです。ヴィクトリア様の為にエトルリアへ行きます」
私がはっきりとそう答えると、セドリック王子の頬に血の気が戻り、険しい表情が僅かに和らいだ。
「感謝します、聖女殿」
セドリック王子は立ち上がって私に深く頭を下げたので、私と神官長様も慌てて立ち上がった。
「重ね重ね申し訳ないのですが、至急荷造りをして王宮へ来ていただきたい。エトルリアとの約束は一週間後なので、午後一番で出発する手筈になっています」
「今日発つのですか?」
「はい。急なことで本当に申し訳ないのですが……」
今日の午後一番で出発となると、遠い田舎のマーロウ村にいる家族にお別れを言うことが出来ない。
それに、最後にダニエル王子に挨拶をすることは出来るだろうか……?
エトルリアへは航路で行くしかないので、港までの移動時間も考えると、向こうへ着くまで一週間程はかかってしまう。
今日にでも出発しなければ約束に間に合わないかもしれない。
もし間に合わなければ、交渉決裂と見なされてヴィクトリア様を返してもらえないかもしれないのだ。
多少の遅れを考慮して早めに出発するのは当然のこと、仕方がない。
「わかりました。すぐに準備します」
「ありがとうございます。準備ができ次第、神殿の外に待たせている馬車で王宮へお越しください」
私はセドリック王子の言葉に頷いた。
「エトルリアへは、私もお供致します。それと、第一騎士団と数十名の兵も。私は第一騎士団の副団長と兵を整えて参りますので、先に王宮へ戻ります」
そう言うと、セドリック王子は足早に執務室を後にした。
執務室に残った私と神官長様は、セドリック王子の退出を見送るために立ったままだった。
荷造りをする前に、今まで育ててくれた神官長様にちゃんと挨拶がしたいと思い、私は神官長様に向き直った。
神官長様は瞳に涙を溜めて、私をじっと見ていた。
そんな神官長様を見た瞬間、私も涙が出てきた。
「……神官長様、今まで、本当にお世話になりました。エトルリアへ行っても、神官長様の教えを忘れず、精進します」
しっかりと感謝を伝えたくて、必死に涙を堪えてそう言うと、次の瞬間、神官長様の暖かい腕の中に包まれていた。
幼い頃から知っている、暖かくて優しい腕の中。
この腕に包まれのは、恐らくこれが最後。
私は泣くのを耐えられなかった。
泣きながら、腕を目一杯伸ばして神官長様の背中に回してしがみつくと、神官長様は慰めるように優しく頭を撫でてくれた。
「ララ、あなたと離れるのはとても寂しいですが……、このままこの国にいるよりも良いのかもしれません。きっと女神様のお導きなのです」
「……はい」
「あなたは今日まで良く頑張りました。エトルリアでも立派に聖女を勤められるでしょう。ララ、しっかりおやりなさい」
「はい、私、頑張ります……」
「可愛いララ、あなたの幸せを祈っていますよ」
大好きな神官長様。
私を育ててくれた親のような存在で、私が辛いときにはいつも寄り添ってくれた。
最近はダニエル王子との結婚の事で、少しすれ違いもあったけれど、それでもずっとそばで支えてくれた大切な人だ。
お別れするのは、とても悲しかった。
別れを惜しんで抱き合っていると、執務室の扉をノックする音がした。
そっと体を離し、神官長様が入室を許可すると、入ってきたのは神官の一人、アラン・ハーデン様だった。
「失礼致します。ララ様、そろそろお支度を……」
アラン様は私と神官長様が泣いて別れを惜しんでいるのに気付くと、少し切り出し難そうにそう言った。
私は慌てて涙を拭い、最後にもう一度、神官長様に向き直った。
「私も神官長様の幸せをお祈りしております。どうか、いつまでもお元気でいてください」
「ええ、ありがとうございます。ララ、私は少しやることがあります。後で門へ見送りへ行きますので、またその時に」
「わかりました……」
「荷造りは、アランが手伝います。アランも第一騎士団と一緒にあなたをエトルリアまで送り届けるので、彼に着いててもらいなさい」
「え、アラン様が……?」
アラン様の方を見ると彼と視線が合った。
彼は私に軽く一礼すると、手の平を上にして扉の外を示した。
まるで荷造りを急かしているようだ。
「わかりました。アラン様、よろしくお願い致します」
「はい。ララ様を無事にエトルリアへお送りするよう、誠心誠意勤めます」
名残惜しいけれど、荷造りを済ませて早く王宮へ行かなければならないので、執務室を出た。
後でもう一度神官長様には会えるようだし、アラン様に促されるがまま、自室へ向かった。
自室へ向かうまでの間、アラン様は付かず離れずの距離を保って私に着いてきた。
もしかすると、私が逃げないように見張る役目なのかもしれない。
そんな事をしなくても、私には命令に逆らって逃げる気は無いのだけど……。
アラン様と言えば、聖女の仕事で遠い地方へ遠征に行く時、遠征の一員として一緒に行くことが多かった。
私より五つほど年上で貴族の生まれらしく、彼は容姿が整っていてお祈りに来る貴族令嬢たちの人気の的だ。
しかも王都の寄宿学校を卒業してから神殿に入ったので、とても学があり優秀だ。
時期神官長候補として最も有力な人材らしい。
いつも冷静で表情を一切出さない彼だが、唯一、ヴィクトリア様の前では笑顔を見せる。
ヴィクトリア様が神殿で暮らし始めて暫くした頃、二人が中庭で仲良く話している姿を見たことがあるが、アラン様にあんなに表情があったのかととても驚いた。
二人の間にどんなやり取りがあったのかはわからないけれど、あの鉄面皮のアラン様を笑顔にしてしまうヴィクトリア様は、やはり凄い人だ。
後ろを歩いているアラン様は相変わらず無表情だけれど、アラン様にとってもヴィクトリア様は大切な人なのだし、きっとヴィクトリア様の身を案じて不安なはずだ。
だから確実に私をエトルリアへ引き渡す為に、監視のように着いて回っているのかもしれない。
アラン様を後ろに従えるように自室へ行き、早速荷造りを始めた。
荷物と言っても、私物は下着くらいしかないのでそんなに時間はかからない。
着るものがないと困ってしまうので、取り敢えず神殿の作業着と聖女の礼服を鞄に詰めた。
持ってい物は少ないしアラン様も荷造りを手伝ってくれたので、すぐに荷造りを終えた。
アラン様に荷物を持ってもらい、王宮へ向かうため門で待機している馬車へ向かうと、そこには神官長様を始め、神殿で共に過ごした仲間が数人集まってくれていた。
みんな泣きながら私との別れを惜しんでくれて、私もまた涙が溢れてきた。
「お元気で」
「どうか、お身体に気をつけて」
あまり時間はないけれど、これが最後だから出来る限りみんなと別れの言葉を交わした。
流石にアラン様もお別れの時間を急かすことはなく、馬車の側に立ってこちらを見守るだけだった。
みんなにお別れをした後、最後に神官長様ともう一度抱き締め合った。
これ以上神官長様の暖かい腕の中にいると、離れがたくなってしまいそうだったので、あまり時間を置かずに私たちは包容をといた。
「……エトルリアで、今度こそ自分の人生を生きるのですよ、ララ」
「……自分の人生ですか?」
「そうです。幸せな人生にしてください」
「……はい」
「さあ、行きなさい」
神官長様にそっと背中を押されて、私は王宮へ向かう馬車へ踏み出した。
アラン様と一緒に馬車に乗り込むと、馬車は王宮へ向かって走り出した。
神殿のみんなは、門から手を振って見送ってくれていたので、私は馬車の窓からずっとその光景を見ていた。
頭一つ分飛び抜けて背の高い神官長様は、みんなに囲まれていてもすぐに目に入った。
遠ざかっていく神殿と、神官長様と、神殿のみんな。
ここへ帰ることは二度とないと思うと、闇の中にたった一人で残されたような、とてつもない不安が襲ってきた。
長くなってしまいましたが、お読みいただきありがとうございます。
気に入っていただけましたらブックマーク、評価宜しくお願い致します。