5.落ちぶれた道場 (3) ☆
※
道場に戻るころ、日はすでに傾いていた。
生徒は相変わらず子供たちばかりだったが、昼間とは違う顔ぶれだった。入れ替わり立ち替わりしているのだろう。ハルは、年長の少年に手取り足取り型を教えていた。シールは別の少年と雑談をし終えたところのようで、リリィの姿を認めると歩み寄ってきた。「どこに行ってたの?」と聞くので、リリィは先ほど登った丘のことを話した。
道場を見回したリリィは、立ち会っていたナカに聞いた。
「あなたは読み書き、算術はできないの?」
「できますが……それが何か?」
「生徒が子供ばかりなら、弓だけでなく、それらも教えたらどうかしら」
「えっ……?」
ナカは言われた意味が解らないようだった。リリィが付け加えた。
「そうすれば、その分授業料を高くできるでしょう。生徒を増やさなくても、収入を増やすことはできるわ」
「なるほど!……その発想はありませんでした」
「よみかきなら、シールもお手つだいできるよ。さんじゅつはちょっとにがてだけど」
「あたいは字が読めないからな。一緒に教えてくれると助かるぜ」
「それはいいですね!子供たちの親御さんに相談してみます」
ナカが夕食をごちそうするというので、リリィたちはご相伴にあずかることにした。ナカは既婚者で、妻はフローラという細身の美しい女性だった。両側で三つ編みにした金髪が印象的だった。体が弱いらしく、あまり出歩かないとのことだった。食事は簡素だったが美味で、ハルはバクバクと平らげた。フローラは「まあ、女の子なのにすごい食欲ね」と目をむいた。
ナカがフローラに夕刻のリリィの提案を話すと、フローラは「それなら私も手伝えます」と賛同した。病気がちで、生活の糧を夫に頼り切っていた彼女にとって、リリィのアイデアは渡りに船だった。
リリィは、昼間に登った丘のことを聞いてみた。するとフローラは眉をしかめた。『ネボの丘』と呼ばれるその場所は、所以はわからないものの、不吉な場所と思われているらしい。そのため王都の住民は近寄らないとのこと。言われてみれば、都の周辺では目立つ高台にもかかわらず、頂上にも、山腹にも建造物や碑など、人工的なものが何もなかった。痕跡すらなかった。よほど誰も立ち寄らないのだろう。
「まじない師としては、邪悪なものを感じなかったけど」
リリィが言うと、フローラは「えっ、そうなんですか」と意外な顔をしつつも、不安を拭えないようだった。『まじない師』は出鱈目としても、実際リリィはあの丘に良からぬ気配を感じなかった。本当にありふれた、何の変哲もないただの丘だった。
翌日から、休日を除き、ハルは道場に通った。シールも付き添った。リリィは気まぐれで、道場に付き合うこともあれば、王都や近辺をふらついたり、下宿に引きこもったりとその日その日の気分で行動を変えていた。
下宿にいる日、リリィは日がな一日、窓辺のスツールに腰掛け、エンベロペを眺めていた。おかげで日にどのような人たちがどのくらい出入りするのか、どの程度の物資が円城内に運び込まれるのか、覚えてしまった。夕方には、けばけばしく装った女性たちを乗せた馬車も坂を登っていた。女を買うような者はどこにでもいるらしい。内側の世界の世俗が推し測られた。
王都に着いた日、駅で案内人が言っていたとおり、下宿には空き部屋が多かった。各階に五部屋あり、一階はうち四部屋が埋まっていたが、二階は誰もおらず、三階もリリィたちだけだった。農作業ができるこの季節、王都に出稼ぎに来る者はわずかだった。そんな状況でも、エレナは掃除に炊事、縫物と、何かと忙しそうにしていた。リリィが一度、「これだけ部屋が空いているのなら、宿でもすればいい」とアドバイスしたが、エレナは「そう言うのはいいよ、面倒だから」と興味を示さなかった。
※
ほどなく月が替わった。六の月になり、雨期に入った。大平原の雨期は、東国のそれとは異なり、ほとんど雨を降らさなかった。ただ終始空は鈍色で、しばしば霧が地を覆った。
霧の日、窓の外は、世界が消えてしまったようになった。だがそんな時間もリリィは嫌いではなかった。晴れていれば直射日光にさらされる窓辺も涼しく、吸い込んだ湿気た空気は喉に優しかった。
ハルの評判を聞きつけ、道場の門をたたく成人も増え始めた。ハルは「あいつら覚えが悪くてよ」と悪態をつきながらも、師と仰がれ充実した日々を送っていた。
ナカとフローラは、リリィの助言に従い読み書きと算術を教え始めた。こちらも評判で、学問だけを習わせる親も現れた。達筆のシールは、子供たちの良いお手本となった。ハルも児童と机を並べて字を習った。彼女は母親に手紙を書くんだと張り切っていた。
そうして六の月が過ぎ、七の月になり、雨期が明けた。ひと月のあいだ平原を覆っていた雲は去り、代って天空の支配者が無慈悲な熱量を降り注ぐ季節となった。夏がやって来たのだ。




