3.港町の夜 ☆
日もとっぷりと暮れたころ、船は錨を上げ、カロ=ツトの桟橋を離れた。
さんざんハルを打ちのめした航海だったが、それでもここまでは『凪の海』と呼ばれる穏やかな海域だった。
船がマーロン山脈の沖合いに差し掛かると、海は仮面を脱ぎ捨て本性を表す。その夜がハルにとって、これまでの人生で最悪のものになったことは言うまでもないが、シールにも不安で眠れない時間が続いた。世界最大の大型船ですら、木っ端のごとく翻弄する横波。その舳先が波頭を砕くと、不規則な衝撃が船内を襲う。抑えが効かなくなった心臓のように打ち続ける帆のはためき。軋んで悲鳴を上げるロープ。動いた積み荷の衝突音。それらが混ざり、重なり合い、遠く近くから轟いてくる。まるで船中を魔物の群れが暴れているかのようだ。
だがこれでも、この海域を往来する船乗りたちにとっては日常そのもの。舳先が北を向き、右舷の水平線が白み始めと、海面は次第に凪いでゆく。半島のように突き出したマーロン山脈を回り切り、そして昼前、ついに船は大平原東端の港町・ポートランダに入港した。
※
「も、もう、乗らなくていいんだな……」
港の地面にうつぶせたハル。両腕両脚を潰れたカエルのように広げ、嘔吐で荒れた喉からガラガラ声を絞り出す。
「あたいはフォルフォーセス様に誓うぜ……もう、どんなことがあっても船には乗らねぇ。死ぬか船に乗るかどっちか選べって言われたら、死ぬ」
リリィは苦笑したが、ハルだけでなく、シールもさすがに疲れた様子だ。今のふたりに長旅は耐えられないだろう。
「今夜はこの街で泊まりましょう。王都への出発は明日にするわ」
※
その夜、一行は夕食もそこそこに宿に引きこもった。ベッドに倒れ込んだハルとシールは、早々に寝息を立て始めた。
夜の帳に覆われた港は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っている。ただ、打ち寄せる波の音だけが途絶えることなく続く。
窓辺の小さなテーブルに置いた麻袋にリリィはそっと触れた。生きた人の体であればぞっとするような生ぬるい弾力が、この上なくいとおしく感じる。
(西へ行くのだ。西の、大きな国)
ついに自分はその地に立った。人の王が統べる、大平原。その片隅に足を掛けた。麻袋の中の右腕に導かれるまま訪れたこの国に、問いは、そして答えはあるのか。
(……………)
仄暗い室内にリリィは目を戻した。ベッドの上で、一時の安息を享受するふたりの少女。その寝顔が、ささくれ立った野心を従順にする。飼い馴らされた家畜のように。こんな、穏やかで安らいだ時間以上の何を望むのか。そして思うのだ。それが問いの答えならば……拒む理由がどこにあろうか。
リリィはもう一度麻袋に触れた。ざらざらとした布の感触からは、何の声も聞こえない。指に伝わる言葉もない。
(自分で探せ、そう言うことよね)
彼女は自分の弱気を嗤った。
腕の横に置いた長剣。窓辺に立て掛けたロッド。それで今まで、いったいどれだけの命を屠ったか。そう、自分は家畜なんかじゃない。かつて『悪の大魔導士』とまで呼ばれ、恐れられた存在。
(わかったわ。この大平原、這いずり回ってでも見つけてみせるわ!)
答えを探す旅は、まだ始まったばかりだ。だから今は休もう。彼女は夜着に包んだ身を横たえた。意識はすぐに、闇の中に溶けていった。




