2.氷の川が作った谷 ☆
ハル、シール、そしてリリィ。
東国の中心都市・ザカヴァを発った三人は、東西を山に挟まれたなだらかな谷あいを進んでいた。
ロバの手綱を引くハルの傍らで、旅用のドレスに身を包んだシールが小さな歩幅を懸命に刻んでいた。騎乗しないのは、少し「ロバさんがかわいそう」になったかららしい。ゆうべは生まれて初めて野宿を経験した。疲れは隠し切れなかったが、それでもすがすがしいまでの好天は、彼女の背の荷を軽くする。そのふたりの後ろを、ロッドを杖にしたリリィが続く。
「おーっ、いい眺めだな!」
ハルが立ち止まった。
「とおくまで見えるね!」
シールが前髪を掻き上げる。ふたりに追い付いたリリィが肩を並べる。
「鉄紺の時代より前、氷の川が流れて山を削り、こういった谷ができたらしいわ」
「マジかよ!こんなに暖かいのに?」
草花の匂いを乗せた初夏の微風。この地方、四季はあるものの、一年を通じて概して温暖だ。信じられないのも無理はない。
「……って言うか、『テッコンの時代』ってなんだ?」
「シールは知ってるかしら?」
銀髪が左右にふるふると揺れる。リリィが説明する。
「今年は『白の時代』の十九年。白の時代のひとつ前は『黒の時代』。ひとつの時代は千二百年で、歴史書によると、白の時代は十二番目。『鉄紺の時代』はその最初だから、今からおおよそ一万三千二百年前に始まった」
「ひえーっ、えっらい昔だな。そのころ人間はいたのか?」
「いたでしょうね。ただ文字による記録が始まったのは、今からだいたい四千年前の『朱の時代』から。そこから『緋の時代』、『菫の時代』、『黒の時代』と続いて今の白の時代がある。氷の川が流れていたのは鉄紺の時代よりもっと前らしいけど、記録がないころだから本当のことはわからないけどね」
シールは興味深そうに耳を傾けている。ハルは「ふ、ふう~ん」と声を漏らしたが、今ひとつピンと来ていないようだ。顔を上げて南を望む。左右の稜線は、視界の奥で交わろうとして、果たせず霞の中に消えている。
「海はまだ見えないな」
「クラナックの港町までは三十カロルーテはあるでしょうからね」
「二日……いや、三日くらいか」
自分とリリィだけなら二日で十分だろう。シールを連れていることを斟酌してハルは一日加えた。リリィが「そうね」と短く答えた。
「遠いねぇ……」
そう言いながら首をコキコキと回すハル。その時、ふと思い出したようにシールの頭を見下ろした。
「そうだ、なんであたいらチンタラ歩いてんだ?シールの風の魔法で、そのナントカって町まで運んで貰ったらいいんじゃね?」
シールは「えーっ、そんなとおくまでムリだよぉ!」と反論した。リリィも苦笑する。
「せいぜい十ルーテほどでしょうね。でも実力を知っておくことは大事ね。試してみる?」
リリィが周囲を見回した。諸候領の主要街道。朝から何人かの旅人や馬車とすれ違った。だが今はさいわい人影がない。
「ハルはロバを連れて歩いていて。さ、シール、やってみて。街道を、できるだけ遠くに飛ぶことを心に思い描いて」
「う、うん」
リリィが身を屈めてシールの肩を抱く。シールは胸元のペンダントに両手を当てる。
「エンブリーズ!」
砂塵が舞い上がる。目に見えぬ精霊たちが地から風を噴き上げ、ふたりの体を浮遊させる。渦巻く空気の塊は弧を描き、砂、小石、ちぎれた下草、およそ巻き上げられる全ての物をその身に取り込む。やがて重い物からバラバラと降り注ぎ、最後に身を解いた風は、自らに命じた主たちを数ルーテ先に着地させた。
「おおお、はたから見ると結構すげぇな!」
「上々ね。シール、もう一回やってみて」
「う、うん……エンブリーズ!」
再び風が起こる。しかし今度はふたりの体をほんの腰ほど浮かせただけ。一ルートほどで地に足が着いてしまった。着地したシールは手を膝に突き、はあはあと肩で息をしている。
「疲れてるみたいだな」
「何度も続けて力を使うのは無理みたい」
シールは悔しそうだ。目には涙が浮かんでいる。リリィの眉が下がった。
「ごめんなさいね。シール……少し休みましょうか」
「ああ。そろそろ昼メシでもいいんじゃね?」
「そうね。そうしましょう」




