8.裁きは我らにて (3) ☆
「待たれい!」
その時。
爆ぜる寸前の場の空気を押し留めたのはマクベスだった。彼はベッドから降りた。下半身に肌着を巻いただけの彼は、手にしていた槍を床に置き、空手でリリィの前に進み出た。自ら断頭台に首を差し出すかのごとく。そして、その足元にひざまずいた。
「魂の炎を潰えさすのに飢えておるのなら、わしのそれを差し出そう。だがウラーヌに手出しは無用!」
身を屈める権力者の丸まった背。ハルは驚きに打たれた。頭を垂れる男の口から、懺悔の言葉がこぼれ落ちる。
「わしは恐れておった……いつの日かお前が舞い戻り、わしの前に立ちはだかることを。そうなった時、お前に抗うすべはない」
「……………」
「……かつてわしは、お前を滅ぼそうと精鋭の手勢を送った。だがひとりも還らなんだ。その知らせを聞いた時、わしは絶望し……同時に覚悟を決めた。もしお前がわしを亡き者にしようと願う時が来るのなら、潔くその手にかかろうと。自分ひとりのことを考えるなら、たやすい決断だった」
巨躯を丸める男の力ない言葉にハルは思った――なんと弱く、脆い魂なのか。こんな男がこの国に君臨する絶対君主なのか。自分を失望させないでくれとさえ思った。
「しかし時は流れ……わしは今、諸候領をひとつにした。二十年かかったのだ。自分が善良な為政者とは思わん。戦も何度となく仕掛けた。数え切れんほどの血を流した。恨みも憎しみも買っておろう。だがそれでもこの地はひとつになった。ひとつの国、ひとつの法、ひとつの通貨、ひとつの度量衡……戦いが終わり、商いは栄え、民の暮らしも豊かになりつつある。今わしが斃れれば、この地はまた乱れる。二十年、いやそのずっと前、記録すらない遠いいにしえの歴史からのやり直しなのだ」
「……命乞いは終わり?」
リリィが、白さが混じる足元の髪を見下ろす。
「あなたも人の子。その命はいつか尽きる。いま私がここであなたを殺さなくとも、あなたには世継ぎがいない。志がいくら崇高でも、それを受け継げぬ愚臣たちだけでは秩序を保つことはできないでしょう。混沌は、歩みをしばし止めるだけ」
「待ってください!」
託宣を遮ったのは、ウラーヌだった。
「私は十六の歳でその子を産みました。まだ何度か子を成すことができます。子ができれば……この人の志を継ぐ、立派な領主に育てます!」
この女、正気かよ……
ハルには男女の機微がわからなかった。夫を殺されて、ここまで言えるのか。
「もうよい、ウラーヌ」
マクベスが制した。
「……破壊者よ、我を裁きたければ裁くがよい」
「わかったわ」
リリィは応えた。そして半歩下がった。
「では、あなたが定めた方法で開廷するわ。陪審員は私と、このふたり」
「えっ!?」
ハルが振り向きリリィを見遣る。
「もしこの男を有罪にしたければ立ったままで。無罪なら腰を落としなさい。いい?」
「ちょ、待っ!……」
困惑するハル。だがここは役者として、リリィの求める役を演じるしかない。ハルは覚悟を決めた。シールは大丈夫か?うつむく彼女の表情は窺えない。リリィ、シールの心が決まるのを待ってやってくれ……
……そんなハルの思いも届かないのか。石組みの空間に、無慈悲な声が響き渡った。
「判決!」
ハルは慌てて膝を突いた。手の弓は床に置き、垂れた頭を少し回すと横目でシールを窺う。シールは……
「いいの、シール?」
「……はい」
畏まって答えた彼女は身を屈めていた。その丸まった背をリリィが見下ろす。膝も、腰も屈することなく。そしてくすっと嗤う。
「……これじゃ、私が立っても座っても変わらないじゃない」
判決は多数決なのだ。
「命拾いしたわね」
マクベスが頭を起こした。見上げることはしない。それは領主としての最後のプライドか。
「いとけなき陪審員たちよ。汝らの慈悲に感謝する」
「では、私からも返礼が必要ね」
「!……」
リリィの体が沈む。
「マクベス……私もあなたに感謝するわ」
膝を突き、ロッドを床に置く。
「任務成功の報酬にこの城の図書館への出入りを請うと、あなたは承諾してくれた。わざわざ人払いまでして。あなたの身に立てば、私なんか用が済めば一刻でも早く城から出したかったはず。にもかかわらず」
リリィが知っていた城の地下通路。その出入り口は、図書館のからくり書架に隠されていたのだ。
「わしには……ひとりだけ子供がおった。先妻の子で、娘だったが、流行り病で幼いころに亡くしてしもうた。もしかしたら……お前さんが娘に見えたのかもしれんな」
つい最近もそんな話を聞いた気がした。山脈の向こう、辺境の地で。男とは……いや、人の親とはそういうものなのか。リリィはほんのひと時、思いをその地に届けた。森の中の小さな小屋。そこで暮らす命の恩人。そして過ごした日々……その半年間は、彼女が生まれて初めて他人と暮らす幸福を感じた時間だった。
気付けば湧き上がる、自らに対する疑問―――
自分は何に駆り立てられていたのだろうか。
棘立っていた気持ちは清算され、どこにあるのかすら、もうわからない。
「……私はあなたのおかげでこの国の蔵書を読めた。歴史を知り、社会の仕組みを知り、魔導の知識を得た。古グル語も学べた。あなたは武力で民を押さえつけるだけの王じゃない。もし自らの命が民の幸福に貢献できる自負があるなら……政を続けなさい」
リリィの声は、驚くほど穏やかだった。そして対するマクベスの口調も、その負託に応えるに十分な意志の力を宿していた。
「承知つかまつった。善政をなすこと、約束しよう」
「……ありがとう」
少しはにかんで、リリィは立ち上がった。ウラーヌも深々と頭を下げていた。リリィは左右の輩に目を配った。
「……帰りましょうか」
寄り添う男と女。
三人の姿は消え、部屋は元の姿に戻っていた。何事もなかったかのように。




