5.討伐 (3) ☆
※
心臓が胸から飛び出しそうになる。
怪物の足音は十分に近い。ハルはすでに矢を握っている。ただ、まだそれを放つ時ではない。先に動くのはリリィなのだ。
じれる。焦りが心を搔き乱す。実はもう機会を失っているのではないか。リリィは動き損ない、自分は大トカゲの餌食になる。
……いいや、ダメだ。ハルは自らの焦燥を諫めた。自分はアーチャーだろ?拙速は戦いでは命取り。そんなことくらい百も承知だ。短気を起こすんじゃない。理性ではわかっている。だが体は無意識に反応してしまう。
手が震える。爆発しそうな鼓動が獲物に聞き取られそうだ。もう待てない!リリィ!まだなのか!?
ハルの精神力が限界に到達した、その瞬間だった。
「グエエエッ!」
予想外の声が崖の上から響いた。バジリスクではない。無論リリィでもない。なら誰の声か。ひとりしかいない。あの少年だ。何が起こったのか?ハルは崖を見上げた。そして――驚愕した!
「!!……」
ハルが見たもの、それは……
(リリィ!何てことすんだ!!)
崖の上、少年が吊るされている。
足は中空に。喉から血染めの残忍な刃先が突き出ている。リリィが首の後ろから突き刺したのだ。使われた凶器はロッド。彼女のロッドは持ち手側が鞘になっており、抜くと槍として使えたらしい。彼女は左腕一本でロッドを掲げ、縛り首にでもするかのように少年をぶら下げている。恐ろしい腕力だ。
そして耳孔を掻きむしる絶叫は、少年の断末魔の叫びだった。生気なく、だらりと垂れ下がった手足は、もう彼が生命を失った『物』になっていることを示していた。
あまりの出来事に固まるハル。
「何をしてるの!早く射なさい!!」
崖の上からリリィが叫ぶ。頭の中がぐちゃぐちゃだ。何が何だかわからない。今はただ、反芻した作戦に身を委ねるしかない。ハルは飛び出した。そして―――
「!!」
彼女は目の当たりにした。
大トカゲの威容。頭は吊るされた少年に向いている。口から赤黒い舌が二度、三度。二股に分かれた先端は、人間ですら巻き取れそうだ。
「クソッ!」
ハルは弓を引いた。放った三本の矢、その真ん中の一本がバジリスクの右目に突き立った。
「シイイイイイイッ!!」
布を裂くような声を上げ、獲物はハルに顔を向けた。刹那、リリィが崖から飛び降りた。少年を貫いたロッドを掲げたまま。
閃光が走った。ハルは反射的に腕で顔を覆った。光を浴びせられたのは少年とリリィ。石になり、砕けてロッドから抜け落ちる少年の体。しかしその体が盾となり、リリィは無事だ。首筋を残虐に貫いていた槍先は、不毛の谷に照り付ける陽光を反射し、今、大トカゲの左目を真正面に捉えていた。
「行けえええええええええぇっ!」
リリィが叫ぶ。飛び降りながら、彼女はロッドをその黄色い眼球に投げつける。
「シイイイイイイイイーーーーッ!!」
鋼の穂は、見事獲物の左眼を貫いた。着地したリリィは、勢い余って地を転がった。両目を潰された大トカゲは、血と眼水を噴きながら身悶えた。石化能力は封じたものの、獲物はありったけの生命力で巨躯を振るわせた。踏みつぶされそうになりながら、這いつくばってロッドを拾い直したリリィは、獲物が口を開けた瞬間、下から上あごの内側を突き刺した。全身を厚いうろこで覆われたバジリスク、その頑強な鎧を縫って髄液を蓄える頭部を貫くには、そこしかなかった。
「シイイイイイイイイイイーーーーーーッ!!」
ロッドがつっかえ棒になった。口を割ったまま、怪物が頭を振った。岩のような頭部をぶつけられ、リリィが吹き飛ぶ。獲物は視力を奪われたまま、巨躯を翻し谷の奥へと逃げていく。
「リリィ!」
ハルが駆け寄る。リリィは体を打ち、苦悶していた。頭を押さえる手のひらは朱に染まる。ただ、目は闘志を失っていない。よろめき、岩に手を掛けながらも、彼女は両足を踏みしめる。
「急所に突き刺さったはず。そのうち弱って死ぬ。追うわよ!」
リリィは駆け出す。混乱した思考のまま、ハルはその背を追う。尾を振り、逃走していたバジリスクの動きが鈍くなった。脚が折れ、腹を地に着け、しばらく尻尾を左右に振っていたが、やがてその動きも小さくなり、動かなくなった。獲物は死に、狩りは成功した。
前に回り込むと、怪物は頭部を力なく岩に委ね、果てていた。赤黒い舌は最後に何を知覚したか。だらりと下あごから横に垂れていた。
リリィがロッドを握り、押し上げながら抜いた。上あごが落ち、血液混じりの髄液が噴き出した。髄液自体は透明だった。ふたりはそれをすくい、水筒に詰めた。こぼれた液体が地面に飛び散ると、その部分が肉の色に変わった。
「ひっ!」
ハルは悲鳴を上げた。リリィも驚愕に目を見開く。
「ウソ、だろ……」
そう。石や砂だと思っていたもの。それはかつて……バジリスクを狩ろうとして不覚を取り、生身の肉体を失った人々の一部だったのだ。
「そんなことって……」
リリィは顔を上げた。そして荒涼たる大地を見渡した。谷の底に敷き詰められた無数のかけら。そのどれほどがかつて人だったものだろう?いったい幾人の狩人が、案内人が、この地で血の通った肉体を失ったのか。
その時、ごうと不意に風が鳴った。その音は、この谷で命を落とした数えきれない亡者たちの怨嗟のようだった。
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