3.誇れるものは ☆
飛び越えられるほどの幅のせせらぎ。透き通った水がそよそよと石を洗う。
ズボンが濡れるのも気に掛けず、ハルは膝を突き、清水をすくう。顔を洗い、何度も喉に送る。満足すると、動物のように頭を振ってしぶきを飛ばした。
「ああ、さっぱりしたぜ!」
吹っ切れた様子で川向うを見る。
「……村は捨てるよ。あんな村何の未練もねぇ。貧乏で、人もどんどん減ってる。子供もな。歳の近いダチもいねぇし、恋人だって」
そしてリリィに目を向ける。
「おめぇ、恋人いんのか?」
「いないわ」
心に引っ掛かるものがなくはなかった。ただ、あの……谷あいの召喚士の村、そこを出てからすでに一年近く。日々の出来事が、かつての思いを上書いてゆく。
リリィはハルの顔を見遣った。その目に、そんな自分の奥底を覗き込む裏心は見えなかった。リリィは心中で己を嗤った。自分くらいの歳の女なら、異性はそれなりに大きな関心事なのだろうか。こんな、惚れた腫れたには無縁そうな少女でも。
ハルは、リリィのそばに腰を下ろした。
「……アーチャーの子孫だって言ったって、まともな腕の奴なんかいねぇ。それなのにプライドばっか高くて、しきたりにこだわって……あんなチンケな村、こっちから願い下げだぜ」
シュッ、と一投。小石を投げる。水が跳ねる。この季節、まだそれに脅かされる魚もいない。川は一瞬でその刺激を洗い流す。
リリィはハルの横顔を見る。川面に目を落とす表情は、彼女の言葉ほど晴れてはいなかった。
「……心残りがあるんでしょ」
細い目が険しくなる。図星だったようだ。
「おふくろが……病気なんだ。ほとんど歩けねぇ。世話する奴がいないと死んじまう」
「お父さんは?」
「オヤジ?とっととくたばったよ。あのクソ野郎!」
「村の人たちは世話してくれないの?」
普通の共同体ならば、そのような者が出れば対処するだろう。そのための共同体だ。だがハルは否定した。
「掟破りの親の世話なんか誰がしてくれるかよ」
「フレアって人は親切だったけど。今朝、ミンナをもらったわよ」
「ああ、フレアさんか……あの人くらいだな。まともなのは」
リリィは思った。この少女が、別に村人から特別爪弾きにされているわけでもなかろう。言葉遣いは悪いが、嫌われるような性格とも思えない。
想像はできた。先祖たちの威光と、それに比した自分たちの無力さ。空回りする自尊心。おのずと心がすさぶ。かつて自分が身を寄せた召喚士の村もそうだった。実り少ないツォイボヤンの東麓と言う位置からくる貧しさが、それに輪をかける。
「で、何の病気なの?薬草の心得は多少はあるわよ」
放っておけない気がした。だがハルは拳を握った。
「……悪ぃけど、おめぇには無理だ」
唇を噛む。
「石蠟癩だ」
「……………」
石蠟癩は、四肢の先端から始まる病気だ。最初は冷たく、やがて蠟のようにこわばり、弾力がなくなってくる。皮膚が剥がれ、粉を吹く。進行すると、病変は体の中心部に向かう。そして末端は、今度は石化する。大抵は、全身が石になる前に衰弱死する。諸候領北部の風土病で、数は少ないが、発症するとまず助からない。まれに伝染することもあるため、世話も嫌がられる。土地によっては罹患者が山に捨てられることもある。村人たちの介護が期待できないのは、その病名のせいかもしれない。
ただ、唯一の治療法がある。
「薬を用意してやりてぇんだ」
「あなた、作り方は知ってるんでしょうね?」
リリィは驚いた。石蠟癩を治す薬、それは……
「知ってる……石トカゲ、あいつの髄液から調合した薬しか効き目はねぇ」
バジリスクは魔物の一種だ。人の手が入るような土地にはいないが、そこまで珍しい生き物でもない。遠くないツォイボヤン山脈の北部、分け入った山岳地帯の一部にも生息する。
ただ、ひと睨みで人を石にする大トカゲを仕留めるのは容易ではない。リリィが文献を読んだり見聞きしたりした範囲では、偶然見つけた死んだばかりの個体から採取した例しかない。無論、そんなものから作った薬が流通しているはずもない。
「だったら……」
「……バジリスクを狩る」
ハルは睨む。あたかも眼前に獲物がいるかのように。その横顔を見遣るリリィを少女は見返す。
「今おめぇ、あたいが正気かと思ったろう?でもあたいの気はふれてねぇぜ。あたいとおめぇならできそうな気がするんだ」
少女は本気だ。疑う余地もない。なら……
「あなたは何ができる?」
「見せてやる」
ハルは立ち上がった。矢籠から矢を取り出す。三本。そしてそれをつかんだまま、小川の手前の一本の立木を指した。それから腕を水平に動かし、向こう岸の二本。いずれも距離は二十ルーテほど。
「見てろ」
彼女は弓を構えた。そして番えた。三本の矢を手にしたまま。弦が引かれ、弓が軋んだ。その動きが止まるか、止まらないか、その一瞬、彼女は力を解放した。
タァン!
バサバサバサ……
逃げ立つ鳥たちの羽音。耳に届く音が川のせせらぎだけに戻った時。
「……………」
三本の矢は、それぞれハルの指さした場所に、寸分たがわず突き立っていた。最初からそこに存在していたかのように。
「……あたいに誇れるものはこれしかねぇ」
「本物の的は動くわよ」
「わかってる。あたいがどんだけの鳥やケモノを殺してきたと思ってんだ?」
「話には聞いたことあったけど……実際にできる人を初めて見たわ」
「あたいも初めて見たぜ。杖で矢をはたき落とすヤツ。おめぇ、相当腕に覚えのあるロッド使いなんだろ?」
召喚術を失った自分は、他人からはロッド使いに見えるのか。リリィは思った。ハルはリリィに正対すると頭を下げた。
「頼む!手伝ってくれ!」
その願いは本物か。
「報酬は?」
「金はねぇ。あたいに払えるもんはないよ……身体で払う」
「売春でもするの?」
リリィのいたずらな問い。ハルはがに股になると、今度は自分の下腹部をバシバシ叩いた。
「あたいはこう見えても生娘だよ!んなことすっか!」
そしてこぶしで胸を突く。
「手伝ってくれたら、あんたのしもべになる。自由に使ってくれ」
「じゃあ、失敗したらどうする?」
「……村に帰る。頭を下げて、謝って、儀式を受けて……おふくろの世話をする」
真摯な表情に偽りの影は見えなかった。リリィは表情を緩めた。
「わかったわ。その仕事、受けましょう」




