2.少女と追手 ☆
つづらに折れながら街道はツォイボヤン山脈を越え、下り切ると南に折れる。そこから最初の宿場町、キシュルまでは二十カロルーテ。徒歩なら一日半ほど。起伏の少ない、見通しの良い道が続く。
その街道を使わず、十カロルーテほど南寄りの間道でリリィは山を越えた。山中で一泊し、昼過ぎ、ようやく街道に合流した。
(お昼にしましょうかね)
腰を下ろした彼女は、道沿いの巨木に身を委ねた。根と根の間に、少女らしい、丸みを帯びた体が収まる。
「ふぅ」
大きく息をついてリリィが巾着から取り出したのはミンナ。今朝、通り過ぎた村で婦人に分けてもらった。しっとりとした食感。ほのかな塩味。きのうの朝から保存食ばかりだった彼女には、その水気の多い携行食がありがたかった。汲み直した水筒の水もまだ冷たく、カラカラだった彼女の喉を潤した。
包み込むような暖かさ。うららかな日差し。眼を閉じると聞こえるのは、小鳥のさえずり。時おりそよぐ風も心地よく、木の葉を揺らして柔和な音を立てる。山越えの疲労と、街道に合流した安堵からか、食事を終えたリリィは夢の世界へ誘われるのを感じた。
……あれ以来、声は聞こえない。
不思議なものだ。普通、夢は時が経てば薄れ、やがて忘却する。
だがあの夢は……
苦しみと苦痛の中で見た夢は、時の経過とともに細部が蘇り、完全なものとなった。
(リリィ、新たな契約を結ぶのだ)
(西へ行くのだ。西の、大きな国。人の王が統べるその国に、お前の問いの答えがある)
――『新たな契約』とは何か。自分にかつての力が戻るのか。西の地に答えがあるのか。
タッタッタッタッ……
そんな思考を、土を蹴る音が遮る。目を閉じたまま、リリィは意識を聴覚に集中する。ひとりだ。音が高い。さほど体重があるとは思えない。子供か女性か。そして全速力。人間、目一杯の速度で走ることなどそうない。体力がいくらも続かないからだ。にもかかわらず限界の速度で走るということは、すなわち事態が火急であることを示している。
リリィは顔を上げた。
街道上、北から駆けてくる姿がある。少年……いや少女か。細身の体にズボン、ブーツ。短い髪。粗末な衣服。小振りな弓を手にし、肩からは矢筒が見え隠れする。射手か。
少女の後ろに追手も見えた。男が三人。やはり弓を手にしている。少女は道端のリリィに目もくれず、土埃を上げて駆け去った。追手が足を止めぬまま弓を構えた。その矢先が捉えるのは、前方の少女。リリィは立ち上がった。彼女は番える男たちの前に立ち塞がった。
「余計なことすんな!」
振り返ったのか。後方で少女が叫んだ。「危ない!」――そう思ったのは追手たちだった。彼らとて、無関係な者を傷付けるつもりはなかった。だが咄嗟のことに、射る動作を止められなかった。三人は、ほぼ同時に矢を放ってしまった。風を切って飛ぶ矢先は、正確に後方の少女に集中していた。そしてそれは、ロッドを手にした魔導師風の少女を目掛けていることをも意味していた。
だが、木漏れ日を切り裂く三本の矢を前にして、リリィに動揺はなかった。
「ふん!」
左手のロッドが一閃した。鋼の先端が一周した時、矢はハエのごとく叩き落されていた。超人的な能力に追手の脚が止まった。後方の少女も目をむいた。
(なんだあいつ!杖で矢をはたき落としやがった!)
しかし驚いている場合ではない。我に返ると少女はリリィの背に叫んだ。
「関係ないヤツはすっこんでろ!これはあたいとあいつらの問題だ!」
「……………」
リリィは戦闘態勢を解いた。ロッドを肩に掛け、右の腰に下げた麻袋を取り上げた。そこに突き立つ一本の矢。地に落ちた矢は二本。一本、止め損ねたらしい。
「たった今、私の問題にもなったわね」
口で紐を解く。麻袋をむくと、中から現れたのは黒ずんだ腕。だらん、と手首がしな垂れる。
「ひぃっ」
追手たちがひるむ。
「バケモノか!?」
麻袋を口にくわえ、ぶら下げる。そして再び背中のロッドを抜く。上体が沈む。
「ちょ……!」
「ま、待ってくれ!」
「助けて!……」
後ずさりする男たち。リリィが爪先を半歩出す。
「ひいいいいッ!」
敵わないと思ったのか。悲鳴を上げ、男たちは遁走した。
彼らの姿が見えなくなってから、リリィはロッドを置いた。そして口にくわえていた麻袋を手に取った。矢の付き立った腕。彼女はやれやれと言った体で目を落とした。
そんな様子を、追われていた少女は吃驚の目で見ていた。日に焼けた短い髪。細い手足。リリィが見遣ると、少女の驚きは怯えに変わった。
「な、なんだてめぇ……?」
身構える少女。だがそんな彼女を気にかける様子もなく、リリィは道端に腰を下ろした。そして腕に刺さった矢を抜いた。返しはない。追手たちも、本気で少女を殺傷する気はなかったようだ。鼻からふぅと息を吐き、リリィは腕を麻袋に戻した。その様子を恐る恐る見ていた少女だったが、相手に敵意がないことを悟ると、申し訳なさそうに眉が下がった。
「それ、自分の腕か?……すまなかったな」
「別にいいわ」
「自分の首を持ってる首なし騎士のおとぎ話は聞いたことあるけどな。自分の腕を持っているやつに会えるとは思わなかったぜ」
表情を緩め、痩身の少女は隣に腰を下ろした。
「あたいはハルバーティカ。姓はフローリンシャンテ。アーチャーの村の生まれ。ハルって呼んでくれ」
「私はリリィ。アーチャーの村なら、今朝通り過ぎて来たけど」
「えっ、おめぇ、まさか山の向こうから来たのか?」
「ええ」
「すげぇな。あたいでも峠のてっぺんまでしか行ったことねぇや」
「……その村の者に追われてたみたいだけど?」
「あ、ああ……」
ハルの視線が沈んだ。
おおよその事情をリリィは察していた。だがハルに語るのを任せた。彼女は重たそうに唇を開いた。
「今日、儀式だったんだ……」
予想どおりだった。
アーチャーの村に生まれた女は、十五の歳に右の乳房を切り落とさなければならない。矢を射るのに邪魔になるからだ。そのアーチャー特有の通過儀礼から逃げてきたのだ。彼女は少年のような薄い胸をバンバンと叩いた。
「だいたいよ、あるかないかわかんないような胸、どうやって切り落とすんだよ?えぐんのか!?」
そして横目でリリィの膨らみを見遣る。
「ちぇっ、おめぇはでっかそうだけどな!」
苦笑いするリリィ。
「これからどうするの?」
いたずらな目を向けて訊くリリィに、ハルは肩を落とした。
「掟を守らない限り村には帰れねぇ……いやそれより……」
彼女は、街道の北を望む。
「ここは目立つ。場所を替えさせてくれ」
立ち上がり、林の中を指さした。リリィも腰を上げ、彼女に従った。




