1.儀式の朝 ☆
■物語の舞台
アレスの元で半年を過ごしたリリィは、ツォイボヤン山脈を越え、東方諸候領に入ります。アーチャーの村を過ぎ、最初の宿場町・キシュルを目指す彼女は、その途中でひとりの痩せた少女と出逢います。
■登場人物
・リリィ
召喚士の少女。死霊を宿していた右腕と共に召喚能力を失うが、ロッドと剣の腕前は健在。
・ハル
アーチャーの少女。儀式から逃亡中、リリィに出逢う。
・フレア
アーチャーの村に住む親切な婦人。
・ミルラ
ハルの母。
■その他
・ミンナ
炊いた穀物を丸めて固めた携行食料。我々の世界で言うところのおにぎり。
・1ルート(複数形『ルーテ』)
距離の単位。約1.8メートル
・1カロルーテ
距離の単位。1カロルーテ=1,000ルーテ≒1.8キロメートル
・1ソータ(複数形『ソリタ』)
通貨の単位。約0.5円。ただし食料や日用品は、我々の世界より概して安価。
「おや?」
牛の歩み、とはゆっくり進むものの例えだ。
その例えのまま、のろのろと牛の手綱を引いていた婦人が足を止めた。畑を鋤いていたのだろう。中年女性特有のシルエット。衣装は質素なワンピースに前掛け。農作業をする成人女性としてはありきたりな格好だ。頭に巻いた、赤を基調とした鮮やかなスカーフだけが、早春の単調な農村の風景に彩りを添える。
顔を上げた婦人の視線は、旅姿の少女を捉える。褐色のローブをまとい、腰には長剣。長いロッドを杖代わりに突いている。腰まである黒髪が柔らかな風に泳ぐ。
「お嬢ちゃん、山越えて来たんかい?」
声を掛けられ、少女が立ち止まる。振り向く体に右の袖が遅れて従う。そこから覗くはずのものがない。婦人の目に憐みの色が浮かぶ。
「あらまあ、片腕かい?不自由だろうねぇ」
「お気遣いなく」
少女は口元を緩めた。婦人が前掛けで手を拭い歩み寄った。
「これ持っていきな」
懐から取り出したのは、木の葉で包んだミンナ。炊いた穀物を丸めて固めたスタンダードな携行食品だ。
「塩を振ってある。このあたりの岩から採れる塩は美味しいよ。水筒は持ってるね。もう少し降りたら井戸があるから、水も汲んでいきな。文句を言われたら『フレアに許可をもらった』って言えばいい」
「ありがとう」
少女は手にしていたロッドを肩に立て掛け、空いた左手でミンナを受け取った。軽く会釈したあと、腰の巾着に入れた。
「このまま下れば街道に出られるよ。迷うようなところはないさ」
少女はまつ毛を伏せ、再度感謝を表した。暖かな風が土の匂いを運んだ。少女はロッドを握り直し、緩やかなあぜ道を下っていった。ローブの裾から覗くサンダルのかかとが、まばらな葉を付ける木立の向こうに消えていった。
※
仄暗い小屋に立つ少女の口元は固く結ばれ、震えていた。
握った拳。吊り上がった肩。体のこわばりがわかる。
壁には二張りの弓。木材を組んだ弓掛けに掛けられている。大きいもの、そして小振りなもの。大弓は一ルーテをゆうに超える。見事なものだ。それを扱う者の屈強な体躯を想起させる。弦を張るだけでも数人がかりになろう。
ただ、その弦がない。張力がかからず、弛緩した弓はどこか空虚だ。砂埃すらかぶっている。小振りのものだけ、射手の存在を感じさせる。足元に矢籠がひとつ。雑に立て掛けられている。中の数本の矢は短い。その小さな弓で使う物だろう。
「さあ、そろそろ行きなさい」
女性の声がする。低い位置からだ。臥せっているのか。弱々しい声が少女を促す。だが足は土間に貼り付き、離れない。
「怖いのはわかるけど、この村の女はみな通る道よ。四年前はミスリアも受けたじゃない」
「うう……」
拳の震えが大きくなる。靴底がジリッと砂を噛む。
その時、戸口の向こうから声がした。別の婦人の声だ。
「準備はまだかい?」
急かす声が火を着けたのか。少女の感情が爆ぜた。
「おふくろッ!」
左手が小振りな弓を引っつかむ。はずみで大弓が倒れる。それを直そうともせず、少女は矢籠の肩掛けつかみ上げる。
「すまねぇ!」
「ハルっ!」
少女が飛び出した。きゃあ、と外で猫を蹴飛ばしたような声。
「どうした!?」
悲鳴を聞いて駆け寄る男たちに、尻もちをついた婦人が集落の出口を指す。
「ハルが、ハルが!」
――ハルが逃げたぞーーーーーッ!!




