9.出立 ☆
月が替わり、寒さが緩んだ朝。
乾期にしては珍しく続いた曇天が晴れ渡った。旅の支度を整えたリリィが、ついにその時を迎えた。
持たせたいものがある、アレスはそう言って自分の小屋へ戻った。手にして来たのは、いつも使っている斧だった。
「床を掘ってみなされ」
リリィは板張りの床を見下ろした。もとは土間だったところ、リリィのためにアレスが敷いたと聞いていた。リリィはその床の、アレスの指さすところを叩き割った。砕けた木片をアレスは片し、黒ずんだ土をシャベルで掻いた。すると木箱が現れた。両手で抱えるほどの長さの、細長い箱だった。彼はそれを掘り起こし、釘を抜いた。
「……………」
中には、布を巻いた何かが収められていた。
「持っていくがいい」
中身は見えない。だが予感がした。リリィはそっと触れた。
「!……」
石でも木でも、金属でもない。確かな弾力をもつ感触……リリィは布を解いた。そして天井を仰いだ。
「ああ……」
収められていたのは、右腕だった。そして……
「魔封環!お母さん!……」
リリィはその腕を胸元に抱いた。
「やはり……腐っておらなんだか」
「……もとから腐ってたからね」
リリィが自嘲した。巻いていた黒布はそのままだった。露出した皮膚は生気を失っていたが、腐敗した様子はなかった。指も柔らかく曲がった。手首を貫いた矢は抜かれていた。
「鋼の矢だったので切るのに難渋したがな。ロッドを持って帰った時、それも見つけておった。エウロペがくわえて来よった」
彼はそれを言わず、隠していた。そのわけをリリィは察した。腕を失ったばかりの自分にそれを見せれば、少なからず動揺しただろう。
……いやそれだけだろうか。
アレスは恐れたのではないか。腕を見つけた自分がそれを取り、どこかに去ってしまうのを。だから隠した。だが時が流れ……彼は決断した。自分をいつまでも留め置くべきではないと。
「ありがとう……」
リリィは頬ずりした。冷えた右腕は、無上の温かみを彼女に与えた。
※
バイカヴァルを提げていた右の腰に、リリィは腕を収めた布袋を提げた。剣は左のままにした。抜きやすさを考えれば右に提げるべきだろうが、やはり右腕は右側に置いておきたかった。またあの時、左の剣をすぐに抜けなかった反省から、左手で抜く訓練もしていた。
「気を付けてな。死ぬんじゃないぞ」
「私の命はあなたに授けられたようなもの。粗末にはしないわ」
アレスの白い髭が朝日に照らされる。
「私からもお願いがあるわ」
「聞こう」
「……足腰が立たなくなる前に、町に出て。町には年寄りの世話をしてくれる者もいる」
自らの力で生きられなくなった時、森では衰弱し、朽ち果てるしかない。そしてそうなった時、この老人は迷うことなくその道を選ぶだろう。それは森に棲む者の定めでもある。だがリリィは、彼のそんな未来を望まなかった。自分が去ることで彼の死期が早まるのを避けたい、そんな利己的な感情かもしれなかった。でもそう思われても構わない、そうとさえ思った。
「……町に出て長生きすれば、またいつか、お前さんの名を聞くこともあるかもしれんな」
「悪名じゃなきゃいいけどね」
アレスが顔を上げた。視線の先にはツォイボヤンの山並みがあった。彼はその一か所、南東の方を指さした。
「あの稜線の向こうに回れ。道というほどのものではないが、山向こう、射手の村の者たちが使う間道がある。お前さんひとりなら十分越えられる。街道に戻るより近道じゃろう」
「ありがとう。そうするわ」
「達者でな」
アレスが右手を差し出しかけて、替えた。リリィはその左手を握った。乾いて、皺だらけで……そして大きく、温かな手。その手を見て……彼女は顔を見ることができなかった。きびすを返し、背を向け、彼女はその地を後にした。
※
馬車や荷車も通る街道と異なり、そこは岩をよじ登るような険しい道だった。ただその分、距離は短かった。昼過ぎには、ツォイボヤンを越える峠を登り切った。リリィは振り返った。
「……………」
絶景だった。
蒼穹のもと、西にかすむのは、マーロン山脈。高峰に阻まれ見ることはできないが、その向こうには、中央大平原と、『人の王が統べる国』が広がっているはずだ。
視線を手前に引くと、森の向こうに辺境最大の街、ミルミレニアがかすんで見える。南に視線を振れば、遮るものは何もない。ふたつの山脈が消える先には、海が広がっているだろう。
リリィは視線を戻した。眼下には、見渡す限り森が広がっていた。
そんな木々の絨毯を眺め、リリィはアレスの言葉を思い出していた。それは群盗と対峙してから数日後、遅々として出立の準備を進めないリリィに彼が告げた言葉だった。
(『人間、骨を埋める山はどこにでもある』―――)
(……何それ?)
(この辺境地方のことわざじゃ。人間、死ぬときはどこででも死ねる。住む場所にこだわって志をないがしろにするのは愚か者のすること、そう言う戒めじゃ)
リリィはくすりと嗤った。
(アレス、そう言うあなたこそ森にこだわってたじゃない。奥さんに逃げられまでして)
リリィは背中を反らせた。頬に手を添え、肺にありったけ空気を吸い……万感の思いを込めて森に叫んだ。
「――アレス!いざというときは、ちゃんと町に行くのよ!」
リリィは顔を上げた。あふれる涙、そのしずくをこぼさないように。だがそんな彼女の思いを嘲るように、双眸は泉のように蜜を吹き上げる。
(ああ、アレス、さようなら!……)
ロッドの先端が小気味よく半弧を描いた。
彼女は背を向けた。それは決別を意味していた。
二筋の山脈に囲まれた辺境の地。
もし天に『神』がいるなら、その者にとっては箱庭のような、小さな土地。それでいて、あまりに多くの想いをリリィに授けたその地に背を向け、彼女は歩き始めた。
そして……
ほどなく眼前に広がるであろう東の土地は、自らが生を受けた地。幾多の豪族たちが数百年にわたりしのぎを削った大地をリリィは目指した。
……次なる物語を紡ぐために。
第1部 完
(第2部に続く)




