1.邂逅 ☆
■物語の舞台
第1部は、ふたつの山脈に挟まれた『東部辺境』と呼ばれる地域を舞台とします。冒頭を飾る第1話は、その北のはずれにある、召喚士の子孫が住む小さな村でのボーイミーツガールの物語です。
■登場人物
・リリィ
右腕に死霊を宿した召喚士の少女。召喚士の末裔たちが暮らす辺境の村に流れ着く。
・エス
召喚士の村で生まれ育った凡庸な少年。リリィに淡い恋心を抱く。
・ヴォラス
エスの父。
・ハイアライア
リリィの母。
■その他
・1ルート(複数形『ルーテ』)
距離の単位。約1.8メートル
・1カロルーテ
距離の単位。1カロルーテ=1,000ルーテ≒1.8キロメートル
・1ソータ(複数形『ソリタ』)
通貨の単位。約0.5円。ただし食料や日用品は、我々の世界より概して安価。
少年は後悔していた。
自らの欲求が、この破滅的な事態を招いてしまったことを……
興味本位、と言うほど軽いものではなかった。だが湧き起こる衝動を抑えきれず、大人たちから『入ってはならぬ』とされていた森に足を踏み込んだ彼は、いま地面に尻を突き、迫り寄る狼型亜人たちに怯えた視線を晒していた。左脚を投げ槍で射抜かれ、もはや逃げることもままならぬ。いや、たとえ傷を負っていなくとも、ただでさえ人間の中でも運動能力の劣る自分が、野生の力みなぎらせる亜人たちにかなうはずもない。
彼らは、長く突き出た口の脇からよだれを垂らし、少年の、みずみずしく美味そうな腿や腕の肉に目をギラつかせている。
彼は思った。恐らくものの十も数え終わらぬうちに、自分の肉体は無惨に引き裂かれ、彼らの空腹を癒す糧となるだろう。そして魂は、せっかく母が苦悶の末、自らの命と引き替えに産み落としてくれた肉体が、野獣たちの空腹を癒すだけの結果に終わってしまったことを申し訳なく思っているに違いない。
そして、事実はそのとおりになろうとしていた。ひときわ複雑な装飾の曲刀を腰に差した、首領格と思われるリカントロープが低いうなりで命令した。剣を構えていた十数匹の下っ端たちが一斉に飛びかかってきた。いよいよおしまいだ。その証拠に、ほら、気の早い屍臭が、もう漂ってきたではないか。
?……屍臭?
いや、そんなはずはない。確かに自分の死は確定的だが、まだ死んではいない。それに亜人たちだって、まだあんなところじゃないか。じゃあ、この臭いは?
……そう、その瞬間、起こるはずもない奇跡は起こった。
「ダムヌ(待ちなさい)!」
少年の背後から飛んできた、鋭い女の声。亜人たちの動きが止まる。
「ニム ボウタ(あなたたち、よそ者ね)」
耳慣れぬ言葉に、少年は身をよじって振り返る。
そこにはひとりの少女が立っていた。歳のころ十四、五だろうか。腰まである長い髪を靡かせた少女は、みすぼらしい褐色のローブを身にまとっていた。だがその装いとは不釣り合いなほど、顔立ちは端正だった。恐らく笑えば、年頃の少年ならば心を動かされずにおれぬ愛くるしさを放つだろう。だが今は笑みを振りまいている時ではない。少女は内包する愛らしさを射るような眼光で隠し、亜人たちを威圧していた。
彼女は左の腰に、細身の長剣を提げていた。しかしそれを抜く気配はない。それよりも何よりも眼光の威圧に加担していたのは、右手に握られた一本のロッドだった。身長ほどもあるそれは、金属の光沢を放っていた。上端には、暴力的な形状をした、非対称な金属の塊が取り付けられていた。
しかし少年にとって重要なのは、少女の出で立ちや武装ではない。存在そのもの。ほかでもない。その少女こそが、禁を破ってまで自分をこの森に入らせた原因だということだった。
「貴様こそ、何者だ!?」
リカントロープの首領が、人とは違う造りの声帯を鳴らした。少女は不敵な笑みを浮かべた。
「このあたりの亜人なら、そんな質問はしないわ。私を知らないはずはないし、だいいち私に刃向かおうなんてするわけがない」
「ふ、ふざけるな!たかが人間の小娘が!オレたちに勝てると思ってるのか!」
「やるなら来なさい。受けて立つわよ」
「野郎ども、かかれっ!」
二本足で立ってはいても、人とは明らかに違う。野生の中で生き抜くための造形をした獣の民たちの下肢が一斉に地を蹴った。それに呼応するかのように、少女のロッドも跳ねた。迫り来る亜人の群れに、少年は身を伏せた。その体を、小川でもまたぐかのように獣たちが飛び越えた。「いくら何でもあんな女の子が、十数匹のリカントロープ相手に勝てるわけがない」……そう思った少年は、直後に展開されるであろう無惨な、そして自らにとっても絶望的な光景を連想し、頭を抱えた。
だがロッドを構えた少女は、身じろぎもせず亜人たちを見据えていた。少年の耳に少女の声が響いた。怯えなど微塵もない、威厳に満ちた声だ。
「ンガ スベア イム デクストラ アムト
(我が右腕に宿りし僕たちよ)
サント ベロア エンシール デライブ アントゥンガ
(今こそその封を越え、我に敵対する者を滅ぼせ)
ノーモーボルシュトローヌト コムト!
(いでよ、死霊たち!)」
薄暗い森の中が、真昼の砂漠のように明るくなった。少年は顔を上げた。その光が存在したのは一瞬で、どこから発せられたのかもわからぬ間に消え失せた。だが彼は気付いた。少女の右腕、肘の先から手首まで巻かれた黒い布の表面から、もやのような白い煙が立ち始めたのを。そしてそれはもちろん、もやなどではなかった。
「ウウッ!……」
リカントロープの首領がうなった。もやはすぐにいくつもの白い塊をつくった。するとなんとその塊のひとつひとつに、恨めしげな人の顔が浮かび上がるではないか!そう、そのもやこそ、自らの個体死を受け入れず、安息の時を迎えることも拒否し、現世をあてどなくさまよう死者の魂、死霊だったのだ。恐怖におののいたのは少年だけではなかった。
「ウワアッ!」
亜人たちは突進をやめた。だが時すでに遅し。数え切れないほどの亡者の群れが、尾を曳きながら彼らに襲いかかった。
「ギャアアッ!」
「グワアアッ!」
「ヒギイィィッ!」
ある者は胴を貫かれ、はらわたをぶちまけた。またある者は四肢を、頸を引きちぎられた。まばたきするほどの間に、凶暴な亜人たちは一匹残らず死体となった。
「……………」
目の前に展開された惨たらしい光景と、自分の命が助かったという安堵の交錯から、少年は言葉を失っていた。
「……大丈夫?」
少女は二歩三歩、少年に歩み寄った。危機を救ってくれた彼女は、少年にとって敵ではなかった。しかし身を起こした彼は、反射的に後ずさりした。
「あっ、あの……」
少女は彼の前にしゃがみ込んだ。遅れて長い髪が背に降りた。
「肉を抉られてるわ。でも太い血管は大丈夫なようね」
「イテテテ……」
冷静に診断され、あまりの出来事に忘れていた痛みを少年は思い出した。少女はローブの裾を割いて傷口を縛り、それからくるりと背を向けた。
「乗って。歩けないでしょ?」
その時、またあの臭いが漂ってきた。鼻をつく臭気。それは腐敗した屍の臭いだ。
そして少年は……
その臭いがいま死んだ亜人たちからではなく、彼女自身から発せられていることに気付いた。