6.老人と犬 ☆
老人は、名をアレスと言った。
もう何十年も町から離れ、マチャの森の奥深くで暮らしていた。
食事をとれるようになり、リリィの回復は早まった。だがモルフィンの量を減らしたことで、右腕の激痛にはひと月悩まされた。ピリピリと神経をつつくような痛み。あるいは骨を削るような激痛。どちらも声を抑えられないほどだった。
身に着けていた荷物は無事だった。腰に提げていた貴重品やバイカヴァル、長剣もそのままだった。アレスは、リリィが転落した崖下を調べに行った。愛用のロッドを持ち帰ってきた彼の姿はリリィを喜ばせたが、アレスはその重さに閉口していた。
彼の調査で、リリィの記憶が途絶えたあとのこともおおむねわかった。
咄嗟に止血し、リリィはそれでも暴漢から逃れようとしたらしい。だがそこは崖途中の岩場だった。彼女は足を踏み外し、川に転落した。そして発見された川原まで流された。もし止血せずに水に落ちていれば、たちまち血液が失われ、死んでいただろう。いや、並の人間なら止血していても助からなかったかもしれない。溺れ死んだ可能性もある。超人的な生命力は、魔の者たちからの授かりものかもしれないと彼女は思った。
リリィを見付けたアレスは、愛犬エウロペの背に彼女を乗せ、連れ帰った。そして介抱した。始めは水や蜜を綿に含ませ、少しずつ与えた。物置小屋の土間に床板を敷き、ベッドを作り、隙間風が入らぬよう整備した。容体に応じモルフィンを使い、キナを調合した。モルフィンは、長年作り溜めていたものを放出した。食事は、取りやすさと栄養の両方を考慮していた。
献身的なアレスのほか、リリィの介護にはエウロペも貢献していた。
その年老いた牡犬は、終始リリィに寄り添った。彼女に異変があればアレスを呼び、また彼女が頼めばアレスを連れてきた。彼は精神的にもリリィを支えた。彼女はしばしば、残った左腕でエウロペを抱いた。その温もりと柔らかさは彼女に安らぎを与えた。
血が戻り、歩けるようになったリリィは小屋の周囲を散策した。マチャの森はそれなりに豊かで、夏から秋にかけてはキノコや果物が実った。蜜も採れ、また芋や栗の類は保存が利くため、冬に備える貴重な食料となった。
秋が深まると、森は乾期となった。水に飢えた木々をアレスは切り、窯で焼いて炭にした。そしてそれを町で売り、収入を得ていた。贅沢を望まなければ、男ひとりと一匹が暮らすには十分な恵みを森は与えた。
だが、リリィは悟った。
アレスに忍び寄る『老い』の影……
町――それはすなわちマチャルテの町であるが、往復するには二日がかりとなる。持てる荷物の量は減り、出る頻度も下がる。そして何より、自分が流れ着いてから、彼が生業より自分の世話を優先していることは明らかだった。そんな彼に何も成せず、ただ療養するだけの日々は終わりにせねばならない。
「手伝えることはないかしら?」
炭の原木に斧を振るうアレスの背に、ある日リリィは尋ねた。彼は腕を止めた。
「無理せん方がいい」
「休んでばかりじゃ、体がなまってしまうわ」
「何ができる?」
彼は振り返った。慈愛に満ちたいつもとは違う、射るような眼光。そこには森に暮らす者のプライドがにじんでいた。
しかしリリィとて負けてはいない。年端もいかぬころから誰の庇護も受けず、ひとり森で生活していたのだ。
「薬草の採取、調合なら。何がいる?」
自信に満ちたリリィの表情にアレスは納得したのだろう。彼は顔を崩すと、腰のあたりに両手を遣った。
「いやあ、年を取るとな、情けない話だが厠が近くなってな。いい薬草はあるかの?」
「わかったわ」
蔓を編んだかごを手にし、リリィは森に入った。ほどなく彼女は戻り、採ってきた野草をアレスに示した。肘から先ほどの長さのそれは、マチャの森では珍しくない、セルロナと呼ばれる草だった。
「そんなものが効くのかの?」
「根や葉にはなんの効果もない。花も種も。ただ、開花前の膨らんだつぼみにだけ薬効がある。ちょうどこの季節のね」
「ほぉう、そりゃあ知らなんだ。さっそく試してみようかの」
翌朝、アレスは上機嫌だった。
「おかげでゆうべは一度も目が覚めんかった。エウロペも寝ぼけたワシに踏んづけられんでご機嫌じゃわ」
「ビンを貸してくれるかしら。町で売れるような薬を作り置いておくわ」
その日からリリィは周辺を散策し、時には少し遠出もし、薬草の採取と精製を続けた。リリィの調合した薬は、焼いた炭だけが売り物だった老人に副収入をもたらした。




