5.休日の始まり (2) ☆
※
!!……
夢を見ていた。
それがどんな夢だったか、思い出せない。
ただ、悲しい夢だったことは間違いない。意識ははっきりしないのに、目尻から伝った涙の跡を感じる。
今は現実なのか。それとも夢から覚めて、また別の夢を見ているのか?
そうでもないようだ。
次第に五感が戻ってくる。身を苛む感覚。ひどい頭痛。歯が鳴るほどの悪寒。息が苦しい。身体が動かない。
そして右腕に感じる激痛。骨を削られるような、耐えがたい痛み。その部位を押さえようにも、左腕も動かない。
身体が言うことを聞かぬのなら、せめて目だけでも開けよう。
リリィはまぶたを押し開いた。暗い。よく見えない。でも夜ではなさそうだ。微かな光を感じる。ぼやけた視界が徐々に結像する。丸太の天井……だろうか。切って並べただけの粗雑な造り。見覚えはない。自分の家ではない。いやそもそも『自分の家』とはどこなのか。幼いころ、母と過ごした家か?あの家は石造りだった。では召喚士の村はずれの小屋か?そことも違うようだ。他人の家か?あたりを確かめたい。たが首が回せない。
なら、聴覚はどうか。耳を澄ませば何か聞こえるんじゃないか。
ウォン!ウォン!……
犬の鳴き声だ。すぐ傍らでする。臓腑を震わす低い声。ただ、嫌悪感はない。犬と生活した経験はないのに、どこか温かみを感じる。自分を見守ってくれているのか。
……それにしても右腕が痛い。歯を食いしばっていなければ声が漏れそうだ。だが、現実には喉は鳴らない。舌も固まっているのか。頭痛が治まらない。寒い。誰か、誰か助けて……
ギギギ……
扉のきしむ音がした。クゥーン、クゥーンと、鳴き声が甘えた響きに変わった。そしてぼやけた視界に、横から人の顔が現れた。白髭を蓄えた老人だ。
「気が付いたか」
言葉が出ない。
「無理に話さなくていい」
ぶっきらぼうな口調だが、敵意は感じない。リリィは安堵した。ただ、知覚への拷問はやまない。右上腕部の痛みに耐えられないのだ。左の指先が少し動かせたような気がした。肩も、肘も、わずかに脳の指令に反応した。掛けられた毛布の中、ゆっくりと体の上を這わせ、痛む右腕をつかもうとした。
たが……
そこにあるはずの……いや、ある感覚は明確にするにもかかわらず……つかめる物がなかった。
「!!……」
その様子に、老人は視線を落とした。
(私の右腕が……ない!……)
そしてその時……記憶は時空を跳躍した。夢の世界の、そのさらに過去へ。そして今、まざまざと思い起こした。
山中の夜道で、自分は待ち伏せされた。
下手人は、かつて自分が召喚術で炎に包んだゴロツキ。殺したと思っていたその男は大やけどを負いながらも生き延び、復讐のため自分を捜していたのだ。奇襲で右手首を射られ、腕輪を外せなくなった。ロッドも崖下に落とした自分は剣で闘おうとしたが、その瞬間、斧で切り付けられた。倒れ込んだ自分は、咄嗟の判断で崖下に身を投じた。
全身を岩や木々に打ち付けられた。死んでもおかしくなかった。ただあの場から逃れなければ、腕を切られた苦痛と絶望の中で辱めを受ける結果となっただろう。幸いにも、転落は途中で止まった。崖の傾斜が緩やかになったところで、大きな岩に引っ掛かったようだった。
激痛に苦悶しながらも、急激に血液が失われていくのを感じた。暗冥の中で感じる猛烈な悪寒。生まれて初めて『死』を予感した。そして生存本能がそれに抗ったのか。左手と口を使い、腰の帯で右腕の残った部分を縛った。転落の途中で、腕はちぎれてしまったようだった。
そして……記憶はそこで途切れた。
リリィは、その最後の記憶を反芻した。止血した時、右肘とその先は……確かになくなっていた。夢なら醒めよう。偽りの記憶なら塗り替えることもできよう。しかし、それは厳然たる事実だった。
「……………」
両眼から涙がこぼれ落ちた。不意に痛みが強くなり、リリィは顔を歪めた。
「痛むか?」
言葉にならない呻きでリリィは肯定した。
「痛み止めに、モルフィンをだいぶ使った。これ以上は使えん。すまんが耐えるしかない」
意識がぼうとするのはそのせいか。モルフィンは自分も精製していたから良く知っている。限界まで使ってこの痛みなら絶望しかない。
「ここは……どのあたり……」
「マチャルテから南へ十五カロルーテほど来た、マチャの森の中だ。案ずるな。追手の気配はない」
リリィの懸念を察したか。彼が事の顛末を知る由もなかったが、想像はできたのだろう。
「可哀想に、むごい目に遭わされて」
涙が止まらなかった。
自分は今まで、他者を『力』で圧倒してきた。同情や憐憫は、その他者に向けられるものだった。それが今、自分に投じられている。
だが、遠い昔……自分にも、他人の庇護なしでは生きられないころがあった。闇の声と契約し、力を手に入れる前だ。その幼い日、自分は憐みの目を向けられ生きていた。時に憎悪と憤怒も受けながら。心を病み、不安定になった感情の波に怯え、だがすがるしかなかった存在。それは……
(!!……腕輪!お母さん!……ああ……)
右腕を失ったということは、そこにはめていた魔封環――彼女の母親が、命と引き換えに手に入れた形見の品も失ったということだ。
リリィの心はズタズタに引き裂かれ、押し潰された。
誇りも、『力』の源泉である右腕も奪われた。大切な母の形見も失った。だがそれも全て、自分の心の弱さが招いた結果だった。
臭いを気にして着けていたリング。それが原因で召喚術を封じられた。以前なら、自分の体臭など気にしなかった。それを気にするきっかけがあったとすれば、それは……
「考えるな。血を失いすぎている。まだ命の危険がある。気付けにキナも使っておる」
険しい表情で老人が制する。リリィの顔に浮かぶただならぬ色に気付いたのだろう。
彼女は自分を嗤った。なんて無力な、なんて矮小な存在。召喚士の村で過ごした月日が、研ぎ澄ませた刃のようだった自分を鈍らせてしまった。
(エス、私は、もう……)
存分に力をふるい、恐れるものなどなかった自分。かつて八千の民兵を一網打尽にし、重装の数百の兵すら退けた、その力は失われた。
リリィは目を閉じた。
目覚めていても、押し寄せるのは悔恨と、絶望のみ。そんなリリィに訪れる無意識の世界だけが、つかの間の安息を彼女に与えた。




