3.力は我がものに ☆
雨期のあとの、湿気のこもった深い森。下草を踏みしめ、倒木を跨ぎ、どれほど歩いただろうか。前方に一軒の小屋が姿を現した。戸口は拒む素振りも見せず、無防備にこちらを向いていた。
リリィの脳裏に、忌まわしい記憶が蘇った。あの時も自分は、こうして奴の根城と相対した。そして扉の向こうに展開されたおぞましい光景。恐れがためらいを生む。彼女は唇を噛みしめた。そしてこびり付く記憶を引き剝がすかのように、目いっぱいの力で蹴り開けた。
小屋の中に、奴の姿はなかった。
一歩、二歩、足を踏み入れる。一見何の変哲もない、森に住む者の小屋。だが充満する強烈な臭気――自分の右腕が放つ屍臭と同じもの――は、間違いなく奴の存在を示していた。リリィは奥の壁を凝視した。
(!……)
眉根を寄せる。気配を殺し、そっと、そっと足を出す。手は届かない。しかしロッドなら十分だ。目いっぱい長く持ち、振りかぶった。そして渾身の力で振り下ろした。
バキイッ!……
静寂を切り裂くけたたましい破壊音。板張りの壁が紙のように裂ける。その裂け目から覗く森の奥。そしてあの男!……
「マリーシアス!」
ほとんどの魔術師が高齢となった現代だが、マリーシアスは壮年の魔導師だ。長身で、肩幅の広いがっしりした体を漆黒のマントで覆っている。口髭を蓄えた顔は黒ずんでいるが、精悍だ。彼は捻じ曲がった木製のロッドを身構えた。
「とうとうやって来たか、ハイアライアの娘……いや、我が娘!」
「誰があなたの娘よ!気持ち悪いこと言わないで頂戴!」
「血はつながっておらずとも、私が力を授けたお前は我が娘と呼ぶに値する!」
リリィは忌々しそうにロッドを振り回した。怪力が壁を粉砕する。ささくれ立った板をサンダルが跨ぐ。
「六年前のケリをつけに来たわよ」
眼光が邪悪な魔導師を威圧する。しかしマリーシアスも驚き顔を晒すばかりではない。「ふっ……」、余裕の笑みを浮かべ彼は訊く。
「復讐か?」
リリィが苦々しそうに唇を噛む。。
「復讐ならお門違いだぞ。お前の母は、望んで私の素材となったのだからな」
「復讐ではないわ」
「では私に挑む何の理由がある?」
「それは!……」
声を上げてから、リリィはひと呼吸置いて感情を鎮めた。
「……あなたの言うとおり、私の力はあなたに与えられたもの。つまり借り物に過ぎない」
「そこで私を倒して力を自分のものとする気か!大した理由だ!」
マリーシアスが杖を振り上げる。
「だが私が与えた力で私を倒すことはできんぞ!」
「あなたを倒すのに『力』を使うつもりはないわ。だから腕輪もこのままで結構」
「いい覚悟だ!だが私は力を使わせてもらうぞ!ノーモーレイス、コムト!」
両腕を広げ、ネクロマンサーが詠唱する。刹那、彼の前に黒い霧が現れた。それは渦巻くように集まり、人の形となった。身の丈一ルート半はあろうか。黒いフードの下に、眼光だけが怪しく光る。ローブから突き出た手には、血に飢えて輝く大鎌が握られている。背後からマリーシアスの勝ち誇る声がこだまする。
「お前に与えた力なぞ、ほんの子供だましに過ぎぬ!これが死霊術の真髄というもの!お前にこの怨霊が倒せるか!?」
「ゴオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
レイスが大鎌を振り上げた。怨霊と言っても、それは霊体ではない。彼の力はあくまで召喚術。古代の召喚士がドラゴンやワイバーンを召喚するのと変わらない。実体を伴った魔物の体を、時空を越え結実させる術なのだ。
レイスの凶刃が木漏れ日を裂き、振り下ろされる。しかしリリィに避ける気配はない。
「ふん!」
すさまじい金属音。ふたつの影が止まる。
「ウ、ウゴォ?」
レイスがうなった。その声は明らかに困惑していた。リリィは両腕を伸ばし、頭上で大鎌の柄を受け止めた。彼女の体を引き裂くはずの凶刃は、先端を彼女の背につけ、そこで止まった。
「あなた、ちょっと力が足りないんじゃない?」
ニヤリと一笑し、腕を捩じる。一回転するロッド。その動きに巻き取られ、大鎌は側方に吹き飛んだ。同時に飛び退き、リリィは黒い影と間合いを取った。
「ウオ、ウオオオオッ!」
得物を失ったレイスは、フードの中の瞳を見開く。双の空手を振り上げ、狂ったように襲いかかる。リリィの体が沈む。地面すれすれの高さで彼女は足元をすり抜け、そしてロッドを突き上げた。
「ウガッ!……」
声を上げたのは、レイスではなかった。
「グ、オ……」
凶暴な鋼の先端が捉えたのは、マリーシアスの喉。彼は血を吐き、短い呻きを上げた。レイスの巨躯に守られ安心しきっていた彼の目は、事情が飲み込めずにきょとんとしていた。
「別にあのでくのぼうを倒す必要はないわ。要はあなたを倒せばいいんだから」
その時のマリーシアスに、その言葉を聞き、理解する能力は残されていただろうか。
「地獄に落ちな!」
ロッドがマリーシアスを突き飛ばす。長身が紙細工のように浮く。そして長い滞空ののち、背中から地面に落下した。レイスもリリィの背後で雄叫びを上げ、消滅した。顎を上げ、つぶれた喉を晒したマリーシアスは、ぴくりとも動かなかった。乱れたマントを見下ろし、リリィは冷たく告げた。
「下手な魔法より、腕力の方がよほど頼りになるわ」
背を向け、リリィは歩き去った。残されたマリーシアスの目は、半開きのまま、その体が朽ち果てるまで、像を結ぶことは二度となかった。
※
リリィの母親・ハイアライアをめぐる魔導師マリーシアスとの対決は、あっけなくその幕切れを迎えた。彼女はさらに自らの過去を清算するため、ツォイボヤン山脈の向こう、東方諸候領を目指した。
だが、その街道上に……
……不本意な『休日』の始まりが口を開けていた。
(第3話に続く)




