2.契約 (2) ☆
※
実りの乏しいまばらな森の中に、忽然と姿を現した石室。その前にリリィは立った。
家を出てから数日。この石室こそ、彼女が捜し求めた魔導師マリーシアスの根城だった。伏せた皿に似た、古代の墳墓のような構造物の表面には、半枯れのツタや雑草が根を張っていた。その陰鬱なたたずまいは、そこに住む者にふさわしい、不浄な印象を与えるものだった。
リリィは立ち止まったまま、夢の中の『声』の言葉を思い起こした。
『そこにはお前の母がいる』……
この中に、姿を消した母がいるのだろうか?物音ひとつ聞こえない。だが、感じる。邪悪な力の存在を。意を決し、リリィは板張りの戸を引いた。
「!!……」
眼球で屈折した虚ろな光が、彼女の視覚に像を結んだ。
何か言わねばならない。唇が震える。しかし言葉にならない。その光景が夢なのか、現実なのか。夢であると信じたい。そんな、そんなことが!……
「誰だ?」
奥にいた黒衣の男が声を上げた。その頓狂な口調は、リリィの姿を認めると消し飛んだ。
「お前は、まさか!……」
男とリリィのあいだ、室の中央に、石を削った台があった。その上に、全裸の母親が寝かされていた。四肢を鎖でつながれ、目は見開かれたまま。瞬きもせず、白い腹は割かれ、臓物をえぐり取られていた。閉じることなく強ばったまぶたは、摘出が生きたまま行われたことを示していた。縛められた手首や足首の傷、そして飛び散った鮮血は、その惨たらしい光景を絵画のように保存していた。
「ふっ、我が娘か……」
リリィに生を与え、育んだ母の器官を男は手にしていた。彼はそれを、傍らの皿の上に置いた。美しい白銀は、赤黒い液体で汚された。両手を布で拭きながら、魔導師マリーシアスは空々しい笑みを浮かべた。
「見てのとおり、お前の母は死んだ。だが恨んでもらっちゃ困るぞ。これはお前の母親の望んだことなんだからな」
小刻みに震えるだけのリリィ。マリーシアスは続ける。
「お前の母親は、私がお前に『力』を与える代償として、自分の体を儀式の材料として提供したのだ。もっとも最初の契約では、お前がその『力』を使い、母の復讐を遂げてからだったんだがな。お前はまだ『力』の使い方を知らんようだし、その腕輪もくれてやったんだから、このくらいはいいだろう」
体重がふっと軽くなったような気がした。意識の境界がぼやける。頭の血管が膨らんで張り裂ける。全身で自分の鼓動と脈動を感じる。
その混濁した意識の中に、声が響く。マリーシアスの声ではない。それは体の外からではなく、『内』からのものだ。
(リリィ……感じるぞ、お前の激情を)
そうだ。あの声だ。この地まで自分を導いた、あの声。少女はそれに身を委ねた。『声』もそれを了承した。そして甘美な誘い――少女がかつて理解することも受け入れることもできなかった誘惑を再度提示した。
「リリィ、今こそ私と契約するのだ」
「うおおおッ!……」
言語にならぬうなりに、『声』が鋭く問う。
「善か!悪か!」
「ああああく!」
「ならば光か、闇か!」
「闇!」
「愛か、憎しみか!」
「憎しみッ!」
「忠誠か、裏切りか!」
「裏切りッ!」
「和解か、敵対か!」
「敵対!」
「赦免か、鞭打ちか!」
「鞭打ち!」
「寛容か、虐殺か!」
「虐殺ッ!」
「秩序か、混乱か!」
「混乱!」
「生か、死か!」
「死!」
「では最後に訊く。創造か、破壊か!?」
「うおおおおおッ!!」
小さな体だけではない。周りの空気を、否、脚を突く大地すら震わせ、リリィは最後の問いに答えた。
「破壊をおおおおッ!」
「ならば右腕のリングを外して唱えよ。我を解放する言葉、『コムト』と!」
「ヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲッ!!」
左手で右手首の腕輪をふんだくる。マリーシアスは恐怖した。自らが授けたはずの能力。しかしいま眼前で少女が生み出そうとしている力は、それを凌駕する。それはすなわち、ネクロマンサーの資質において、彼女が自分を上回っていることを示している。彼は両腕で顔を覆った。
「ま、待て!……」
しかしもはや、激情に突き動かされた魂を止めることはできなかった。ついにその口から、秘められた『力』を解放する言葉が発せられた。
「コォムトォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
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森が再び静寂に覆われ、激情の嵐が去った時……彼女は、ついさっきまで石室を形作っていた瓦礫の上に立っていた。
「……………」
マリーシアスの姿は見えなかった。気配すらなかった。ただ足元には、崩れた石に挟まれ、無惨に変形した母の亡骸があった。
それを目の当たりにした時、空白だったリリィの心に感情が戻った。張り裂けそうなほど混乱した、辛く、悲しく、苦しい感情が。
「お母さん……」
リリィはがくりと膝を折った。
「お母さん……ああああっつ、お母さああああああああああああああん!!」
……………
※
「!……」
身を委ねていた巨木に弾かれたように、リリィは跳ね起きた。
(夢……)
心臓が小動物のように脈打っていた。息が暴れて止まらない。
咄嗟に右腕を見る。そこには腕輪があった。それには自分と、母の悲しい記憶全てが詰め込まれていた。復讐のために自分の娘に授けさせた力を敢えて封じ込める腕輪。それを求めた母の気持ちを思うと、リリィは胸締め付けられた。彼女は目を閉じた。そして呼吸を整えてから顔を上げた。
眼前には、なだらかな緑の丘陵が幾重にも連なり、うねっていた。その狭間にウスバロの町が見えた。煙の昇る家が多い。平和な朝の風景だ。東を見れば、ツォイボヤンの山陰から朝日が差し込んでいた。日を受けた頬が温かい。リリィはその頬に触れた。涙で濡れていた。夢の中で何度も反芻した悲しい記憶と、その記憶に囚われた自分に引導を渡すため、リリィは立たねばならなかった。
彼女は傍らのロッドに手を掛けた。立ち上がり、町並みに背を向けると、穏やかな風景とは対照的な、黒い森が口を開けていた。その陰鬱な闇にリリィは足を踏み出した。
――軛を粉砕するために。




