2.契約 (1) ☆
リリィは町外れの丘の上で、枝葉を広げる巨木に身を委ねた。
月明かりのもと、眼下にウスバロの町並みが望める。空は薄雲に覆われ、満月に近い月はにじんでいる。濃紺の夜空を東に目を遣れば、地平近くには、遠くツォイボヤン山脈の稜線が浮かぶ。しばらくはそんな夜の景色を眺めていたリリィだったが、やがて緩やかに眠りへと落ちていった。
※
「リリィ」
闇の中から名を呼ぶ声が聞こえる。
「リリィ」
彼女は顔を上げた。目は開いているはずである。だが何も見えない。気配もない。ただ、声だけがする。それもそう遠くないところから。
「聞こえるか、リリィ」
三度呼ばれる。前でもない。後ろでもない。かと言って頭上でも足元でもない。
「あなたはだれ?どこにいるの?」
「私が誰であるか、それはお前にとって問題ではない。ただ、私はお前の中にいる」
「わたしのなか?」
「そう。お前の、その右腕だ」
(!………)
全くの闇であるにもかかわらず、自分の右腕だけがぼうと白く見える。その腕は短く、そして細い。十五歳の自分の腕ではない。子供のころの腕だ。そしてそこに、いつも巻いている布帯がないことに気付いた。黒ずみ、瘡を吹く皮膚があらわになっている。
「ここに?……」
「そうだ。私はお前が生まれる前からそこに棲んでいる」
「わたしが生まれるまえから……ずっと、いつも、ここにいるの?わたしがひとりぼっちのときも?」
「そうだ」
その時初めて、彼女はその声に温かみを感じた。いや親しみすら覚えた。彼女は右腕に頬擦りした。幾度となく呪い、嫌悪した自分の腕を、例えようもなく愛しく感じた。
「リリィ、私と契約するのだ」
「けいやく?」
「この契約は、無論私のためである。だがそれは、同時にお前の利益ともなる」
「わたしの、りえき……」
「私と契約すれば、私は封じ込められているお前の右腕から解放される。そしてお前は、私の力を手に入れることができる」
「ちからって?」
「お前に危害を加えようとする者をことごとく粉砕する、強大な力だ」
その契約は魅力的だった。無力さゆえ、これまで何度辛酸をなめ、苦痛を味わい、屈辱に甘んじてきたことか。『力』を手に入れれば、それもなくなるのだ。
「わたしは……どうすればいいの?」
「今から私がふたつの道を示す。お前は、自分の選ぶ方を答えればよい」
「……………」
「まず最初の選択だ」
そして『声』は問うた。
「……善か、悪か?」
「……………」
口をつぐむ。
「……わかんない」
「では契約はできぬ」
『声』に微かな失望が浮かぶ。
「もうダメなの?けいやくできないの?」
「そんなことはない」
『声』はなだめる。
「リリィよ、西へ向かえ」
「西へ?」
「荒野の向こう、ルグランの森に、マリーシアスという魔導師を訪ねるのだ。そこにはお前の母がいる。お前が選ぶべき道も、そこで示されるだろう」
不意にあたりが明るくなった。どこからか光が差し込んでくる。光の量は、次第に増してくる。それに反比例して、『声』の存在感が薄れてゆく。
「よいな、リリィ、もう一度言う。西へ向かえ」
「まって!わたしをひとりぼっちにしないで!」
……………
※
「!……」
気付いたとき、リリィは寝床で体を起こしていた。粗末な毛布を両手でつかみ、胸元に引き寄せている。その手は小さい。
「ゆめ……」
狭く、埃っぽい石造りの小屋に、明かり窓から朝の陽光が差し込む。全身がひどくだるい。体はまだ眠りに落ちたままのようだ。ただ意識の輪郭は次第にはっきりとしてきた。それにつれ、昨夜の夢の内容も記憶の底から浮かび上がってきた。
リリィは右腕を見た。手首から肘にかけて、いつものように布を巻いている。銀の腕輪は着けたままだ。その腕輪が、リリィに悲しい現実を思い出させた。
――ひと月ものあいだ家を空けていた母親は、先日ようやく帰ってきた。その腕輪を手に。だがすぐに、再び姿を消してしまった。数日が経過したが、戻ってくる気配はなかった。リリィの脳裏に、夢の中で聞いたあの声の、最後の言葉が蘇った。
『もう一度言う。西へ向かえ』……
リリィは立ち上がった。旅の支度は簡単だった。彼女が執着しなければならないものは多くなかった。彼女は小屋を背に歩き始めた。
……………
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