10.旅立ちの日 (4)
「私は村に戻った。時が経った。一年、二年……村では変わらない日常が繰り返された。五年も経つと、彼女のことは記憶から薄れ始めた。村が亜人の襲撃を受けた日には、何食わぬ顔で武器を取って英雄ぶった。私はあの忌まわしい事件を人生から消し去ることに成功したと思っていた。だが……報いを免れる罪はない。あの出来事から十三年、ついにその日はやってきた」
「リリィが村に現れた……」
父親の言葉をエスが継いだ。ヴォラスの声が強ばりを増した。
「……彼女が初めて姿を現した時、私は瞬時に理解した。発せられる強烈な屍臭、それはネクロマンサーの小屋に充満していたものと同じだった。彼女こそ、死霊の力を宿したハイアライアの子だ。ネクロマンサーの予言が成就する時が来たのだ。仲間のうち、村に戻ったもうひとりは、彼女の姿を見るや否や村を出た。だが私には……その時なぜか、逃げ隠れしようとする気持ちが起こらなかった。時の流れがそうさせたのか。彼女が復讐するつもりなら甘んじて受けよう、私は覚悟を決めた。しかし……」
ヴォラスが唇を噛んだ。
「……そうなのだ。彼女は何の行動も起こさなかった。私が逃げ隠れしない以上、復讐の機会はいくらでもあった。にもかかわらずそうしなかった。いやそれどころか、村の女どもに迫害されてもひたすら耐えた。なぜだ?私は何度も自問した。なぜ彼女は私に復讐しない?なぜ身の程知らずな村の女どもにその力を行使しない?私はやがてひとりで納得するようになった。彼女は知らないのだ、と。私と彼女の母とのあいだに起こったことを、彼女は承知していないのだ。それ以外に彼女の行動を説明できる理由がなかった。だが、だが……」
言い終えて、ヴォラスは絶句した。握った拳が震えた。いや、震えたのは拳だけではない。肩も、丸まった背中も、体全体が感情の波に揺さぶられた。
「うううっ!……知っていたんだな!リリィ!知っていて、なぜ!……」
ヴォラスが崩れ落ちた。
「これが……あの娘の最高の復讐だったんだな」
エスが顔を上げた。
「殺してしまっては相手を楽にするだけだ。彼女は三年ものあいだ、私に自分の存在を示し、私を苦しめた。最後には恩を売って追い討ちをかけた。いや、魔物に殺させるくらいなら、救ってさらに苦しめようとしたのか。そして彼女は、私の右腕に一生癒えぬ傷を負わせた。それは彼女に刻まれた『印』だ。不自由な右腕は、それを感じるたびに私を責める。彼女は去ってなお、自分の存在を私に刻み込んだ」
懺悔を終えた罪人のごとく、ヴォラスはうなだれた。そして動かなくなった。小屋を沈黙が支配した。だがエスの胸裏では、父の最後の言葉が反響していた。
「違う!」
ヴォラスがエスを見た。
(何が違うと言うのだ?)
ヴォラスの無言の問いかけに、エスは答えなかった。
(リリィはもっと冷酷で、エゴイスティックだ。彼女にとっては、母の復讐でさえどうでもよいことだ。彼女にとって重要なのは自分だけ。それが彼女の価値の全てだ)
彼の論理はそう結論付けた。しかし感情がそれを拒んだ。彼の脳裏に、あの日のリリィの姿が浮かんだ。自分の贈った帯飾りを彼女が着けた日……
今、彼は断言できた。彼女は非情なエゴイストではない。男女の恋愛感情も知っていたし、美しい光景に震える心ももっていた。人の気持ちを動かす旋律を奏でることもできるし、人としての苦悩も知っていた。自分たちと同じだ。いや自分なんかより、よほど多感で繊細だ。では何が違うのか?エスは、いつか耳にした彼女の言葉を思い出した。
(別に。寂しいなんて感情は忘れたわ)
そうなのだ。彼女は無垢なのだ。
幼い頃から、人間のもつ悪の側面、負の側面だけに育まれた人格。彼女に罪はない。あるとすれば、それは人の……
「くっ……」
エスが喉を鳴らした。口元が吊り上がった。
「ふははははは!……」
エスは笑った。泣きながら。
堰を切ってこぼれ落ちる涙と共に、感情が次から次へとあふれ出た。
(リリィ、リリィ!……)
よろめき、彼は立ち上がった。両手が見えない何かを求めて宙をさまよった。彼は、彼女と接吻を交わした月下の夜を思い起こしていた。彼が抱き寄せた身体は、信じられないほど柔らかかった。信じられないほど温かかった。その感触を蘇らせた時、彼の想いは爆発した。手放したくない、あの温もりを!……
「うわああああああああああっ!!」
彼は飛び出した。そして走った。街道を南へ。
「はあっ、はあっ……」
息を切らし、両手を膝に突いた。彼は振り返った。まもなく暮れようとするどんよりとした雲の下、村の軒並みがくすんで見えた。
あれは本当に、自分が生い育まれた村なのだろうか―――
それほどまでにその景色はよそよそしく、醜かった。
「……………」
彼は再び向き直った。ぬかるんだ、緩い下り坂が続いていた。その先へ、彼は歩を踏み出した。
それは茫漠たる人生の荒野をさまよう、大いなる旅立ちの第一歩だった。
(第2話に続く)




