2.蜃気楼に立つ姿 ☆
栗毛の馬体が前脚で下草を分ける。
人より大きな生き物は、鼻息だけで虫たちを蹴散らかす。
「もうすぐだね!頑張って、マシュー!」
鞍上の鼓舞に、愛馬は体を弾ませる。旅姿のシールにも、自然と笑みがこぼれる。額の汗を拭うと、彼女は相棒に速歩を指示した。蒸す真夏の森の中でも馬は疲れを感じさせず、軽やかに増速する。前方、明るさが増し、森の出口が見えてきた。
※
シールがリリィのもとを訪れ、共に暮らすようになってからひと月が経った。彼女はリリィの愛馬マシューを駆り、単身北街道沿いの宿場町・ホタンを目指していた。
森の奥深くで、食料は何とか自給自足していた。だがシールは、継ぎはぎだらけのリリィの衣装を新調させたかった。またランスウィールからはそれほど多くの荷物を持ち出せず、自分の着替えも増やしたかった。農作業の道具や干し肉など、自給が困難な物も必要だった。
馬は、ロンジュ亡きあと、王都を目指したリリィがサンジルで譲り受けた栗毛の牡馬だった。シールの乗馬技術も上達し、今では駈歩までできるようになっていた。
大いなる災厄のあと、二年半にわたり、森は静かだった。亜人は存在どころか、気配すら完全に消していた。
かつて群青の時代に、先の『大いなる災厄』があった。この時、亜人は大水に恐れをなし、ネミスの森のさらに北、『最果ての口』の向こうに引きこもった。きっと今回もそうしているのだろうとリリィはシールに語っていた。彼女がシールを単身ホタンに行かせる決断をしたのも、亜人に襲われる心配がないと判断したからだった。
※
「銀貨を持ってるんだったら……これを譲ってやってもいいよ」
「うわぁ!」
商店の婦人が木箱の中から取り上げたそれにシールは歓声を上げた。折りたたまれた純白の布。その上に乗るのは、鮮やかな刺繡の彩る黒の腰帯。ネミスの民の衣装の新品だった。
北街道沿いの宿場町・ホタンは災厄を免れたが、大平原は全体に物が不足していた。手間のかかる民族衣装を作る者はいなかったが、古い品が商店に残っていた。シールはランスウィールから持ち出した銀貨でそれを手に入れた。自分の衣服や保存食、さらには新しい鍬や小麦の種も買い、帰路は大荷物となった。
「マシュー、重くなってごめんね」
肌に粘り付く熱気の中、馬はひさしのわずかな影の下でハアハアと熱い息を吐いていた。彼女も汗だくになりながら彼に荷物に背負わせた。そして森に戻ろうと手綱を取った時……その姿に気付いた。
「えっ……?」
街道上に揺れる蜃気楼。
その中に立つ、細身の姿。
幻なのか。
染みだらけのドレスの袖でシールは目を擦った。粗末なズボンに布服。左手に弓。肩には矢籠。くせのある短い髪。切れ長の一重瞼。見間違えようはずもない。
(ハル!!)
シールは飛びつきたかった。その立木のような体を抱き締めたかった。だが彼女の足は動かなかった。
「……………」
自分を見つめる表情。そこに笑みはなかった。シールは、ハルがこの町に来た目的を理解した。
「久しぶりだな。ずいぶん汚れたなりじゃねぇか」
鼓膜に染み付いた懐かしい声。だが今は、湧き上がる親愛の情に身を委ねる時ではない。
「シール……おめぇの主に伝えてくれ」
彼女――シールは恐れていた。
ネミスの森の奥深く。いにしえの都の跡で暮らす日々。毎日の食料にも困窮する生活は楽ではなかったが、それでも幸せだった。森で食べ物を探すのは、幼いころから得意だった。そして何よりも、故国を発ってから、苦楽を共にした女性の世話をして過ごす時間が彼女は好きだった。
だがそれは、同時に悔恨の日々でもあった。
『力』を希求するリリィ――
彼女がその目的を達成した時、それを振るい、数え切れないほどの人々に死をもたらすことを思いとどまらせるのは自分しかいない、そう考えていた。だがそれは成せなかった。結果として、幾万もの人々が立てこもる王都の円城は地獄のるつぼと化した。奇しくも自らが仕える女性は、幼いころの呼び名『悪の大魔導士』を再び得、生き残った世界の人々の恐怖と侮蔑を集めることとなった。
それゆえシールは恐れていた。
世界が活力を取り戻したとき、人々が自分と、自分の仕える主に矛先を向けることを。そしてその先頭に、あの女性が立つことを。
そう、今、自分に氷のような視線を向ける女性。
「わかったよ……」
シールは射るような視線から目を外した。
受け取った言伝。悲しかったが、彼女はこれが避けられない運命と悟った。