10.旅立ちの日 (1)
あの日を境に、村の空気は一変した。
時が経ち、雨期が終わっても状況は変わらなかった。リリィが村に残した傷は、容易に癒えるようなものではなかった。
エスはいつかのように土手に寝転がり、対岸を眺めていた。夕刻にもかかわらず、水汲み女たちの姿はなかった。無論リリィの姿もない。
彼は目をつむった。さまざまな情景が押し寄せた。初めて彼女が村に姿を現した時のこと。村の女たちに罵られながら、何も報いず引き上げてゆく後ろ姿。そして、森の中でのあの劇的な出会い……
その後、自分の父親に言われなき暴力を受けても、彼女は反撃することなく去っていった。ひと月ののち、彼女は自分の愛を受け入れてくれた。だがその蜜月は短かった。自分は彼女との約束を反故にし、彼女は、自分が贈った帯飾りに手を掛けた父の腕を折った。
そしてあの日……あれだけ迫害されたにもかかわらず、彼女は恐るべき力で魔物の群れを粉砕。村を救った。
幾多の記憶は、まるできのうの出来事のように鮮やかだった。だが、そのどれよりも彼の心に強く刻まれたのは……
月光のもと、小屋の前で彼女の体を抱き寄せたあの時……その柔らかな感触と温もりを、もう二度と味わうことはできないのか……?
あふれる想いに耐えかねた時、エスの足は自然と森を目指していた。
※
「……………」
エスは小屋の戸口に立った。仄暗い内部は、かつて彼が見た時と何も変わっていなかった。ただ、リリィの姿だけがなかった。ベッドの毛布は整っていた。今夜にもそこで彼女が休むかのようだった。食器や薬の入った瓶もそのままだった。低い木製のテーブルには、縫いかけの刺繍も残されていた。ロッドと長剣以外、彼女はほとんど何も持ち出さなかったようだった。かつて小屋に充満していた強烈な臭気も、また彼女が付けていた香水の匂いも、全て拭い取られていた。
エスはテーブルのそばにしゃがんだ。そして針と糸が付いたままの刺繍を手に取った。あらゆる物が無味乾燥な小屋の中で、その刺繍だけが、彼女の創造物たる面影を留めていた。
彼の目に、それを手にしていたリリィの姿が浮かんだ。自分はベッドの縁に腰掛け、彼女が糸を這わすのを見ていた。空虚な今の自分の心の在りようからは想像もできないほど、それは満ち足りた時間だった。目に涙があふれた。彼はたまらなくなり、それをもとの場所に戻した。
テーブルの下には木箱があった。
中に入っていたのはひとつだけ。小さな宝石箱だった。鍵は掛かっていない。錆の浮いた外れかけの蝶番はたやすく動いた。エスは開いてみた。中には宝石も、貴金属の類もなかった。ただくすんだエンジ色の布の上に、折り畳まれた、黄ばんだ紙があった。
彼はそれを開いた――その何気ない動作を、のちのちまで悔いることになるとも知らずに。
それは手紙……と呼ぶほどでもない、殴り書きだった。だがそこに書かれていた彼女の母の名、文面……そして三人の名前。
(!!……)
それは、弛緩していた彼の心を激情へと変えた。紙を持つ手が震えた。指がそれを引き裂きそうだった。そんな、そんな馬鹿な!そんなことが……!
「うおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
静寂の森に響く絶叫。
彼は立ち上がった。そして駆け出した。燃え盛る炎のごとく。下生えを蹴散らし、枝を薙ぎ、彼は斜面を駆け下りた。見下ろす先に我が家が見える――あの中には罪人がいる!糾弾されて然るべき罪を犯しながら、いまだ報いを受けていない罪人が!
※
扉の開くけたたましい音に、ヴォラスは槌を打つ手を止めた。右腕は吊ったままだった。入り口には息子が立っていた。ヴォラスは速くもなく、遅くもない速度で目を向けた。
「父さん」
ヴォラスは反応しなかった。紙を握ったエスの拳が震えた。彼は語気を荒げた。
「父さん!」
ヴォラスは依然、無視し続けている。エスは爆発しそうな感情を抑えながら、三度呼びかけた。父の反応を必ず引き出すことのできる、決定的な言葉を添えて。
「父さん……十六年前、ハイアライア=フォン=グレーフェンシュタットに何をした!?」
「!!……」
その名を耳にした途端――ヴォラスの様子が一変した。顔は上気し、手はガタつく。彼は息子を見上げる。
「お前、その名をどこで!?……まさかあの娘!?」
「違う!」
エスは怒鳴った。そして握り潰した紙を投げつけた。ヴォラスは震え手でそれを拾った。そして広げた。上気していた顔が蒼白になった。その父の姿を、エスは蔑んだ目で見下ろした。
「……やっぱり、リリィが村に来たのには理由があったんだね。詳しくは……父さんの口から聞かせてもらうよ」
「……………」
ヴォラスはうなだれた。長い沈黙のあと……彼は語り始めた。懺悔する罪人のように。
※




