9.襲撃 (3) ☆
※
手綱を振るいながらエスは振り返った。対岸の街道上を突き進む魔物の群れ。
(だめだ、間に合わない……)
前方、村の軒並みが見える。吊り橋の向こうに群がる男たちは戦闘態勢を整えるわけでもなく、烏合の衆と化している。その手前。
「ああっ!」
水平に持ったロッドを体の前に掲げ、魔物の軍団にひとり対峙する少女。その姿は……紛れもない。
「リリィ!」
※
「うっ……」
先頭を四つ脚で走っていたリカントロープが唸った。
「あれは人間……魔導師か!?」
彼の視線は、群衆を背に立つひとりの少女に吸い込まれていた。
「恐れることはない、リカントロープよ。我々の蹂躙を受け、命永らえた者などいないのだ」
ただひとり、青い体をした騎上のオークが応えた。彼の言葉は真実だった。かつて彼らは北方の集落を襲い、滅ぼしてきた集団だった。
「我々の勢いを止めることのできる人間などおらぬ。二千年以上の永きにわたる人間どもの支配を葬り去り、魔の者たちの秩序を打ち立てる、我々こそがその先陣を切るのだ」
三叉槍を振り上げ、彼は叫んだ。
「行け!殺せ!打ち壊せ!人間どもに関わる全てのものを破壊し尽くすのだ!」
※
「……………」
村人が固唾を飲んで見守る中、リリィは敵の眼前に立った。魔法陣を前にし、彼女は目を閉じた。集中が高まる。唇が動く。その間隙から、力みなぎる詠唱が流れ始める。
「ンガ ミン リルズエスバーハ……
(我が名はリルズエスバーハ)
ンガ ディーソン サモナ スボー クー ミント……
(古の契約に従い、汝らを使役する権利を得し者の末裔なり)」
地に描かれた陣から、ゆらゆらと湯気が立ち昇る。
「ヴォスフォロス ウォンド デュポス ルーシェ シン サンタス タルタス
(光と闇の間隙、黄泉と現の狭間に漂いし魔性の力よ)
サント ヒステント ンガ フォックス スボー ンガ デルオード……
(今こそ我が声を聞け、我が命に従え)」
揺らめいていた蒸気が渦を巻き始める。砂や落ち葉、小石すらが浮き上がり、舞い昇る。村人たちは腕で顔を覆う。衣の袖がはためく。吹き飛ばされた塵が体を打つ。
「リル エンシール ニム フォロス
(汝が力を封魔の軛より解き放て)
ベロア シクレール ペアルパ サンタス ンガ マテルレ……
(地に描けし次元の回廊を越え、我が生いしこの時空にいでよ)」
「!……」
巻き上がる蒸気の渦に亜人たちは本能的な恐怖を感じた。だが彼らには無敗の誇りがあった。この集団を結成してからこれまで、彼らを脅かす存在はなかった。負けるはずはない……そう、もはや進行を止めることは、彼ら自身にもできなかったのだ。
「デライブ ヴォ クルパァ デ アントゥンガ オム メウス! ……
(その額に敵対者の烙印ありし者を滅ぼせ)」
リリィの呪文が最終段に入る。陣に充満した力が臨界点に近づく。勢いを増す渦に亜人たちの目は見開かれる。いまだ経験したことのない未知の力――心の隅に芽生えた恐怖を振り払い、青い体のオークが叫ぶ。
「恐れるな!たかが人間、小娘一匹に何ができる!踏みつぶせ!薙ぎ倒せ!」
「ぐっ!……」
リリィが呻いた。呪文により、右腕に宿る者たちがさらなる魔性の力を呼び集める。その力の出入りが、腕に引き裂くような激痛を引き起こすのだ。
だがそれに屈してはならない。魔のエネルギーが最高点に達するまで耐えなければならない。あとわずかだ。魔物たちと村との距離は、ものの百ルーテ。わずかなのだ!
「ノーモーエンフラーム……」
顔にかかった前髪の下から低いうなりが響いた。それは激痛を克服し、破壊の衝動に暴れ回る魔性の力を完全に支配したことを示していた。
リリィが顔を上げた。その口元には微かな、そして確かな笑みがあった。
「ウウッ……」
少女の視線に射られ、先頭を駆けていたオークは身震いした。自らの野生の直感を信じられなかったことは彼にとって不幸だった。
「つ、突っ込めーっ!!」
亜人たちの足が地に描かれた陣を踏み抜いた。その瞬間、リリィの呪文は完結した。
「コムトォーーーッ!!」
閃光ののち、渦巻いていた蒸気が紅蓮の炎と化した。放たれた赤い舌は、陣に飛び込む亜人たちを次々と飲み込んだ。
「ウギャアッ!」
「ヒギイイッ!」
「ギャアガアアアアアッ!!」
死者を苛むべき地獄の業火が、命ある魔物たちを灼き焦がす。巻き上がり、焼け焦げ、そして黒い炭の塊となり落下する馬と亜人たち。燃え盛る炎の雄たけびに混ざる、無数の断末魔の悲鳴。まさに、この世に再現された地獄。
全てが終わった時、谷には肉の焦げるおぞましい臭いの煙が充満していた。街道沿いに累々と横たわる、生きていたはずのモノ。三百を下らぬ軍勢は消え、もはや動く姿はただのひとつもなかった。
荒い息を何度かの深呼吸で鎮めた少女は、肩を下ろして静かにロッドを突いた。彼女は剣の鞘から腕輪を取り、右手首に戻した。
「……………」
村人は誰も語らなかった。いや語れなかった。迫害してきた少女に救われ、語る言葉をもつ者がいようか?
振り返ったリリィの亜麻色の瞳。そこに映るのは、そんな彼らへの言葉にならぬ問い。そして微かな憐れみと、蔑み。
ザザッ、ザザッ……
静寂を裂く蹄音。街道に一騎が飛び出す。栗毛に跨る少年が飛び降る。
「リリィ……」
村人たちの前に進み出たエスは、リリィと向き合った。彼に向けるリリィの眼差しは、村人に向けるものとは違っていた。だが決して温かいものではなかった。彼女は無言のまま、エスの脇をすれ違った。
「リリィ!」
呼び止める声に、サンダルのつま先が向き直った。だが彼女は、もう手の届かない場所にいた。
「リリィ……村を出るのか?」
「私はもともとこの村の人間じゃないわ。それに……」
リリィが唇を噛む。そして鈍色の空を仰ぐ。
「……私には、やっぱりこの村よりもふさわしい世界がある。もっと殺戮に満ちて、もっと死の臭いのする世界が」
彼女は背を向けた。腰に提げる剣の鞘が弧を描いた。
その時エスは悟った。
(住んでる世界が違う……)
そうなのだ。
恐るべき異能の力を持って生まれた彼女と、凡俗の徒として辺境の寒村に生まれた自分……そんな自分と彼女とでは、出自において、立つべき舞台が違う。
彼がそう理解した時、リリィの姿はすでに小さくなっていた。エスはその後ろ姿を目で追いながら、足で追えない我が身に歯噛みした。




