9.襲撃 (2)
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「さ、三本だ!」
「狼煙が三本上がっているぞ!」
鈍色の空を背に揺れる三筋の煙。いにしえからの決まり事にはあるが、それを見た者は最年長の老人たちの中にすらいない。敵の数が百を越えなければ使ってはいけない信号。それは村にとって破滅的な、最高に危急の事態を表していた。
「戦える者は武器を取れ!」
「いや、もうダメだ!」
耳をつんざく早鐘。およそ亜人に対抗できるとは思えぬ貧弱な農具を手に取る男。鍋を持ったまま右往左往する婦人。状況を理解できず、怯えた目で抱き合う子供たち。平和だった朝の村は、パニックに陥った。
そんな村の様子を、ひとつの影が見下ろしていた。森の木々に半身を重ね、ロッドを地に突く少女。西方の民族衣装に身を包んだ彼女は、動転する村に冷たい視線を向けていた。
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「長老!」
吊り橋の向こう、混乱の村を背に白髪が姿を現した。ローブ姿の老人は、街道上で烏合の集と化す男たちの目を一斉に集めた。彼は右手に珠を連ねた腕輪をはめ、木製の杖を握っていた。召喚士が戦いの場に臨むときの正装だ。
「長老……」
男たちは彼に期待していた。だがその時の彼の出で立ちは、男たちを失望させるのに十分だった。
「長老、狼煙が三本……」
「わかっておる」
厳しい口調。それを最後に、沈黙が場を覆った。みな彼の言葉を待っていた。絶望的なことが明白な、次の言葉を。
「このような時の来ることが分かっていながら、我々は村を捨てようとはしなかった……ならば今も村を捨てることはない。おのが命の尽き果てる、その瞬間まで戦え。そうして召喚士の血を引く者としての、最後の誇りを示すしかあるまい」
「……………」
「もし戦う気がないならば、そこで立ち、このわしの最後の戦いぶりを、しっかとその眼に焼き付けるがよい」
「冗談じゃない!」
ひとりの男が叫んだ。
「俺は逃げるぜ」
「貴様!……」
「長老様がいくら気張ったところで勝ち目はないんだ。もっとも俺たち全員が束になってかかったとて結果は同じ。死にたけりゃ勝手に死ねばいい」
「貴様、村の男としての誇りはないのか!?」
「誇り?そんなモンで長生きできりゃ苦労しないぜ!戦いたけりゃ、リリィを呼べばいい」
「!……」
その名前……誰もが思い浮かべながら、誰も語れなかった名を男はいともたやすく口にした。彼は、いつかの寄り合いでリリィの助力を提案し、糾弾された男だった。
「あの娘なら、亜人の百や二百、あっという間に片付けちまうだろうよ。長老様のへなちょこ魔法よかよっぽど頼りになるね」
「……いくらリリィとてかなうもんか。だいいち勝てたところで、我々に協力してくれるわけがない」
「わからんぜ。ヴォラスの息子なら彼女を説得できるかもしれん」
群衆に埋もれていたヴォラスの体がびくりと震えた。彼は、副木を当てた右腕を吊ったままだ。
「ヴォラスの息子とあの娘はデキてるって噂じゃないか。あのガキなら彼女を連れて来れるかもしれんぞ」
「ヴォラスの息子は、いま見張り台だ」
「なら俺が連れて来てやる」
「その必要はないわ!」
男たちの視線が一点に集まる。
「!………」
街道上、群衆の後方に立つ少女。西方の民族衣装に身を包み、金属のロッドを地に突くのは……
「リリィ!」
ふたつに分かれた人の群れのあいだを、彼女は悠然と進み出る。前方には北の渓谷。魔の者たちの姿はまだない。いくらか歩いたところで彼女は足を止めた。そして振り返った。ロッドの先端を男たちに向け、挑むような口調で告げる。
「三十ルーテは離れてないと黒コゲになるわよ」
男たちが後ずさる。それを見届け、リリィは足元に目を落とす。ロッドの先で、地に何かを描き始める。それは魔法陣だった。二環の円の間隙に、何やら呪術的な文字を綴ってゆく。
「あっ!」
誰かが声を上げた。リリィの後方に砂煙が上がった。
「来たぞッ!」
街道の先、尾根の影から湧き立つ土色の雲。その中から、ついに亜人たちが姿を現した。軍団は谷を覆う土石流のごとく、一直線にこちらに向かっていた。
リリィが顔を上げた。
彼女は村人たちに背を向け、腕輪を外した。途端、鼻を突く臭気。彼女は腰に下げた長剣の柄に腕輪を掛けると、右腕をロッドと共に前方に差し出した。
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