9.襲撃 (1) ☆
数日ぶりに雨が止んだ。
飛ぶような早さで流れる雲の切れ目から、時おり下弦の月の青白い光が洩れ落ちる。月が雲に隠れれば、星明かりもない今、あたりは漆黒の闇だ。目を開けていても、閉じていても同じ。耳を澄ませても、聞こえるのは虫の声だけ。
村の北方、三カロルーテの場所にある見張り台で、エスは心に押し寄せるさまざまな思いと闘っていた。
あの日……
激昂したリリィは、自分の父親に生涯癒えることのない傷を負わせた。そして悠然と引き上げていった。エスはその残虐さに身震いすら覚えた。
だがそれが彼女の全てなのだろうか?
彼は、彼女と過ごした一日を思い起こした。その日彼は、彼女のごく普通の少女としての一面を知った。美しい景色に心を動かし、奏でたバイカヴァルの音は生の実感に満ちていた。彼はそんな彼女と、生まれて初めて口づけを交わした。
しかし……
あの時――リリィが自分の父親を打った時、彼女は父に言葉をかけたが、自分は一瞥しただけだった。彼女の心から、もう自分は失われてしまったのか?
確かに自分は、明日もやって来るという約束を果たせなかった。しかし雨中のリリィは、自分が贈った帯飾りを腰に付けていた。加えて父親に痛烈な打撃を加えたのも、彼が帯飾りに手を掛けたからではないか……
空しい慰めの推論がエスの中で空回りした。空回りが終わって頭が虚ろになると、残った意識の断片は失意と悲観のみ。彼女との関係を修復することは、もはや不可能に思われた。明確な理由があったわけではない。だが何かが――自分にも、リリィにもどうすることもできない何か第三の要素が、自分と彼女とのあいだを永遠に隔ててしまったように感じられた。自分の感情に耐えられず、エスはまぶたを強く閉じた。
空が白み始めた。夜明けがやってきたのだ。日が昇り、朝の光がもやのかかる渓谷を照らした。
村の北は、深く険しい谷になっていた。潅木がまばらに生える程度の、岩だらけの谷の西岸に、南北に続く街道が刻まれている。かつては遠くマーロン山系を巡り、北側から中央大平原に通じていたのだが、あまりに険しく、また近年では亜人の脅威も加わり、今この街道を使う者はいない。ここより北にあった村や集落も全て捨てられ、住民たちは、より安全な南や東に去っていった。したがって東部辺境――この言葉は、マーロン山脈と東のツォイボヤン山脈に挟まれた地域を指す――の中では、エスたちの村が最も北に位置していた。
エスのいる見張り台は、その街道を対岸から見下ろしていた。
王国領で最後の戦争が終わってから二百年。長らくそれは機能していなかったが、近年その重要性を取り戻した。無論、南下を始めた亜人を見張るためだ。ただ見張り台と言っても、立派な櫓が組まれているわけでも、強固な石垣に守られているわけでもなかった。目立つ施設は攻撃目標にもなりかねない。そのため狼煙を上げる設備のほかは、村まで馬を使える道が拓かれている程度だった。
朝日が谷底まで差し込むようになった。ほどなく交代の時間だ。エスは立ち上がり、伸びをした。
ちょうどその時、蹄の音が聞こえた。交代の者が馬で駆けてきたのだ。現れたのは、彼と同い年の少年。背丈こそそれほど違わないが、髭も生え、『青年』と呼んでもおかしくない肩幅と胸板に、エスは劣等感を禁じ得なかった。
ふたりはもちろん、お互いを知っていた。しかし会話はなかった。例の事件以来、村人の暖かい目をエスは失っていた。馬を降りた少年も、厄介者を見るような視線をエスにくれた。そして見張り台を自分の所有物だと主張せんばかりにどっかと腰を下ろした。エスはそんな彼の背中をしばらく見つめたあと、石を踏み台にして馬によじ登った。その時だった。
「あっ!」
声を上げたのは同時だった。ふたりの視線は谷のいちばん奥、街道の彼方に釘付けになっていた。
「オーク!……リカントロープまでも!」
開き戸の合わせ目のような谷の先、街道のはるか向こうに砂煙が上がった。その中から姿を現したのは、馬に乗って突き進むオークの群れ。みな手に思い思いの形をした槍や武具を握っている。オークたちの脇や後ろには、四ツ脚で駆立てるリカントロープが従う。その数二百……いや、今ようやく軍団の最後尾が見えた。三百はいるだろうか?今までの襲撃は、どんな大勢力の時でもせいぜい三、四十だった。ケタ違いだ。
「三本!……」
エスが谷を見下ろしたまま叫んだ。
「分かってる!お前は馬で村に知らせろ!」
声変わりしきった太い声で少年が叫んだ。エスは馬の腹を蹴って駆け出した。
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