8.雨音 ☆
翌日、リリィは森の入り口に近い岩に腰掛けエスを待った。だが彼は来なかった。その翌日も、そのまた翌日も。
そして四日目の朝。
その日は未明から雨になった。それでもリリィは岩の上でエスの訪れを待った。雨が丸まった背中を打った。髪は背に貼り付き、鮮やかなはずの民族衣装は色彩を失った。しかし、その日もエスは来なかった。日暮れが近くなって、リリィはついに立ち上がった。
※
父親が家を出た。長老の家で寄り合いがあるのだ。エスは思った。チャンスは今しかない……
あの日……
日が落ちてから家に帰ったエスを、ヴォラスは詰問した。
「まさかあの娘の所に行っていたのではあるまいな?」
エスは否定した。その時エスは、まるで彼女そのものを否定したような罪悪感に襲われた。無論、肯定する勇気などなかった。
その日から、父親の監視は厳しくなった。いや父親だけでなく、村人全員の目が、あの事件――彼がリリィに運ばれて村に帰ってきた時以来、変わったように感じられた。彼がリリィに告げた言葉を反故にしたまま、二日がたち、三日がたち、そして四日目になった。
その日は朝から雨が降っていた。
雨期の始まりを告げるじっとりとした雨足は、昼過ぎになっても弱まる気配を見せなかった。雨の降り始めたこんな日、村人たちは外に出ない。そして何よりも今日の夕刻、父親が家を空けることを彼は知っていた。エスはじっと時を待った。
※
村は打ち捨てられたように人気がなかった。しとどに濡れたブリュネットの髪を振り、エスはあたりを見回した。誰もいない。軒から軒へ。家を過ぎるたびに無人を確認する。大丈夫だ。彼は森へ向け、足を踏み出そうとした。
「どこに行く?」
雷にでも撃たれたか……そう思うほどの衝撃が彼を襲った。弾かれた首が声を捉えた。民家と民家のあいだの暗い路地、軒の陰になったその空間に仁王立ちするのは……自分の父。
待ち伏せされた!……
しかし後悔はもはや何の役にも立たなかった。一歩、二歩、父という存在が近付いた。逃げなければ!何とかこの場を脱しなければ!……そんな意識とは裏腹に、ぬかるんだ土はエスの靴を捕らえ離さなかった。
「どこに行くつもりだ?」
腕をつかまれた。質問者の目をエスは直視できない。
「あの娘のところなんだな!?」
「……………」
否定も肯定もする間なく、父の拳がエスの頬を強打した。体が浮き上がり、それから泥の中に落ちた。褐色のしぶきが八方に散った。
「この馬鹿者がっ!」
横たわるエスの襟首をつかみ上げ、父・ヴォラスはさらに二度三度、殴りつけた。唇が裂け、血が吹き出した。始めは痛みを感じた。しかしやがて感覚が麻痺した。父の暴力を受けながら、彼は暴行者の顔を見ていなかった。彼が見ていたのは、その後方。さっきまで彼が行こうとしていたその場所。
そこには、ひとりの少女が立っていた。
くすんだ緑の斜面を背に浮かぶ姿を目の当たりにして、エスはその存在を受け入れなかった。彼はそれを幻覚のように扱った。だがその像が大きくなるにつれ、彼の心は現実に引き戻された。まぼろしではない。彼女はそこにいる。
(リリィ!……)
ロッドの先端が地を突いた。その音にヴォラスは振り返った。
「……………」
父親の手が力なく開いた。エスの体がズシャリと落ちた。そんなふたりに向けたリリィの目は無感情だった。
だが、ヴォラスのそれは違っていた。激情に揺れる双眸は、リリィの体のある一点を凝視していた。左の腰で雨に濡れ、垂れる帯飾り……リリィの目が厳しくなった。エスも父の視線に気付いた。開いていた父親の左手が再び固く握られた。手首を震わせ、睨み殺すような目をエスに向ける。
「貴様ッ!……」
小さく、だが恐ろしいほど険のある呪いを吐いたのち、ヴォラスはリリィに向き直った。伸びた右手がリリィの腰の帯飾りに掛かった。丸太のような上腕部が脈打った。刹那、雨すら止まったかと思えるほどの音の空白。その中、鈍い打撃音が響いた。
「ウゴッ……」
それは瞬きするほどのあいだの出来事だった。エスには、何が起きたのか視認できなかった。ただ、気付いた時……リリィがロッドを振り下ろしていた。両手で中央付近を握り、地面と平行を保ったまま。
「はあっ、はあっ……」
彼女は全力で駆けたあとのように肩を上下させていた。ヴォラスが体を引いた。そして……
ぐにゃり。
彼の右腕が曲がった。肘と手首の真ん中あたり。関節のないところで。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
ヴォラスが激痛に絶叫した。
「骨だけじゃなく、筋も切断したわ。あなたの右腕は、もう二度と使いものにはならないでしょう」
リリィは、醒めた視線を泥の中のエスに投げた。そして森に消えた。雨中に残された父子は、その後ろ姿に返す言葉をもたなかった。雨はふたりの体を無情に打ち続けた。




