7.はるかなる王都 (3) ☆
「……………」
岩に反響した高い音色が、眼前の無限の空間に吸い込まれてゆく。ひと抱えほどの大きな石に腰を下ろしていたエスが、その楽器の音に振り向いた。
少女が唇を当てていたのは、横笛だった。肘から先ほどの長さの管を二本並べて合わせた形状は、初めて見るものだった。
「それは?」
フレーズの終わりに抜けてゆく残響。天使の独唱が人声に変わった。
「バイカヴァルよ」
そして再び奏でられる旋律。広い音域は、低い音と高い音、音程の違う管を二本並べることで生み出されていた。
「……………」
エスはその音色に聴き入った。生み出される旋律は、時に悲しく、時に美しく、時に激しく、フレーズごと、絶妙の表情を与えられていた。彼は、夢見るような心地でその調べに耳を傾けた。
「自分が自分でないような気がするよ」
西を見つめてエスがつぶやいた。
「どう言うこと?」
「こんな景色を見ている自分が自分だなんて、なんだか信じられない。村の中で一生を終えれば、君に逢えることもなかったし、こんな光景を見ることもできなかった。今、君とこうしてこの景色を見ている自分が信じられないよ」
リリィがくすっと鼻を鳴らした。
「あなたが私に会えたのも、ここにこうしているのも、みんなあなたが、あの時勇気を出して森に足を踏み入れたから。昨日と同じ毎日を繰り返していては、出逢いもないし、新しい感動もない」
間を置いて、リリィはエスの青みがかった瞳を見つめた。
「エス、あなたは勇気あるひと」
だがそれを聞いて、エスはかぶりを振った。
「そんなことないよ。僕は君のようにリカントロープに立ち向かうことはできない。恐ろしい森をひとりで闊歩することもできない」
リリィの表情が陰った。エスの言葉は、彼女の心に刺さるトゲに触れた。
「私が亜人と戦ったり、森を我が物顔で歩けるのも、私に『力』があるから。もし『力』がなければ、そんなことはできない」
「リリィ……」
「でもエスは違う。力がなくても、困難に立ち向かっていける」
エスは戸惑った。賛辞は嬉しかった。だが過大な評価は重荷にもなる。
「リリィ、やっぱり僕には勇気なんてないよ。もし勇気を出せたとしたら、それは……君がいたからだよ」
会話が途切れた。だが、今や沈黙は苦痛ではなかった。穏やかな午後の時間がふたりを包んだ。
瞳孔に差し込む日の角度が浅くなった。
ずいぶんもの時が流れていた。リリィは立ち上がった。そして二、三歩、谷を見下ろす崖のきわまで歩み寄った。
「もうすぐ雨期ね……」
彼女は目を細め、赤みがかった西の空を望んだ。
「今日のような景色も、そろそろ見納め。またしばらくは、あの重苦しい季節がやってくる」
ひと月ものあいだ降り続く雨。太陽の恵みを失い、生育を妨げられる作物。村を流れる谷川は濁流となり、時には眠りすら妨げる。毎年繰り返される、天からの試練。
「遅くなるわ。そろそろ帰りましょうか」
至福の時が、密かに幕を下ろしかけていた。隠れゆく舞台背景にエスはしがみ付きたかったが、傾く陽光がそれを許さなかった。エスは名残惜しそうに西を一瞥し、歩き始めた。
※
帰路、ふたりの会話は弾んだ。
エスは豊富な薬草の知識を披露した。リリィは、その博識を乾いた綿のように吸収した。エスは嬉しかった。村の少年たちからは虚弱なことを罵られ、父親にすら身体を鍛えないことを咎められてきた。そんな自分の知識が誰かの役に立つ……その事実は、彼の承認欲求を充足させた。いつしか脚の疲れも忘れていた。
ふたりが小屋まで戻ったころ、日はとっぷりと暮れていた。明かりと言えば、木々の隙間から弱々しく入り込む、昇ったばかりの月の光だけだった。
「……………」
扉の前で、リリィが振り返った。その彼女を前にして、エスはしどろもどろの言葉を振り絞った。
「あっ、あの……」
リリィは表情ひとつ変えない。エスの顔を凝視している。エスは頭の片隅で取り留めもなく考えた。彼女はどうして、僕の顔をこんなに真っ直ぐに見つめ続けられるのだろう?僕だったら恥ずかしくて、ふた呼吸ももたないのに……
「あの……君と、口づけしたいんだ」
リリィは信じられないほど表情を動かさなかった。何もかもがエスの頭から吹っ飛んだ。残ったのは羞恥と混乱だけだった。もう突き進むしかなかった。
「だ、だめかな?」
「いいけど……私はどうすればいいの?」
「そ、そうだね……目をつむってくれるかな?」
リリィは上目遣いにエスを覗き込んだ。控えめに顎を上げ、まぶたを閉じる。エスは両手で彼女を抱き、すぼんだ唇に自分のそれを重ねた。ほのかな香水の香りがした。彼女の体はあたたかく、柔らかかった。だが唇は乾いていた。無論、ひび割れるほど荒れていたわけではなかった。しかしどんなに潤しても、みんな吸い込まれてしまう……そんな乾き方だった。エスは体を引いた。
「あの……明日も来ていいかな?」
「うん」
「ありがとう……」
彼はそう言うと半歩下がった。
「お、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
リリィの声をエスは背中で受けた。
その背が、森の闇に溶けていった。まるで魔の者に呑み込まれるかのように。




