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召喚士の休日  作者: ittpg(三崎 まき)
第1部 第1話 旅立ちの日
17/228

7.はるかなる王都 (3) ☆

「……………」

 岩に反響した高い音色が、眼前の無限の空間に吸い込まれてゆく。ひと抱えほどの大きな石に腰を下ろしていたエスが、その楽器の()に振り向いた。

 少女が唇を当てていたのは、横笛だった。肘から先ほどの長さの(くだ)を二本並べて合わせた形状は、初めて見るものだった。


「それは?」

 フレーズの終わりに抜けてゆく残響。天使の独唱が人声(ひとごえ)に変わった。

「バイカヴァルよ」

 そして再び奏でられる旋律。広い音域は、低い音と高い音、音程の違う管を二本並べることで生み出されていた。


「……………」

 エスはその音色に聴き入った。生み出される旋律は、時に悲しく、時に美しく、時に激しく、フレーズごと、絶妙の表情を与えられていた。彼は、夢見るような心地でその調べに耳を傾けた。


挿絵(By みてみん)


「自分が自分でないような気がするよ」

 西を見つめてエスがつぶやいた。

「どう言うこと?」

「こんな景色を見ている自分が自分だなんて、なんだか信じられない。村の中で一生を終えれば、君に逢えることもなかったし、こんな光景を見ることもできなかった。今、君とこうしてこの景色を見ている自分が信じられないよ」

 リリィがくすっと鼻を鳴らした。

「あなたが私に会えたのも、ここにこうしているのも、みんなあなたが、あの時勇気を出して森に足を踏み入れたから。昨日と同じ毎日を繰り返していては、出逢いもないし、新しい感動もない」

 間を置いて、リリィはエスの青みがかった瞳を見つめた。

「エス、あなたは勇気あるひと」

 だがそれを聞いて、エスはかぶりを振った。

「そんなことないよ。僕は君のようにリカントロープに立ち向かうことはできない。恐ろしい森をひとりで闊歩することもできない」

 リリィの表情が陰った。エスの言葉は、彼女の心に刺さるトゲに触れた。

「私が亜人と戦ったり、森を我が物顔で歩けるのも、私に『力』があるから。もし『力』がなければ、そんなことはできない」

「リリィ……」

「でもエスは違う。力がなくても、困難に立ち向かっていける」

 エスは戸惑った。賛辞は嬉しかった。だが過大な評価は重荷にもなる。

「リリィ、やっぱり僕には勇気なんてないよ。もし勇気を出せたとしたら、それは……君がいたからだよ」


 会話が途切れた。だが、今や沈黙は苦痛ではなかった。穏やかな午後の時間がふたりを包んだ。


挿絵(By みてみん)


 瞳孔に差し込む日の角度が浅くなった。

 ずいぶんもの時が流れていた。リリィは立ち上がった。そして二、三歩、谷を見下ろす崖のきわまで歩み寄った。


「もうすぐ雨期ね……」

 彼女は目を細め、赤みがかった西の空を望んだ。

「今日のような景色も、そろそろ見納め。またしばらくは、あの重苦しい季節がやってくる」

 ひと月ものあいだ降り続く雨。太陽の恵みを失い、生育を妨げられる作物。村を流れる谷川は濁流となり、時には眠りすら妨げる。毎年繰り返される、天からの試練。


「遅くなるわ。そろそろ帰りましょうか」

 至福の時が、密かに幕を下ろしかけていた。隠れゆく舞台背景にエスはしがみ付きたかったが、傾く陽光がそれを許さなかった。エスは名残惜しそうに西を一瞥し、歩き始めた。



 ※


 帰路、ふたりの会話は弾んだ。

 エスは豊富な薬草の知識を披露した。リリィは、その博識を乾いた綿のように吸収した。エスは嬉しかった。村の少年たちからは虚弱なことを罵られ、父親にすら身体を鍛えないことを咎められてきた。そんな自分の知識が誰かの役に立つ……その事実は、彼の承認欲求を充足させた。いつしか脚の疲れも忘れていた。

 ふたりが小屋まで戻ったころ、日はとっぷりと暮れていた。明かりと言えば、木々の隙間から弱々しく入り込む、昇ったばかりの月の光だけだった。



「……………」

 扉の前で、リリィが振り返った。その彼女を前にして、エスはしどろもどろの言葉を振り絞った。

「あっ、あの……」

 リリィは表情ひとつ変えない。エスの顔を凝視している。エスは頭の片隅で取り留めもなく考えた。彼女はどうして、僕の顔をこんなに真っ直ぐに見つめ続けられるのだろう?僕だったら恥ずかしくて、ふた呼吸ももたないのに……


「あの……君と、口づけ(キス)したいんだ」


 リリィは信じられないほど表情を動かさなかった。何もかもがエスの頭から吹っ飛んだ。残ったのは羞恥と混乱だけだった。もう突き進むしかなかった。

「だ、だめかな?」

「いいけど……私はどうすればいいの?」

「そ、そうだね……目をつむってくれるかな?」

 リリィは上目遣いにエスを覗き込んだ。控えめに顎を上げ、まぶたを閉じる。エスは両手で彼女を抱き、すぼんだ唇に自分のそれを重ねた。ほのかな香水の香りがした。彼女の体はあたたかく、柔らかかった。だが唇は乾いていた。無論、ひび割れるほど荒れていたわけではなかった。しかしどんなに潤しても、みんな吸い込まれてしまう……そんな乾き方だった。エスは体を引いた。


「あの……明日も来ていいかな?」

「うん」

「ありがとう……」

 彼はそう言うと半歩下がった。

「お、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 リリィの声をエスは背中で受けた。

 その背が、森の闇に溶けていった。まるで魔の者に呑み込まれるかのように。

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