7.はるかなる王都 (1) ☆
翌朝、父親の目をまいたエスは、裁きの庭へ進み出る罪人のような面持ちで斜面を登っていた。
木々のあいだにリリィの小屋が見えた。無意識の使命感か、足は進んでいた。だがあの小屋に永遠にたどり着けなければいいのにと思った。そう、あたかも蜃気楼のように。もし拒絶されたらどうしよう?……巡るのは、良からぬ想像ばかり。彼にとって小屋までの道のりは、まさにあっという間だった。気付いた時、彼は朝露の乾かぬ扉の前に立っていた。
「……………」
ふたつ、みっつ、息をついたのち、彼は扉をノックした。
※
その日、リリィは朝から落ち着かなかった。
刺繍にも身が入らない。彼女は針を投げ出し、ベッドの端に腰掛けた。口の前で手を組み、心の葛藤を抑えた。
コンコン……
不意にノックの音が聞こえた。この小屋の戸を叩く者などひとりしかいない。びくっと震わせた体を落ち着かせ、彼女は立ち上がった。
※
苔の生えた湿った扉が、吸い込まれるように内に開いた。隙間の暗がりから、前髪のかかった少女の顔が現れた。
「……………」
エスはしばし、その美しさに息を呑んだ。
彼女は、いつものボロ着姿ではなかった。純白のワンピース。辺境では目にしない。どこか遠くの地方の民族衣装か。ウエストは黒の腰帯で絞られ、胸の豊かさを強調していた。見れば帯にも細かな刺繍が施されていた。
そして……これが彼にとって最も重要なことだが、左の腰には、きのう彼が贈った、薄絹の帯飾りが付けられていた。それは、この辺境地方の習わしであった。女性が男性のプロポーズを受け入れる意思表示であると言う。リリィがそうしていたのは、何も偶然ではなかった。彼女はその風習を知っていた。その上でそうしたのだ。エスが目をつむり、大きく息を吐き出した。
「リリィ……ありがとう……」
……………
※
エスはベッドに腰を下ろし、チャムチャを入れるリリィの背中を見ていた。
それは昨日と全く同じ光景だった。だがふたりを隔てる空間のもつ意味は、全く違っていた。
「素敵な衣装だね」
リリィの後ろ姿にエスが言った。
「西の方の民族衣装なの」
「あれ、リリィは東の出身じゃ……」
「私はね。これは、お母さんのおさがりなの」
晴れの衣装を娘に託した彼女の母親は、いったいどんな女だったのだろう?彼の頭を想像が駆け巡った。たいてい母娘は似るものだが、エスは敢えて、長身のスマートな女性を思い浮かべた。耳飾りなんかの装飾品が似合う。当然美人で、そして優しい笑顔……それはリリィの母親と言うより、自分の母を知らぬエスの、理想の母親像だったのかも知れぬ。
「どうしたの?」
不意に頭上から声がして、空想は現実の景色に塗り替わった。両手にカップを持ったリリィは、左に持っていた方をエスに差し出した。
「はい」
「あ、ありがとう……」
ひびの入った陶器のそれをエスは口元に運んだ。リリィはそばに腰を下ろし、自分のチャムチャに口を付けた。彼女は右利きなのだろう。エスは横目で、彼女のその右腕に目を遣った。
「?……」
エスに視線にリリィが気付いた。
「どうしたの?」
「えっ、いや……今日は臭わないね」
リリィはうつむき、一瞬だけ目を閉じた。彼女は右手首の腕輪を示した。目立つそれには彼も気付いていた。
「魔封環……これをしていると、魔の者の力を封じ込めることができる。もちろん力も使えないけど」
エスは、臭いに言及したことを悔いた。始めから腕輪を身に着けていれば、彼女は村人に差別されることもなかったはずだ。だがそうしなかった。それが何を意味するか。『力』を持たない彼にも理解はできた。魔導師が自分の力を封じることは、すなわち自分自身を否定することにもなる。彼女が腕輪を着ける行為は自己否定だ。村人に対してはそうしなかった。そして嫌悪された。しかし自分に対しては……エスは胸が詰まった。
彼の苦渋に満ちた表情を救いたかったのか、リリィが言った。
「エス、気にしないで。これは自分の意思でしたことだから」
「うん……」
彼はどうにか短い言葉を返すと、再びうつむいた。
気まずい時間がふたりのあいだを流れた。
リリィが明かり窓に目を遣った。そこには、四角い小さな青空があった。
「いい天気ね……」
「そうだね」
天気とは実に便利なものである。共通する関心をもたない人間のあいだにも、何かしらの話題を提供してくれる。
「こんな天気の日は、家の中で刺繍をするより、外で野良仕事をしたり、森の中をうろついたりする方がいいわ」
彼女は立ち上がった。麻袋を腰に提げ、壁に立て掛けていたロッドを手に取った。
「出掛けましょうか」
……………
※




