6.腕輪に宿る想い ☆
その夜、エスは何をするにもうわの空だった。食事を作るのも、父親の矢作りを手伝うのも。そんな彼の様子を、ヴォラスは不審の目で見ていた。
※
森の中、絶え間なく続く虫の音を背に、時おり袋鳥の声がこだまする。明かり窓から差し込む冷めた月光が、ベッドの上のリリィの顔を照らす。寝つけないのか、彼女は毛布をめくると起き上がった。
彼女はテーブルの下から木箱を取り上げた。古い宝石箱だった。鍵穴に青銅の鍵を差し込むと、コトリと音を立てて開いた。
「……………」
色あせたエンジの布が包んでいたのは、銀の腕輪だった。幅は小指ほどで、何やら呪術的なレリーフが切れ目なく彫られていた。装飾のない、ふたつの細いリングが従属しており、そのあいだを、やはり銀でできた目の細かい鎖が幾重にも取り巻いていた。
彼女はそれを手に取った。重い音を立て、鎖が月光を乱反射した。その光を避けるかのようにリリィは目を閉じた。
(お母さん……エスはあいつの……なら私とエスは……でも……)
※
乾いた土地。砂塵に煙る風景の中、幼い少女がいる。五つ、いや六つくらいだろうか。体にかぶせただけの、汚れたみすぼらしい布をまとっている。少女は地面にしゃがみ込み、両手の拳を顔に当てている。泣いているのだろうか。
その周りを、同じ年頃の少年たちが取り囲んでいる。みなも貧しい身なりだ。彼らは少女に石を投げつけ、口々に罵声を浴びせている。
「腐り女!」
「ウンコ!」
「魔女!」
顔を守ろうとする右腕をつぶてが苛む。肘から先に巻かれた白い布は汚れ、血がにじんでいる。
暴力衝動を解放させ切った少年たちが、勝ち誇り去ってゆく。残された少女はうずくまり泣きじゃくる。少年たちの姿が見えなくなってずいぶんたってから、少女はようやく立ち上がった。べそをかいたまま、よろめき、消えた少年たちの姿に背を向けた。
日もとっぷり暮れたころ……
ひとりの若い女が、あたりをせわしなく見回しながら小走りに駆けていた。恐らく美しかったであろう。だが今はやつれ衰え、不健康さを隠しきれていない。
女の前方から、傷だらけの少女がとぼとぼと歩いてきた。女は少女を認めると駆け出した。
「えぐっ、えぐっ……」
「リリィ、どうしたの!?またいじめられたの!?」
少女の両肩をつかみ、問い詰める。母親だろうか。
「男の子たちが、くさい、くさいって……」
それを聞いた女の顔が歪んだ。痛烈な平手が少女の頬に炸裂した。少女は勢いのあまり、もんどり打って地面に倒れ込んだ。その少女を、女はさらに打ちのめす。
「あんたは!あんたって子は!」
逃れようとする少女の髪をつかみ、女は容赦ない打撃を加える。
「『力』もないくせに!臭いだけは一人前にプンプンさせてッ!この役立たず、役立たず!」
いったいどれほどのあいだ折檻は続いたであろうか。少女がべちゃりと地面にうつ伏せた。女は棒のように立ち尽くしていたが、突如泣き崩れると少女に体をかぶせた。
「ごめんよ、リリィ、ごめんよ!おまえはなんにも悪くないのに!おまえは、母さんが……」
女は少女を抱きしめた。そして涙を流した。少女もその腕の中で肩を震わせた。
翌日、母親の姿が消えた。置き手紙を残して。そこにはこう書かれていた。
『おまえの臭いを治してあげます。待ってなさい』……
数日が経った。しかし母親は帰ってこなかった。さらに数日が過ぎ、やがてひと月が経とうとしたころ、ようやく戻ってきた。手にひとつの宝石箱を携えて。
「リリィ、これを右腕につけなさい」
母親が取り出したのは、銀の腕輪だった。三重のリングと細かい鎖からなる、見事な品だ。腕輪は、少女の細い腕には大きすぎたようだ。肘まではまってしまった。少女が母親を見上げた。瞳の中の女は微笑んではいたが、どこか精気に欠けていた。
「それをはめている限り、臭いは治る」
「うん」
少女は声を弾ませた。だが母親は顔をしかめた。女はしゃがみ、少女の腰に手を掛けた。
「母さんは、また出掛けなければいけないから。お留守番、できるわよね」
「うん……」
返事はしたものの、少女はひと月のあいだの寂しさと不安を思い出した。涙が出そうになるのをぐっとこらえた。そんな少女の姿を見ていた母親だったが、ついに感情を抑え切れなくなったのか。少女を引き寄せ、固く抱きしめた。
「リリィ!……寂しい思いをさせてゴメンね」
母親の涙が、少女の頬に滴り落ちる。
「リリィ、どんなことがあっても強く生きるのよ……」
少女には、その母の言葉を理解することができなかった。そうして、彼女は再び出ていった。もちろん、二度と戻らなかった。
……………
※
脳裏に蘇る、幼い日の情景。
腕輪を託して姿を消した母。そしてそれに引き続いて起こった、忌まわしい出来事……粘り付く記憶を振り払うように、リリィは二度三度、首を振った。気付いた時、空は白み始めていた。




