3.届かぬ姿 ☆
真っ暗な空間に放り出された。
目を開けているはずなのに、見えるものは何もない。前も、後ろも、右も左も。首を反らせても、空は漆黒に塗り潰されている。夜なら星のひとつでもまたたいていそうだが、それもない。そもそも足元ですら真っ黒だ。
ただ、何かの上に立っていることは確かだ。平らな、凹凸のない平面上に自分はいる。板張りではない。そんな温かみは足の裏に伝わらない。磨いた鋼の上にいるようだ。
不安になって、必死に頭を振る。目を凝らす。でも目に入るものはない。手を前に突き出す。振り回しても、触れるものはない。虚無に飲み込まれそうで、いても立ってもいられず足を踏み出した。一歩、二歩。しかし五感が検知するものは変わらない。風もない。臭いも、音もしない。ただ、少し寒い。埒が明かないのでとうとう走り出した。
息が切れるほど走って、ついに前方に何かが見えた。白い、ぼうっとしたもの。すがる思いでその影を追う。不思議と足音がしない。ただ、はあ、はあと言う荒い息だけは感じる。耳に聞こえるのではなく、自分の身体の中から直接脳に伝わっているような、そんな感覚だ。
そして白いものは次第に大きくなった。人だ。繭のようなもやの中に立っている。近付くにつれ、その姿が結像する。純白の民族衣装。長い黒髪。見覚えがある。その後ろ姿。自分が恋い焦がれ、探し求めた姿!彼女は……
「リ、リィ!」
叫んだ。ただ声が上手く出せない。舌と喉が言うことを聞かないのだ。もどかしさを握りしめ駆け続けた。息が切れる。でも脚を止められない。止めた瞬間、その姿が取り返しのつかないほど遠くに去っていきそうな恐怖にかられたからだ。
「リリィ!リリィ!」
声は相変わらず獣のうなりのようだ。こんな声じゃわからないのか?苛立った。振り向いて、僕の方を見てくれ!その、愛らしい顔を見せてくれ!
「リリィーーーーっ!!」
※
「はあっ、はあっ、はあっ……」
身体が動かない。
その体の中で、心臓だけが暴れている。握った手のひらに、ぬるぬるとした汗を感じる。いや手だけじゃない。顔にも粘った汁気が貼り付いている。せめて手で拭いたい。でも腕が言うことを聞かない。
汗を拭えぬままで嫌だったが、体が動かないのなら仕方ない。目は閉じているが、確かな光を感じる。開けば何かが目に入るはずだ。まぶたに力を入れてみた。動く。プルプルと痙攣しながらも、それは命令に従う。あれは……天井か。丸太を並べた粗末なものだ。先刻までは真っ暗な空間にいた。ではここは?いや、さっきまでが夢で、これが現実だ。自分は……生きている。
「……………」
ここはどこなのだろう。寝かされている。身体に毛布が掛かっている。そして……
「やっとお目覚めか?」
「!……」
声がした。女の声だ。視界の横からにゅうと現れる顔。特徴的な一重瞼。細い首。すらっとした輪郭。髪はさほど長くなく、首の横から自分の方に垂れている。歳は……自分と同じくらいか。
「あー、すごい汗だな。キナの量間違えたか?」
ぼうっとしていた頭がその単語に反応した。キナは気付け薬。量を間違えれば死に至ることもある。もしかして自分の心臓がバクバクいっているのはそのせいか。
「き、君は……?」
そうだ。自分にとんでもない処方をしたこの少女は誰なんだ?
「……ったく、人様に名前を聞く前に、『ありがとう』のひとつも言えないのか?森で行き倒れてたのを助けてやったんだぞ」
頬を膨らませながらも、少女は自分の顔を布で拭う。少しすっきりした。
「あ、ありがとう……僕はエス。アドルフ=エッセンバージ」
彼女は「へぇ」と眉を上げた。
「あたしはミカ。森で薬を作って暮らしてる」
「……………」




