4.父の激昂
リリィはエスを背負いながら、道なき道を下っていた。両側には身の丈よりも高い下草が茂り、二人の姿を覆っていた。もう少し下れば、眼下に村の軒並みが広がるだろう。
「あ、あの……」
無言だった背中のエスが口を開いた。
「ここまででいいよ、リリィ」
「とは言っても歩けないでしょ。ここから村まで転がって帰るつもり?」
「……………」
リリィの言うことはもっともだった。だがエスは、彼女の表現を借りるなら『転がって』でも彼女をここで引き止めさせたかった。彼女が村に姿を晒せば、いつものトラブルが繰り返されることは明白だったからだ。
※
そのころ、村はちょっとした騒ぎになっていた。
『アドルフの姿が消えた』……
やんちゃ盛りの子供の姿が見えなくなるのは珍しくない。野山に分け入り、冒険の真似事をする。特に少年であれば、それは世の常だ。
だがエスは、もうそんな歳ではない。それにひ弱で、同年代の少年たちに『青びょうたん』とからかわれてきた彼は、そのようなたちでもない。そんな彼の失踪に、村人たちは緊迫した。亜人の関与を疑ったからだ。多くの男たちが彼の捜索を手伝った。
「北の見張り台は?」
「伝令を出したがいないらしい。途中でもすれ違わなかったと言うぞ」
「南の町に行ったか?」
「三十カロルーテもあるんだぜ。父親に黙って行くか?」
三十カロルーテは、徒歩ならまる二日はかかる距離だ。
「ヴォラス……」
「……………」
エスの父、ヴォラス=エッセンバージは、広場の真ん中で立ち尽くしていた。村人の呼びかけにも視線を動かさず、遠くを見つめるばかり。
「もしや、森に入ったのではあるまいな……」
「ん?何?森?……んなバカな。ひとりで森に入ればリカントロープの餌食だ」
「……………」
確かにリカントロープは脅威だ。だがヴォラスは、亜人に恐怖して『森』と言う言葉を口にしたわけではなかった。彼には、もっと恐れるべきものがあった。忌まわしい記憶を呼び覚ます、災厄の胤……
「ああっ!!」
誰かが叫び声を上げた。それは、ヴォラスが真に恐れた者の到来を告げるラッパの音だった。
「あれは!……」
左右に分かれた下草のあいだから現れた、みすぼらしい布服の少女。ロッドを手にし、背中に行方知れずの息子を担いだその姿は……
「……………」
軒と軒のあいだで、張りつめた空気がガラスのように固まっていた。
誰も身じろぎしない。声も上げない。そんな中、リリィはエスを背負い、悠然と歩を進める。その足は、彼の父の眼前まで来てようやく止まる。彼女は挑むような目つきでヴォラスを見上げる。
「あなたの息子よ」
愛情のかけらもない、冷めた口調。だが彼女の目は冷めてはいなかった。一瞬たりとも視線を動かさず、ヴォラスを凝視する。その眼光は、一睨みで人を石に変えたといういにしえの魔女のそれのごとく、彼の体の自由を奪った。
「父さん……」
背中のエスが伏し目がちに父親を見上げた。ヴォラスは依然固まっている。
そして……
彼に掛けられた呪いを解いたのは、リリィが口元に浮かべた、ほんの微かな笑みだった。勝者が敗者をあざけるような、そんな笑み。
「うおおおおおおおッ!」
突如上がる雄叫び。
びくついたエスを、ヴォラスはリリィからふんだくった。彼は右脚を上げ、リリィの胸を加減なく足蹴にする。背から倒れたリリィの体が地を滑り、砂ぼこりを上げた。
「父さん!!」
エスが傷付いた足でふんばり、父親を制した。だが父の暴走は止まらない。二度、三度、リリィを力任せに踏みつける。
「やめて、父さん!リリィは僕を助けてくれたんだ!」
叫ぶ声も、彼女を踏む暴力的な音に掻き消される。リリィは頭を抱え、土けむりの中を転がっている。
混乱した精神状態の中で、エスは感じていた。
これまで父は、不自然なほどリリィのことを避けてきた。彼女と接することも、彼女について語ることも。そんな彼の中の何かが爆発した―――
「はあっ、はあっ、はあっ……」
それはエスにとって、途方もなく長い時間に思われた。しがみ付く腕の力が抜けそうになったころ、父の動きが止まった。暴行は終わった。顔や手、肌の露出したところ全てを血と砂で汚し、恩人は地べたで丸まっていた。
その有り様を見て……男たちは思った。「村の歴史が終わった」……と。エスにも、もはや自分をもってしても彼女の怒りを抑えることは不可能に感じられた。
リリィが手のひらを突き、上体を起こした。
長い髪が伏せた顔に懸かり、表情は見えなかった。右膝を突き、そして左膝を立て、立ち上がる。着古した衣服の砂を払い、顔を上げる。土で汚れた面は、驚くほど無表情だった。ヴォラスに向けられた目は、エスを連れて現れた時とまるで変わっていなかった。むしろ彼女を見るヴォラスの方が、眼球をこぼさんばかりだった。
「……………」
リリィはすぐに視線を切った。彼女は何の反撃も、呪いの言葉を浴びせることもしなかった。振り返ると、男たちには目もくれず、下草の茂みに消えていった。




