3.屍臭を放つ右腕
少年が目を覚ましたとき、少女は土間で背を向けてしゃがんでいた。
薪が乾いた音を立てる。肩越しには湯気と煙が見える。かまどに向かい、何か食べるものを作っているのだろう。身を起こす布ずれの音で気付いたのか、彼女は振り返った。
「目が覚めた?」
そしてすぐに視線を戻した。
「筋肉がだいぶ傷ついてるわ。次の新月までは歩かない方がいいわね」
彼女は医者のように解説する。鼓動が生むズキズキとした痛みは、モルフィンの効果かましになっていた。彼女は椀に粥をよそった。さじを差し、振り向いて少年に差し出す。
「薬膳料理よ。化膿止めの効果があるわ」
少年は湯気の上がる椀を受け取った。そしておそるおそる、最初の一杯を口につけた。
「……………」
それは普通の粥と、味において大差なかった。薬草の苦みがあった。とろけた芋の甘みがそれを緩和していた。温かな穀物の粒が喉を通ると、非日常な出来事に混乱していた思考も多少落ち着いた。だが小屋に充満する屍臭は、彼の食欲を大きくそいだ。
「そんなに臭う?」
尋ねられ、少年はぎくりとした。ちょっとした仕草で悟られてしまったか?いやそれより何と返答すべきか。肯定すれば、彼女の気分を害することになろう。かといって否定しても、この強烈な臭いではウソもすぐにバレる。
「ちょ、ちょっとね」
逡巡のすえ、どうにかひねり出した。少女は右腕を差し出し、肘から下に巻いている黒い布をまくった。
「!……」
少年は息を呑んだ。
布に隠されていた彼女の右腕は、瘡蓋のような黒い出来物で覆われていた。膿が吹き出し、湿っていた。あたりにたちこめる臭いが一段と強くなり、少年は彼女の臭いが、その膿から発せられるものであることを悟った。
「これは、どうして……」
「私は右腕に死霊を宿して生まれてきたの。私は彼らを召喚することで、強力な術を繰り出すことができる」
少年は、先刻森で見たあの光景を思い出していた。今さら言われるまでもなかった。彼は、リカントロープの群れを一撃で粉砕した恐るべき魔術を目の当たりにしたのだ。村の大人たちのうわさも、長老さまの怖れも本当だった。
だが少女の口調は、自らの力を誇るようなものではなかった。それは当然だった。その力の代償として、彼女は自分の右腕をおぞましい姿としなければならなかったのだ。
「食事中に悪いモノ見せたわね」
少女は腕の黒い覆いを元に戻すと、少年から離れた。
※
明かり窓から差し込む光が赤みを帯び、時の流れを告げていた。
板を並べただけの床に座り込んだ少女は、無言で黒い布切れに針を這わせていた。
「あ、あの……」
沈黙の気まずさに耐えられなくなり、少年は口を開いた。
「……君は、ずっとひとりで暮らしてるの?」
「そうよ」
「ここに来る前も、ずっとひとりだったの?」
「九つくらいの歳までは、東の土地で、お母さんとふたりで暮らしてたわ」
ではそれ以降、どうしていたのか。聞くまでもなく、彼女の母がもうこの世にいないことは推し測れた。その時浮かんだ質問を、少年は一度喉元で止めた。口に出すことがためらわれたからだ。しかし彼の論理的思考が判断を下す間に、言葉は口を突いていた。
「その……ひとりでいて、寂しくないかな?」
少女は刺繍の手を止めた。そして意思のない視線を少年に向けた。
「別に。寂しいなんて感情は忘れたわ」
少年は自らの発言を後悔した。だが少女の反応は、憤慨というよりはむしろ『意に介さず』、そんな体だった。彼女は刺繍を傍らのテーブルに置くと、明かり窓を仰ぎ見た。
「日が傾いてきたわ」
少女は、ベッドで身を起こす少年のそばに歩み寄った。
彼女は、その容姿に似合わず怪力だった。現に森から小屋まで、少年をものともせずおんぶしてきた。今も、村まで背負っていってやろうと言うことだろう。彼女が左手を差し出した。少年はそれに応えベッドから足を下ろした。
「あ、あの……言い忘れてたけど、ありがとう」
その言葉に、少女は驚いた表情を見せた。彼女は少年が戸惑うほど、彼の顔をまじまじと見つめた。彼はその時、自分が発した言葉の少女に対する影響力を理解していなかった。それは彼女が生まれて初めて聞く、心からの感謝の言葉だったからだ。
少女は目を閉じると腰を落とした。少年は、彼女の背に体を預けた。柔らかで温かな感触に少年はどきりとした。少女が立ち上がった。歩き出そうとした少女のうなじに少年は言った。
「あの……」
少女は動きを止めた。彼は続けた。
「……僕の名前は、エス。アドルフ=エッセンバージ。君は?」
少女は小屋の扉を開けた。外には、朱に染まった輝かしい世界が広がっていた。
「私は……」
彼女は小さく、だが凛とした口調で答えた。
「リリィ。リルズエスバーハ=フォン=グレーフェンシュタット」
……………




