満月への供花【未完】
満月への供花
序章
薄暗く長い長い道を真っ直ぐに行くと、まるで夜から朝に変わったかのように視界が開ける。
そこでは六つの光が、まるで蛍のように浮遊していた。
一つの光が訴える。その光はかつて雪のように真っ白だったが、悪いやつらに汚されたのだと。
二つ目の光が訴える。その光はかつて情熱に満ちた赤き炎だったが、悪いやつらから逃れるために、醜い煙となったのだと。
三つ目の光が訴える。その光はかつて氷のように透き通っていたが、愛しき者を失って、ひび割れた硝子のように曇ってしまったのだと。
四つ目の光が訴える。その光はかつて風に揺れる麦のように穏やかな黄色だったが、悪いやつらに追いつめられ、自らの手で首を折ったのだと。
五つ目の光はそれら四つの光を嘲笑うように瞬いていた。高い所から見つめている最後の光には、そう映ったのだ。
巨大な獣に寄り掛かる白髪の男。その手には痣があった……
第一章 満月
1
「あぁ、雪のように白くなびく長い髪。焔のように赤く燃えるその眼。鏡よ、鏡。世界で一番美しいものは誰ぁれ?……それは万月様!なんちゃって!」
「何やってんの?葎花」
「ひゃー!」
葎花は持っていた手鏡を放り投げてしまう。がばっと振り返ると、可愛くない弟が冷めた目で見つめていた。
「ちょっと真!ノックぐらいしなさいよ!」
「したよ、15回」
また恥ずかしいところを見られた。葎花は銀髪のウィッグと左目に着けたワインレッドのカラーコンタクトを外す。壁にぶち当たった手鏡を撫でるが、幸い割れてはいなかった。
「ご飯の時間。お父さんがいるからご馳走だよ」
「やーりぃ」
葎花は口笛一つ吹いてベッドから飛び上がった。弟の真を押しやって部屋から出る。肩に掛かるかどうかといった栗色のショートヘアをふわふわさせて、軽やかに階段を降りていった。真はため息一つ。
「お帰りなさーい!お父さん!」
「あぁ、ただいまー!葎花ー!」
横も縦も葎花の1.5倍はある父親の相楽が手荒く娘を抱き締める。
「ぐげー、お父さん、痛い痛い!」
「はーっはっは」
相楽はお巡りでちょっとお偉いさんだから、村の平和はもちろん村の外の平和も守る。1週間ほど家を離れるのはよくあることで、帰ってくる度に馬鹿やってる父娘を無視して真は自分の席に着いた。
「葎花、手洗ってないでしょ?」
「今から洗うのー」
大雑把な葎花を反面教師に真は神経質に育った。今もばしゃばしゃ水を飛び散らして手を洗う姉に、気が気でない。
既に席に着いてニコニコしながら家族が揃うのを待っているのは母親の弥生。どっちが年上だかわからない姉弟を微笑ましく思っている。
「ひゅー、ごっ馳走じゃーん。いただきまーす」
香ばしいスパイスの香りと微かにお酒の匂い。お父さん、飲んできたな、と家族は目配せする。
決して裕福とは言えない相楽一家だが、四人とも食べることが好きなので何か贅沢をするとなれば食に関することになる。今日は相楽の好きな肉料理、味は濃い目……が中心だった。
「ねぇ、お父さん。葎花がさっきも部屋で万月様ごっこしてたよ。しかもさぁ、葎花、今日の作文の時間、また尊敬する人・万月様って書いて発表したでしょ。僕のクラスまで広まるんだよ。リッカじゃなくてバッカだって」
「はっはっは、上手いこと言うなー」
「笑わないでよ、お父さん。真ねぇ、私は剣術少女だよ。強い剣士に憧れて何が悪いの?」
弱冠十七才にして村の剣術大会三年連続優勝。鶏より早く起き、梟より遅く寝ると言われるほど、朝から晩まで剣術修行に励む心身共に強い姉を、真は認めないわけではない。ただ馬鹿だ馬鹿だと思っている。
「キリン」
唐突に首の長い動物の名前を呟く弟。葎花は目を丸くする。
「は?何が?」
「クイズの答え、葎花にはわかんないでしょ?」
ハンバーグに突き刺していたフォークでテレビを指す。賑やかなクイズ番組だった。司会者は今人気急上昇中のお笑いコンビの、たしかツッコミ担当のほうだ。
「えっ、なに?鍵、氷、兎、像、首……んーと、んーと」
「頭文字を取るんだよ。で左から読むと……」
「あぁ、なるほどね。わかんないよ!そんなの!」
文句言う葎花だが、相楽は感心する。弥生もだ。
「最近のクイズは知識だけあっても駄目なんだなぁ。俺らの子供の頃のクイズ番組はマニアック過ぎてつまんなかったよなぁ」
「そうですねぇ」
快活で少年のような相楽と葎花。それを温かく見守る弥生と冷ややかに見つめる真。そんな家族だ。
広いダイニングキッチンと子供部屋二つ、夫婦の寝室に相楽の書斎。相楽の夢だった一戸建てのマイホームは、この村のやや東寄りの北に位置する。
「母さん、おかわり」
「よく食べるねぇ、真。最近、部屋で筋トレもしてるでしょ?なに、ひょろひょろの体を卒業したいの?」
「別に」
「あっ、わかったー。好きな子ができたんだー」
「ち、違うよ!」
真は明らかに動揺してる。顔も真っ赤。図星だった。葎花は手を叩いて笑う。
「やー、赤くなって。やっぱりクールぶっててもまだまだガキね」
うるさいなぁと毒づきながら、真は弥生から大盛り三杯目のご飯を受け取る。
「葎花こそ、彼氏くらいできないの?いつまでも万月様、万月様って言ってないでさ」
かつて世界中にその名を轟かした白髪の剣士、万月。伝説と化した今でも彼に憧れる剣術家は多く、葎花もその一人だ。
「でももう二十年以上前の話だろ。生きてたとしたっていいオッサンじゃん」
「やっぱりお子ちゃまね。愛に年齢は関係ないのよ……あー、今度の問題はわかる。簡単だよ」
究極の気分屋は今日も我が道を行く。決して可愛くないわけではないし、義理人情には厚いので友人はもちろん隠れファンも実は多い。
「蓼食う虫も好き好き」
「ん、なんか言った?真」
「別に、ただ、マヨ付けすぎると太るよ」
余計なお世話ですぅっと舌を出す。好物のマヨネーズをべちゃべちゃ付けたポテトを食べながら葎花は「お父さん、まだわかんないのー」と父をからかった。
「わからん。ねうとうたみう○さといい……なんのこっちゃ」
「ヒントあげようか?十二文字なのがポイント」
だが、言った途端に司会者が答えを発表してしまった。
−正解は「ひ」。○に入るのは「ひ」です!十二支の頭文字が並んでたんですねぇ−
「あー、そんなことか!あと五秒あればわかってた!」
なんて模範的な視聴者だろう。実にしょうもなく感じるクイズでこんなにエキサイトできるとは。
「葎花、九時から映画見てもいい?」
「いいけどさ。あのさぁ、何度も言うけど呼び捨て止めてよ。お姉ちゃんて呼んで」
「人として尊敬してないからやだ」
ぷっつーんとくるギリギリ一歩手前だと感じ取り、弥生は思わず笑ってしまう。可愛らしすぎる姉弟喧嘩は犬も食わない。
テレビの中ではクイズ番組が終わりに近づいていた。最後に視聴者向けの宿題クイズが発表されるが、相楽一家の食事は続く。八時からは葎花が見たい歌番組がある。
「お母さん、お代わり」
「僕も」
「俺も」
弥生ママの料理は美味い。弥生ママはみんなを笑顔にするのだ。
「あらあら。食欲の秋はもう終わりよ。でもこれから寒くなるから、みんなブクブク太って大丈夫よ」
穏やかな晩秋から季節は冬に衣替えをする。こんなふうにまだ、葎花は平和しか知らない。幸福しか知らない。
神様は言う。それではダメなんだ、と。
2
「世界の中心」と言われる国、禾楠。そこから馬車で一時間もかからないとは思えないほど、葎花たちの暮らす村、凛府は田舎だ。
禾楠は繁栄の代償として自然を破壊し尽くしてしまい、資源が全く取れない。故に凛府は禾楠で暮らす上流貴族のためにあらゆる物資を生産、提供することで、持ちつ持たれつの関係を保っている。
そんな凛府の村民の一日はいつも静かに、祈祷から始まる。学生も農民も商人も、仲間との朝の挨拶は、学校でも畑でも店先でもなく、教会で交わされる。
「おはよう、葎花」
「おはよう、夏芽ちゃん」
剣術部の親友である夏芽とのお喋りは葎花が心安らぐ時間の一つだ。
禾楠の寵愛を受けているとは言え、庶民階級の凛府住人は、この時代まだ名字を持つことを許されていなかった。小さな子供たちはその辺りの事情をよく理解していないため、テレビで見る上流の人々の氏名を聞くと「この人たち長い名前だね。変なのー」と首を傾げる。
「人はみな神様の寵児。神様の御霊の元に人はみな平等なんだよ」
相楽からそう言われて育った葎花は、いつか自分が剣術で大成したら、広く世界中に神の教えを説く伝道者になりたいと、そう思っている。照れ臭くて親友の夏芽にも言えない夢だけれど。
長い黒髪の美人。剣術を始めたのは葎花より2年も遅いのに、もういい練習相手になってくれてる。
「そうだ、葎花。お正月は暇?」
「うーん、特に予定はないけど。なんで?」
「あのね、隣村で剣舞の大会があるらしいのよ。一緒に見に行かない?」
「剣舞?あっ、楽しそう。行きたい」
「じゃ、約束ね」
「うん」
教会でのお祈りを済ませた二人は学校へと向かう。この村では六歳から十八歳までの子供が同じ校舎で学ぶ。大きな校舎だが、他の民家や施設は全て小さな建物なので、狭い村にデーンと居座っているようで不格好だ。
並んで歩く二人の吐く息は白く、季節はすでに冬を迎えている。
「あぁ、また期末テストの時期かぁ。夏芽ちゃん、勉強してる?」
「そりゃ、あんたよりはしてると思うよ」
赤点取ったら冬休み返上で補習になる。それだけは避けねば。相楽も弥生も何も言わないが、真からはネチネチ言われるだろう。あのやろ、ちょっと成績優秀で学聖とか言われてるからってお姉様を見下しおってからに。
「学聖」というのは優れた音楽家を「楽聖」と呼ぶのに倣って誰かさんがつけたあだ名。まだ中等部のはずなのに葎花が「暗号?」と呟くほど難解な本を読んでいる。大人になったら歴史の教科書に載るくらいの大学者になるのが夢、らしい。
「葎花は大人になったらこの村、出てくの?」
「ん、そのつもりかな」
十七才になる葎花たち。まだ卒業までは一年以上あるが将来の展望もぼんやり描かれ出す年頃だ。
「私はわかんないなー。彼氏と一緒にずっとここで暮らすのも悪くないけどね」
夏芽には彼氏がいる。男の子と手を繋いだこともない葎花としては羨ましい限り。
「朝礼まで、素振りくらいしてこうか?」
「元気だね。あんたはホントに。いいよ、付き合うよ」
葎花はニカッと顔を明るくする。
「おはようございます」
「あっ、おじさんもおはようございます」
「おばあちゃん、おはよう。今日も寒いね」
何が楽しくてステップ踏むような足取りで歩くのか、夏芽にはわからないが、葎花は道行く人全てに満面の笑みで挨拶しながら通りを行く。夏芽は葎花といると楽しい。葎花も同じだと思うが、たぶんそれ以上に。
同じ剣術部と言っても、葎花は他の多くのスポーツと同じように、勝ち負けのはっきり決まる競技としての剣術を好む。だから普段から根性主義で体力作りや筋トレにも励んでいる。
それに対して夏芽が追い求めるのは、あくまでも精神を磨くための儀式的な剣術、スポーツでも格闘技でもない「道」としての剣術だった。目指すのは「勝利」ではなく清く正しい「理想の自分」だ。
どちらが正しいわけでもなく、もちろん優劣も貴賤もない。だからその違いは、却ってお互いを差別化し尊重しあえるアイデンティティとなっている。
剣術のこと、勉強のこと、友達のこと、恋人のこと。途切れない会話は楽しくて、ほどよく冷えた朝の空気は気持ちいい。
学校の門をくぐったところで剣術部顧問の深國先生を見かけた。丸ぶち眼鏡のいかにも頭よさげな男子と話している。
「また勉強の話かな」
「勉強以外に興味ないのかねぇ」
厳ついおじさんといった感じなのだが、剣術に関しては素人。その代わり物理学のエキスパートであり勉強に関しては鬼のように厳しい。あだ名はハゲゴリラ。もちろんいいイメージではない。
「頼むから剣術部にもちゃんとしたコーチつけてほしいよね。指導者いないと練習も効率悪いよ」
「ちょっと肩身狭いよね。剣術部」
道場の隣の更衣室でジャージに着替えながら愚痴る。部活中は袴着用だが自主練時の服装は原則自由。素振りだけなら防具も必要ない。軽く準備運動を終えたら早速声をだし、汗をかく。凛府は、冬でも体を動かせば軽く汗ばむくらいの気温はある。
「やっ、やっ、やっ」
「はっ、はっ、はっ」
葎花たちが修練する剣術は正式名称を「凛刀術」という。「凛府で生まれた剣術だから凛刀術」なのか「凛刀術が盛んな村だから凛府」なのか定かではないが、禾楠や他の多くの地方で主流になっている「真刀術」と違い真剣を用いない。だから「実戦的でない」、「ちゃんばらごっこ」だと揶揄する声も多い。それだけなら未だしも護身術の一環として剣術を習わせている保護者からは不安の声もある。
村の中にいれば危険はないと教師たちは言うが、村の外には人に害意を向ける魔物も多数生息すると葎花は知っている。ただ不思議と恐怖は感じていない。一介の剣術少女に過ぎないとはいえ、本来は凶器である刀剣を携える以上、命がけの戦いへの憧れは確かにあるのだ。
そんな話を夏芽にしたこともあるが、彼女は「大切な剣を醜い血で汚したくない」と取り合わなかった。
ただ練習に励んでいる時は二人とも真剣そのもの。それが共通認識であり、逆に練習が一段落すればただの女の子だ。
「知ってる?万月様は本気で許しを乞う相手はたとえ魔物でも命までは奪わなかったんだよ。それどころかどんな悪者もみんな泣いて改心したんだよ」
「そりゃあ、美しく慈悲深い勇者様だもんね。耳にタコよ」
強く強く、それでいて誰よりも優しく。世界中の悪を滅ぼし誰もが幸せに生きる世を夢に見た万月という男。その伝説は、禾楠から凛府とは反対方向に数十キロ離れた小さな村、とりあえずそんなところから始まる。
3
今は昔、晩秋。少し気の早い粉雪の散る山村、香渦。
「そんなところを想像してみてくれ。その人が生まれた村さ。まぁ、凛府とさほど環境は変わらないな」
若い歴史教師が大袈裟な身振りをつけて語る。初等部の葎花は身を乗り出すようにして聞き入っていた。
気は優しくて力持ち、なお巡りさん、相楽という父を持ち、物心ついたころから「強さ」に憧れる葎花。しかし、それ以上に葎花はその男の顔写真にびびっときた。
「なんて美しいお方!」
聡明さを感じさせる涼しげな眼差し。しかし、その左の瞳は赤く光る。上品に通った鼻筋に、優しく微笑む口元。そして、その長い髪は彼の綺麗な心を映すように真っ白だった。
葎花は瞬間、恋に落ちた。
香渦はその日の食べ物にも困るほど貧しい村だったが、村民みなが手に手を取り合い労り合って、どうにか生きていた。万月少年も、そこで寡黙な父と共に育った。
母親は万月を生んで間もなく病に倒れ、そのまま息を引き取った。父親は妻を失った悲しみなど全く感じさせないほど、夢中で仕事に明け暮れていた。そうしないと自分とたった一人の息子を養うこともできない。そういう時代だった。
「万月が十五になるころに、父親は死んだ。一人になった万月は村を出ることに決めたんだ。想像してみてくれ。大変な勇気だぞ」
流浪の旅人となった彼は剣術で生計を立てた。取り立てて文武に長けていたわけでもない家系で、だがしかし万月は強かった。そして誰よりも真っ直ぐだった。
行き交う国々で要人の護衛、城の警備、王族の剣の師範。そんな仕事を繰り返した。
「戦いはまた新たな戦いを呼ぶ。人間ってのは悲しいもんだよな」
葎花はうんうんと頷く。でも万月は無益な殺傷を好まなかった。万月は平和を愛していた。そんな心身共に強い彼の姿に人々は「希望」を抱いた。
それは万月青年の二十一才の誕生日のことだった。
夕暮れの山道を一人歩いていた時、少し強い魔物が彼の前に現れた。苦戦、というほどではないが無傷ですむ戦いではなかった。その日のうちに山を下りてしまいたかった万月だが、仕方なく少し迂回して傷の治療のために、近くの村を訪ねることにした。それが凛府だった。
「テレビにもよく出る万月は昔の凛府の人の間でも有名人でな」
優しい青年だったという。綿飴のように甘く柔らかな笑顔は見るもの全ての心を明るく和ませた。
だからだろうか。人々が抱える問題を見ぬふりできなかったのは。
「当時、世界中には今以上に魔物が蔓延っていたんだ。その中でも最も凶悪と言われていたの牙崙という魔獣だ。こいつに滅ぼされた国は数え切れないな。神出鬼没なやつだが、次の標的は、そう、禾楠だろうと言われていたんだ。なんとかやっつけてくれないかと凛府の村長−みんなも知ってるな−は頼んだわけだ」
万月はいよいよその時が来たかと思った。恐怖はあった。だがそれ以上に自分の剣に自信があった。きっとどんな強敵だって倒せるさ、と。
万月は二、三日の間に村を廻り情報を集めた。牙崙は現在は山の麓の洞窟にいる。夜行性なので昼間のうちは活動しない。殺るならそのうちだ。
「武器や防具の手入れを念入りにすませ、彼はいざ魔獣討伐に向かったんだ。見知らぬ人間の不意の攻撃にやつはさぞ驚いただろうな」
「それで、どうなったんですか?」
葎花は身を乗り出して教師の話の先を促した。
「もちろん勝ったさ。だが彼は最後に油断したんだ。牙崙の捨て身の一撃に、大きな傷を負ってしまったらしい」
若き勇士、万月が瀕死の重傷―そのニュースは世界中に伝わった。
「凛府のお医者さんが三日三晩かけてようやく一命を取り止めた。それから彼は隠居したと伝えられているよ」
「インキョってなんですか?」
「戦いの一線を退いて気ままに暮らすことさ。山にこもったとも言われてるし、傷を隠すための仮面を被って今もどこかの町で暮らしているとも言われているんだ」
と、万月の伝説はここまで。教師は手を叩いた。クラスは静まった。
今も生きている−のだろうか。その強く美しく、優しかった青年は。
会いたい−葎花は一途に想った。
その日から葎花は村の図書館に足繁く通うようになった。万月に関する書籍は多く、彼のことを知れば知るほどに想いは強くなった。剣術修行にも今まで以上に精を出すようになった。
憧れはやがてはっきりとした目標となる。人を愛し、人を守るために悪と戦った万月の意志を継いで、自分も世のため人のために生きたい。
それがどんな痛みを伴う道でも。
4
夜中だから、あまり大きな声は出せないだろう。そう踏んでいた。だが、甘かった。次の瞬間、雷が落ちたかと思った。
「夜道は、気をつけろって、あれっほど言っただろ!馬鹿!」
「ごめんちゃーい」
何事か、温厚な相楽が本気でキレてる。葎花は部屋の真ん中で正座だ。相楽は目をひんむいて、逆に葎花は恐ろしくて目も開けられない。
「お転婆でも一応、女の子だろ。あまり一人で出歩くなって先生に言われただろ。いいか。『あまり』ってのは99%絶対だ。それを『あたしが退治するー』だと?なにかあってからじゃ遅いんだぞ!」
「ごめんなさい。ごめんなさい、お父さん」
正座だけじゃ甘いと踏んだ葎花は、もう土下座だ。真は部屋の隅っこから侮蔑の目差しを向けている。
「怒られてやんの。だからやめとけって言ったのに」
「お前も同罪だ、真!こっちにこい!」
「えー!」
ドアの向こうで聞き耳を立てる弥生も冷や冷やする修羅場。なぜ、こんな事態になったか。きっかけと呼べることはなにもない。全ては唐突に始まったのだ。
近頃、凛府で通り魔事件が多発している。不可解な事件だった。最初に起きたのは今から三週間ほど前のことだ。
被害者は村の病院から帰宅途中の老人。背後から後頭部を殴打された。命に別状はなかったものの、平和な凛府の民にとっては大きな衝撃だった。
「本当に驚きましたよ。目玉が飛び出るんじゃないかってくらい痛かった。殺されるーって思ったけど、すぐにどっか行っちゃってね。それから気を失って……」
老人はそう語った。その後にも似たような事件が相次ぎ、被害者は既に十人を越えている。相楽を初め警察も総力を挙げて捜査に当たっているが、犯人の目星も、解決の糸口もつかめていない。学校でも厳重警戒が呼びかけられている。
それならばと、手をこまねいてはいられない女が約一名。その名は葎花。
「今こそ私たち剣客の出番だわ」
村の窮地に、憧れていた実戦。葎花は思う。立ち上がる時が来たのだ、と。
「馬鹿たれ!そういう無茶するやつが出てこないように警察ってものが存在するんだ。いいか、真、お前もホントに姉ちゃんが大切なら泣いてすがってでも止めなきゃダメだ」
「別に大切じゃなっ……痛ぇっ」
後ろから足をつねる。いろんな意味で涙目になった。
「ばい、すびばせんでした」
真は葎花に負けじと深く深く頭を下げた。冗談は抜きにして本当に危ないところだったのだ。
その日、部活を終えた葎花だったが真っ直ぐ家には帰らなかった。パトロールと称して夜道の徘徊を試みる。冷静に、そして常識的に物事を考える頭が、葎花にもあればよかった。だが、彼女は回りが考える以上に単細胞だ。
三十分ほど歩き回ったころだろうか。後ろから人の気配がした。もしかしたら、気づいていなかったかもしれない。たまたま降り始めていた雨のおかげで足音が二つあることに気がついたのだ。
恐怖、という感情は実際に体感しなければ認識できないのだろうか。怖いもの知らず、後先考えない。そういう二つの要素を併せ持つ葎花は、この時点に至って、ようやく恐怖の匂いを嗅ぎわけた。
「落ち着け!私!」
気のせいであれと祈りながら振り返れば、そこには十歳くらいの子どもとおぼしき人影。全身を見ようと視線を巡らすと、その手には長い棒のようなものが。
ヤバい!
戦わなきゃ、やっつけなきゃ。でも、どう見ても子どもだよね。通り魔って子どもだったの?じゃあ、勝てる?でもでもでもでも……。
気がつけば葎花は逃げ出していた。もちろんそいつも追いかけてくる。
まだ小降りと思って差してはいなかった傘は放り投げた。葎花は俊足。幸いにして追跡者は足が遅かった。だが、飛んだ!
凄い跳躍力……じゃない。本当に中空を飛んできた。そして、葎花の前に降り立つ。悲鳴にもならない、声に変わる前の息が洩れた。
覚悟を決めて葎花は剣を構える。しかし、そいつは不敵に笑った。……ように見えた。暗くて表情などわからないはずなのに。
そいつの纏う空気。気配。オーラ。それらが葎花の戸惑いと呼応して、いつしか強くなっていた雨音と共に、不協和音を奏でた。そして、そいつは口を開いた。
「歯向かうの?無駄なのに」
二、三メートルは離れているはずなのに、その声は耳を塞いでいても聞こえてくるのではないかと思えた。なんだか、やけに多くの空気を含んでいるような独特の声だった。細く、女のように高い。男の子だとしたらまだ声変わりもしてないだろう。
「君、強そうだから今日のところは戦わない。ちゃんとした武器持ってくる」
その言葉は耳には入っていたが、頭には入っていなかった。初めて「対戦相手」ではなく「敵」と向き合った。そのことに、心臓が逆に止まりそうなほど高鳴っていた。
言い様のない涙で滲む視界から、そいつは消えた。腰が砕けてへたりこむ葎花を、偶然通りかかった警官が保護した。
雨に打たれて冷えてしまった身体も、少しずつ暖まってきた。なにより「でも無事でよかった」と目を潤ませた父親の愛情が暖かかった。
「その男、かもわからないのか。そいつはまた現れるんだろうな。何者なんだ」
「わかんない。でも、私また狙われるかも」
相楽は、警察でも近いうちに捜査の規模を拡大すると伝えた。それで葎花の不安が和らぐということもなかったが。
「葎花、明日から登下校は僕が付き添うよ。頼りないだろうけど」
「そうだな、真。そうしてやってくれ」
葎花は頷いた。普段は生意気な弟の優しさが嬉しかった。
通り魔の被害者は今のところ老若男女バラバラ。中には屈強な男もいる。あんな小さな人でもそういう男に勝てる。不意打ちだったからという以外にも理由はあるのだろうか。
不安と未知なるものへの恐れに震えながら、葎花は自分の部屋に戻った。
誰かとつながっていたくて、夏芽に電話を掛けた。二、三回のコールですぐに出てくれた。
通り魔に遭遇したことを話したら、凄く心配してくれた。お陰様で怪我はないと言ったら、安心してくれた。夏芽ちゃんも気をつけてねと伝えたら、うんと言って笑ってくれた。
最後に、ほっとしたら眠くなったと言ったらからかわれた。そこで電話を切った。季節は冬で夜は特に冷える。
壁に立て掛けてある愛刀が、風もないのに倒れた。
一人の部屋にカランと響くその音は、葎花の耳にどこか物悲しく聞こえた。
5
事態が深刻化すればするほどに、村人たちの警戒は強まり、ここ数日通り魔は現れない。念のため村の外にも戒厳令が敷かれ、周囲の市町村でもテレビニュースで伝えられるようになった。
「葎花、あれから危ない目にはあってない?」
「うん、大丈夫。真がいろいろ防犯グッズ買ってくれたしね」
朝の登校時は真が、下校時と校内にいる間は夏芽が、なるべく側にいてくれてる。幸い、あれ以来あの謎の少年(?)は姿を見せていない。
凛府の学校は三学期制。もうじき二学期が終わる。学期末テストは無事に乗り切った。追試も補習もなし。ギリギリで。もうすぐで冬休みになるこの年末の時期が葎花は好きだった。なんとなくだけど。
今日も部活が終わって着替えて、あとは家に帰るだけだ。校門までの道には、その日はたまたま人がいなかった。普段は他の部活の生徒も遅くまで残っていたりもする。
「ごめん、私ちょっとトイレ行ってくる。待ってて」
「えっ、でも……」
「あんた、トイレまでついてくるの?大丈夫だよ。すぐ戻るから」
「うん、わかった」
結局、一人になってしまった。急に心細くなる。一応、愛刀を包んだ袋の紐をほどいておく。いつでも取り出せるように。いざとなったら袋越しでも打撃力はある。
夏芽としても5分とかからず戻るつもりだった。しかし、それは油断で、敵は思う以上に抜かりなかった。
「葎花さん、ですね」
聞き覚えのある声。葎花の肩が強張る。後ろにあいつがいる。でも、振り返るのが怖い。空気までが、刺すように冷たく感じられた。
-夏芽ちゃんー
心の声は喉の外へ出ていかなかった。観念して葎花はそいつと向き合った。忘れもしないーというほど鮮烈に脳裏に焼き付いていたわけではないが、確かにあの雨の日の通り魔だ。
「あなた、何者なの?この村を狙う理由は何?」
「直にわかる。でも今は言えない」
「そう……」
先手必勝。不思議と迷いはなかった。相手との距離は目測約3メートル。踏み込み一歩で届く。
ガッ!
胴。手応えあり。
「ぐふっ」
敵は膝を曲げた。どうする。頭にお見舞いするか。防具もなにもつけてない相手に?死んじゃうよ。だがー
「えっ?」
消えた。
まばたき一つする間に、葎花の視界から敵が消えた。
どこ?逃げたの?
葎花は混乱した。魔法でも使ったとしか思えない。ぐるりと周囲を見渡す。そして安堵する。用を済ませた夏芽が手を拭きながら帰ってくる姿が見えたからだ。
「葎花、どうしたの?」
「夏芽ちゃん、よかった。今、あいつがー」
葎花はすぐに駆け寄ると夏芽の胸に抱きついた。しかし夏芽はその肩越しに怪しい影を捉えた。
ブーン、という蝿が飛ぶような、しかしそれほど呑気ではない音が聞こえた。そして、なにもなかったはずの虚空から頭が、腕が、脚が飛び出してきた!
「きゃっ!」
二人は「それ」から避けるように地面に倒れ込んだ。体に痛みが走る。夏芽も剣を取り出した。戦わないと。こいつはただの通り魔じゃない。よくわからないけど、なんかヤバい。
「へぇ、けっこう反応いいね」
ニコニコと無邪気な顔とは裏腹に右手には物騒なもの。なんていうのか。たぶん「棍棒」。夜だけど前回見た時より視界はいい。男の子だ。たぶん二人より二つか三つくらい年下だろう。
「どうする?」
夏芽が囁いた。葎花よりさばさばした性格だが、実は小心者だし、乙女だ。でも葎花だってそんなに肝が座っているわけではない。おろおろするばかりの二人の前に次に現れたのは、しかし事態を好転してくれる者ではなかった。
「コト、そこまでよ」
おそらくは大人の女性の声。すごく色っぽい。葎花たちのようにまだあどけない少女には出せない、それでいて憧れてしまうような。
男の子の向こう、薄い靄がかかったような視界のその先に彼女は立っていた。
なんていうんだろう。たしか日本とかいう国の服だ。着物とか言ったか。地理の授業で習った。綺麗な白地に紫の花の柄。色白の肌によく似合ってる。
違う。ファッションチェックしてる場合じゃない。男の子-コトっていう名前なのかな-そいつの味方だろうか。ものすごい美人だけど悪女っぽい。クラスの男子がこっそり読んでるエッチな本に出てきそう。
「ごめーん、マユ姉。でも、この子けっこう強そうだよ」
「大事の前よ。むきになる必要ないわ」
「はーい」
美女は葎花たちに見向きもせず、コトと呼ばれた少年の腹部を擦った。
「怪我ってほどのことはなさそうね。でもかなり痛いでしょう」
「超痛いよ」
女は指をペロリと舐めた。微かに爪の先が光る。それを裾をたくしあげた少年のお腹に当てた。
赤く腫れていたお腹がもとの肌色に戻っていく。葎花たちは呆気にとられた。またも思う。魔法でも使った?
葎花はまだお目にかかったことがなかったが、この世界には移動や治癒の魔法を使える人種が少なからず存在する。この女の人もそうなんだろうか。日本って国では普通なのか。社会科は暗記が多くて苦手科目なんだな。
そんなことを考えていたら女は嘲笑うような顔をして、二人のほうを見やった。
「あなたたち、忠告しとく。中途半端に磨かれた力は寿命を縮めるだけよ」
「は、はい」
咄嗟に話を振られて葎花は声が上擦ってしまう。掴めない人たちだけど、ただの愉快犯とか小悪党とかそういう感じじゃない。葎花はさほど洞察力があるわけじゃないけど、それでも二人の目を見ればわかる。何か恐ろしい陰謀と野心を感じる。
「コト、帰るわよ」
「待って」
また何か呪文のようなものを唱え始めたので今度は夏芽が慌てて引き止める。女は形のいい眉をひそめた。
「私たちが何か悪いことをしたの?教えて!どうしてこの村を襲うの?」
「孤兎市から聞かなかった?直にわかるわ。でも、そうね。ヒントだけあげる。……月よ。この世界は月のように欠けて、太陽の光のもとに再び満ちていくのよ」
それだけを吐き捨てるように言い置くと、再び不気味な呪文を唱えた。ふふふっと笑って彼らは煙のように消えた。あとには不穏な空気と、動悸がする二人の少女が残された。
「なんなの、あの人たち」
「わかんない。でも、葎花がやられなくてよかった。とりあえず助かった……のかな」
「警察呼ぼう。それと、まだ職員室には誰か残ってるよ。知らせないと」
二人は目を合わせると少しだけ落ち着いた。でも、なにか大きな嵐が訪れるかもしれない。予感は的中する。翌日、世界は恐怖の底に突き落とされることになる。
6
その日、禾楠の警察署は朝から荒れていた。未明に投函されたと思われる「脅迫状」が原因だ。信じたくない気持ちもあるが、悪戯にしては質が悪すぎる。
ー遊びは終わりだ。まずは復讐、二十年の恨みを込めてー
これだけなら意味不明だった。だが、刑事たちを震撼させたのは、そこに記された金地に黒い桜のマークだ。
「そんな馬鹿な。六煉桜……だと」
禾楠警察機構の総長、時春総吾は緊急会議の必要を感じた。それから今まで長い議論が交わされているのだが、話は何も進展していない。
「死んだはずなんだ。晃はあの時……」
晃ーそして、六煉桜。
世界中で暗躍する犯罪派閥「下翼」、その中枢を統べる極悪組織だ。
この世界に於いて、大まかに言えば、上翼は正義、下翼は悪を意味する。世界は今、まるで子どものように、正義と悪に二分されているのだ。
「総長!大変です!」
新米の刑事の一人が血相を変えて会議室に飛び込んできた。両手に大きな紙袋を抱えている。
「爆弾です!」
「なに!」
新米刑事は袋から「それ」を取り出す。時春は一瞬驚いたが、すぐに少しだけほっとした。
「なんだ。久しぶりに見たな。これは言録玉ってやつだ。おどかすな」
言録玉ー一昔前に流行したタイマー式のレコーダーのようなものだ。時間が来ると小爆発を起こし録音されたメッセージが流れる。
30の文字が表示されていた。爆発まで30分か。
「脅迫状の主と同一でしょうか?」
「おそらくな」
会議室に一層の緊張が走る。言録玉のカウント音と会議室の壁掛け時計の秒針の音が微妙にずれていて、ひどく気持ちが悪い。
「録音の録音が必要だ。準備してくれ」
「あっ、はい」
指示された刑事が急いで機械を操作する。一般的な言録玉は、あくまでオモチャのようなものでせいぜい二、三行しか録音されないが、場合が場合だ。長い文章かもしれない。
「嫌な予感がします。ひょっとして近頃の連続通り魔も……」
「俺も同感だ。あの葎花とかいう娘の証言、白地に紫の花柄の着物。それはおそらくあいつ、結界師・舞雪の妖道着だ」
六煉桜、結界師の舞雪。
万月が牙崙を打ち破り、世界からほとんどの魔物が姿を消したのが今から二十年前。しかし、それで悪の根が完全に絶えるほど世界は甘くない。十年もすれば歴史は繰り返し、以前より多くの魔物がのさばるようになった。俗に言う、妖魔恐慌。
時春が初めて彼女を見たのはその頃だ。今でも思い出す。美しい人だった。
その頃、六煉桜はまだ完全な悪と言い切るには素性が謎過ぎた。はっきりしていたのは首謀者である晃という男の人智を超越した強さだけ。そう、あまりにも強かった。
その晃というカリスマのもとに、それまで私欲を満たすためだけにバラバラに悪事を働いていた無法者たちは、次第に一定の秩序を形成するようになった。下翼の黎明期だ。
「君がまだせいぜい十才かそこらの頃だろうな。下翼と上翼のかなり大きな争乱があったのを覚えているか?あの時、下翼の敗北を見届けて、たしかに晃は爆煙の中に消えた。しかしー生きていたのか」
炎の中へ去っていく晃の名を、声が潰れるほど叫び続けた美女。後の警察の捜査でその人は優秀な魔法使いで、晃を首領とした下翼の幹部、六煉桜の一員だとわかった。
「その組織が再び決起したーということですか?」
「思い過ごしならそのほうがいい」
会議室の会話はそこで止まり、重苦しい沈黙に包まれた。残り五分。
「離れていよう。一応、危険物でもある」
固唾を呑んで過ごす時間はいつもより長く感じられた。だが、時の流れは止まりはしない。カウントは0を示した。パカッと玉が割れて、中から紙切れが吹雪のように舞散った。
「さぁ、決着をつけようじゃないか。人類諸君」
低くざらついた声。覚えている。晃の声だ。全員が口を抑えた。
「我等は六煉桜。この星を真に憂える者である。凛府で起きていた近頃の夜襲は全て我等の所業。怖がらせてすまなかった。だが、それももう終わる。君たちはもう永久に恐怖も苦痛も味わうことはない」
時春は手が汗ばむのを感じた。無意識にズボンで拭いていた。
「二十年前、とある偽善者が牙崙という偉大なる魔獣を打ち負かしてしまったのはご存知だろう。だが、それは真実ではない。魔獣は凛府の中心、汚らわしき教会の地下牢へ封じ込められたのだ!」
張り上げられた声。刑事たちは互いに目を見合わせる。なぜ……。
「今、正義という愚かなる概念が世界中に蔓延している。神は人々を生温い平和に浸らせたままなのか。違う!これは現代社会への警鐘。我等、六煉桜は全人類へ宣戦を布告する。まずは凛府に眠る魔獣、牙崙を覚醒させる。これは復讐であり、人類が犯した全ての罪への、償いなのだ!」
ザーザーという音がノイズとして混じっている。雨?それとも、晃の心の音がそのまま入り込んでいるのか?どこかから、いや、玉からに決まっているのだが、それでも出所も行き場もわからない笑い声が聞こえてくる。
「フフフ、フフフフフフ……ハーハッハハーハッハ!ハーハッハハーハッハ!」
平和だった時代が再び動き始める。もう引き返すことは許されない。
「……記者会見の準備を。それから腹が減った。鮭握りを買ってきてくれないか」
時春はパイプ椅子にもたれ掛かる。そして頭をかきむしった。
我に帰った他の男たちも悲鳴を上げた。長く恐ろしく、悲しい戦いの始まりだ。
第二章 欠けていく月
1
結束の固い組織だが、六人が一堂に会することは意外と少ない、ということを氷綱は改めて感じた。今も二人は別行動で出張っている。
灯台下暗し。凛府から目と鼻の先の、だが凛府の中からは視界に入らないこの洞窟を即席のアジトに選んだのは青の桜・氷綱だった。他の五人も反対しなかった。広さも丁度良く雨風も凌げる、今作戦の拠点として申し分ない場所だ。
「凛府の人間はこちらの脅しにすっかり畏縮しているようです。狙い通りですね」
「そうだな、氷綱。八割方はお前の計画通りだ」
氷綱は一瞬誇らしかったが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「八割方、とおっしゃいますと?」
「あいつが、少し元気がない」
晃が自身の胸に手を当てた。十年前の火傷の痕を隠すための、というのは偽りで本当は顔そのものを隠すための仮面は、鼻から上しか覆っていない。その隠していない口元は、まるで苦いものでも噛んでいるかのように、歪んでいた。
「教会の下見は念入りに済ませてあります。舞雪から既に南南西の丘に陣を敷いたとも、準備は万全です」
「計画は確実に実行に移す。恐れるなよ」
「愚問」
アジトの隅で愛用の手甲を磨いていた赤の桜・灼永が活力のある声音で答える。
「一日千秋の思いで待ちわびた時ですぜ。血が滾ることはあっても躊躇う必要なんて毛の先ほどもねぇっすよ」
「そう逸るな、灼永。お前には思う存分、血の味と香りを楽しませてやるさ」
ベロリと舌舐めずりする灼永。対照的に、まだ落ち着いている氷綱と目線を合わせる。
「まずは俺たちで奇襲だ。足を引っ張るなよ、氷綱」
「灼永、俺はいつも通り、俺の仕事をする。忘れるなよ。これは始まりにすぎない」
「笑止」
何分か時間が経って、ふいに通信機の音が鳴り響いた。すぐに黄の桜・狐兎市が応じる。
「了解、うん。そうだね。大丈夫。ふふっ。じゃあ」
通信を切った。狐兎市は振り返り、両手を広げた。
「作戦開始です!さぁ、我ら六煉桜の力で人類を太平の眠りから覚ましてやりましょう!」
四人の両の目がギラリと光った。金の桜・晃が先陣を切る。アジトの外に出ると空は不気味な黒い雲に覆われていた。
「決着をつける時だ!いくぞ、同士たちよ!」
後に続く三人も雄叫びを上げる。まずは、復讐……。
午前零時。教会の神父も門を閉めて、眠りに就こうとしていた。
今朝から村中があのニュースの話題で持ち切りだ。六煉桜の宣戦布告。奴らの悪名は凛府の間にも知れ渡っている。
かつて、世界中を自分たちの手で征服しようと企んでいた大悪党。既に奴らの支配下となっていた国は多い。金、食べ物、土地、歯向かうものは時に命さえも……容赦なく奪われた。
十年前、上翼が戦乱に勝利し、晃が消えた時、人々は歓喜の声を上げた。だが、組織は継続されていた。名前も明かされていない影中の影、黒の桜が生き残ったからだ。
「どんな喜びも悲しみも生きてこそ。殺し合うことだけは嫌なんだ」
神父は静かに、だが強く願う。その時だった。
ガタン!
二階から物音がした。大きな音ではないが、一人きりの教会にはかなり響く。
あまり物事に動じない神父は、それでも冷静だった。念のため武器をーと言っても箒くらいしかなかったのでそれを確保して、危険に備えた。
一階の正門はしっかり施錠してある。二階の窓を破って輩は侵入したか。地下室への階段に目をやる。奴らの狙いは十中八九、そこだ。
神に祈る。この村に生を受けて六十余年。雨の日も風の日も捧げてきた祈り。
彼らはー六煉桜は自らの目的のためなら、私の命などまるでドブにごみを捨てるように奪ってしまうだろう。それは怖くなかった。
ただ、あいつだけはー牙崙だけは呼び起こしてはいけない。あいつが目覚めれば他の雑多な魔物たちも、雨後の筍のごとく増え続けるだろう。そこに我ら人類全ての安らぎと幸福はない。
神父は呼吸を落ち着けて目を閉じた。胸の奥がざわつく。そして、邪悪な気配を感じた。夜の闇は視覚を奪い、静寂は聴覚を研ぎ澄ませた。
古くなった階段からギシギシと音が聞こえた。
神父が目線を上に向けるとそこには長い黒髪の女。その自分の図体よりも大きな杖を握り締めている。
「あら、まだ起きてたのね。寝込みを襲うつもりだったのに」
「その方、六煉桜の一味か?」
「自己紹介はいらないみたいね。さすがは神父さん」
白地に紫の花の和服。葎花たちを襲った女だと、神父は確信した。目を閉じて村中にテレパシーを送る。これは神父の得意とする技だ。
ー皆の者よ。奴らがやってきた。厳重に戸締まりを。よいか。絶対に手を出してはいけない。奴らは歯向かう者に容赦しない。大人しくしているのが最善だー
神父は目を開けた。そして息を落ち着けて女と向き合う。
「我々はそなたたちと命の取り合いをする気など毛頭ない。どうか、引き上げてはくれまいか?」
女ー白の桜・舞雪はふっと笑った。彼女ももともと暴力は好まない。だが、親愛なる晃様の指命は絶対だ。
「生憎だけど、私たちもあなたたちを生かしておくことはできないの」
「なぜだ」
「それが運命なのよ。もう人類は死ぬべきなの。この星が……いいえ、全宇宙がそう訴えてるの」
淡々と語る美しい女。その目は切なくも強く、光って見えた。
神父はその妖艶な姿に一瞬、自我を失いかけた。しかし、慌てて首を振る。
「そなたたちは私利私欲のために悪行を為しているわけではないのか?ならばわかってくれ。人は皆、神様の寵児。誰もが平等に幸福を得る権利を有しているのだ」
神父が言い終わるか否かのうちに、舞雪はその右腕を前に突き出した。
「怨!」
舞雪の奇声と共に恐ろしいまでの空圧が神父を吹き飛ばした。
激しく壁に叩きつけられた神父は、思わず咳き込んでしまった。少しだけだが魔法を使える神父は、目の前の敵がかなり位の高い魔法使いだと悟った。
「お主……」
動揺と痛みで声が震えてしまう。そして今度はガクガクといっていた膝が折れる。どうにか力を振り絞って立ち上がるまでの時間は、一秒にも一分にも一時間にも感じられた。
「失礼、カッとしやすい性分でしてね」
「あなたは、舞雪という名だと、刑事さんから教わりました。そうですね?」
「えぇ、そうですよ」
見つめ合うーというほど穏やかではない。二人はにらみ合っていた。少し風が強くなったように感じる。月明かりがステンドグラスを通して、鮮やかな色彩を不気味に映し出していた。
「舞雪……さん。私も自分の命が惜しい。手荒いマネはしないでくれ」
「そのつもりよ。あなたは人質。凛府の村人の信望も厚い。打ってつけよ」
また、彼女は腕を振り上げた。今度は音も声もなく、その腕を振り下ろす。
神父は身構えたーが、体がびくんと脈打ち、またしても床にくずおれた。
「くっ、つっ」
声が出ない。体が動かない。頭だけが働く。
何が、どうなった?
目線だけをその魔法使いのほうへ移した。蔑んでいるのか。哀れんでいるのか。口角が少し上がっていた。
「麻酔をかけたようなものよ。でも安心して。毒性は全くないから」
女がそう言うと、今度は正門のノブが回った。鍵がかかっていたはずのその扉は、音もなく開いた。
「ご苦労だった、舞雪。明日朝になれば警察が押し寄せる。結界のほうは任せた」
「了解です。晃様」
あれが六煉桜の首領、金の桜・晃。テレビニュースで見た記憶がある。あの目、何十、いや何百何千という人を殺めてきた大犯罪者の目。それから、その手先となる男が背後に三人。「六煉」だろ。もう一人は……。
晃の後ろから、控えていた小柄なーいや、ほとんど子どものような男が歩み寄ってきた。手には縄のようなものが握られている。
「ごめんね、個人的に恨みはないんだよ。でもどうせみんな死ぬんだか……ら!」
「ぐぁ!」
強引に腕を捻られた。体ごときつく縛られる。舞雪の魔法は解けていて声を出すこともできた。
「私を……この村をどうするつもりだ!」
「この村を?どうもしないさ。どうかしたいのはこの世界さ」
真っ赤な髪を後ろで束ねた長身の男が、神父の顎を引き上げた。
手が熱い。触れた顎が焼けるようで、神父は顔を歪めた。この赤毛の男も、人を殺めることになんの躊躇いもないような、そういう目をしている。
「晃様、少し急ぎましょう。灼永も無駄口叩いてるな」
氷綱が促すと晃も「そうだな」と言ってさっさと地下室への階段のほうへ足を向けた。
「本当に、牙崙の封印を解くつもりなのか!そんなことをしたらお前たちだって無事ではすまないぞ!」
「わからない人だ。俺たちにはもう、覚悟ができているんだよ」
晃は「立ち入り禁止」と書かれた看板を蹴り倒し、地下へと進んでいく。
「こんな看板でも村長の言葉一つあれば誰一人立ち入らなかったのか。愚かだ。あまりにも愚かだ」
神父は声を荒げて「待て!行くんじゃない!」と訴えた。その声は闇の中へ、吸い込まれていくだけだったが……。
2
「六煉桜が来たぞー」
「本当に来るとは思ってなかったわ」
「逃げるに越したことはない」
「村の外に出よう」
「でも外には魔物がいるぞ」
「どうしよう」
「どうしようかしら」
「どうしたら」
「どうしたらいいのかしら」
深夜の六煉桜の来襲の衝撃は凛府中に一瞬にして響き渡った。駐在していた警察も一斉に稼働したが、午前三時現在、村はパニック状態を脱していない。
教会の周りは、特に異様な空気に満ちていた。
「すげえ魔力だ。これ以上近づけそうにないな」
「そうですね、時春さん」
時春刑事は部下の波町と共に、手をこまねいていた。認めたくないが、手も足も出ない。
魔力の根源はわかっている。村の南南西に位置する森の中だ。凛府の中で最も呪力が立ち込めている、魔法陣を組むのに非常に適した地点だ。そこに、あいつがいるのだろう。
「舞雪、腕は錆びちゃいないようだな」
「そうですね」
「行こう。成敗してくれる」
警察の威信にかけて、悪に屈するわけにはいかない。時春は森への道を踏み出した。
舞雪は深く息を吸い込む。嵐が来る前に。
私が自殺するとしたら、こういう誰も立ち入らない場所で静かに。樹木の葉がさやさやと風に揺れる音しかしない静かな場所で。
縁起でもないことも考えてしまう。でもこの静寂ももうじき破られることになるわ。ほんと、人間って騒々しい生き物だこと。
同心円状に描かれた陣の中心に今、舞雪は立っている。呪文を唱え終えたところだ。
これで凛府の教会の周囲には強力な結界が張られた。打ち破れるか、警察様方のお手並み拝見と言ったところだ。
舞雪は着物の胸の辺りをきゅっと掴んだ。豊かな胸はコンプレックスだった。何故に膨らむ必要があるのかわからない脂肪の塊の奥で、小さな心は泣いているのだろう。舞雪は自分の過去に想いを馳せる。
百年に一人の美少女と謳われ、十代のうちから、テレビに映らない日はないと言われるほどの人気者となった。たくさんの人からちやほやされていた。有頂天だった。
だが、ある日の夜に三人組の暴漢に襲われた。
イメージが何よりも大事な芸能の世界。レギュラーを務めていた番組は全て下ろされ、決まっていた歌手デビューの話も消えた。
私は全てを失った。
また、嫌なことを思い出してしまったと、舞雪は首を振った。今は遂行中の任務に集中しなければ。
カサッ、と草木の揺れる音がした。今、自分の立っている少し小高くなった丘から下を見下ろす。あらあら、ずいぶん大勢でいらっしゃったものだわ。
「やはり貴様か!舞雪!」
「久しぶりね、時春さん」
角張ったゴツい顔、ずっしりした体。長い付き合いになるけど、昔からあまり印象は変わらない。でもやっぱり目元には皺ができて老けを隠せない、と舞雪は感じた。
「それ以上近づくと危ないわよ。脚を吹き飛ばされたくなかったら、引きなさい」
「こっちの台詞だ!」
パン、パーン!
カン、カーン!
何事かと波町は思う。時春が発砲したが、銃弾は舞雪の体の一メートルほど手前で跳ね返った、というのが真相だ。
「時春さん!」
「心配するな。いきなり撃ち殺したりはせん。脚を狙ったんだ。しかし跳ね返されたか。さすが舞雪だ」
時春の率いる拳銃警官隊も銃を構えたが無駄と悟る。
「感心して下さるのね。好きよ、時春さん」
「一回りも年上の男を茶化すとはいい度胸だ。しかし、俺は許さんぞ。結界を張って警察の妨害を封じようという魂胆か。だが、ここの教会の地下室は迷宮になっている。野垂れて組織総崩れがオチだ」
時春が捲し立てるが、舞雪は動じない。手を組んで人差し指を立てて、何やら呟き出す。
「怨!」
唐突に時春の足元に煙が漂う。紫色の煙。毒ではなさそうだ。時春は怪訝そうに舞雪を見る。
「牙崙が地下迷宮の最深部に眠っているならひたすら下を目指せばいい。低いほうへ低いほうへと沈んでいく類いの気体くらい私たちは簡単に作り出せるわ」
「安っぽい作戦だな。しかし確実な方法だ」
舞雪はまたしても妖艶に微笑む。時春はどうしてもドキッとしてしまう自分に嫌気が差す。
「波町、お前も同じ魔術師ならあいつをどうにかできんのか?」
「無理ですよ。あの人かなり特殊な気を使ってます。僕みたいなひよっこにはとても太刀打ちできません」
時春は歯をギリギリと鳴らす。警官隊も自分たちの無力さを嘆く。既に晃たちは教会へ侵入している。奴らの狙いは計り知れないが、この世界にとって良い方向へ向かうことではないだろう。
こいつを、舞雪とこの結界をなんとかしなければ。焦るばかりで頭が上手く稼働しない時春を、憐れむように、だが蔑んでいるわけではない目で舞雪は見つめている。
「……ねぇ、時春さん、もし自分が組織の中で、孤立してしまったら、どうします?」
静かに問いかける。その目は強く、しかし悲しい光を宿していた。時春はどう答えたものかわからない。
「自分一人が間違っているのか、それとも自分以外の全てが間違っているのか。私たちもそう問いかけられているようなものなの。でも私たちは迷いなくこう答えるわ。もちろん後者だって」
「舞雪……」
時春は銃を下ろした。攻撃を諦めたわけではない。ないのだが……。
「なんてね、湿っぽい話は終わりよ。私たちはいつだって前向き。正義も平和も私たちの理想郷に似合わないの。だから奪ってやりたくなるのよ」
嘘だ。時春は瞬時に感じ取った。舞雪の過去は知ってるから。「奪われたものを取り戻す」ということは「奪う」ということとイコールなのだろうか。
その答えが出るまで、舞雪と警察のにらみ合い、この膠着状態は続く。
3
夜明け前、一人の男が欠伸しながらその村にたどり着いた。凛府。
「おわっちゃー、野次馬さんがいっぱいおるなー。みんなはよう逃げんと」
迂闊に村の外には出られない、しかし、連日の通り魔の恐怖から、六煉桜には逆らえない村人たちは結局、中途半端な立ち位置で今後の身の置き所を話し合っている。警察は警察で意外と早々にすることがなくなってしまい、各々早めの朝食休憩を取っている。
「おっ、でけえ」
「なんだ、あいつ」
道行く人が好奇の目で指を差す。大きな武器を両肩で横向きに担ぐその男。どう見ても邪魔だ。だが本人はどこ吹く風、口笛なんぞ吹いている。
「もし、そこのお嬢ちゃん」
「は、はい」
急に呼び止められた少女は思わず身構える。いかにも怪しい人だ。
「相楽さん家の葎花っちゅう娘っ子、知っとう?」
「り、葎花ちゃんですか?は、はい。クラスメイトです」
男は目を光らせた。比喩じゃくてホントにキラッてしたんだけど気のせい?さらにぐいっと顔を近づけてくる。怖い。
「ホンマに!めっさ会いたいんや。どこ住んどっかわかる?」
「え、えっと、ここの道を真っ直ぐ行くと果物屋さんがあるんで、右に曲がって二つ目の角を……」
「んんん、めんどいなー。案内してくれん?」
「は、はい。えっと」
少女は涙目になってる。この人すっごくお酒臭い。誰か助けてーと首をぐるぐる回して味方を探す少女は救世主を見つける。すぐに手招き。
「ちょっと君。さっきから見てたら失礼過ぎるんじゃないか」
横も縦も規格外にデカイおっちゃんが二人の間に割って入った。お互いに珍奇なものを見るように上から下まで眺める。
「葎花に何か用か?私は相楽だ。父親だ」
相楽は厳しい声色で言ったが、不逞の輩はビビらない。わーお、と大袈裟なアクションで万歳した。でも肩の武器は落ちない。無駄に器用な奴だ。
「相楽さん、あんさんもお巡りさんの端くれでっしゃろ?」
「端くれとはなんだ。この村じゃあ一番偉いぞ」
この男の独特の訛り。おそらくは西の方の出身だろう。決して悪人ではないと目を見ればわかるが、ボリボリと頭を掻く姿はとても「いい人そうだな」とは思えない。そんな相楽の懐疑的な視線は無視して男は続ける。
「お巡りさんでしたら、この世界、救ってみたいとは思わへん?」
その男、また爛々と目を光らせた。
朝っぱらから変な客だ。外の騒ぎで目はとっくに冴えていたけど、酒の匂いで今度は目が痒くなってくる。真はなぜだか部屋の隅っこに追いやられていた。
「うん!美味い!お母さん、料理上手でっしゃね」
「あら、ありがとう。お代わりあるわよ」
その男ー乱と名乗ったがーは相楽家にやってくるなりお腹を盛大に鳴らし「朝ご飯まだなんですわー」と、黄ばんだ歯を見せて笑った。
今、リビングのテーブルは相楽と弥生、向き合うように葎花と乱が並んで座っている。葎花は乱が壁に立て掛けた得物を興味津々で見つめている。
「あれ、もしかして槍ですか?」
「せや、わしの相棒や」
小柄な葎花にはとても使いこなせそうにないぶん、槍には余計に憧れがある。
「外から来たんですか?魔物はいっぱいいませんでした?傷一つないようですけど、強いんですね」
「よう喋る子やな。それでこそわしの見込んだ剣士や」
ご機嫌そうな乱と、無警戒過ぎる姉にイラついて、真が口を挟む。
「傷一つないって、どう見ても服ボロボロじゃん。あんた、なにしにうちに来たの?」
むっとして乱は鼻で大きく息をする。
「年上の人には敬語を使うもんやで、ガキ」
「そうですね。僕は真と申します、おじさん」
火花を散らす二人を相楽がどうどうと宥める。そして、オホンと咳払い一つして本題に入った。
「乱さんといいましたか。うちの葎花に御用だそうでしたが、どういった?」
客人は弥生の出した温かい茶を一口含むと、少しだけ表情を引き締めて話し始めた。
「聡明な刑事さんのことやさかい、話し方から察しはついてる思いますけど、わしは香渦の出身です」
「でしょうね」
香渦。件のヒーロー、万月の生まれ故郷。
「葎花さんっちゅう天才剣士が万月さんの大ファンやって聞きましてね。一つ頼まれ事を聞いていただけんかと、うかがったんですわ」
「頼まれ事?」
真っ先に表情を変えたのは葎花だった。居住まいも正す。
「葎花ちゃん、君も万月についてはかなり詳細に勉強しとるやろ?その中でなにか違和感のようなものは感じなかったかい?」
乱を始め部屋中の注目が集まる。だが、葎花はさほど動じることなく、むしろやっと人に話す時が来たかといった気持ちになった。顎に指を当て少し考えてから答える。
「違和感というか、何か私たちには秘密なことがあるような印象を持ちました」
葎花は家族や親しい人に対しては自由奔放に会話を交わすが、意外と人見知りなところがあって初対面の人に対しては割りと丁寧な口調になる。特に真剣な話をする時はそれ相応に真面目な顔もできる。
「……秘密って、葎花?」
目を伏せてしまった娘に対して相楽は優しく合いの手を打った。葎花も意を決して語り出す。
「六煉桜の言録玉に入ってた秘密。楓馬は教会の地下に封印されてるっていう話。あれは以前から学者たちの間で囁かれてたことですよね?でも、たぶん、おそらくは村長がもっと大きな秘密を隠してる」
「同感だね。葎花ちゃん」
緊張感が増す部屋の外で能天気な鶏が鳴いた。真が思わず吹き出してしまったので一瞬空気が弛んだが、またもとに戻る。
「ごめんごめん、秘密って何さ」
「それはわからないけど、でも晃はきっと何かを知ってるんだよ」
金の桜・晃。人の世を憎み、悪魔に魂を売り渡した男。
「乱さん、あなたもしかして……血風刃の?」
「気づいたか?ハンターや」
相楽も弥生も即座に反応した。真だけがポカンとして首を傾げる。
「けっぷうは?」
乱は半分ほど残っていた茶を一気に飲み干した。そして少しふてぶてしく口を開く。
「西の万月、東の血風刃って言われとってな。真君。まぁ、論より証拠や。そろそろ行くで。葎花ちゃん」
「行くってどこに?」
立ち上がって外へ出ようとする乱を追いかけて葎花は問う。乱はまた黄ばんだ歯を見せつけるような笑顔で囁いた。
「村長さんとこ」
4
乱は歩くのが速い。葎花と真としてはかなりの速歩きでないとついていけない。
「ちょっと乱さん、もうちょっとゆっくり歩いてよ」
「別に弟君は来てくれんでええのに」
「そういうわけにはいかないよ。僕だって力になれるかもしれない」
「ほう」
乱は感心し、葎花は嬉しかった。たしかに真は武力では頼りないが、葎花よりは確実にキレる。
「あそこです。あの赤い屋根の家が村長さん家です」
よし、と言って乱は更に足を速める。もう、と言って二人はついていく。
村のどこからでも見つけられるほどでかい家だ。いったいどんな歴史が刻まれているのか知らないが、村長の家系は代々この村の中枢を担っている。庭は広いが門は一つ、正門しかない。
「たのもー、たのもー」
無遠慮に大声を出してガンガンとドアをノックする。姉弟はひやひやした。一応、村長さんだ。偉い人なんだ。
十秒ほど経って村長が出てきた。お手伝いさんが出ると思ったが本人が出た。今日は他にも来客が多いのか、少し疲れた顔をしているように見える。
「なんじゃ、騒々しい」
御年八十にはなる村長。曲がった背中に皺の深くなった顔。間近で見ることは多くないその人は、記憶にあるよりずいぶん老けて見えた。
「村長、この人は乱さんって言います。村長に話があるみたいで」
「朝早くに押し掛けてえろうすんまへん」
全然すんまへんと思ってなさそうな顔で乱は軽く会釈する。
「……入れ」
村長は訝しむ表情で、しかし三人を招き入れてくれた。お邪魔します、と乱、葎花、真の順に村長宅に足を踏み入れる。
「あっ」
廊下で村長の娘、奥華と擦れ違ったが上手く挨拶できなかった。村長は気にせずに三人を居間に通す。
さほど広くはない。六人ほどは座れそうなテーブルと食器棚があるくらいで殺風景な印象だ。
「それで?なんの話をすればいいんだ?」
お手伝いさんが温かいコーヒーを二人分出してくれた。真はココアだった。
「子ども扱いね、真」
「うるさいなぁ」
小声で言い合う姉弟に構わず乱は単刀直入に切り出した。
「万月のことです。村長さん、場合が場合や。もう嘘はつけんてわかっとるやろ?」
「なんのことだ」
万月の名前が出て、村長は明らかに動揺して見えた。乱は更に追い打ちを掛ける。
「わしは血風刃さんのハンターや。甘く見んほうがええで」
血風刃の名前が出て、村長は更に狼狽える。ここで真が口を挟んだ。
「さっきも言ったけどさ。血風刃って何者なの?」
乱は、これだからガキは……と言いかけてやめる。ガキだから更に文句言う。説明を引き受けたのは葎花だった。
「昔、万月様と並び称された剣豪よ。でも万月様とは仲が悪かったし、あまり評判はよくないわね」
「血風刃の旦那は世界中の強者だけを集めて一大兵団を作った。そいつらにひたすら悪を成敗させて世界を一つにまとめようとした。それが旦那のやり方でその兵団の一人一人の団員のことをハンターって呼ぶんや」
「それに対して万月様は魔物に困らされてる弱い人たちの話をちゃんと聞いて目に映る一人一人の幸せを自分の力で守ろうとしたの」
葎花と乱は意外と気が合うかもしれない、と真は感じた。興味関心の方向が一緒だ。すなわち真は乱と気が合わないということ。
「それって、どっちも大事だって言って何か矛盾する?」
「結構するで。自分ももうちょい大人になればわかるわ」
真は子ども扱いされたようでムッとしたが話が進まないので我慢した。今度は黙っていた村長が口を開く。
「あの男は血風刃は今どこで何をしているんだ?」
「黒の桜をやっとる」
村長は目を見開いた。葎花もばっと乱のほうへ視線を向ける。真も、この男は何かとんでもないことを言ったと感じ取った。
「どういうことだ?あいつが晃と組んだのか?」
「そういうことや。六煉桜のナンバー2は我らが旦那様、血風刃や」
真は事態が今一つ飲み込めないが村長は頭を抱えた。葎花も眉根を寄せる。
「それじゃあ、ハンターである君は知ってるんだな。六煉桜は何を企んでる?」
「それをあんたに話す義理はない。義理があるのはあんたのほうや。もう一度聞くで。隠してることあるなら話してくれんか?」
乱は少し前傾姿勢になった。部屋中に不穏な空気が漂う。時刻は午前八時を回っていて少し晴れ間が差していたが、その光はこの部屋を照らしはしなかった。
「葎花、お前にはショックな話かもしれん。でも私はこの男には隠しておけんような気がする」
「村長、私なら大丈夫です。話してください。真も、いいよね?」
姉に確認されて真は黙って頷く。村長はそれならと言って重苦しく口を開いた。
「葎花も知ってるだろ?楓馬が姿を消した後のしばらくの間、凛府にかなり強い魔人が頻繁に現れたということ。だが、それもいつの間にかなくなり、やがて完全なる平和が訪れたということ」
「あぁはい、本の隅っこにちらっとそんなことが書いてあったような……」
「……その魔人が万月だ」
葎花と真は「えっ」と声を揃えた。乱は顎に手を当てて無表情のままだ。
「よくある話さ。魔獣の返り血を浴びた万月は自らも自制心を持たぬ魔人に変貌してしまったんだ」
「それじゃあ……」
「我々は彼を傷つけた。身も心も。そして彼を地下迷宮の奥底へ封じ込めた」
「ひどい……」
葎花は村長の悲痛な告白に顔を歪める。真もなんとも言えない表情だった。
「確かにひどいな。命をかけて人類を救った若者に対してすることじゃない。でもどうすることもできなかったんだ」
四人とも黙ってしまった。それぞれ物思いに耽て重い時間が流れた。ついに沈黙を破ったのは乱だった。
「見当はついてたけどな。村長さん、あんたに頼みたいのはこっからなんや」
「ここから?」
「旦那は、晃と馴れ合いでつるんどるわけやない。何かを企んどる。だから、わしはここで指咥えとるわけにいかんねや!村長さん、あんたならなんとか地下迷宮に入る方法知っとるんやないか!?この村のこと知り尽くしとるあんたなら!」
乱は前のめりになって村長の肩を掴み強く揺する。様々な事情が渦巻いていることを葎花は感じ取った。真は気持ちを落ち着けるために残っていたココアを飲み干した。
「……本当は警察とか、もっと信頼できる人に頼むつもりだったんだが、仕方あるまい」
呼吸が荒くなるほど必死になってた乱は、謝罪するように手を合わせる。そしてほっとした笑みを浮かべた。
「話は決まりや。葎花ちゃん、君も同行してくれ」
「私?」
乱の急な申し出に慌てる。だが一人で行かすわけにもいかないのは事実だ。
「大人は信頼でけへん。君しかおらんのや」
葎花は真と顔を見合わせる。真は頷いた。そして葎花より先に断言する。
「僕ら姉弟で行く。この事態、きっと僕らでなんとかする」
三人は立ち上がった。村長も重い腰を上げて、「案内する」とだけ言った。
5
村長宅を出た四人は真っ直ぐに教会のほうを目指した。途中、この奇妙な四人組に何事かと問う者もいたが曖昧にやり過ごした。
「ねぇ、乱さん……」
「さん付けんでもええで。わしもそれほど大人やあれへん」
じゃあ、いくつくらいだろうと葎花は思う。二十代前半くらいだろうか。一つか二つくらいの差なら普段から敬語抜きで話す葎花は乱に対してもそれで行こうと決めた。
「じゃあ、乱。その……血風刃さんはいったいいつから晃と組んでるの?」
「六煉桜が少しずつ有名になってきた頃からや。正確にはその頃には確実にってことや。わしも最初っから知ってたわけやない」
誰からも好かれていた万月と違い、血風刃は一匹狼だった。とは言え、愚直なほどに強い信念を持っていたという点に於いては万月と同じ。それが一般大衆に支持されていたかという違いだ。
「旦那はこの世界を全部一つに統一してしまえばええと考えとった。万月はそれは無理だしそんな世界はつまらんと言うとったのに対してな」
「晃と一緒だね。極端な考え方だったんだ」
同調する真に対して、その通りやな、と乱もまた頷く。しかし、また不穏な顔をした。頭上に広がる曇り空のような。
「嬢ちゃん、怖くないんか?」
「怖い?」
「これはゲームやないんやで。下手したら……殺し合いになるんやで」
殺し合い……になるだろうか。向こうはそのつもりだろう。でも葎花は敵とはいえ、命まで奪う勇気があるだろうか。いや、それを勇気と呼んでいいのだろうか。
「怖くないわけないでしょ。でも六煉に狙われた時点でこの村、根絶やしにされるくらいは覚悟したわ。どうせ殺られるなら少しでも抵抗したいの」
「なるほどね」
教会が見えてきた。毒々しい紫の煙で包まれている。
「それよりも乱のほうこそ、どうして私に頼むの?普通に考えたら警察を頼ると思うけど」
「さっきも言うた。大人は嫌いなんや」
葎花は「でも」と引き下がるが、それを村長の言葉が遮った。
「教会の南南東の森の入口付近、亜空間の乱れで一部が教会と繋がってる。もう少し歩くぞ」
教会の回りまでくると、もう人はいなかった。怖くて近寄れないだろう。実際、不気味な力で空気も悪くなっていた。気のせいではなく、呼吸が少し苦しい。
やがて「そこ」に到着した。六煉桜の連中も探査したであろう部分だ。
「ここから、どうするの?」
「魔法を使って空間を結ぶ穴を作る。使うのはずいぶん久しぶりだが、私も腕が鈍っていなければいいな」
そう言うと村長はその場にしゃがみこみ、魔法陣を描き始めた。若い頃は魔物討伐にも駆り出される優れた魔法使いだった村長。現役を退いてもう三十年ほどになるか。
「ん、違うな。どうだったかな」
「ちょっと村長さん。頼んますで」
「こうだ。よし、できた。みんな、ちょっと下がってなさい」
目を閉じて呪文を唱え始める。今描いたばかりの魔法陣が光出した。
「すげえ、やるじゃないですか。村長さん」
真が無邪気に歓声を上げる。葎花もぞくぞくしてきた。
ふぁーっという綺麗な音と共に扉が現れた。大きくはない。標準的なサイズの、しかし綺麗な扉だ。
「この扉が教会の地下への階段の最後と結び付いている。後戻りはできん、とは言わん。怖くなったら戻ってこい」
「この事態、なんとかするまでは戻らないよ。乱、真、行こう」
葎花は片手を差し出す。乱、真、と順にその手を握り合う。それだけで少し気持ちは強くなれるということ。葎花は知っていた。共に剣の道を歩む仲間が教えてくれたから。
「村長さん、生還祝いのパーティーは成る丈盛大に頼むで」
「村長さん、校長先生に僕の内申よろしく頼むね」
冗談を言う余裕はあると村長は安心する。一方で自分を卑下する気持ちもある。あんな純粋な若者に危ない橋を渡らせるという罪悪感。
三人が深い漆黒の中へ消えていく。もう声は届かない。祈るしかない。
6
暗い。それに暑い。狭い。
「ここが……教会の地下迷宮なの?」
「そのようやな」
三人は顔を見合わせる。半径十メートルほどの空間に立っていた。回りを見渡すと通路が三つ伸びていた。
「どうするの?どっちに進めばいい?」
葎花は急に現実を突きつけられたような気がした。地図も何もない場所でまず何を目指せばいい。助けを求めるような目は真も同じだった。
「これがある」
乱は腰に提げた袋から小さな玉のような物を取り出した。外気に晒されたそれは鈍い光を放った。あまり安心感のある類いの光ではない。
「導き玉……っちゅうてな。強大な魔力に反応して、そこまで導いてくれる魔物ハンティングには欠かせん」
乱は導き玉を両手から放る。光の玉は前へ進み出した。
乱ーという名前から葎花は彼が血風刃の従えるハンターだと察した。あまり世間一般に知れ渡るような派手な活動はしないハンターたちだが、その中で「乱」という名前は特に強い戦士として比較的有名だったから。潔癖な血風刃がいかにも好まなそうな風貌で、すぐには結びつかなかったが。
「それで、あなたは一体どっちの味方なの?」
葎花が核心に迫る質問をすると真もこくこくと頷いた。乱はガシガシと頭を掻く。
「そうやな。強いて言えば人類の味方や」
「うん……六煉の野望は阻止しようってことだよね?」
「そうやな」
その時だった。薄暗くてよく見えないが、通路のうちの一つから何か蠢くモノが現れた。四つ足に毛むくじゃら。こんな場所でなければ「可愛い」と思えたかもしれない。だが埃と黴にまみれたそれはあまりにも不気味過ぎた。
「なにあれ?気持ち悪っ」
葎花が真にすり寄る。真も乱に目をやる。なんとかして。
「とりあえず殺すで」
えっ、そんな物騒なと思ったが、そいつはこちらに飛びかかってきた。正当防衛成立。
ドカッ!
敵の土手っ腹に徒手空拳一発。壁に叩きつけた。乱は素早く相棒の槍を包みから出す。そして、切っ先を突き立て……いや、振り上げた!
ガッツーン!
鈍いが、しかし痛快な音が響く。脳天へ一撃。敵は落ちた。死んだかは定かではないが、とどめを刺す必要はないだろう。どうせ雑魚だ。
「あんた、槍の使い方おかしい」
「なんでや?槍は鈍器やで。これがわしの必殺戦術や」
葎花も持ってきた剣を袋から取り出す。敵は六煉桜だけじゃない。こんな魔物がまだまだたくさん巣食っている可能性も高い。
「僕も持ってきたよ」
真も背中に背負った警棒を準備する。出掛けに父親の相楽から借りてきた。
「よし」
乱が頷く。三人とも呼吸を落ち着けると導き玉が示すように歩き出した。
同じころ、晃率いる六煉桜。
孤兎市の右肩で椋鳥の久光がそわそわし出す。
「どうしたのぉ?久光ぅ」
「何者かが侵入してきたようだな。あいつが泣いてるのがわかる」
晃が右の手の甲のあざを擦る。あいつと俺は一心同体。一蓮托生。頭では考えないが体が疼くのはいつも変わらない。
「気にするな。進むぞ」
四人はひたすらに、下を目指した。
日の光も葉擦れの音も聞こえない孤独なその場所で、男の右の手の甲にはあざがあった。
第三章 新月
1
その男は晃たちから少し遅れて地下迷宮へ入った。名は血風刃。
「辛気臭え。こんなところに二十年も閉じ込められてたら気が狂うぜ」
血風刃は転がる石ころを蹴飛ばしながら前へ進む。導き玉という便利なものを作り出したのは血風刃自身だ。ハンターたちにも一つずつ与えたが、乱も当然持っているという事実はこの先も考慮せねばならない。
最初はまとまって動くがすぐに散ったほうが効率がいい。
そう提案したのは氷綱だった。もっともだし、自分にとってもそのほうが都合がいい。それならと、血風刃は殿を買って出た。乱たちの動向も把握しやすい。トランシーバーも使える。最悪、テレパシーも使える。
漆黒の髪と眼。昔から、少し丸みを帯びた体格だった万月に対して血風刃はガリガリだった。滅多に笑わない。大人しい万月に対して寡黙な血風刃。かつて日本で独裁政治を行っていた殺風華という男と響きが似ている自分の名前もずっと好きになれなかった。
舞雪は上手くやってくれている。晃に心酔する彼女とは二人だけで接することはほとんどない。
だが二十年以上の間、腰に提げている自分の愛刀も、もともと彼女の生まれ故郷である日本製のものだ。もともと両刃の剣のほうが自分の戦闘スタイルに合っていると思っていたが、三日月のように反った刀身が血風刃の美意識を捉えた。以降は修行用、実戦用共に日本式だ。振るう剣術としても真刀術の本流から少し逸れた、新和流と呼ばれる流派に類している。
プシャー!
曲がり角の向こうから醜い魔物が飛びかかってきた。最小限の動きだけで捌く。もう何十匹目だ。
楓馬の呪いだろう。地下迷宮中に低級な魔物がうようよといる。
二十年前、万月は牙崙と戦った。結果、魔獣の返り血を浴びた勇者は自らも魔人と化した。凛府は村ぐるみで彼を捕らえ、傷つけ、生きたまま地下迷宮の奥底へ閉じ込めた。
表向きは万月は大きな怪我を負ったので隠居したと伝えられた。世界はそれを信じた。自分もだ。
ついに相容れることはなかった、永遠の好敵手。剣の腕では僅かに自分が上だったと自負している。しかし人間として敵わないと思わせるものはあった。
「くそっ」
また、石を蹴った。かつんという音がやけに大きく響いた。
直接、奴と剣を交える機会はなかった。一度きりでもいい。戦いたかった。それももう叶わない。
だが、今となってはそんなことはどうでもいい。晃と手を組んだことで、望みを別の形で叶えるチャンスを得た。晃の正体を知っている者はこの世界で自分一人。
ビビっと通信機が鳴った。晃からだ。
「何者かが地下に侵入した。警察共ではないと思われる。警戒しておけ。遭遇したら殺せ」
殺せ……とは穏やかじゃない。相も変わらずだ。
「了解した」
今頃は先行組も一人ずつに分かれている。勝負は始まっている。
いや、戦いの始まりは遥か前から。思えばそれは人類がやっと二本足で立ち上がった頃よりも、更に前からか。
「お……さ、ん。おと……」
空耳か。物思いに耽る血風刃の耳にすすり泣くような声が聞こえてきた。
更に少し歩くとその声はより明瞭に聞こえた。三メートル先もよく見えない通路だがうっすらと何かの輪郭が見えてきた。邪悪な気配は感じない。ふらついた四つ足の小動物。
「どうした?」
「おとうさん……おとうさん……」
人間の言葉を話せる狼。珍しくはないが間近で見るのは久しぶりだ。亜空間の歪みで入り込んだか。こんな辺境な土地ではそれも珍しくない。毛並みの汚れ具合から徘徊を始めたのは昨日今日のことではないとわかる。
「父親とはぐれたのか?」
メスの狼だ。まだ幼い。
血風刃はかすかに憐憫の情を覚えた。ほうっては置けない気がする。
「お父さん……お父さん……どこ? どこ?」
目も見えていないようだ。おそらくは栄養失調からくる失明だろう。このままではもう長くない。血風刃はそっと背中を撫でた。そして三日分用意してある食糧からパンを一欠片差し出した。
「食べろ」
人の言葉を話すということは野生の狼ではない。狩猟用の狼の、その子どもか。
魔物使いの孤兎市なら上手く対処できただろうが自分は治癒魔法もさほど得意ではない。しかし連れていけば何かの役には立つかもしれない。
「行くぞ。着いてこい。鼻は利くだろ?」
狼はくーんと仔犬のような頼りない声を上げて血風刃の足下にすり寄った。彼らも一つ決意を固めて、先を急いだ。
2
「どうなってんの、ここ。誰が作ったのさ。この迷路」
「もう別れ道五十個くらいあったよ」
「せやな。ここらで一休みするか」
運動慣れしてる乱、葎花はともかく、真は既に肩で息をしていた。少し開けた場所に辿り着いたところで一行は小休止することにした。
本当にこの迷宮はいついかにして作られたのか。全くもって謎だ。だが現実として存在するのだから仕方ない。真はリュックから水筒を取り出して一口含んだ。
「少しずつ飲むんやで。今まで歩いたぶんの十倍はあるからな」
「「そんなにあんの!?」」
真と葎花で思わずハモってしまった。ただでさえ想像以上にウヨウヨいる魔物に疲弊しているのに。
「でも真ちゃんが意外と戦えるのが嬉しい誤算やな。やっぱりおつむがええやつは飲み込みが速いな」
乱に誉められて真は少し照れる。事実、弱い敵なら一匹倒してしまえば後は同じ要領でボカスカ倒せる。
「これくらいならへっちゃらだよ。これ以上おっかないのはやめてよね」
「いや、まだまだ強いのはおると思うで」
「どひゃー」
真は大袈裟に項垂れる。テレビゲームなら薬草でピロリーンと何事もなかったように復活できるが、実際には魔法を使っても精神的なくたびれ感は拭えない。乱の基礎レベルの治癒魔法では尚更だ。
「ねぇ、乱。六煉の連中は一体何を考えているの?見当もつかないの?」
「んー、今回の奇襲に限っては分からんけどな。ただ奴等の野望は昔っから変わっとらん」
「何?」
「人類滅亡や」
葎花は目を丸くする。真もだ。
「はっ?」
「もっかい言うか?人類滅亡や」
「どういうこと?滅茶苦茶にもほどがある」
食い下がる葎花の気持ちは分かる。しかし乱はどこか達観しているように、冷静だった。
「あぁ、酒飲みてぇ」
「……じゃなくて!六煉は人類皆殺しにしようとしてるの?それで牙崙を利用しようとしてるのね!」
葎花は声を荒げる。乱は冗談抜きに酒が飲みたいようだが……。このアル中が!
「晃は人間を憎んどる。自分のされたことを考えれば同情できんこともないけどな」
「どういうことよ」
「昔、酔っ払った師匠から聞いた話や。わしも酔っとったし信じとらんかったけど、村長さんの話とも照合すっとあり得る」
「だから何がさ」
今度は真が食い下がる。あかん地下の臭気で二人ともイラついとるあかんなぁ、と乱は思ったが今はそういう話の時ではない。
「万月っちゅう人、スゴい人やと思うで。でもな、それでも人の子や。醜い部分だって持っとって当然や」
「うん、それはそうだね」
葎花は同調する。そして話の続きを促す。
「凛府のもんに裏切られて地下に閉じ込められた万月は考えた。自分の信念について、正義のこと、人類の平和、幸福について。でもこんな胸糞悪い場所じゃまともな思考なんてできるわけあらへん」
乱は苦しそうに語る。葎花も真と自分のことのように考えてみた。想像を絶する。
「わしは人の魂とか、理屈の通らんもんはあんま信じとらんのやがな。それでも、同じように目に見えんもんは信じとらん師匠の言うことやから今思えば説得力がある。
人間の負の部分ばかり考え続けた万月の感情はやがて暴走を始めた。分離や。その魂は万月の肉体から抜け出して具現化した。……命を懸けて守ろうとしたものに裏切られた絶望と、憎悪の化身。それがひょっとしたら……金の桜、晃の正体なんや」
暑い。仮面が蒸す。脱ごう。
「ちっ」
晃は額の汗を拭う。乱れていた黒の長髪も束ね直した。
この先、まだ長いとは思うがその先であいつは孤独と戦っているんだ。
-今、迎えに行く。すぐに楽にしてやるからな-
二十年前、もう自分は終わりだと思った。牙崙にやられた身体の傷。村人たちにつけられた精神の傷。癒えることもないまま自分はここで野垂れ死ぬものと思った。
生きることを諦めかけた時、ふと自分の体が軽くなっていく気がした。気づいたら外の世界にいた。何かが抜け落ちたような感覚、あるいはこちらが何かから抜け落ちたほうなのか。そんな感覚があった。
自分の身に何が起きたのか。すぐにはわからなかった。静かな森の湖畔。その場所で一人しばらくすごした。
感じていた違和感の正体はすぐにわかった。思考回路が、イカれている。
目に映る生き物、全て殺した。バラバラにした。血が見たかった。悲鳴が聞きたかった。そして、そのあとには空しさだけが残った。
空虚なる絶望と憎悪。それだけが心を満たした。やがて過去を振り返るようになる。自分は万月。勇敢なる剣士。だが今は違う。
どれだけの時間が経ったか。ついに森を出ることに決めた。自分の運命を受け入れたわけではない。復讐を決意したのだ。
邪魔な足枷となる良心は消え失せていた。きっとあの地下室へ捨ててきていたのだ。
俺は仲間を求めた。同志を探した。欲したのは力だけではなかった。決心が鈍らないような強い憎しみが必要だった。そして、新しい名前を自分自身につけた。
晃ー月よりも大きな熱、太陽の光。何よりも全てを「諦」めた自分にふさわしい名前。
3
暑い。心地よい暑さだ。
炎を繰る魔闘士、灼永。今、この男は異常とも言えるほど興奮していた。
まず、首謀者である晃から孤兎市、氷綱、灼永と、一人ずつ順に隊を分かれた。四人と、それから血風刃の五つの兵力で最深部を目指す。どんな方法と理由で妨害者が現れるかわからない。だが、五人のうちの誰か一人でも牙崙の元へ辿り着ければ、こちらの勝ちだ。
器用な魔法は扱えない灼永は、下へ導いてくれる煙という最もシンプルなやり方で挑む。周囲から雑音を消してしまう能力を持つ氷綱は、音の反響から最深部の方向を把握できる。魔獣使いの孤兎市は、万月の匂いを頼りに動物の嗅覚を使って下を目指す。
時間の感覚などほとんどなかったが、おそらくは半日ほどを過ぎた頃から徐々に現れる魔物が手強くなってきている。拳の一撃で片付いたものが三発は喰らわせる必要が出てきた。
攻防両面に意味を持つ手甲。体を重くする鎧や兜、盾の類いは自分の戦闘スタイルに合わないので装備していない。その代わり軽量で扱いやすいこの特殊手甲は灼永の十年来の相棒だった。
幼い頃、自分の両親は連日連夜殴り合いの喧嘩を繰り返していた。原因は酒。酔うと乱暴になる双方はそれでも懲りずにいつでも酒を飲んだ。
火の粉は灼永のほうにも飛んでくる。というか次第に暴力の矛先は最初から灼永に向かうようになっていた。
仕事が上手くいかない父親の憂さ晴らし。近所付き合いの上手くいかない母親のストレス解消。実に低俗な暴力の被害者は最も身近にいた弱者である灼永だった。
憎しみは連鎖し灼永少年は学校で荒れる。血の気の多い少年はまた子供同士の喧嘩にも明け暮れた。
ついに初めて人を殺したのが十五の夏。肉体の年齢に合わない高濃度の酒を含んだのが悪かった。
やられたらやり返す。三倍にして。灼永少年にとって唯一にして絶対の真実だった。その日は父親に五発殴られたので十五発殴った。振り返ってみればおそらく最初の五発くらいで父親は死んでいた。それくらい、灼永は強くなっていた。
冷たくなった夫を見て母親は悲鳴を上げた。その声があまりに大きく、あまりに耳障りだったので酩酊した灼永は再びの殺意を感じた。
酔いが醒めた頃、灼永はもうここにいられないことを悟った。殺人者として警察のお世話になるのは御免だった。そして放浪の日々が始まった。
最初からイカれていたのは自分自身だった。そのことに気づいてからは、獣のように本能のままに生きた。喰うか喰われるか。安易な二元論なら頭の弱い灼永にも理解できた。
それからどれだけの時が経ったか。晃と出会ったのは、もう殺した人間の数を数えるのをやめた頃だった。
「死体の肉は美味いか?」
どんよりとした雲が覆う気分の悪い日のことだった。長い黒髪の怪しい男に声をかけられた。
「食事ってのは生命を維持するための必要行為だ。それ以上でも以下でもねぇ」
血生臭いげっぷをしながら答える。連日連夜、灼永は殴り殺した動物を焼いて千切って食べていた。味は最低だ。
「仲間と食べる美味い飯もいいもんだぞ。ついてこいよ。ご馳走してやる」
男は自分を見下すようにほくそ笑んだ。灼永は不快だった。
「あんた、よそ者か?この辺りじゃ俺に話しかけるのは自殺志願者だけだぜ」
「面白い。試してみるか?」
灼永の頭に血が上った。目をぎらつかせ、持っていた肉片を男に向かって投げつけた。
男は造作もなく右へ避けるがそこへ灼永の燃え盛る拳が迫る。物理的な打撃と炎による二重攻撃。得意の技だ。だが……
ゴウッ!
炎が男の体に触れる目前で弾けた。次の瞬間には灼永の体は宙に浮かんでいた。
「てめぇ!何しやがる!」
体の自由を奪われた灼永は無様だった。プライドが許さない。こいつ、絶対に殺す!
飛散した火の粉が周囲の草木に燃え移り、辺りは赤々と照らされた。男の顔がはっきりと見えた。
「なかなかの手練れと見た。だが惜しいな。まだまだ素材だ」
「ぐっ、うるせえ!早く降ろしやがれ!」
それから灼永は宙に浮かんだまま、男の、晃の長話を聞かされた。自分の生い立ち、身の上、野望。
話が終わると今度は灼永が長い自己紹介をさせられた。屈辱感は薄れていた。負の感情しか感じられない、不気味な男に何故か惹かれていた。
「この先にある森の真ん中に小さな祠がある。気が向いたら来るといい。君とは長い付き合いになることを祈るよ」
そう言い残して男は去っていった。宙から落ちて、灼永は尻餅をついた。
「ん?」
前方から異臭がする。大嫌いな酒の匂いだ。
両親を殺害したあの日から、灼永は酒を呑まなくなった。血の味と痛みを理解したからだ。
悪くない気分だった。どうしようもなく気持ちは暗くなるのに何故だか身体は熱くなるばかりで。そして、そういう自分が嫌いではなかったから。
「誰かいるのか!」
ふと感傷から我に返り、灼永は見えない誰かに問いかける。だが、ずいぶん長いこと一人でいたので声量を自分で調節できなかった。必要以上に大きな声になってしまい思わず苦笑いした。やがて反応が返ってくる。
「なんやー!敵かー!」
「ちょっと乱!ダメだよ!逃げなきゃ!」
「逃げちゃダメだよ、真!ここで退いたらまた迷子になっちゃうよ!」
賑やかな声に灼永は呆れる。侵入者か。十メートルほど歩き少し開けた場所に出ると声の主たちに鉢合わせた。
「ひゃー、なんか強そうなの来たよ」
「二人は下がっとき。わしが相手する」
酒気を帯びた長身の男が前に出てくる。肩書きが推し測れない。なんなんだ、この三人組は。だが、自分が取るべき道は一つだ。
「ハッ、愚かなる者よ!この星の未来を憂える我が名は灼永!悪なる正義、六煉桜に歯向かう者は皆殺しだ!」
真っ赤に燃える拳が乱に向けられる。……開戦。
4
何者かが騒いでいるような声が聞こえる。一人ではないが多人数でもないようだ。侵入者と考えるのが妥当だがその場合は避けたほうがいいだろうか。それともこちらから向かって行って即殺すか。
青の桜、凍術使いの氷綱。六煉桜のブレイン。荒くれ者の多い組織の中で異彩を放つ冷静沈着な美青年。
氷綱の作戦はここまでは順調だった。運がいいのか、あまり魔物とも出くわさない。たぶんに五人の中で一番最深部に近づいているだろう。
人類絶滅。晃と出会った時、そんな野望を打ち明けられた。悪くないと思った。この星の行く末として。
世界中に蔓延る悪心を統べる絶対的カリスマでありながら、晃は暴力による支配統制は敷かない。彼に付き従う理由は、逆らえば殺されるという恐怖ではないのだ。
平和、穏やかな日常。
姉さんを失うまで、氷綱はずっと大切に思っていた。
自分より七つも年上の姉の人生は、偏に病気との戦いだった。父親は仕事のできる男で、給料は安くなかったはずだが、それでも姉の治療には家計を激しく切迫するほどのお金が必要だった。
そして、冷たい雨が降る夜に、父親は家から逃げ出した。
治療費を払えなくなり自宅療養を余儀なくされた姉は、日に日に衰えていった。母は、最愛の娘のために自らの命を削るように働き続け、ついに倒れた。
布団を並べることとなった二人は、寒い寒い雪の降る朝に、寄り添い合うように天国へと旅立った。
家族を捨てた父が、今はどこかの町で再婚し、自分だけ幸せに生きていることなど氷綱は知らない。ただ胸のうちには人の世を儚む心だけが残った。
優しい姉だった。愛していた。
物心がつき、姉が他の人とは大きく違う苦しみを抱えているということを漠然とだが理解し始めた頃から、氷綱はその苦しみを取り除ける人になりたいと、勉学に勤しんだ。
一般的に、治癒魔法というものは怪我の回復や解毒に用いるもので、病には効かない。それは医学の範疇だ。
一流の大学の医学部を目指し、死に物狂いで勉強する最中のことだった。姉と母の死は。
目的を失った氷綱は、進学を断念し、生まれ育った村でそのまま畑を耕して生きる道を選んだ。
友と呼べる者もいない。恋人もいない。幼い頃から「みんなと遊ぶ」ということを楽しむ時間がなかったから。それから、美しかった姉と比較して、それ以上に誰かを愛することができなかったから。
「晃様、あなたは正しいよ。この世には不条理な悲しみが溢れすぎている。いっそ滅んでしまえばいい。そう思いますよ」
ほんの小さな独り言など聞こえてはいないだろう。前方約千五百メートル、馬鹿デカイ声が反響している。
「おおぉ!」
「アッチい!なんや炎術かいな!」
灼永か。何者かと戦っているのか。
援護に回ったほうがいい。氷絆は少し大股で走り出した。
5
「はあぁ!」
半径三十センチほどの火球。真っ直ぐに自分に向かって飛んでくる。右に避ける。だがそれはフェイントだ。同時に敵が突っ込んでくる!
「っきしょ!」
接近されると槍は使いづらい。ヒットアンドアウェイで行くしかない。フットワークには自信がある。
「止まって見えるでぇ、そら喰らえ!」
乱の蹴りが敵の手先足先を狙う。相手は修練に修練を重ねた武道家。身のこなしを見ればそれくらいはわかる。一撃必殺は狙えそうにない。
ガーン!
おまけにかなり重厚な手甲。打撃は全て捌かれてしまう。それならー
乱は灼永から十分な距離を取ったところで一旦呼吸を整える。そして改めて槍を構えた。灼永も血の滴る手甲をベロリと舐める。
「あんさん、なかなかやりよるな」
「お前こそ、こんだけ殴っても大して応えちゃいねぇだろ」
戦闘開始から3分ほど。既に流血面の乱とまだまだほぼ無傷の灼永。真の目には苦戦しているように見えるが、戦いには造詣のある葎花はほとんど互角と見てる。
「殴り合い蹴り合いじゃ体力の奪い合いにしかならんな。心臓に突き刺して殺したるわ」
「俺もだ。お前は焼き殺すことに決めた」
殺すーという言葉に葎花は思わず身を竦める。お互いに殺気立ってる。乱も今までとは別人のようだ。
「乱……」
「心配せんでえぇ」
こんなところで死にはせんー聞き取れないほど小さな声で言った。少しだけかっこよく見えた。
「あんさんら、何がそんなに気にくわんのや。確かに人類には悪いとこ沢山あるで。でも滅ぼしたろなんて普通は考えへんで」
「……お前も戦いの世界に生きてるなら、人の死なんて日常茶飯事だろ?だがな、上翼の人間には絶対に分からねぇ。人を殺さなけりゃ生きていけねぇ、悪人の気持ちはな」
悪人ー敵はそう認めた。葎花はお巡りの父の言葉を思い出す。
ー世界中の人から間違ってると責められても、自分自身が正しいと信じて曲げないなら、俺はそいつを逮捕できる自信がないー
人を殺すのはいけないことだ。私は死にたくないから。理由なんてそれだけだ。
「これから死ぬ人間に俺たちの正しさを懇切丁寧に説明する必要なんてねぇ。行くぞ!」
「待て!」
小広間にまた新しい声が響く。何者だ?
振り向けばそこには青い目をした男。感情が見えない。ちょっと現実感がないほどに端正な顔つき。悪い人ではないように見える。が、次の発言でやはり敵だと判明する。
「お前じゃあその人は殺せない。忘れるなよ。六煉桜の中でお前はまだ三下だ」
「余計なお世話だ、氷綱」
ヒズナと呼ばれたその眉目秀麗な男は、次の瞬間、消えた!
「がっ!」
「乱!」
一瞬で間合いを詰めて背後に回り込みすきだらけの脳天に一蹴り!速い!
乱は倒れた。動かない。
「次、は女の子か。やりづらいな」
恐ろしいほどに冷たい目で睨まれて、葎花は身動きが取れない。乱は死んだの?嘘でしょ。
「氷綱、お前はもっと先に進んでると思ってたぜ。この分じゃ晃サンも血風刃もまだちんたらしてんのかもな」
もう一人の敵、灼永も近づいてくる。大の男二人。気づけば少し乱れていた衣服を慌てて正す。殺されるーだけですむだろうか。地下は暑くて堪らないのに寒気がした。
後ずさる葎花の前に、逆に一歩前進する影。真だった。
「どうせ死ぬなら戦って死ぬ。それに、姉ちゃん一人守れないようじゃ、いつまで経っても大人になれないよ」
「真……」
弟は震える足を恥じる風もない。怖ければ体は震え目からは涙がこぼれる。弱いからじゃない。正直なだけだ。
目立ちすぎで生意気だと言われることも多い姉のせいで少しいじめられた経験もある。ガリ勉でひ弱でからかわれることも多い。体を鍛える暇もないほど一生懸命勉強しているからなのに。
大切な弟だ。
葎花も覚悟を決めた。剣を持つ手に力を込めて睨み返す。
諦めない。姉弟、力を合わせてこの世界を守るんだ。
「いい目をしているな。褒美に……そうだな。楽に殺してやる」
「待て」
ドス!
赤毛の男の胸に背中から貫通した槍。血が吹き出す。何が起きたのか、瞬時には掴めなかった。
「……嬢ちゃんにも真ちゃんにも、手ぇ出すなよ。おめえらの相手はわしやで」
乱が起き上がった。そのことを理解するのに時間がかかった。頭の悪い葎花には。
「乱……よかった」
くずおれそうになる葎花を真が支える。真は顔を引き締めて乱に親指を立てた。
だが、敵は動じない。
「ウェイ!」
氷絆は事も無げに槍を抜き取ると、灼永の胸に手を当てて呪文を唱えた。みるみるうちに傷が塞がっていく。
「痛ぇよ。このやろう」
「あの程度の蹴りじゃああなたは倒せなかったか。失礼、あなたを甘く見たようだ」
乱はゴキッゴキッと首を鳴らす。本気で蹴られていたら確実にあの世行きだった。相手が強すぎてよかった。どうやらそれが奴らの弱点だ。
「なめやがって、六煉桜。自分を過信しすぎや。もうお互い油断するのはよそうで」
そう言ってまた深く呼吸する。生きていることを今ほど実感したことはない。本当に死を感じた。
新手、氷綱も自身の得物を構える。銃器。
それぞれ戦闘スタイルの違う組織の中で氷綱が得意とするのはライフルと氷の魔法による遠距離戦だった。触れるもの全てを凍らせるほどの冷気を銃弾に纏わせ、撃ち殺す。急所を外してもその冷気は体内の臓物すらも壊死させる。
「二人は炎のほうを頼む。まだ悪には屈しないでってとこを見せてやるんや」
「わかった」
姉弟も腹を括った。やってみなければわからない。生き残る可能性が零じゃあないなら、最後まで諦めないー
「……諦めろ。愚民どもが」
その場にいた五人全員がはっとする。声のしたほうを向くと長い黒髪を後ろで乱暴に纏めた男。
「今度はお前かよ」
灼永がうんざりな気分を露骨に顔に出す。現れたのは、黒の桜・血風刃だった。
6
「血風刃!お前までしゃしゃり出るな!ここは俺たちで片付ける!」
「怒鳴るなよ。こんな密閉空間じゃあ響いてしょうがねぇ」
まるで、低能なサルを見るように軽蔑し切った目で、灼永を眺める。それよりは少しマシかと思える目つきで、今度は視線を氷綱のほうに移した。そして、視線はそのままで、ゆらりゆらりと灼永のほうへ近づく。
「悲劇のヒーローを気取る愚物どもに、相応しい死を……」
一瞬、何が起きたのか誰にもわからなかった。そして我に返った時、灼永の左胸には血風刃の刀が貫通していた。
「血風刃……なんで……」
ズブッと刀を引き抜くと、灼永はその場に倒れた。
「な、なんのつもりだよ。血風刃さん」
あまりにも想定外なその光景を目の当たりにして、氷綱は声が上手く出せない。葎花などは目を丸くするばかりだ。
「頭のいいお前のことだ。少しは疑われてると思っていた。買いかぶりだったようだな」
説明するのも面倒くさそうだったが、血風刃はぼりぼりと頭をかきながら語る。
「途方もない財力と兵力が要った。世界を征服するためには。そのためにお前らを、晃を利用させてもらった」
「嵌めたんですか?俺たちを」
言うまでもないだろ、と血風刃は嗤う。乱は流石に従者として彼の言うことを少し理解できた。葎花は本当に何もわからない。真はこの男と組織の間に何か「不和」があったということまでは察せた。
「苦労したよ。少しずつ下翼の連中を買収してな。金と力で飼える馬鹿な犬たちだよ。お前らみたいに悪の美学を気取るつもりもない」
「一体いつから……世界を征服?あんた何考えてんだ?」
その質問は無視して反逆者は両手を中空に翳す。何かを探るように。
「氷綱、お前と俺と、それからこの赤犬。この広い迷宮の中で三人がばったり出くわしたのが、偶然だと思うか?思わないよな」
この赤犬、の下りで血風刃は足下に倒れ伏す灼永の頭を蹴った。そのことに深い憤りを感じながら氷綱は答える。
「時空間が乱れてる、ということですか?」
どういうこと?と未だに混乱の解けない葎花が小声で真に問う。だが真は「黙って聞いてなよ」と取り合わなかった。
「ただでさえ牙崙の魔力でこんがらがってる空間に二十年ぶりに外の空気が急に飛び込んできたんだ。更にぐっちゃぐちゃになってる。で、最深部への道のりは普通に下へ続いてるわけじゃなくなったってこと」
そこまで説明して血風刃はおもむろに自らの刀を抜いた。
「この場所がおそらくは最深部に一番近い地点だ。こんな風にね」
血風刃の右手がギラギラと光り出した。そして、その光を刀身に込める。
「はあっ!」
ビュンと光る刀を振ると中空に大きな穴ができた。その穴の向こうにはまた別の空間が見えた。
「あばよ」と言って血風刃はその穴へと入り込む。呆然とする一堂を嘲笑うように穴は数秒で消えてしまった。
「しまった!そういうことか!」
いち早く状況を理解した氷絆が地面を叩いた。そして声を荒げる。
「君たち!あいつを追いかけよう!」
「追いかけるったってどうやって!わしらには空気切るようなマネはでけへんで!」
乱が嘆くように言うと氷絆は頭をかかえてその場にしゃがみこんだ。
「考えろ。考えるんだ。考えるしかない……」
辺りに冷たい時間が流れた。葎花は突きつけられたどうしようもない現実に涙も流れずにただ高鳴る心臓の鼓動を感じるだけだった。
第四章 満ちていく月
1
「おじさんたち、はやく、はやく!」
「おいおい、そんなに急ぐと転ぶよ」
夏芽と相楽と村長がかなりの早足で街路を行く。目指すは教会南南西の森だ。
あれから、村長は葎花たちを送り出してから、猛烈に後悔した。子どもたちだけで六煉桜に挑ませたのはどう考えても早計過ぎた。親御さんに相談してからだった。というか警察を頼るべきだっただろう。
で、実際に相談したら相楽は血相を変えて「はやく!はやく私も案内して下さい!」と肩を掴んで迫った。なんとか落ち着かせて教会のほうへ向かう道すがら夏芽と出くわしたのだった。
愛娘の葎花と比べて随分と大人びたお嬢さんだという印象だったがやはり葎花と付き合うからには人並み以上にお転婆な部分も持ち合わせていた。
「舞雪って人には私たちすっごく怖い目に会わされたんだからね!三倍にしてお返しするわ!」
教会の近くの森で警察たちと色っぽい女がにらめっこしているという情報を小耳に挟んだ夏芽はなんとか抵抗する術を考えながら凛府中を彷徨いていたらしい。そんなところで村長の話を聞いた彼女は「じゃあ、私も連れてって!葎花と一緒に戦うわ!」と即断。そして作戦会議が始まった。
「夏芽ちゃん、おじさんは一応警察だ。時春さんにはいつもお世話になってる」
「じゃあ、警察たちを援護しようよ。舞雪サンをなんとかしよう」
「わしもそのほうがいいと思う。敵は精鋭中の精鋭とはいえたった六人。警察が雪崩れ込めばたちまち制圧できる」
葎花たちを送り出したように秘密の扉を使うこともできるはできる。しかしそう何度も何度も魔法を使うには村長はもう高齢過ぎた。それに六煉桜全員を逮捕するためには一番非力な舞雪をまずどうにかできなければお話にならない。
下翼の連中は幹部である六煉桜を信頼している。たかが警察に負けるとは微塵も思っていない。全面衝突になるとすれば親玉である晃が死んだ時だ。そんなことは万に一つもない。だから、今は待機だ。
「夏芽、武力で対抗しても舞雪には効果がない。同じ女同士、君が奴を説得してくれ」
「説得?話し合いの通じる相手ですか?」
村長の提案に夏芽が異を唱える。だが、相楽はうんうんと頷いた。
「情に訴えるのも舞雪サンにならありだよ。あの人はもともと悪人ではない」
「相楽君、それは君の私情が含まれてないかい?」
村長に突っ込まれて相楽は慌てて顔の前で手を振る。美人女優だった頃の舞雪。一万人を越えるファンクラブの、相楽はちゃっかり会員だった。
「冗談はさておき、あとは歩きながらだ。森のほうに向かおう」
そして、今に至る。
「村長さん、私は死にたくない」
「突然、何を言い出すんだ」
夏芽がきりっとした顔をして唐突に宣言するので、村長は面食らった。右耳に手入れの行き届いた黒髪を掛けながら、彼女は続ける。
「誰だって、自分が死んじゃったら全部お仕舞いだもん。村長さんのやったことは間違ってないと思うよ」
村の、いや、世界中の英雄である万月を傷つけたこと。批難されて当然だろう。だが、他に何ができたか。魔人と化した万月に、自分の愛する凛府を破壊されてしまう。野放しにすれば更に世界中で被害者は増え続ける。何より自分自身の命も危難に晒される。封じ込めてしまうしかなかった。
「ありがとうよ。夏芽」
にっと微笑み合い二人は更に足を速めた。この寒いのに巨漢である相楽の額には汗が滲む。だが、そこは男・相楽。せいやっと気合いを入れて二人を追い越す。そんなやり取りを繰り返し彼らが森の入り口に辿り着いたとき、時刻は午後一時を回っていた。
「凛府警察署の相楽と申す!時春さんは?」
相楽が代表して近くにいた警官に問う。男は斜め前方を指差した。
「時春さん!なにしてんですか!呑気に焼鮭弁当食ってる場合じゃないでしょう!」
舞雪との睨み合いに飽きた時春は部下の波町たちをほっぽって大好物の鮭をかっ込んでいた。おーうと手を挙げて答える。
「相楽君じゃあないか。なんとかしてよ。こっちは八方塞がりだ」
駆け寄った三人に更に斜め前方を指す。片方の割り箸は口に挟み、もう片方の割り箸で。視線をその先に移した三人は大きな円陣の中心でお姉さん座りする美女と、彼女にこれ以上は近づけませーんと兜を脱いだ警官たちを見た。
「あら、新しいお友達?お爺さんと美少女ちゃんとおデブちゃんな刑事さんね」
挑発的な微笑を浮かべた舞雪に夏芽が喰ってかかる。
「なーにが美少女ちゃんよ!忘れたとは言わせないわよ!あんたたちに襲われた少女剣士二人組のうちの一人よ!はやくこの不気味な輪っかから出てきなさい!いざ、尋常に勝負よ!」
早口で捲し立てる夏芽に回りの大人たちはひやひやする。正直に言って、剣術大会で優勝経験のある葎花などに比べれば夏芽ははるかに弱い。戦うことが前提ではないとは言え凄腕の魔法使いである舞雪と真っ向からぶつかっては二秒でやられる。舞雪も鼻で笑って相手にしないと思っていた。
だが、彼女はすくっと立ち上がった。
「お嬢さん、覚えているわよ。あなたこそ覚えていないの?半端な強さは寿命を縮めるだけよ」
舞雪がその白い腕を振り上げてなにやら呪文を唱え出すので、相楽は慌てて夏芽を庇うように前に出て身構える。
「怨!」
……カーンッ!
相楽が構えた警棒に舞雪の掌から放たれた空気弾がぶつかる。あまりの圧力に相楽の巨体をもってしても耐えられなかった。一メートルほど押されてしまう。時春も泡を食って立ち上がる。
「こら!舞雪、女の子にいきなり何すんだ!」
「……大丈夫よ。その子、あなたたちが思うよりずっと強いわ」
舞雪が少しも動じない風に言うのと同じように、時春が顧みた夏芽はこの強敵に対して少しも臆することなく、逆に睨み付けていた。そしてまた静けさが漂う。葉擦れの音色しかない奇怪な森にその時、パキッという小枝を踏むような音が聞こえた。
「夏芽さんには手を出さないで。父の蒔いた種です」
一同が揃って声のしたほうへ振り返る。そこにいたのは、凛府の住人なら誰でも知ってる、しかし馴染みは非常に薄い貴婦人だった。
2
流れる血の赤さとは対照的に灼永の顔はみるみるうちに青ざめていった。
「こ、こんなところで死にたくねぇよ。俺は……俺は……」
もとより六煉桜は計画の終わりと共に果てるはずだった。人類の終焉と共に。その少し前に死んでしまうことにどれほどの無念さがあるのか葎花にはわからなかった。
最期に流れたのは血だったのか、それとも涙だったのか。赤き狂犬、灼永は死んだ。
葎花はわけもわからぬまま、だがしかし、今一つ失われた命のことを悼んだ。真もまた誰のためなのかもわからない涙と共に灼永の亡骸を真っ直ぐに横にさせ、胸の前で手を組ませて両目を閉じた。氷綱はそれを見て複雑な気持ちになった。人間は本来にして、優しさや愛情を持ち合わせている。どうしてそうでない人間がいるのか。本当はそっちのほうが不思議なんだ。
「とりあえず、晃さんを待とう。あの人ならきっとすぐにここまで辿り着ける。そしたら、血風刃にできたことがあの人にできないはずないさ」
氷綱はあれからすぐにトランシーバーで晃に連絡し、ことの次第を説明した。
「わからない話ではないな。血風刃はもとから常人には理解できない野心を持つものだ。本来なら徒党を組むタイプでもなかったしな」
晃はそう言った。氷綱は流石と頼もしく思う。そして、できれば狐兎市を探しておいてほしいと告げられた。
「あいつがいなければ牙崙をこちらに引き込めないかもしれないからな」
かもしれない、と言ったのは晃にも氷絆にも簡単な、ごく初歩的な操獣魔法は使えるからだ。ただそれだけでは牙崙ほどの大物は操れないかもしれない。はっきり言って武の面では全く戦力にならない狐兎市を組織に引き入れたのはそのためだ。
「氷綱、あまり混乱するなよ。冷静さがお前の強みだ。まだ慌てふためくには早い。戦況は必ずしもこちらに不利ではない」
「承知しています」
氷綱は通信を切った。そして、ぐるりと周囲を見回し「君がいいな」と真を指差した。
「君、その子犬を使って狐兎市っていう俺たちの仲間の一人を探してくれ。そんなに難しいことじゃない」
「は、はい」
真は急に敵方に話しかけられて思わず声が上擦ってしまう。子狼も不安げに「くうん」と鳴いた。
ヒズナという男はどうやら組織の中では比較的紳士的なタイプなのだろうと察せる。それどころか彼らはどうしようもない根っからの悪人ではないのかもしれない、と感じ始めていた。
「僕にできることなら何でもやります。それからこの子は犬じゃなくて狼ですよ」
氷綱はニコッと微笑む。そして、真のほうに近づいてきて足下にいる子狼を撫でた。
「子供の匂いを辿るんだ。狐兎市は実年齢はもう大人だが、ある事情から体は子供のままだ。子供と大人とでは匂いが違う。だからそんなに難しいことじゃない」
「わ……わかっ……た」
人語を理解する小さな狼。今は弱々しいがこの子が、この世界の行く末の一片を握っている。
「久光ぅ、痛いよぉ。痛いよぉ」
黄の桜・狐兎市が愛鳥の久光を撫でながらめそめそと涙を流している。
あんな低級な魔物に苦戦するとは自分でも情けない。こんなだから他のメンバーからもいつも馬鹿にされるんだ、と彼はため息を吐く。
生まれつき体が弱く、よくいじめられた。死にたいくらい辛いこともあった。その度に慰めてくれたのは優しい動物たちだった。
それでも十三歳の冬に彼は最悪の道を選んだ。部屋で首を吊ったところを両親に発見された時、呼吸は止まっていたもののまだ体は暖かく、一命は取り止めた。それから狐兎市は更に苦しい人生を歩むこととなった。脳と身体に障害が残ったのだ。
「狐兎市、牙崙が目覚めた時、なんとしてでも魔物たちをこっちの味方につけるんだ。血風刃のほうに取り入れられたら、俺達は確実に負ける」
氷綱からそう言われた。黒の桜が謀反を起こしたという信じがたい事実。晃様はどう出るのかと、狐兎市は憂う。
大好きな動物や植物たちが幸せに暮らせるなら、人類など滅んでしまってもいい。狐兎市は晃から人類滅亡の計画を聞いた時、そんなふうに思った。
下翼の拡大。六煉桜の指揮。自身の剣術の鍛練。
晃は数々の悪行を重ねていく中で、自分自身だけでなく人類全てに絶対的な悪の側面を直視せざるを得なくなった。かつて、あまりにも善に執着した過去を持つからこそ、人間というのは極端から極端に走るものだ。
心に冷たい傷を持つ男女が自然に集結した。それが極悪犯罪組織、六煉桜の正体。
しばし思い出を辿っていた狐兎市はふと我に帰り首を振る。戦うべき時は今。自分をいじめてきた連中を見返してやりたい、復讐してやりたい。そんなことはどうでもいい。魔物使いという才能を見出だしてくれた首領、晃様に恩返しがしたい。狐兎市の胸にはそんな気持ちだけが残った。自分が生まれてきた意味は人類の終焉を見届けること。皮肉だが、悪くない。
「久光ぅ、僕は幸せだよ。僕を必要としてくれる人がいるんだもの」
なにも知らない椋鳥は首をかしげる。それでいいと思う。人類は細かいことを難しく考えすぎだ。
「あ、あの……」
ギョッ!……とする。少し目を閉じて気持ちを落ち着けていたら唐突に見知らぬ少年が現れた。たぶん自分より若い。十代の前半くらいだろう。
「狐兎市……さん、ですか?」
「は、はい」
謎の緊張感。氷次から連絡はあった。男の子がそっちに向かってる。
「君が氷綱君の言ってた子?」
「はい、真っていいます」
真っ直ぐに見つめられて、狐兎市は慌てて居住まいを正す。低級な魔物にやられた傷でメソメソ泣いてる姿など六煉桜の一員が子供に見せてはいけない。
「話は歩きながらにしましょう。みんなの所に戻らないと」
「わかった」
狐兎市は頷いて二人は歩き出した。子狼が先頭、それについていくように真、狐兎市は少し後ろから様子を伺いながら状況を整理する。
今頃、あちらはどうしているか。実際問題、最深部で万月たちは具体的にどんな状態なのか、わかっていない。だが、晃は万月の精神とシンクロする部分を持っている。今も必ず生きている。
晃は万月が生み出した概念であり命を持つものではない……らしい。つまりどういうことかと言えば再び万月の肉体に帰ることもできるのだ。そうすれば、更に強くなる……らしい。
それから氷綱たちが待つ広間まで辿り着くのに、そう時間はかからなかった。一行は氷綱を中心に円を組んだ。これからの作戦を考えるために。
しばらくすると首領である晃も到着した。全てにおいて抜かりない晃。ここが最深部に一番近い場所だとすぐに察することができたようだ。
「晃様、あいつに世界を獲られるくらいなら俺達はさっさと命を投げますよ」
灼永、氷絆、狐兎市、舞雪。みな形は違えどたくさんの痛みを抱え、それでも晃という一大カリスマと出会い生き甲斐と居場所を見出だした者たちだ。
晃はこくっと頷き、一人で行動するうちに乱れていた長髪を整える。そして、静かに宣言する。
「殺すしかないのなら、俺が殺す。そのためにはな」
「ためには?」
「……万月と同化する」
最初からそのつもりだった。血で血を洗う戦い、いや、殺し合いになる。この世界の行方はもう誰にもわからない。
3
長い階段だと、血風刃は感じていた。
空間を切り裂いて入り込んだのはどこまで続くのか見当もつかない、長い長い階段だった。地下深くへ潜れば潜るほど冷たくなっていく空気もとにかく不気味だ。そして少しずつ幅も狭くなっていく。
血風刃は両手を広げてみた。それで左右の壁に触れた。だからどうだと言うわけでもないのだが。
最深部に辿り着いたら具体的に次はどう動けばいいか。正直なところ血風刃はわかっていなかった。牙崙は封印されているというが実際には魔法で動きを止められているということだろう。その牙崙に寄り添うように万月も、おそらくはボロボロに傷ついた状態でいる。
まずは目の上のたんこぶである万月を殺害する。そして牙崙を自分のほうに取り込む。昔から器用だった血風刃は魔物使いが本分である狐兎市には敵わないまでも、簡単な操術は使える。
世界征服。血風刃の野望。
邪な強さはやはり歪んだ願いを呼び起こす。昔から誰かのため、何かのために戦うことに違和感を持っていた。
およそ常人には理解できない悲しい過去を持つ五人。だが、血風刃は普通の家庭に育った。
普通の子どもとして育ち、普通の大人となり、なにもかも人並みの能力しか持たない中で言えば比較的得意だった剣術で生計を立てた。
転機になったのは齢二十五を迎えた頃。自分の身体に流れる忌まわしき血を知った時だった。
当時から数えても二百年以上も昔、今の六煉桜にとって特別な地である日本を恐怖の底に突き落とした独裁者・殺風香。遥か遠くであることはわかっていた。だが、自分や家族は紛れもなくそいつの子孫であるという。
人間という生き物は思い込むことに脆い。血風刃は胸の奥でむずむずする感情を抑えきれなかった。それから先、取った行動は少し葎花と似ている。殺風香に関する史料を読み漁った。
人の醜い一面だけを全て収束したかのような男。その淀んだ眼はこの世界を余りにも醜いものとして映し出した。幾千の絶望と殺戮こそが人類の歴史。戦争に次ぐ戦争。流血と退廃だけが彼の思い描くこの島国の本来の姿だった。
異常とも言える独裁国家はやがて平民たちの大反乱にその勢力を削がれていった。そして民は平和を手にした。
宙ぶらりんな夢。テレビアニメなど見ないが、見てる人からは「テレビアニメの見すぎだ!」と突っ込まれるであろう夢。世界征服。
万月は素直な人間だから「人が生きていくには目標が大切なんだよ」と目をキラキラさせながら血風刃に言った。「目標なんて可愛いもんじゃない」と血風刃は返した。俺は人生なんて虚しいもんに無理矢理にでも意味を持たせたいだけさ、と。
「ん?」
視界の先、微かに光が見えた。やっと階段が終わる。さぁ、そこに何があるか。血風刃は少しだけ足を速めた。
ガウー、ガガ、ガ、ゴガ……。
不気味な唸り声。胸が震える。
血風刃は鞘を握り、少し引く。即戦闘になるかもしれない。雑他な魔物も生息しているかもしれない。暗闇に慣れた目には眩しい光。明るい光ではない。嫌な臭いまでしてきた。
「……あれが、牙崙……」
最深部、今まで通ってきた中で一番大きな広間。血風刃の目には意外な光景がそこにあった。
確かに大きい、しかし思っていたよりは小さな獣。象より少し大きいくらいか。しかし、その汚れた体は無骨に錆び付いた鎖でがんじがらめに縛り付けられていた。
「こんな状態で二十年も閉じ込められていたのか?」
疑問形になってしまったが、返答を期待して問いかけたわけではない。ただ、驚き戸惑ってしまったのだ。それから……。
四つん這いで床に伏せるその腹の辺り、踞るなにか。血風刃は生唾を飲み込んでしまった。疑い様もない。自分の人生に於ける平行線。いつも隣にあったが決して交わることのない……シャドー。
「万月……」
その影に少しずつ近寄る。二歩、三歩、あと三メートル、二メートル……。
初めてかもしれない。彼を見下ろしたのは。お互いの位置関係、物理的に見下ろす形になったというだけのこと。だが、血風刃は意外にもいい気はしなかった。
負けたくない、いつか追い越してやりたいと思ったのはこんな風に弱々しく痩せ衰えた男じゃない。
「万月、俺だ。血風刃だ。生きてるなら起きろ」
悲壮な決意を胸に呼び掛けるが反応はない。
「顔を上げろ!」
声を荒げる。ピクリとだが体が動いた。そして十秒ほど、重苦しい時間が流れた。万月は顔を上げ、虚ろな目で目の前で拳を握り締める男を見た。
「……誰?」
ダレ、口から溢れたのはそれだけ。
血風刃は最後の一歩を踏み込みながら腰を落とす。気づいたら両の手で万月の胸ぐらを掴んでいた。
「俺だ!血風刃だ!」
怒りと空しさと、焦る気持ちを抑えようとしても、血風刃は瞳から頬へ涙が伝うのを止められなかった。
グガー、グゴガガガー!
血風刃の体から溢れる邪気に牙崙が反応する。鎖が身体中に食い込み、激痛に更に身を捩らせた。見ているほうも顔を歪める。くそっ、と毒づきながら再び腰を上げた。
気持ちを落ち着ける。深呼吸。それで我に帰った血風刃は鞘から刀を抜く。
「天国に行けよ。俺はもうお前には会いたくないからな」
天に向かって振り上げた刀を両手でヒュンっと下ろす。その時だった。踞っていた白髪の男が顔を上げ、眼をカッと見開き、左腕を凄い速さでその曲線へ伸ばす。
ガシュッー!
「……くっ、つっ、酷いじゃないか。プーさん」
「万……げ、つ?」
自分のことを「プーさん」と呼ぶただ一人の男。磨り減った血風刃の心に思い出が巡る。涙が乾くスピードはこんなにも早かったか。情けないとは思いながらもズッと鼻を啜りまた一つ呼吸を落ち着ける。
目を覚ました万月が血風刃の刀から血塗れの左手を放す。血風刃もだらりとその刀身を下ろした。少年のような澄んだ瞳を、ぎらついて濁った眼が睨み据える。
「何があった?お前は二十年、ここで何をしていた?」
「……眠っていたよ。少し疲れたから……」
あどけない微笑を浮かべながら、事も無げに万月は言う。
少しどころではないだろう。自分のことは全て二の次に、ひたすらに人を想い、悪と戦い続けた。その集大成、大魔獣・牙崙を打ち倒した挙げ句が凛府住民の裏切り。そして人生の崩壊。
「出られないのか?ここから」
「……怖いんだ。まだ牙崙の血も乾いてない。あの時はなんとか命までは奪われなかったけど、今度は殺される。……怖いんだ」
腕を擦りながら、震える身体を縮こめる。
戦いの中に身を置く者の中でも、本当の死を目の前にした経験のある者は少ない。血風刃にもない。自分がこの世からいなくなる恐怖。想像もできない。
万月はその恐怖を味わった。青紫に変色した唇を震わせてなんとか一つ一つ言葉を紡ぐ。
「膝が笑っちゃって、立ち上がる気力もない。プーさん、なにしにどうやってこんなとこまで来たのか知らないけど、もう帰ってくれないかな」
「帰れ、だと?ふざけるな。俺は俺の願いを叶えるためにここへ来たんだ」
もう一度、万月の血が伝う凶剣を振りかざす。今度は捌かせない。渾身の一刀を……
「グガー!!!!!!!!」
「ん、な!?」
牙崙の身体が赤く光を帯びている。咄嗟には何が起きたかわからなかった。だが、徐々にその光は信じがたいほどの熱を宿し始めた。
「くっ、熱い!万月!立て!やばいことになる!」
血風刃は万月を無理矢理にでも立ち上がらせた。脚がふらついてはいるがなんとか歩くことくらいはできそうだ。
「牙崙……やっぱり怒っているんだね?君は何も悪くないのにね」
微かに声に出すが血風刃の耳には入っていなかった。やがて牙崙の身体から発せられた熱は、その肉体に食い込む鎖を徐々に溶かしていった。
「グガーゴギガー!!!」
閃光が飛び散り物凄い爆風が吹き荒ぶ。
「伏せろ!」
二人の剣士は地面に叩きつけられるように、その場に倒れた。
4
じとっとして蒸し暑い空間だった。だが晃たちを取り巻く空気は今、凍てつくような緊張感に包まれている。友達がさほど多くない真はこういう大勢でいる時に自分の意見を主張することができない。そう、このまま万月、血風刃、牙崙をまとめて再び閉じ込めてしまうことはできないのかという意見だ。
できなくはないだろう。だが、それでは事態を根本から解決することにはならない。またいつか同じことを繰り返すだろう。
「ぬんっ!」
晃が右手に力を込め、血風刃がやったことと同じような光を生み出した。そして剣にその光を込める。
「やつが空間を切り裂いたのはこの辺りで合ってるな?」
「そのはずです」
晃と氷綱が互いに確認し合う。葎花はこの状況をまだ整理し切れてはいない。狐兎市は葎花より少しはましだった。乱は更にもう少しましだった。
「はぁ!」
晃が剣を振った。中空に切れ目が入った。みながそう認識した刹那のことだった。
ブファー!!!!!
切れ目から物凄い熱風が吹き込む。
「何かあったな」
「行きますか?それとも……」
晃と氷綱が冷静に視線を交わし合う。よくそんなに落ち着いてられるなと思うその他の面々。
「やはり、行くしかないですね」
「あぁ……氷綱、一つ頼みがある」
「なんでしょう?」
氷綱が問うたその時、晃の膝がガクンと折れた。氷綱は目を見開いて驚き、今まで黙って見守っていた狐兎市が駆け寄った。
「晃様!?」
狐兎市は主人の身を案じて、だが何もできない自分に唇を噛み拳を震わせる。氷綱もそうだ。
「な、何があったの?」
「あかん、中のほうで万月の身に何かあったな」
葎花と乱、真は目の前で今、繰り広げられるドラマのような、しかし紛れもない現実を見据えている。晃の輪郭線が薄くなっていく。
「これをあいつに渡してくれ。きっとなんとかしてくれる」
晃は霞行く意識の中で自身の右の手の中指から薄汚れた指輪を外す。葎花はその手の甲に色濃い痣を見た。
「ガキの頃、好きだった女がいた。その人を守るための戦いで負った傷の痕だ。ずっと俺たちの誇りだった」
行け、とだけ晃は言った。氷綱は差し出された指輪を握り締め溢れ落ちる涙を拭う。狐兎市は乱、葎花、真に目配せした。
「牙崙になんかあったんやな。もうめんどくさいこと考えるんはやめや。無事に全員生き残ろうで」
乱が回りに呼び掛けるように、だが本当は自分に言い聞かすようにそう言った。葎花は感じる。乱は全てを悟っていると。戦いの中に、それも葎花のように正々堂々としたスポーツではなく殺るか殺られるかの死闘の中に身を置くものとして、自分の生き死にには人一倍敏感なのだろう。
「晃様……」
完全に消滅した、金の桜・晃。だが感傷に更ける暇はない。
「みんな、行こう」
一同は頷き、晃の切り裂いた空間の隙間に身を捩らせながら入り込む。そして、奥へ奥へと向かおうとした。したのだが……
5
雨が降り始めた。雪に変わるかもしれない。天気予報はそう伝えていた。舞雪は嬉しい。雪が好きだから。
「奥華、なぜお前がここに……」
舞雪、相楽たちの前に現れたのは村長の娘、奥華だった。
「父さん、なぜ来たかと問われれば、そうね。世界を救うためかしら」
四十代の半ばとは思えないその美貌。夏芽は思わずため息をつく。それから凛とした佇まい。こちらもなぜか緊張してしまう。でも、憧れてしまう。
「舞雪さん、どうか結界を解いてください。でなければこの世界は大変なことになります」
呆気に取られている警察官たちの視線は無視して、奥華は舞雪に訴えかける。舞雪も戸惑う。自分より一回り年配の才女。初見だが容易くあしらえる相手ではないと、その澄んだ眼差しを見ればわかる。
「どういうことかしら?私たちは初めから世界を大変なことにしたくてやっているのよ」
「そういうことではないのです。あなたたちは何もわかっていない」
奥華は敬語だ。舞雪はタメ口なのに。夏芽は違和感を感じたがそれがそのまま今の自分たちの位置関係なのかもしれない。人類の罪と、それを裁こうとする六煉桜。
「人類はこの世界に必要なのです。何億年も前から世界は流れるべき方向へ流れているのです。その流れをあなたたちに止める権利はないのです」
奥華は淡々と教え諭すように語る。無駄なことだと夏芽は感じていた。話し合いは通じない。いくら元々は善人なんだと言われても人を殺め傷つけ続けてきた彼らを、正義感の強い夏芽は単に許すことはできない。
「言いたいことはそれだけ?」
舞雪が右手をゆらりと振り上げた。威風堂々と構えていた奥華も少し顔をしかめて後ずさる。その時だった。
ドーン!
刹那、何が起きたのか夏芽にはわからなかった。雷が落ちたか、隕石が直撃したか、火山が噴火したか。それくらいの爆音と爆風にその場にいた者は全員吹き飛ばされた。夏芽は強く腰を打ち激痛に視界が歪む。数秒後、混乱の中で何度かまばたきし、状況を把握しようと頬を叩くと、前方、視線の先で舞雪は倒れ、辺りは炎に包まれていた。
「魔方陣が、暴発?」
時春が、彼もまた痛む腰を押さえながら呟く。しかし、そこは夏芽よりも一枚大人。すぐに狼狽する警察隊を指揮する。
「消防班を呼べ!それから救急車を!」
舞雪が陣を張り、警察の介入を封じていた結界が暴発して崩壊した。そのことが何を意味するか。そう、突入可能。相楽はすぐに武器を持ち直し、先陣を切ろうとする。
「チャンスですよ!急ぎましょう!時春さん」
「……人員の操作は君に委ねる。俺は守りに回る!」
大きな輪の中心で動かない舞雪に駆け寄る。そんな時春を見て唖然とする相楽だが、すぐに冷静になり今自分がやるべきことを考える。
「波町君、ついてこい!それから、誰でもいい!速く消防と救急!」
「はっ、はい!」
火が着いたように全員が動き出す。夏芽は「私も行きます!と言って教会へ向かう相楽たちを追いかけた。当然、警察隊も女学生には負けてられない。一斉にそこに加わる。
「夏芽ちゃんはやっぱり来ないほうがいい!」
「やだ!どうしてもって言うなら葎花とも絶交!」
「そ、それは困る!」
葎花は夏芽と大の仲良しだ。相楽から見ても、葎花がこれから今より更に成長するために、絶対必要な存在だ。だが……
「危なくなったらすぐに逃げるって約束してくれ。君が命を懸けてでも戦うべき時じゃない」
「わかってる。私は葎花に死んでほしくないだけ。この世界の行く末なんて、正直どうでもいいわ」
夏芽がニッと笑うので相楽も覚悟が決まった。それにしても夏芽ちゃんは足が速いなぁと苦笑する。もう追い抜かれてる。
「相楽さん、教会がー」
波町が前方を指差す。紫の靄が晴れている。
「一気に突入するぞ!」
正義の味方参上、と言った気分だった。相楽の士気に呼応するように全員が鬨の声を上げる。
「モガー、モガー」
神父は歓喜と興奮の入り交じった声を上げる。いや、正確には上げられていない。口をテープで塞がれているから。
狐兎市に腕を縛られ口も封じられた。ひどい扱いだ。人質とかなんとか言ってたが別に必要ないだろう。教会の中に独りでいるのだから。
だが、五里霧中だった神父の前にやっと光が射した。新手の敵が来た可能性もあるのだがなんとなく神父は助けが来たのだと感じ取った。
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャッ!
「……えーい、めんどくせぇ!」
鍵のかかった扉を無理矢理蹴破った。やはり警察だった。先頭にいるのは相楽だ。
「神父さん、助けに参りました」
急に上品になっても無駄だ。そんなことより早く助けてくれぇと脚をばたつかせる。
「ちょっと待ってくださいね。もう、暴れないで。今ほどきますから」
相楽が腕の紐をほどき、口のテープをなるべく慎重に剥がす。それでも髭が数本むしられてしまった。
「痛て、痛たたた!馬鹿たれ!」
「申し訳ありません!神父さん!」
「コントやってる場合じゃありませんよ。相楽さん。魔方陣がぶっ壊れるってことは中で何かが起きてるってことですからね」
波町に急かされると相楽は「わかってる」と応じながらすっくと立ち上がる。
「神父さん、僕らは急ぐのでご自分で逃げてください。お怪我があればすぐに救護班が来ますので」
「ちょっと待ちなさい!地下に入るつもりか?」
「もちろん」
なぜ止めるのですか、と言った顔で相楽は首を傾げる。神父は長時間モガモガやってたせいか喉が痛むのを堪えながら、懐に手を突っ込んだ。
「これを持っていけ。無事を祈る」
神父が軽く放ったそれを相楽は両手でキャッチする。白い小袋。小指の先ほどの厚みがあり装丁は鮮やかだが年期が入っているようでだいぶ汚れている。
「なにかのお守り、ですか?」
「……万月が牙崙との決戦のする折、わしが祈りを込めたお守りだ。傷ついたあいつのポケットから返してもらい、それからずっと肌身離さず持っていた。戒めとしてな」
「それからこの村はずっと平和だった。なるほど、ご利益はありそうだ」
項垂れる神父に相楽は皮肉を込めて言う。
万月と牙崙を封じ込めたとされるのが二十年前。その頃、相楽はまだ三十才手前くらいで刑事としてまだ新米だった。村の中枢部の人間たちの悪行はそのくらいの身分の人間の耳には届かない。かといって村長や神父たちを責める気もない。自分がその立場だったとしても同じことをしただろう。
「神父さん、僕らは上翼。正義と平和を愛する人間です。決して負けません」
堂々と胸を張って宣言する。不安と罪悪感に潰れそうな神父のためではない。そうしないと自分が焦燥と恐怖に潰れてしまいそうだからだ。
相楽が心臓を高鳴らせて先陣を切る。それよりは少し冷静な波町が他の警官隊を引き連れる。一瞬、躊躇してしまった夏芽にも「大丈夫ですよ、お嬢さん」と優しく語りかけた。怖ければついてこなくても大丈夫ですよ、という意味で言ったはずなのに「はい、ありがとうございます」と気合いを入れてついてきた彼女に波町は苦笑する。
「あっ、ダメだ!」
地下室への階段の奥のほうにいた相楽が思わず声を上げる。何かあったかと波町は不安にかられた。だが、直後笑ってしまう。
「入口がちっちゃい!でっかい僕には通れん!」
相楽さんのデブ。少し幅の狭い扉にぐいぐいと無理矢理入ろうとする彼を見て一同、そう感じる。
「何言ってんですか、隊長!よし皆で押すぞ!」
「痛い!痛たたたた!」
夏芽は堪えきれず大声を立てて笑ってしまった。
第五章 再びの満月
1
「万月様!?」
ワープホールを抜けて最深部へと急いだ葎花たち。その目に写ったのはボロボロに傷ついた往年の勇士、万月が這うように階段を昇っていた姿だった。
「万月様!万月様!何があったんですか!?」
驚き目を丸くするばかりの一行からまず率先して彼に駆け寄ったのは葎花だった。肩を揺すりその顔を直視する。
長く白かったと言われるその髪は薄汚く黒ずんでいたが、その左目は伝承通り赤く輝いていた。
憧れ続けた。たくさん本を読んで勉強した。その剣腕に近づきたくて一生懸命練習した。みんなに馬鹿にされながら、それでも一途に恋焦がれた。そんな人が今目の前にいる。
感情のタガが外れた。
「あーん!」
皆が呆気に取られた。間の抜けた声を上げて万月に抱きつく葎花。わーわーと泣きながらその腕に力を込めて敬愛するその人にしがみついていた。
「お嬢さん、お嬢さん。痛いよ」
「ご、ごめんなさい!」
我に帰った葎花は恥じるように顔を赤らめた。そして再びまじまじと万月を見つめる。
二十年もの時間を重ねたとは思えないほどに、万月は若く見えた。時流の乱れが彼の老化の進行をも遅らせたのだろうか。
「この先で覚醒した牙崙が猛り狂ってる。プーさんはなんとか舵を取ろうと苦戦してる。君たちが来てくれたならちょうどいい。戦おう!」
牙崙ーその魔力はこの迷宮を丸ごと破壊するに足りている。自分たちはその瓦礫の下に果てたとしてもやつは生きてまた地上に死と恐怖を満たすだろう。
状況をいち早く理解して氷綱が前に出る。
「六煉桜の氷綱です。万月さん、この指輪を、晃様のご遺志です。抵抗はあるでしょうが、今はこの道しかないはずです」
そう言って氷綱が差し出したのは先刻、晃が氷綱に託した指輪だった。落ち着いてきた葎花は少し後退り真の右腕をきゅっと掴んだ。
万月様と晃の魂が融合するー
万月は正義感の強い人間だ。自分の生み出した悪鬼が犯した殺戮と破壊の全てに並々ならぬ罪悪感を抱いていた。
償わなければいけない。楓馬の暴走と血風刃の野望を食い止めることがその第一歩だ。万月は躊躇うこともなく自分の弟分とでも言うべき氷綱に向けて細く繊細な人差し指を向けた。
「覚悟は出来ていますか?」
「無論」
葎花、真、乱、狐兎市が固唾を飲んで見守る中で氷綱が滑らかな手つきでその指輪を嵌める。小さな、しかし大きな光が万月の全身を包み込む。
「心地いい。悪を受け入れることもできなければね」
自嘲気味に笑う万月だったが、すぐに真顔になる。そして穏やかに目を閉じた。凍てつくほどの悪寒がその満身創痍を包んだ。
「万月……さん?」
氷綱の両腕に鳥肌が立つほどの、震えるほどの力が満ちる。ここに今、最強の戦士が復活した。
2
細雪が散らついている。限りある命を慈しむように、祝福するように……
「舞雪……舞雪……」
普段は鬼のように厳格な時春の目に涙が浮かぶ。その腕の中で美しい女は最期の時を迎えようとしていた。
「晃様が、消えようとしています……」
舞雪がその細く可憐な手を空に翳した。元より幸薄い運命だったのかもしれない。でも、そんなことはもうどうでもよかった。
舞雪の親指が時春の頬に触れた。涙を拭おうとして。
「不思議ね。私は今、生まれてきてよかったと、心から思っているわ」
「ば、馬鹿なこと言うな……舞雪、死なないでくれよ。お前らが死んだら、俺はこれから、誰から世界を守ればいいんだ!」
白くしなやかな体を無骨な両の腕が強く抱き締める。時春にとって六煉桜は永遠のライバルだった。
「さようなら、晃様。あなたのそばにいられた。ただそれだけで舞雪は幸せでした」
力を無くしその腕は地に落ちた。トン……
ドーン!!
耳をつんざく爆音。奥ではきっと地獄のような光景が広がっているだろう。氷綱は乱と目配せする。
「退くか?」
「止まるか?」
しかし、万月が征した。
「Goだ!」
さらに加速する一行。真や狐兎市はぜーぜー言いながらついていくのでやっとだ。
「もうすぐで最深部だよ。みんな、準備はいい?」
幻覚的に揺らめき躍動するその光の方向へ、皆が一気に最後の一歩を踏み出した。さっきまでの暑さが嘘のように消えて、辺りは不気味な冷気と静寂に包まれていた。
「遅かったな。たった今、制御が完了したところだ」
「グー、ガブ、グガ……」
初めて見る本物の牙崙。血風刃の悪意が正にその五臓六腑に染み渡った酷悪の魔物。おそらくは最強にして最恐。だが、万月は躊躇わずに歩を進める。
「プーさん、いけないよ。もう死なせてやりなよ」
苦悶と絶望に満ちた眼光と真っ黒い体。牙崙は本当ならとっくに老衰し、生き絶えているべきだった。それをこの迷宮の瘴気が、おそらくは牙崙自身が濁らせた空気が、相乗効果を持って生き長らえらせている。万月は血風刃に諭した。もう楽にしてやれと。
「死なせはしねぇさ。こいつは俺の計画の役に立つ」
「ならば僕がその計画を阻止する」
万月は錆び付いた鞘からこれまた鈍く光る剣を抜いた。そして苦笑する。血風刃も嘲笑った。
「何年ぶりに抜いたんだよ。もう切れ味も糞もねえな」
「構わない。僕はあなたを殺したいわけじゃない。止めたいだけだから」
万月は一つ深い呼吸をした。そしてそれまでとは別人のように目つきを鋭くした。
葎花は胸をときめかす。安心感の溢れる優しい普段の万月様とは違う正真正銘の剣豪・万月。こうなれば彼の前に敵はいなかった。そう、万月様は強く美しい最高の剣士。常勝無敗。きっと、悪に身を転じた血風刃なんかに負けはしない。
「万月、俺はお前だけにゆるりと時間を取るわけにはいかねぇ。邪魔なギャラリーはまず掃除しとくぞ」
「ん?」
血風刃がその剣を持った右手を振り上げた。そして低く暗い声でなにやら呪文を唱え出す。
グガー!!!
牙崙が唸り、そして飛び上がった。でかい図体を捩らせ、そして口から魔力を収集する。万月はハッとして自分を取り巻く者達に大声で呼び掛ける。
「逃げろー!!!」
ブハー!!!
牙崙が口から強力なエネルギー波を発する。四方八方に散らばり葎花たちを襲う。
ズドーン!!!
「みんなー!」
眩しすぎる閃光に万月は目をしかめる。凄まじい気の乱反射が止まらない。
「犬公!」
何が起きたかもわからずに立ち尽くす子狼のほうへ散弾が向かう。それは一瞬の出来事だった。
「氷綱君!」
時間が止まったかのようだった。青の桜は子狼を庇うように身を盾にした。音も光も無い世界にトリップしたかのように見えた。
皆が我に返った時、小さな獣は倒れ伏す血塗れの戦士を舌で舐めていた。信じられないと言った顔で万月はそれに近づいていく。
「死んでる……」
葎花は両手で口を覆った。これで人が死ぬのを見たのは二人目。こんなにも胸が潰れそうな気持ちになるのか。だが、血風刃はむしろそれまで以上に彼らを見下す。
「甘いんだよ。お前ら、そんな犬コロ一匹救っただけで勇敢な戦士気取りか。お前らはこれからこの世界の命運を懸けた戦いに挑まなければならない立場なんだぜ」
万月はグッと歯を食い縛り悔しさに耐える。これで戦力は万月、乱、葎花、真……
「ちょい待て!狐兎市っちゅうガキはどこや!」
「あっ!」
一同は慌てて周囲を探る。しかし、どこにも見つからない。
「なんや、牙崙の様子がおかしいで」
最初に乱がそれに気づいた。どす黒い光を放っていた楓馬が徐々に白く、そしてやがて透き通っていく。
「狐兎市君、まさか!」
万月がその変化が意味することに気づいた。そして牙崙の背後から声が聞こえてきた。
「晃さん、みんな、今までありがとう。そして、さよなら」
狐兎市が牙崙の邪気を吸収している。高等な、極めし魔物使いだけが使える術。力のない未熟な者が使えばその邪気は術者の体内で膨張を続け、やがて死を招く。
「楽しかった。ありがとう。僕を必要としてくれて、ありがとう」
「狐兎……待て!」
牙崙の体が真っ白になり、灰のようにさらさらと風に流れていった。そこに狐兎市の姿は見えなかった。
万月は膝を折りがっくりとくずおれた。葎花と真は悲愴に満ちた表情になった。
「くっ!」
血風刃はダーンと地面を叩いた。
「んっのガキ!!」
二十年、この場所で苦しみ続けた怪物はあっけなく天に召された。計画崩れはお互い様だがショックは血風刃のほうが大きかった。
「ガキ一人の仕事やないで。氷綱のやつ、あの散弾の雨あられの中で隙を見せた牙崙の心臓に一発打ち込んどった。それが僅かに、せやけど致命的に身体の抵抗力を弱めたんや」
「黙れ!乱、この俺に生意気な口を利くな!」
「なに言うとんのや。そんな主従関係、あんたのほうからとうに放棄しとるやろ」
それまでの喧騒が嘘のように辺りは沈黙に包まれた。それぞれの思惑が複雑に交錯する。
六煉桜は既に崩壊。善人に戻った万月にもはや人類絶滅などという願いはない。
切り札である牙崙を失った血風刃。しかし、まだ下翼の大半という戦力は所持している。
「お前らにはここで死んでもらうしかないようだな」
「そうはいかない。プーさん、僕にはまだやらなきゃいけないことがたくさん残されてる」
万月の目に涙が浮かんでいるのを血風刃は見逃さなかった。だが、それが何のための誰のための涙なのかはわからなかった。
「プーさん、さっきあなたは言ったね。犬コロ一匹と世界の命運って」
「あぁ、言ったな」
「プーさん、僕ら人類には二つの手しかない。一つの手は自分自身を守るので精一杯だ。そして残ったもう一本の手は一生懸けて何か一つを守れるか。人間なんてその程度の存在なんだ」
「戯れ言はいい!」
「こんな、小さな命一つ守れずに世界の平和なんて守れるか!」
「綺麗事を言うな!」
「違う!!!」
その場にいた誰もが圧倒されるほどに万月は声を張り上げた。特に驚いたのは葎花だ。伝説の中の万月は温厚な性格でありながら考え方は意外にドライで、普段は周囲から一歩引いたところがあるような人間だったから。
「この世界から悪を滅ぼそうと戦い続けた。本当の悪ってものを思い描くこともできないまま、晃なんて怪物を生み出したのは僕の弱さだ。でも……」
十秒ほどの沈黙。だが、万月はキッと目を見開き、また更に強い声で訴えた。
「諦めたくなかった!悲しみがあるから優しくなれる。敵がいるから強くなれる。この世界に悪や絶望が大切なものだって知ってる。時には不条理な死だって必要なことも知ってる。それでも、諦めたくなかった!人は優しくて、この世界は綺麗で、人生は楽しくて、そういう幸せを何があっても諦めたくなかった!」
「……聞き飽きた。お前の信念は認めてる。だがそれだけだ。ここで楽にしてやる」
理性では互いにわかり合ってる。感情の部分でも受け入れ合ってる。だが、それだけだった。
本能ー互いに生きていく意志だけで向かい合っている。
「僕らは、一人一人の人間があるがままに生きる意志を信じるしかない。あなたの独裁を許すわけにはいかない。だから、今あなたを止めてみせる!これが最初で最後の勝負だ!」
3
勝負は一瞬。乱はそう見ていた。
万月、血風刃共に構えは居合い。二十年のブランクとここに至るまでの疲労と傷、お互いに万全とは言えない状況で勝負を長引かす余裕はない。加えて……
「久光が鳴いてる」
主人を失い不安げな久光がひっきりなしに鳴いている。真がめっと言って黙らせたが、おそらくは何者かが迷宮に侵入している。考えやすいのは単純に、警察だ。あるいは下翼の連中が主を助太刀しにきたか。
乱はぼりぼりと頭をかいた。そして隣で固唾を飲んで見守る真を見やる。
「ええんか?真ちゃん」
「何が?」
「万月さんに加勢して確実に旦那を殺すことだってできるんやで。そしたら、丸く収まるで」
自分より20センチ以上高い視点から見下ろされることに、最初のうちは若干の圧迫感を感じていた真も今ではすっかり慣れていた。だから堂々と答える。
「そうだね。でも、どっちが正しいかなんて僕にはわからないから。信じるしかないよ。きっと本当に正しいほうが勝つ。それに万月さんの気持ちに水を差したくないから」
「聡明そうに見えても意外と楽天的やな」
そう言ってお互いにふふっと笑う。その隣では葎花は目を閉じて胸に手を当てている。神に祈りを。
そして長い長い沈黙の果てについに万月が口を開いた。
「プーさん、平和は好きかな?」
「好きさ。それだけはお前と変わらねぇ」
「「……勝負」」
ザッ!
万月が土を蹴り血風刃めがけて踏み込む。十メートルほど開いていた距離は一瞬で詰められた。そして……
「なっ!」
血風刃は今目の前に映るものを「ヒト」と見なせなかった。万月の奥、たしかに消えたはずの「怪物」を見たのだ。
「うわーーー!!!」
その声は誰のものだったのか。鞘の中を走る剣が人智を超越した速さで血風刃を襲う!
「プーさん、逃げて!」
光と音の乱反射する向こうで、葎花の目には全てが見えていたがその光景は脳裏まで届いていなかった。
牙崙ー狂気の魔物は地獄とこの現世の間でまだ揺らめいていた。
二人の剣豪と一つの狂気の衝突。その刹那を見極められる者はいなかった。パッと散る血が見えた。だが全ての音が消えてしまったかのようだった。
葎花は目を開けることが怖かった。
警察隊が続々と駆けつけてきていた。指揮を取らねばならない相楽だったが泣きじゃくる娘を思うと気持ちは複雑だった。
「泣かないでくださいな。勇敢な少女剣士よ」
万月と血風刃、宿命のライバルの最後の戦いは、相討ちと言ったところか。
「でも、万月様……脚が……」
「プーさんが剣線を下げてくれたおかげで脚だけですんだんだ。やっぱり優しい人だよ」
まだ生きている。万月の目は血風刃がまだ生きていることを見抜いていた。だが乱がとどめを刺そうとしているのも止める気はなかった。
長い槍の尖端を主人の心臓に向ける。この二十年以上に及んだ戦いの最後の一撃。だが乱が呼吸を整えた時、血風刃が目を開けた。
「乱、最後に一服させてくれ」
「冥土の土産は煙草でっか?まぁ、ええですよ」
「ありがとうよ」と言って上着のポケットからライター、のようなものを取り出す。乱の目には変なライターだと映った。
「逃げろ、乱」
ブビー!!!!!!
耳をつんざくような金切り音。誰もが驚愕しその音の発生源に再びの絶望を見た。
「牙崙!!!」
正確に言えば牙崙の影。どす黒い影が辺りを覆い尽くした。
血風刃はライタータイプの特殊爆弾をその影に放る。
「ブギャー!ビー!ギャー!」
最期の一撃。これが牙崙の最期だ。だがー
「やばい!すごい音の振動が起きてる!もたない!」
もたない、という咄嗟には何の意味かわからない万月の言葉が「この最深部が崩れる」という意味だと気づいた者から順に悲鳴を上げた。
慌てる警察隊だがそれでも相楽は必死に自らの任務を果たそうとする。通ってきた階段のほうへみんなを誘導した。
「葎花!速く!」
「でも、万月様が!」
脚を斬られた万月を引き摺ってでも助けようとする葎花。だが、その手を万月は優しく拒否した。
「僕はもう精一杯生きた。忘れないで、お嬢さん。死は悲しいだけのものじゃない。全ての生命に永遠の安らぎをくれる。そしてまたいつかご縁が会ったら、来世で必ず会いましょう」
勇者は目を閉じた。葎花は何も言えず、ただ放心状態だった。
パシン!
「真?」
「バカリッカ!お前はまだ精一杯生き切ってないだろ!逃げるんだよ!これから、万月様の意志を継いで、やりたいことがあるんだろ!」
葎花はまだ虚ろだったけどどうにか立ち上がっていた。ぶたれた頬がひりひりする。でも今はすべきことは一つしかないと気づいた。
生きる。
ガラガラと壁面が崩れる。
「葎花、真、走れるか?すまない、警察はぞろぞろやってきたところでなんの役にも立てなかったな」
「そんなことないよ、心細いもの。私達だけじゃ」
ワープホールを抜けたところで大人たちが力を合わせてその穴を塞いだ。
もう慌てる必要はない。それから無事に外に出るまで一人の死者も出さなかった。
とりあえず、正義の勝利だ。
終章