Cafe Shelly もう誰も信じない
四月、新学期。本当なら心弾む季節。なのに私の心はイライラしっぱなし。どうしてこんなにムシャクシャするのか、自分でもよくわからない。
一つは、目の前にいる中二になった弟の態度が気に食わないから。
「ジャマ、どいて」
どうしていつも私の行こうとするところにいるのかしら。
「うるせっ、俺だって今ここにいてぇんだよ」
「ならもうちょっとよけなさいよ。ホント、チビのくせして」
「チビチビって、うるせぇんだよっ」
こうやって毎朝私は弟と言い争う。このケンカがエスカレートすると、決まって新聞を読んでいるお父さんがこう言ってくる。
「お前たち、いいかげんにしなさいっ!」
小さい頃は優しいお父さんってイメージだった。けれど今は、こうやって私たちを怒鳴ることしかしないんだから。私を怒鳴る前に弟をちゃんと叱りなさいよ。
この前も、弟がわざとぶつかってきて謝りもしなかったからケンカになったのに。喧嘩両成敗だからって、原因を作った弟と私が同じ叱られ方をするのは理不尽だわ。
そしてもう一つ腹がたつことがある。
「はい、コーヒー」
そんな私たちを冷ややかな目で見て、何も干渉しようとしないお母さん。これもホントいい加減にしてほしいわ。親だったら少しくらい子どもの方を見ていなさいよ。威張りくさったお父さんの世話をするだけなんだから。
「千晶、いってらっしゃい」
私がイライラしながら玄関を出ていこうとすると、必ず見送るお母さん。そんなときだけ母親面して。それも気に食わない。
私は無言で家を出て行った。
「千晶、おはよー」
学校にいく途中、友達と出会う。ここからがやっと私らしい私がスタートする。
「おはよー」
こんなこと自分で言うのもなんだけど、私は学校では結構真面目で優等生。成績だって悪くない。部活は残念ながら一年生の時についていけなくて辞めちゃったけど。でもその分、勉強には力をいれている。
他にもクラスの委員とか、生徒会の仕事もやったりして。なんか、学校のは自分のいる場所があるって感じでとても気持ちいい。逆を言えば、家にはなんか私のいる場所がないのよね。
「ねぇ、今度の日曜日はどうするの?」
一番の友だちである優香からそんな誘いが。日曜日って何かあった気がするなぁ。
手帳を開いてスケジュール確認。するとそこにはこんな文字が。
「おばあちゃんお見舞い」
そっか、入院しているおばあちゃんのお見舞いに行くことになっているんだ。しかも家族で。
おばあちゃん。私に唯一やさしく接してくれる人。そして、私の話を聴いてくれる人。だからとても大好き。
でも今は入院をして、おばあちゃんに話を聴いてもらえない。それも私のイライラの原因のひとつ。
私だけおばあちゃんのところに行ければ、心の中のモヤモヤを聴いてもらえるのに。家族と一緒じゃ話すことができないじゃない。でもおばあちゃんには会いたい。
「ごめん、日曜日はおばあちゃんのお見舞いなの」
「ふぅん、そっか。じゃ、いいわ」
優香のちょっとそっけない返事。大して気にしてはいないけど。
「千晶、ちょっと来なさい」
その日の夜、私はお父さんに呼ばれた。
「なに、はやく終わらせてね」
リビングに行くと、そこにはお母さんと弟もいる。
「千晶、そこに座りなさい」
こういうときだけ高圧的な態度をとるお父さんが大嫌い。それに、みんなそろって何なのよ。とりあえず言われるがままにお父さんの正面に座る。
「まず、これは何なんだ。こんな大事なものをどうして捨てていたんだ」
お父さんが見せたのは学校の懇談会の案内。私はそれを机の引き出しにしまっておいたのだ。
「なに、ってことは私の部屋に入ったの!?そして引き出しを勝手に開けたってこと!」
「そんなことより、どうしてこんな大事なモノを見せなかったんだ」
「なにがそんなことよ。勝手に人の部屋を覗かないでっ」
「うるさいっ! こちらの質問に答えなさいっ」
バンッ
私はテーブルをおもいっきり叩いてその場を去ろうとした。が、お父さんは私の手をつかんで引きずり戻そうとする。
「いいかげんにしなさいっ。他にもまだ言いたいことがあるんだから、ここに座りなさい」
強引に座らせられる私。次に口を開いたのは、さっきまで物静かに見ていたお母さんだった。
「千晶、あなた拓也の大事にしていたプラモデルを壊したでしょう」
「知らないわよ、そんなの」
私はプイと横を向いて、そしらぬふりをした。だが、弟の拓也が猛反発。
「知らないじゃないだろう。これ、どうしてくれるんだよ」
拓也はテーブルの上にプラモデルを置いた。それは拓也が大切にしているものなのは知っていた。そのプラモデルの腕と足の部分がとれている。
「どうしてそれが私のせいだって言えるのよ」
私は身に覚えがない。だが、拓也が猛反発。
「今朝、オレの部屋に入ったじゃないか。その後オレが部屋に入ったら、飾ってあったのが床に落ちてこうなっていたんだよ。その直前までは何もなかったのに」
「バッカみたい。そんなんで私のせいにしようって言うの?」
「バカとはなんだよっ」
弟は私につかみかかろうとした。
「やめなさいっ」
お父さんの一声で、弟はその動きを止めた。が、逆に腹の虫がおさまらないのは私の方。
「だいたい、証拠もないのになんで私のせいなのよ。私がわざとやったっていうの?」
「わざとじゃないにしても、あなたに過失があるのだからきちんと謝りなさい」
また、めずらしくお母さんが横から口を挟んできた。
「なによ、私じゃないって言っているでしょ。どうしても私を犯人扱いしようって言うのね」
いい加減腹が立ってきた。どうして私のことを信じてくれようとしないの?この家の人たちは、私を悪者にしようとしているのね。
「そもそも千晶はどうしてそんな反抗的な態度ばかり取るんだ。そんなにお父さんやお母さんが嫌いか?」
「えぇ、嫌いよ。顔も見たくない。都合のいい時だけお父さん面して。お母さんも、私には何もしてくれないじゃない。拓也も私のことが嫌いなんでしょ。唯一の私の味方のおばあちゃんも入院しているし。私はこの家では一人ぼっちなのよ」
「いいかげんにしなさいっ!」
お父さんは大きな声とともに立ち上がり、手を振り上げた。
パシッ
私の頬を叩いたのは、お父さんではなくお母さんだった。お母さんの目は涙ぐんでいる。
「どうして私たちの気持ちがわからないのっ」
わかるわけない。私の気持ちをわかろうともしないお父さんやお母さん、弟の気持ちなんかわかるわけがない。
私は駈け出して二階の自分の部屋に戻った。そして、ベッドの上でおもいっきり泣いた。
何の涙かわからない。けれど、悲しくてとにかく泣いた。泣いて泣いて、そのうち気がついたら寝ていた。
翌日は朝御飯も食べずに学校へ。家族とはまったく顔も合わせていない。
「千晶、どうしたの?」
学校でちょっとふさぎこんでいると、優香から声をかけてくれた。
「うん、ちょっと家でね、やりあったんだ」
そこで昨日の夜の話を優香にしてみた。
「そりゃひどいね。ただでさえ自分の部屋に入って、勝手に机を開けるなんて。おまけに弟のプラモデルを壊したのを千晶のせいにされたんだ」
「そうなのよ。そんな親って許せると思う?」
そこからお互いの親の悪口がスタート。そんな話で盛り上がったけど、なんとなく心が痛い。
「ま、私だったらしばらく徹底抗戦するかな」
優香の言葉に勇気づけられて、私はしばらく徹底抗戦してみることに決めた。
そして日曜日。
「ホントに行かないんだな」
「行かないって言ってるでしょ」
私はおばあちゃんのお見舞いには行かないことにした。本当は行きたいんだけど、家族と一緒というのがイヤ。病院の場所は聞いたから、今度一人で行くことにした。
そして私は家で一人ぼっち。なにをするわけでもない。優香たちと遊びに行ってもよかったのだが、どうもそういう気持ちになれない。一人部屋に閉じこもって音楽を聞きながらマンガを読む。けれどどうにも落ち着かない。
「どっか行こうかな」
そう思って、あてもなく家を飛び出した。なんとなく、CD屋に足を運んでみる。そのとき、不意に声をかけられた。
「あれ、千晶じゃね」
声をかけてきたのは同級生の悟志である。悟志はクラス委員長で勉強もできるヤツだが、ひょうきんなキャラでルックスも割といい。実は女子たちの人気の的でもある。
「あ、悟志」
「なんか浮かねぇ顔してるけど、どうした?」
おまけに悟志は優しいところもある。
「うぅん、ちょっとね」
「なんだよ、元気がねぇな。千晶、時間あるか? そこのマックにでもいかね?」
「えっ、い、いいよ」
まさか、こんな形で誘われるとは。だがこれがまさかあんなことの始まりになるとは。
「おはよう」
翌日、なんとなくいい気分で登校。悟志と話せたことがちょっとうれしかったから。悟志には私の今の状況や気持ちを話したところ、いろいろと共感してくれてさらには応援の言葉までもらった。
しかし、急に回りの女子の目が突き刺さるようになった。特に優香の態度が急に変化してしまった。誰も私と口を聞いてくれようとしない。
どうして? 私、何か悪いことした?
お昼休み、いてもたってもいられず優香に話しかけてみた。
「ねぇ、どうして私と口を聞いてくれないの?」
だが優香は私を避けるようにその場から立ち去ろうとする。
「ねぇってば」
私が優香の腕をつかもうとすると、その腕を振りきろうとする。そうなると、私も意地になって優香の腕を強くつかむ。そんな攻防を続けると、優香がイライラした口調でこう言ってきた。
「千晶、あんた大嘘つきだよね」
大嘘つき? 何のことかわからない。
「ねぇ、それどういうこと?」
「なにしらばっくれてるのよ。私たちの誘いを断って、悟志とデートしてたじゃない。私たち、知ってんだから」
悟志とデートって、別に約束したわけではなく偶然会ってマックに行っただけじゃない。でも、それをいつの間にか見られていたんだ。
「あれは違うって。たまたま偶然だったんだって」
「たまたまぁ?あんた、日曜日は家族とおばあちゃんのお見舞いに行くって言ってたよね。なのになんであそこにいたのよ?」
「そ、それは…」
「ほら、やっぱりそうじゃない」
そう言って優香は私の手を振りほどいて、すたすたと去っていった。
私はショックだった。親友だと思っていた優香。私のことをいろいろ理解してくれていると思っていた優香。なのに、たったあれだけのことでこうなるなんて。
どうしてみんな私のことを信じてくれないのよ。みんなが私のことを信じないのならもういい。私もみんなのこと、信じないから。
もう誰も信じない。信じてなんかやるもんか。
その日から私は家でも学校でも独りぼっちになってしまった。私のうわさは学校でも広がり、私には誰も話しかけてくれない。家では帰ったらすぐに部屋に閉じこもり、食事もみんなとは食べずに時間をずらして一人で食べるようになった。
そんな感じで一週間が過ぎ、土曜日になった。せっかくの休みなのに、誰からも誘いがない。あれだけ頻繁にメールをしていた携帯電話も、一度も着信がない。
「どうしようかな…」
そのとき、ふとおばあちゃんの顔が思い出された。
「おばあちゃんのところ、行ってみようかな」
その思いが湧いてきた瞬間から、頭の中はもうおばあちゃんで埋め尽くされていた。
早速出かける準備。病院まではバスがあるはず。とにかく行ってみよう。私は家族には何も言わずに家を出て行った。
出かけるときにお母さんが
「いってらっしゃい。何時に帰ってくるの?」
と声をかけてくれたが、それも無視。そそくさと家を飛び出して行った。病院まではそれほど迷うことはなかった。
バスに揺られている間、私の頭の中はおばあちゃん一色。というよりも、家や学校であったつらいことを思い出したくなかった。それを頭から追い出したかった。だからおばあちゃんとの思い出や、おばあちゃんとどんな話をしようかということばかり頭に思い描いていた。
けれど、ふとした瞬間に家族や学校のことが頭をよぎる。その度に私は暗い気持ちに襲われる。
その繰り返しをしながら、ようやく病院に到着。早速おばあちゃんの病室へ。
「あらぁ、千晶ちゃんじゃない」
「おばあちゃん、久しぶり」
私の前にいるおばあちゃんは、痩せてはいたがその笑顔は想像したとおりだった。
「千晶ちゃん、先週は来なかったけど何かあったの?」
「うん、ちょっとね…」
私の沈んだ顔を見て、おばあちゃんはにっこり微笑んでこう言ってくれた。
「千晶ちゃんはやさしい子よね。こうやって一人でおばあちゃんのお見舞いに来てくれるんだから」
違う、ちがうの。おばあちゃんのお見舞いに来たかったんじゃなくて、おばあちゃんに慰めてもらいたいの。私、やさしい子じゃないの。
そんな感情が私の中で一気に吹き出した。
「おばあちゃん…」
私の目には大きな水たまりができた。
「私、そんないい子じゃない。私、どうしたらいいかわからないの…」
おばあちゃんは涙ぐむ私の頭をそっと撫でてくれる。
あぁ、これがおばあちゃんなんだ。私はしばらくそのおばあちゃんのぬくもりに甘えることにした。
けれど、その時間もそんなには続かなかった。
「幸子さん、こんにちはー」
おばあちゃんの友達らしき人がお見舞いに訪れた。
私はあわてて涙をぬぐって姿勢を正した。
「あら、文恵さん」
「あれ、お孫さん?」
「えぇ、千晶っていうの。高校二年生でとてもやさしい子なのよ。今日も一人で私のお見舞いに来てくれて」
「なかなかかわいい子じゃない。こんにちは、私はおばあちゃんのカラオケ友達の文恵っていうの。よろしくね」
なんかとてもフレンドリーな人だな。
「あ、そうそう、持ってきたわよ。はい、これ」
文恵さんはおばあちゃんに水筒を差し出した。
「わぁ、ありがとう。これ、飲みたかったのよ」
文恵さんから手渡された水筒を大事に抱えるおばあちゃん。その表情はとてもワクワクしたものになっている。
「おばあちゃん、それ、何?」
「これね、魔法のコーヒーなの」
「魔法のコーヒー?」
なんだろう、魔法のコーヒーって。その疑問はおばあちゃんではなく文恵さんが答えてくれた。
「これね、シェリー・ブレンドといって私の知り合いの娘さんがやっている喫茶店で出しているコーヒーなの。これは飲んだ人が望んでいる味がするという、不思議なコーヒーなーのよ」
文恵さんがそう説明している間に、おばあちゃんは紙コップにコーヒーを注いでくれた。
「千晶ちゃんはコーヒー飲めるかな?」
「うん」
「じゃぁこれを飲んでごらん」
魔法なんて、そんなことあるのかしら。そう思いながらも、おばあちゃんがさし出してくれたコーヒーを手に取る。
文恵さんも同じようにおばあちゃんからコーヒーを手にする。そして三人同時にそのコーヒー、シェリー・ブレンドを口にする。
最初に驚いたのはその香り。コーヒーってこんなにいい香りだったんだ。
そしてコーヒーを舌に流し込む。
苦いっ。最初はそう思った。けれど、その後不思議な感覚が私を襲った。
これ、なに?
そう、例えていうとおばあちゃんの感じだ。安心して何でも話せる、信頼できる人。その感覚が欲しくて、今日ここにやってきた。それを思い出させてくれた。
「千晶ちゃん、どうだった?」
おばあちゃんの言葉で、私はハッと我に返った。
「う、うん。なんか不思議な味がする」
「でしょう。このシェリー・ブレンドはね、私に生きる喜びを与えてくれたの」
「それ、どういうこと?」
その疑問に答えてくれたのは、文恵さんの方だった。
「おばあちゃんね、病気がわかったときにはそりゃもう落ち込んでしまってね。私はもうダメ、死ぬんだわって言ってたのよ」
えぇっ、そんなの信じられない。今だってにこやかにしているのに。
「でね、そんなおばあちゃんを見て私がこのシェリー・ブレンドを飲ませてくれる喫茶店、カフェ・シェリーに連れて行ったの。そこでこのコーヒーを飲んで、おばあちゃん変わったのよ」
おばあちゃんにその時何が起こったのだろう? 今度はおばあちゃんが話を始めてくれた。
「そのときの味はね、私にやり残したことがあるんだって教えてくれたのよ」
「やり残したこと?」
「そう、おばあちゃんはみんなの笑顔をつくるの。それをまだちゃんとやれていなかったことに気づいたの」
「笑顔って?」
「おばあちゃんが昔学校の先生をしていたのは知っているでしょう。そのときにある生徒が引きこもりになってね。それであの手この手頑張ったの」
そんな話、初耳だった。おばあちゃんの話は続く。
「でもね、私のほうが根負けして笑顔どころか最後は引きずり出すように学校に連れていくような形になって。その結果…」
「その結果?」
「その子を自殺に追い込んでしまったの。幸い一命はとりとめたけど。そのとき初めて気づいたの。人を動かすのは外の力じゃない。その人が動こうとしないといけないって。そのためにはまず、相手が笑顔にならないと。それからおばあちゃんは変わったわ。けれど、先生を辞めてからそのことをすっかり忘れていたの」
なるほど、そうだったんだ。
「でも、それをこのシェリー・ブレンドが思い出させてくれたの?」
「それと、カフェ・シェリーのマスターのおかげかな。マスターと話をしていると、自分が何をしないといけないのかがわかってくるの。早く病気を治して、またカフェ・シェリーに行ってみたいなぁ」
おばあちゃんは遠い目をしてそう言う。よほどそのカフェ・シェリーって喫茶店が気に入ったんだな。
「私も行ってみたいなぁ」
おばあちゃんにつられて、ボソリとそうつぶやいた。するとその声に反応したのは文恵さんだった。
「千晶ちゃん、今日はまだ時間あるの?私と一緒に行ってみない?」
「えっ、いいんですか?」
「いいわよぉ。こんなかわいい子なら大歓迎。それに千晶ちゃん、今悩みがあるでしょ」
文恵さんに言われてドキッとした。どこでそれがわかったんだろう。
「千晶ちゃん、よかったら文恵さんに連れて行ってもらうといいわよ。マスターなら今の千晶ちゃんを助けてくれるかも。悩みが解決したら、またお見舞いに来ておばあちゃんに話してくれるかな」
家族も友達も信じられない。けれど、今のおばあちゃんの言葉は信じられる。
うん、そうしよう。
「おばあちゃん、ありがとう。私、おばあちゃんの言うとおりにしてみる。文恵さん、よろしくお願いします」
「そんなにかしこまらなくてもいいわよ。じゃぁ幸子さん、千晶ちゃんをマスターに会わせてみるわね」
「文恵さん、よろしくお願いします」
おばあちゃんはそう言って頭を深々と下げ、ニッコリと微笑んでくれた。
「ほら、ここの通りにあるの」
病院を出て再びバスに乗り、私が連れてこられたのはとある細い通り。パステル色のブロックで敷き詰められた路面。道の両端にはブロックでできた花壇。道幅は車一台が通るくらいの狭さ。道の両側には、ブティックや雑貨屋、中には歯医者なんてのもある。
「へぇ、こんなところあったんだ。知らなかった」
「千晶ちゃんは街にはあまり出てこないの?」
「たまに出てくるけど、いつも行くところは決まってたから。それに最近は郊外のショッピングセンターばかりだったからなぁ」
この通りを見てなんだか心が弾んできた。
「ここの二階よ」
そこには黒板の看板があり、お店のメニューと言葉が書かれている。
「自分を信じて、みんなを信じて…」
その言葉を何気に口にしてみた。
「これね、カフェ・シェリーのマイちゃんが毎日思いついた言葉を書いているの。今日のキーワードは信じるか」
文恵さんに言われてドキッとした。まるで今の私の気持ちを見透かされているような気がして。
「さ、上がるわよ」
軽快に階段を駆け上がる文恵さんのあとに続く。
カラン、コロン、カラン
ドアを開けると、軽快なカウベルの音とともに漂ってくる甘い香りとコーヒーの香り。
「いらっしゃいませ」
聞こえてきたのはハツラツとした女性の声。少し遅れて低い、落ち着いた男性の同じ言葉も聞こえてくる。
「マイちゃん、マスター、こんにちは」
「あ、文恵さん。あれ、そちらは?」
「私のカラオケ仲間の幸子さんのお孫さん。ほら、この前入院した」
「あ、あの幸子さんの。こんにちは。ゆっくりしていってね」
私を見てニッコリと微笑むマイさん。とても可愛らしくてきれいな女性だ。なんだか心がなごむなぁ。
私と文恵さんは店の真ん中にある三人がけの丸テーブルに通された。お店は窓際に半円型のテーブルがあって四人がけになっていて、カップルが座っている。そして四人がけのカウンターには男性客が二人。とても小さなお店ではあるけれど、狭いとは思わない。
「マスター、シェリー・ブレンド二つお願い。それと手があいたらちょっとお願いしていいかな?」
「えぇ、いいですよ」
文恵さん、ここの常連って感じで慣れた態度で注文を進める。
「マスターかマイちゃんが今の千晶ちゃんの悩みを聴いてくれるから。安心して待ってて。きっといい答えが見つかるわよ」
文恵さんの言葉、信じていいなって感じがする。家にいるよりすごく安心出来る空間なんだもん。
「こんにちは。高校生かな?」
マイさんが私に声をかけてくれた。
「はい、南高です」
「へぇ、南高なんだ。うちのすぐ近くだよ。ここのマスターは昔、駅裏の学園高校で英語の先生をやっていたのよ」
そう言われてあらためてカウンター越しのマスターを見る。なんだか信頼できそうな感じ。
「今でこそ、コーヒーを入れる姿がさまになっているけどね。その頃はスクールカウンセラーとしてたくさんの生徒の悩みを聞いてきた人だから。私もカウンセラーみたいなことやってるしね」
なんだかいっそう安心出来る。おばあちゃんのところに車でのイライラや不安がどこかに消えているな。私は勇気を出して、今抱えていることを話てみようという気持ちになった。
「あの…一つ聞いてもいいですか?」
「ん、なぁに?」
「マイさんは周りの人が信じられなくなったことってありますか?」
「信じられなくなった、かぁ。そうねぇ…えっと、そういえばお名前は?」
「千晶といいます」
「千晶ちゃんか。私もね、千晶ちゃんくらいのときにお母さんのことが信じられなくなったことがあったなぁ」
「そ、それってどういう時だったんですか?」
「あのね、お母さん私の部屋に勝手に入っていたのよ」
私と一緒だ。思わずそう言いたくなったが、黙ってマイさんの話の続きを聞いた。
「そしてね、こともあろうに私の隠していた秘蔵のお菓子をとられちゃったのよ」
「それはひどーい!」
さすがに私は言葉が出てしまった。
「そう思うでしょ。だからその時はお母さんが信じられなかったの。でもね、後から考えたら私が悪かったのよ」
「悪かったって、どうして? マイさんのお母さん、勝手にお菓子を取っちゃったんでしょう?」
「実はね、そのころ私太り始めちゃってたの。ちょっとストレスがあってね。それでお菓子をバクバク食べてた時期だったのよ。それを心配して、お母さん私の隠していたお菓子を全部取り上げたのよ」
「えぇっ、マイさん太っていたんですか?」
とてもそうは思えないプロポーションをしている。
「うん。でもお母さんがそうやって強硬手段に出てくれたおかげで、私の体重はそれ以上増えなかったの。その後、食べるのもおさまって今みたいになったのよ」
「じゃぁ、お母さんとの仲は?」
「あのとき、とことん両親と話し合ったの。そしてわだかまりがいつの間にか消えてたな。私が反抗期だったってのもあるけどね」
マイさんは可愛く舌をペロッと出してそう言った。
「マイ、コーヒーできたよ」
「はーい」
マスターの声に可愛く返事をするマイさん。なんだかこんな女性、憧れるな。
「きたきた、さっきも実はシェリー・ブレンド飲んできたんだよ。でも、やっぱここで飲むシェリー・ブレンドの方が最高に効き目あるからね」
文恵さんはワクワクした目でコーヒーを待ち構えた。
「あ、幸子さんに持っていったシェリー・ブレンドですね。ひょっとして千晶ちゃんも飲んだのかな?」
「はい。そのときはちょっとびっくりしました」
「どんな味がしたの?」
「うぅん、一言で言えばおばあちゃんの味かな。安心して何でも話せる、信頼できるひとって感じだった」
「なるほど、それでさっき周りの人、家族が信じられなくなったときのことを私に聞いたのね。今、千晶ちゃん家族とケンカしているんだ」
「…はい。それに友達ともちょっといろいろあって…」
「じゃぁもう一度シェリー・ブレンドを飲んでみて。きっともう一歩踏み込んだところにあるものが見えてくるから」
もう一歩踏み込んだところにあるものってなんだろう? 私はゆっくりとコーヒーカップに口をつけてみる。
病院の時と同じ、コーヒーの香りがとても強い。そしてコーヒーを口に含む。
「甘いっ」
これにはびっくりした。病院で飲んだ時には、そんな甘さなんて感じなかったのに。
もう一度冷静になってコーヒーを口に含む。今度はさっきほど甘いとは感じず、普通に苦味が走る。じゃぁ、さっきのはなんだったんだろうか?
だが、面白いことに今度は徐々に甘さが口の中に広がっていくのがわかる。これ、どういうこと?
あ、この甘さっておばあちゃんのところで食べた駄菓子の味。なんだったっけな、こんな味のお菓子を食べながらおばあちゃんが頭をなでてくれたのを思い出した。
それはまだ私が小さかった頃。おばあちゃんに抱っこされて、そんなのを食べてたっけ。私、とてもおばあちゃんに甘えてたな。
あまえんぼ千晶。そう言われていたことをふと思い出した。今もおばあちゃんに甘えている。
そう、私は甘えたいのよ。なのに家の中じゃ甘えさせてくれない。友達にも甘えたいのに、それをさせてくれない。どうしてだれも甘えさせてくれないの?
あ、この前この甘えの感覚どこかで味わった気がする。そうだ、悟志だ。悟志と話している時って、おばあちゃんと話している時と同じような感覚だったのを思い出した。
そうか、そうなんだ。私、こういう感覚が欲しかったんだ。
「千晶ちゃん、何か感じたかな?」
マイさんのその声にハッと我に返った。
「えっ、えっと…」
私は言葉に詰まってしまった。今感じたことをどう表現したらいいのかわからない。
「千晶ちゃん、どんなコーヒーの味がしたかな?」
声のするほうを見る。
それは低くて安心できる男性の声。マスターだ。マスターはいつの間にかカウンターから出てきて、私のそばに立っていた。
「面白そうな話だから、私も参加させてもらうよ」
そう言ってマスターは三席のうち空いている席に腰を落とした。
「もう一度聞くね。どんなコーヒーの味がした?」
「あ、えっとですね、なんだか甘かったんです。ちゃんとコーヒーの味はしたんですけど、不思議と甘く感じました」
「甘く感じたのか。それってどんな意味があると思う?」
「そうですね。私、甘えたいんだと思うんです。家の中でも学校でも、誰も私のことを信じてくれない。私のことを信じてくれないから、私も誰も信じることはできない。だから私の気持ちをゆだねる人がいないんです」
「なるほど、甘えたいから甘い味がしたんだ」
「でも、私が唯一甘えられるのがおばあちゃんなんです。この甘さ、おばあちゃんのところで食べた駄菓子の味がしました」
「おばあちゃんの甘さか。千晶ちゃんはそれが欲しいんだね。一つ聞いてもいいかな?」
マスターはにこやかな笑顔で私に語りかける。私はそのマスターの笑顔に引き込まれるような感覚になる。不思議と落ち着くんだ。だから素直に「はい」と答えてしまう。
「千晶ちゃん、人を信じるってどういう事だと思う?」
「えっ!?」
マスターにそう言われて、私は返事に困った。そんなこと、考えたこともない。
人を信じる。
私はじっと考えこんでしまった。すると文恵さんがこんなことを言い出した。
「千晶ちゃん、答えがわからないときはシェリー・ブレンドを飲むといいのよ。きっと答えのヒントがみつかるわよ」
そうなのかなぁ。思いながらも私は文恵さんの言うとおりにしてみた。
シェリー・ブレンドのカップに口をつける。すると不思議なことに、さっきはコーヒーの香りがとても強かったのに、今度はそれほどでもない。そしてゆっくりとコーヒーを口に含む。
「えっ、うそっ!」
さっきはとても甘く感じたのに、今度はいかにもコーヒーって味がする。なのに、私の中にすすーっと入っていく。素直に、味わい深くシェリー・ブレンドを受け入れられる。そんな感じがした。
「おいしい」
「何か感じたかな?」
マスターから問われて、私は頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「私、コーヒーってそんなに飲んだことなかったしそれほど好きってわけでもなかったんです。でも、このシェリー・ブレンドは私の中に素直に入っていく感じがします。でも、さっきは甘く感じたのにそれを感じなかったんですよ。むしろコーヒーって味が強いのに。どうしてなんだろう?」
私が不思議がっていると、マスターがこんな言葉を私にくれた。
「シェリー・ブレンドは今望んでいる答えを教えてくれているんだよ。素直に入っていく感じ、それを人との関係に置き換えるとどう思うかな?」
人との関係? 私と家族、私と友達、それを考えたときにふと思い出したのは悟志との会話。あの感じが今のシェリー・ブレンドの味にぴったりなだと思った。
「私、この前同級生の男の子とたまたま街で出会って、マックでいろいろ話をしたんです。そのとき、話を聴いてくれて私の気持ちを受け取ってくれたって感じがしました。それと同時に、私は彼の、悟志のことを受け入れられた。悟志の言葉が素直に私の中に入っていった」
「そのとき、千晶ちゃんは悟志くんのことをどう感じていたのかな?」
「えっ、悟志ですか。えっと、それは…」
マスターに質問されて、ちょっと慌ててしまった。
別に恋愛対象とかそういう風に見たことはない。けれど、話をしていてとても落ち着けた。どうしてだろう。
その答えは口から先に飛び出してきた。
「それは、悟志が私の話を受け入れてくれたから。だから私も悟志の話を受け入れられるんだ」
「じゃぁ、家族はどうして受け入れられないのかな?」
「だって、私の思いと逆のことばかりするんだもん」
「どうして逆のことばかりすると思う?」
「私のことが嫌いだから…」
ううん、そうじゃない。私が家族を嫌いだから。だから家族のやることなすことが私にとって嫌なものに感じているんだ。
私は言葉が詰まってしまった。そこに気づいたときに、私が悪いんだってことが理解できた。
でも、私は悪者じゃない。私だって私のやりたいようにやりたいんだし。頭の中がまた混乱してきた。
何気にシェリー・ブレンドに手を伸ばす。すると今度は妙な映像が頭に浮かんできた。
笑顔でこんにちわって言っている私。すると周りからこんにちわって返ってくる。これ、どういうこと?
「千晶ちゃん、何かに気づいたかな?」
「えっ、まだよく意味がわからないけど…」
「千晶ちゃん、どんな味がしたの? 何か映像は見えた?」
文恵さんが心配そうに私を覗き込む。私は今見えたことをもう一度思い出すように言葉にしてみた。
「私、笑顔でこんにちわって言っているんです。誰かに向かってってわけじゃなくて。そしたら、だれともなく周りからこんにちわって私に声をかけてくれるんです。私からそうすれば、周りも同じ反応をするんだ。同じ反応。私はおばあちゃんが好きだから、おばあちゃんは私のことを好きでいてくれるんだ。でも、私は今家族が嫌い、信じられない。だから家族も私のことが嫌いで信じられない…」
ぽつりぽつりと出てくる言葉でようやく気づいた。全ての原因は私にあったんだ。
私は泣きそうになった。すると、マイさんがすっと私の横に来て、そして私の頭を抱きかかえてくれた。
「大丈夫、大丈夫よ。千晶ちゃん、ちょっと心が疲れているだけ。あなたが悪いんじゃないの。それにね、家族のみんなはあなたが嫌いなんじゃないの。千晶ちゃんがそう感じているだけ。みんな千晶ちゃんのことが好きなのよ」
心がすぅーっと溶けていくような感じがする。マイさんの優しい言葉で、今度は涙が出てきた。同時に私は心を解放することができた。
マイさんは私を抱きしめたまま、こんなことを言ってくれた。
「心にはね、作用反作用の法則っていうのがあるの。こちらが相手を押せば、相手から同じ力で押し返される。こちらが相手を受け入れれば、相手も同じように受け入れてくれる。千晶ちゃんは私たちを、このお店を受け入れてくれたでしょう。だから私たちも千晶ちゃんを受け入れることができたの。大丈夫、今は少し心が疲れて受け入れることができないだけ。にっこり笑って、家族のみんなを受け入れてごらん。きっと、家族のみんなも千晶ちゃんを受け入れてくれるから」
押せば押し返される、受け入れれば受け入れてくれる。
そうか、そうなんだ。おばあちゃんは私の言葉を素直に受け止めてくれる。だから私はおばあちゃんを受け入れることができる。
悟志もそうだ。あいつは私の言葉を否定せずに聞いてくれた。だから安心して話ができた。
そして今、私はマイさんの言葉を素直に受け止めることができた。それは、マイさんがこうやって私を抱きしめて受け止めてくれたからだ。
「マイさん、ありがとう」
私はまだ涙ぐみながらもそうやって言えることができた。
「大丈夫よ。千晶ちゃんは気づいたんだから。家族を受け入れてね」
「はい」
そう答えた瞬間、心の中になった大きなしこりが消えた感じがした。ようやく気持ちが落ち着いたところで、また一つ疑問が湧いてきた。
「ありがとうございます。家族に対してはまだすぐに昔みたいになれないかもしれないけど、自分の気持を変えることで受け入れられるきがします。でも、友達の事はどうなんでしょうか? 私は友達が信じられない、嫌いってことはなかったのに、今シカトされているんです。急にそうなっちゃったんです。これはどうしてなんですか?」
「千晶ちゃん、そんなことがあったんだ。急にって言ったけど、何か思い当たることはあったのかな?」
そこで、悟志のことが原因だということを話してみた。マイさんの優しい表情のおかげで、心穏やかに話ができた。
「なるほど、じゃぁ親友の優香ちゃんが誤解をしているっていうことなんだね。ちょっと千晶ちゃんにとってはキツイ言い方になるかもしれないけど、いいかな?」
「はい」
この時点で、私はマイさんの言うことならなんでも受け入れられる気がしている。
「悟志くんと話をしたこと、ちょっと優越感に思っていなかったかな?」
言われてドキッとした。悟志との会話、これは私に優越感を与えたのか。
確かに、悟志は他の女子から人気があって、私は恋愛感情はなかったにしてもちょっと嬉しい感じがしていた。私の態度から気持ちを見透かされたのか、マイさんはこんなことを言ってくれた。
「大丈夫よ。千晶ちゃんがお友達に対しての気持ちを今まで通りしっかり持てば。ここでお友達を嫌いになると、相手も千晶ちゃんのことを嫌いになっちゃうから。学校で、笑顔でおはようって言ってごらん」
優香に笑顔でおはよう、かぁ。いつも当たり前にできていることだけど。今になってなんだか怖くなってしまった。でも、やらなきゃ。
「そして最後に」
マイさんは言葉を付け加えた。
「まずは千晶ちゃんが周りの人をしっかり信じてあげなきゃ。信じるって、相手を受け入れることなの。まずは相手の考えを受け入れて、その上で自分の思いを伝える。これが大事だからね」
まずは私が周りの人を信じる、か。それができるだろうか。ちょっと不安ではあるけれど。とにかくマイさんの言葉を信じてやってみることにしよう。
それにしても、なんだか不思議な喫茶店だな。コーヒーを飲んでマスターやマイさんと話をすると元気になれちゃう。
「千晶ちゃん、なんだか嬉しそうね」
文恵さんがそう言う。
「はい」
私はそう返事。すると、再びマスターが私にこう質問してきた。
「千晶ちゃん、今回何か学んだことはあるかな?」
「学んだこと、ですか。そうですね、こちらの思いって相手に伝わるんだって。まるで鏡みたいですね」
「そうなんだよ。これを鏡の法則、とも言うんだ。自分の思いって、知らず知らずのうちに周りの人が投影してくれて自分に返ってくる。だから相手に好意をもつと、相手もこちらに好意を持ってくれる。逆に相手に不満を持つと、相手もこちらに不満を持つ。さて、千晶ちゃんはこれからどう考えていくかな?」
私は考える間もなく、口からこんな答えを伝えた。
「私、みんなに好意を持って接してみます。だって、みんなから好かれていたいですから」
「うん、いい答えだ。千晶ちゃんならできるよ」
「はい、ありがとうございます」
よし、明日から、いや今から気持ちを切り替えていくぞ。私の頭の中では家族や周りの人達と元気にあいさつを交わしている姿が浮かんできた。
不思議な喫茶店、カフェ・シェリー。私はここで元気をもらった。この元気、もっとたくさんの人に味わってもらおう。
私は残りのシェリー・ブレンドを一気に飲み干した。うん、元気の味がするな。
<もう誰も信じない 完>