三日月がぼんやり在って、女の子はそっと在った2
それにしても、理由はどうであれ立派な誘拐犯になってしまった。親が警察に届け出をすれば、すぐに分かってしまうだろう。立ち寄った派出所、そこから乗ったタクシー、食料や日用品を買いそろえたコンビニエンスストア。それらの防犯カメラには確実に映っている。それに、タクシーの運転手やコンビニエンスストアですれ違った若い男女などは、だいぶ訝しんでいたように思われた。私が女の子に話しかける態度がおかしかったのだろうか? 三十九歳の私とは年齢的に親子でも違和感はないはずだが。いや、所詮私がそう思っているに過ぎないのかな。
そもそも、なぜ女の子はあそこに一人でいたのだろうか? 虐待。そんな二文字が頭に浮かんではいた。しかし、顔には殴られた形跡もないし、痩せ細ってもいない。もちろん、服の下は分からないが。服といえば、全体的に薄汚れていない。ちゃんと洗濯してあるようだし、ぼろぼろでもない。肩までの髪も脂ぎってはおらず、ちゃんとお風呂にも入っているようだ。しかし、虐待はそれだけじゃない。無関心。記憶の澱をまとめて形にして、そのまま単語になった。最低限の世話はするが、まったく子供に興味がない親。
私は思わず勢いよくグラスを煽った。さっきまで高級品だった酒は安物に戻っていた。
思考を切り変えたくて、別の可能性も考えてみる。例えば、母子家庭で母親は夜の仕事。いたずら半分で外に出てしまって迷子になった。虐待よりもすんなり落ち着くように思える。女の子には虐待特有の乾いたような悲壮感もなければ、媚びたような笑顔をすることもなかった。眠る前に一緒に食事をした時も、そんな雰囲気は感じられなかった。一言も喋りはしないし、鈍くもあるが、私の言葉への反応はちゃんと温度を感じさせてくれた。虚無感漂う心持ちではないように思われる。それならば……。
いまさらながら、親の気持ちを考えて胸が痛くなった。私もかつては親だったのに……。
同時に、ただ、とも思う。もし迷子であるならば、なぜ私についてくる意思を示したのだろうか? 派出所で私の言葉に対するあの握ってきた手。その手から伝わる確かな意思。
ダメだ。考えても埒がない。結局、単純な話だ。すべきことをしなかった報いは受けることになるだろう。私はこの子の親ではないのだから。