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緑色の思い出

青白く感じるほど真白な紙に黒々と、重々と、棘々と、「進路希望調査」と書かれたそれが目の前に置かれている。目に見えない重力がじわじわ伸し掛かってくるように、体がじんと押し縮められる気がした。

 帰り際に分けられたそれは、梅雨の湿っぽい空気を吸い込んで指先に吸い付いてくる。それは何回か分けられてきて、その度に弱いところを刺激して、自分を子供の頃の思い出に押しやった。何も考えず、今が何曜日なのか、右手はどちらなのか、自分はいつ大人になるのか、知らなかった頃だ。

そして今でも、自分はいつ大人になるのか知らないでいる。大人になれるのか分からないでいる。だからいつも、これを渡されたときは子供の頃を思い出す。自分の存在に責任を持たなかった頃を。今はもう、自分のことを考えなくてはいけない。いつまでも親の後ろを、何も考えずについて行く小鳥ではいられない。


下校途中、側溝の蓋を踏みつけてはことんことんと音がする。風はざわざわとして、湿っぽい、密度の高い空気をかき回している。それに巻き込まれるようにして、木々はゆらゆら揺れた。

手にした希望調査は風に引っ張られて、青白いほど真白な表面に影の筋をいくつか入れ、ただの真白になった。けれど、そこに印刷されている黒々とした字は変わらない。重々と、棘々としている。

ふと、水の匂いがした。雨降りの土の匂いでも、プールの塩素の匂いでもない。もっとどろりとした、緑色を想像させる、そんな匂いだ。おそらく、もう使われなくなった昔の市民プールから流れてくるのだろう。頭の中に、ぱしゃり、と絵の具のように鮮やかな水色が浮かんだ。これは、自分に責任がなかった頃の記憶だ。


この年頃の、向こう見ずな「何となく」という感覚は恐ろしい。一度「何となく」決めてしまったことを覆すことは難しいのだ。側溝を踏みつけるこの足は、「何となく」を原動力にして進んでいる。どこに行こうというのか、この足は。

ことんことん、ことんことん。音が途切れた先はプールだった。思い出の中にあったよりずっと小さく、ずっと霞んでいる。その感覚は、ここに来たのが随分前だったということを教えてくれた。

プールを囲むフェンスは錆びついて、元の色を思い出せない。緑だった気がする、青だった気もする。それは風に揺すられて、迷惑そうにぎしぎしと音を立てた。

それを見ていると、また「何となく」というものが襲ってきた。この年頃が「何となく」に襲われやすいのは、地面についているはずの足がほんの少し浮かび上がり、そこをちょいと掬われてしまうからだろう。

そしてちょいと掬われて、この身体はフェンスを登り始めてしまった。まずは邪魔にならないよう、鞄を物陰に隠しておいて、希望調査は二つ折りで口にくわえて。

みしりみしり、と金属の擦れる音がして、その度にどきりと心臓が止まった。掌に茶色い錆を擦りつけながら、ふうふうと登っていく。その時ようやく、希望調査は鞄に入れるなりポケットに突っ込むなりすればよかったと思った。けれど、まあいいか、と口先で遊ばせるままにした。

じわじわと染み出すように、穴の気配が大きくなる。どろりとした水の匂いが強くなる。てっぺんに着くと、ぽっかり大きな穴がこの、足の少し浮かんだ身体を引き寄せるようにしていた。そしてフェンスの内側に滑り込ませた身体は、何の躊躇いもなく空中に投げ出され、落ちていく一瞬、希望調査がぺしりと顔を叩いた。地面に着いた足から順に、びぃんという痛みが走る。あぁ、痛い。ぎゅっと絞められた唇からぐしゃりと音がして、真白な紙はただの白になる。手にして見ると、風の皴と唇の跡が歪に浮かんでいた。


久しぶりに見るプールはやはり、どろり、と黒く濁っていて緑色の匂いを感じさせた。水槽の際まで近づくと、匂いはますます強くなる。思い出を手繰っていくと、ここの水は絵の具のように鮮やかな水色をして、全ての光を跳ね返すように光っている。今は、あまりに濁っていて全ての光を飲み込んでいる。

ざわざわ、と風が吹く。街路樹が不気味に揺れる。湿っぽい空気は足の浮いた体を吹き飛ばす。

やめてくれ、心の中をかき乱すな。

何故だか本当に怖くなって、思わず足に力を込めた。そうしないと、どこかに飛んで行ってしまうのではなかろうか。

と、その時、希望調査がするりと指の間を抜けて行った。風に引っ手繰られたわけでもないのにそれは、この身体から逃げていくように飛んでいく。

「あ」と思った時に体は、黒く濁った水の上に。

「しまった」と思った時には既に、奇妙に暖かい水の中に。

「最悪だ」と呟いた時にはもう、緑色に光る水面へ泡が昇って行った。

こぽこぽ、と木琴に似た柔らかな音が口から洩れる。空気を吐き出した身体は徐々に沈んで行って、こん、とプラスチックの底に跳ね返った。どろりとした水は、水面に浮かんでいこうという焦る気持ちを吸い取っているのか、奇妙な安心感を与える。

あぁ、ゆらゆらとしたこの身体、溶けていってしまうのか。

ゆらぁり、と。

それを見たとき一瞬、自分の身体だと思った。奇妙な温かさの中で揺れるちっぽけなもの。

けれどそれは金魚だった。誰かがここに放したのだろうか。緑の濁りを吸い込んで、祭りの夜のものとは比べ物にならないほど大きくなっている。赤い尾が、流れのない水中に漂う。どろりとした緑色の中で、鈍く光を反射させるそれが身体を燻らせた。

心が凪いでいく。安心して目を閉じると、音程の捉えられない笛の音が聞こえた。

ひゅる…るるり…るる。


ここは。

幼い日の風景に囲まれていた。

息をするだけで、じわりと炙られるように熱がうまれた。梅雨の生温い風と違う、熱をおしこめたような空気が皮膚を撫でた。緑色に濁っていた世界は消え、かわりにつんつるてんの浴衣を着た子供たちが脇を走り抜ける。先を急ぐように、汗が噴き出すのもかまわない。からんころん、という下駄の音が三重になって道に響いた。夕焼けが、視界を橙に染めていく。

夢か現か、寝てか覚めてか。さっき聞こえた笛の音。やはり途切れ途切れで、音程を拾うことはできない。あぁけれど、ここは、この空気は、祭りのものじゃないか。日があるせいで今はまだ分かりづらい。けれど、日が陰っていくうちに熱が空に昇って行って、そして星を揺らすようになる。

道にはちらほらと人影が見えた。それは皆、同じ方向へ向かっている。それにつられるようにして歩いて行くと、どこか見覚えのある道に出た。ここは思い出の中の道。小鳥だった頃、自分の存在に責任のなかった頃、歩いた道。あぁ確かこの先には公園があった。ブランコと滑り台、それと少しばかりの木々からなる小さな遊び場。ゆらゆら流れる影法師から離れて、急がされるように走っていく。木々の形、塀の欠け方、色の禿げたペンキ、全てが思い出の中にぴたりと当てはまった。

思い出の中の小さな公園は、やはり小さいままだった。夕日の中でゆらぁり、と揺れたブランコは、どこかあの赤い金魚を思い出させる。それは赤く染まり、鈍く光を反射させていた。

ゆらぁり、ゆらぁり。子供が一人ブランコを漕いでいる。あの子もまた、小鳥なのだろうな。親鳥の後ろをついて行く。あぁだから、あの年の子供は皆、幼い日の自分だ。あの小鳥が成長して、親鳥になる一瞬前、この身体のように足が少し浮き上がってしまうのだ。そしてちょいと掬われて、流れ着いた場所で親鳥になるのを待ち続ける。それは何て悲しくて、何て人任せなのだろう。流れ着いた場所が、自分の最適な場所とは限らないのだ。

子供はブランコを漕ぐのをやめ、ぼんやりと空を眺め始めた。夜が町の淵から這い出るように、紫色の影が滲んでいる。つられて見ると、赤紫の層に一つ、ちょんと星が乗っかっていた。

きぃ。金属の軋む音、ブランコからおりる音だ。土を踏む音、砂利の軋む音、草を踏む音。それらの音がだんだん大きく、鮮明に聞こえるせいで子供が今どのくらいの距離にいるのかはっきり分かる。今振り返ると、目が合ってしまいそうで、視線は空に向けられたままだった。ざりざり、砂利の音が大きくなる。其方を向こうなど考えていないのに、視線だけがすぅと引きつけられて、縫い付けられたように動かない。足音は止まらず、脇をすり抜けようとした。けれど、何を思ったかその小鳥は足音を止め、ぬぅとこちらを見上げた。縫い付けられた視線の先に、その子の目がかちりと嵌る。

あぁ、その目。何も映さない刹那的な目。あまりにも瞬間的すぎて深みのない薄っぺらな目。けれど屈折することなく全てを反射する目。

その目に映っているのは何だ。自分だ。足の少し浮かんだこの身体だ。子供の目は、映した存在を受け止めることなくそのままはね返す。小さな頭に嵌っている二つの球は、浮かび上がっているように奇妙な存在感を持っていた。

それはほんの一瞬で、子供は子供らしい好奇心でこちらを覗いたのだろう。その目は、もう別のものの姿を反射させている。小さな影は影法師の流れのない方へ消えていった。

後ろの方で、小さく鳴っていたブランコの音が途切れた。それを合図にするように、ふらふらともと来た道を辿って行く。

ここは、この世界は。実際の世界に記憶の欠片が重なってできる軟なものではなくて、その欠片が大きくなりすぎて、この身体を覆ってしまったものではないか。浮き上がった身体は押し流されて、いったいどこに来てしまったのだろう。

見覚えのある道に出ると、ますます多くの影法師がゆらゆらと歩いている。それは大きな流れでも見ているような感覚で、頭の奥からじわりと引き寄せられるような気がした。

ゆらゆら揺れる影法師、お前はどこへ行くのだろう。

ここにいる人たちは皆、足が少し浮き上がっているように感じられた。祭りの雰囲気がそう見せているのだろうか。空に昇っていく熱が、身体を空に引っ張っていく。この中にいるとまた、「何となく」がやってきた。

ゆらゆら揺れる影法師、仲間に入れてくれないか。

大きな流れは、少しくらい分量が変わっても気にしないのだ。浮き上がった身体は、まるで最初からそこにあったように紛れていった。


空にしがみつくようにしていた日は、夜に押し出されるようにして姿を消した。空の根本から滲み出す僅かな赤が、徐々に紫色になっていく。

歩くにつれて笛の音が強くなる。捉えられなかった音程が意味を持ち始めた。あぁ、もう少しもう少し。影法師は黒い塊になり、神社に吸い込まれていく。提灯の明かりが幾つも幾つも揺れ、滲み出す光は紙によって色を変えた。

からんころん、からんころん。下駄の音が何重にもなって耳の中で反響した。そして音源を探す度、色とりどりの浴衣が目に入る。無理矢理に照らされた暗がりの中を、あの金魚のような帯をくゆらしながら動く。ゆらぁり、ゆらぁり。

 夜の気配が立ち込めてゆくにつれ、提灯や出店の光が際立っていく。それはぼんやりとしたものだったのにいつの間にか、一番の存在感を持つようになった。そしてその後ろに押し込められた暗がりが、木々の影やテントの隙間から顔を覗かせていた。

 暖色のライトの下で光っているのは林檎飴。薄くて赤い膜の中に、ほんのり酸っぱい実が入っている。そういえば昔、祭りに来るたび買っていた。それを食べることが祭りの参加証にさえ感じていたのだ。

よほどじっと見ていたのだろう、出店の主人が買っていくかと尋ねた。自分に聞いているのだと分かりすぐに首を横に振る。けれど主人は指をさしてそれ、と言った。差されたのは自分の手であった。小銭が握られている。いつの間に。あぁけれど、ここは現ではないのだから、この様に不思議なことも不思議ではないのだろう。

飴はちゃんと甘かった。思い出の中よりも厚い膜のせいで、実までたどり着くのはもう少し後になりそうだ。唇がべたべたと、食紅で赤くなっていく気がする。同じように林檎飴を持っている人とすれ違うと、その人の口元だけが薄暗い中、やけに赤く目立っていた。

プラスチックの薄っぺらなお面や、蜘蛛の糸より細い糸が絡まった綿菓子。祭の夜に見られるものは、祭でしか見られない。だから夢。次の日目を覚ましたら、跡形もなく消えている。

しばらく歩くと、座るに丁度良い大石が目に入った。先客がちらほら座っている。その隅に腰かけ、やや薄くなった飴の膜をがぶりと噛み破った。口の中を、小さな破片がぶすぶすと射していく。しゃくり、と気の抜けた音とともにぬるい汁が染み出す。ぱりぱりと飴の砕ける音がするのは、強引に噛み進んでいくからだ。

祭の小さな参加証はすぐになくなった。そしてこの大石の周りだけが取り残されたように浮かんでいる。

何だか心許なくて、林檎飴の残骸を処分するとまた流れに加わった。そこは奇妙にあたたかく、身体が溶けていく気がする。


流れに任せて動いていたはずなのに、いつの間にかそれは途絶えていた。流れの絶えたそこは、川の中に点在する水溜りのように少し淀んでいる気がした。

ここは向こうの方より出店も人も少ない。暗がりが、大手を振って歩いている。けれど怖いという感じはしない。ざわざわと感じる恐怖は、ここには無かった。


点々と光を零しているうちの一つでは風船を売っていた。小ぶりなテントからにょきにょきと、きのこのように浮かんでいる。テントの膜には、影絵のように切り取られた主人の姿が貼り付けられていた。近づいて行くと砂利がざりざり大きく鳴った。それは空気自体を震わせて、背中を押している気がする。

売っている風船はアニメのキャラクターや動物がプリントされているのがほとんどで、子供が見たら喜ぶだろうな、と思いながら眺めていると、派手な色を主張している中で一つ、白くて無地の風船があった。丸いそれは卵のように見えて、何が生まれるのだろう、と考える。猫だろうか、馬だろうか。鳥だろうか、蛇だろうか。

「あなたですよ」

金属がきぃ、と鳴った時のように心臓が止まった。テントが声に反応して震える。風船もつられて揺れる。

「あなたが生まれるんですよ」

「生まれるのですか」

「ええ」

影絵が動いてテントの縁に消え、かわりにそこから主人が現れた。顔を見合わせたままどちらも動かない。けれど気まずいような心持もしない。気まずさは、複数人の世界が重なってできることだからだ。自分のこの世界は、主人の世界とは重なっていない。

主人が指をさした。さされたものは見なくても分かる。この手だ。広げてみれば確かに小銭が握られている。それを主人に渡すと、白い風船になって帰ってきた。

「生まれますか」

「うまくいけばね」

そう言って主人はテントに戻り、影絵は元の場所に貼り付けられて動かなくなった。


二つ目の店では硝子細工が売られていた。そこの主人はやはり黙ったままで、世界は重ならず気まずさは生まれない。ライトの下で光る硝子はあまりに光を反射させすぎていて、輪郭を捉えられない。手にした風船は天井に頭をつけながら、行儀よくそこに浮かんでいる。

硝子細工の中は空洞で、どこかに穴があるのかと目を凝らしてみるけれど見当たらなかった。何かを入れるためではないようなのに、どうして空間が空いているのだろう。

もしかしたらその空洞は気のせいなのではないかと思い始めたとき、主人はのっそりと口を開いた。

「心を入れるんだよ」

ざわざわ、と風が吹いた時のように心の中が乱される。何故だか急に怖くなった。世界が重なったからだろうか。

「心ですか。けれど入れる穴がありません」

そう言うと主人は空気を吐き出すようにして笑った。

「穴があったら出て行ってしまうだろ。心なんてひどく気ままで、捕まえておかなきゃどこへ行くのか分かったものじゃない」

そうしてまた笑う。

「けれど君には必要ないだろうね」

「何故です」

その人は自分で考えろとでもいうように笑うだけだった。

「お前には心がないと仰りたいのですか」

「いや。君には捕まえておきたい心がないだろう」

違う、捕まえておきたいほどのものがないだけだ。そう言いたい気がした。けれど、何も言わず一番手前にある硝子を掴んだ。手の中には小銭の感触がはっきりある。それを渡すと、風船と硝子を持ってライトの下から離れた。

硝子はつるりと球体で、薄ら青い。そしてひんやりとしている。掌ほどの大きさのそれは風船のように軽く、持っていることを忘れそうだった。

心が入ったら、これはどうなるのだろう。


硝子の光から離れるように進んで行くと、ぽつん、と小さく光が見えた。看板には金魚掬いの文字。プールで見た金魚を思い出す。近づいて行くと、水色の箱に赤い金魚が泳いでいた。

主人は無言でポイとボウルを差し出し、早く掬え、とでもいうように顎をしゃくった。風船の頭をテントにつけ、硝子細工は傷つかないよう制服のポケットにしまう。

波を立てないようそうっとポイを潜らせる。片手に持った銀色の半球で、ぴちゃりと水が跳ねた。金魚はポイから離れるように箱の端へ向かっていく。そしてその中で一匹、仲間たちから取り残されたように泳いでいるものがあった。それを掬おうとポイを持ち上げると、紙の真ん中に大きな穴が開いた。そしてすぐに新しいポイが目の前に突き出される。破れたポイはいつの間にか消えていた。

掬う、破ける、消える。掬う、破ける、消える。何回もこの動作が繰り返された。取り残された金魚は相変わらずそのままだ。突き出され、消えていくポイの行方は依然としてわからない。何枚、あの白い紙を破ったのだろう。そんなことも考えなくなった頃、ようやく金魚を掬いあげた。水の張られたボウルの中で、ひれをくゆらせる。金魚は銀色の半球の中で、くるくると動き回った。

「硝子」

もう少しその様子を見ていたかったのに、ぼそりと呟いた声に意識が切られた。

「硝子」

視線をそちらに向けると、主人がまたそう言った。半球を地面に置きポケットの中に手を突っ込むと、体温のせいで少し温くなった球体に指先が触れる。傷つかないようそっと取り出すと、空洞だったところに金魚が入っていた。くるり。赤いひれが揺れる。慌ててボウルを見ると、さっきまでくるくると泳いでいたそれが消えていた。硝子の中の金魚は、半球の中と同じようにくるくると泳いでいる。薄らと青のかかった硝子の中で、赤い金魚は気まぐれに紫になった。ちょうど、公園で星を見た時の空と同じ色だ。

硝子の中に金魚が入って、じゃあこれが、これが心なのか。ならば何の心だ。何が詰まった心だ。

「風船」

ぼそりとした声に、思考の波が引いて行くのが分かる。ざわざわと身体の中を這い回っていたものが消えていく。天井を見上げ、行儀よく浮かんでいる風船を手にとると、それは自然と硝子に絡みつき解けなくなった。

「手を放してみろよ」

主人はにやにやと笑った。

「放したら割れてしまいます」

「割れないよ」

「割れますよ」

相変わらず笑う。硝子にちょいと目をやると、金魚の口から空気の球が揺れていた。

「割れないよ」

「何故です」

いくら硝子が軽くても、支えるのが風船だけでは落ちてしまう。

「金魚が心で硝子が身体、風船はお前の年頃だ。足が少し浮かび上がっているから落ちやしない。その証拠に、お前の足は地面につかないだろ」

その言葉、それはまさしく正解だ。ふわふわと浮かんだこの身体、ちょいと掬われて流されてしまう。

その言葉に促されてか、自然と手が硝子から離れていった。それは重力に引きつけられ地面に向かっていく。けれどぶつかることなく少し浮かび上がっていた。

「割れないだろ」

「割れませんね」

じぃとそれを見ていると、ざりざりと砂利の音が聞こえた。それは真後ろで止まった。振り向くと、公園で見た子供が立っている。その目は相変わらず何も映さず薄っぺらで、けれど、屈折することなくこの少し浮き上がった身体を反射させていた。

なんだ、この子は幼い日の自分じゃないか。


とん。

小さな体から伸ばされた、細い腕が身体を押す。浮き上がった身体は、それだけで倒れてしまう。風船と硝子と金魚の奇妙なオブジェは、視界の中に留まり続けた。それだけ確認して目を閉じる。

ざぶん。水の中は奇妙に暖かく、妙な安心感を与えた。


 目を開けると、緑色の水面へ気泡が昇って行くのが見えた。目に映るのは水色ではなく濁った緑色だ。現に戻ってきたのだ。手足を動かし水面へ向かう。水を吸った制服が纏わりつきなかなか進まない。けれど、少しずつ水面が近づいてきた。

 ざばぁ。水面に顔を出し途切れ途切れに息をする。プールの縁に手をかけ、重くなった身体を引き抜いた。

 重くなった身体は、足を地面に押し付けて浮かび上がらない。風船は萎んだのだ。そこから生まれたのは自分だった。誰でもなく自分だった。まだ羽もしわくちゃだけど、きっとすぐに乾くだろう。

 水面を覗きこむと、さっきまで見ていた祭は跡形もない。だからこそ祭。夢。現にいる者には見えない。

光を反射させ、輪郭をくらましていた水色は緑に濁って影を映すようになった。薄っぺらな青い硝子は緑を帯び、中の空洞を見通せない。

 すぅ。緑の水面を赤いものが横切った。それはくるくると回る。金魚は変わらない。心だから。成長しひれが長くなり、鱗が剥がれたとしても、あの金魚だということは変わらない。

同じように、自分だということは変わらない。宙ぶらりんでも、「何となく」に襲われても。たとえ流されているだけでも。

 

プールの縁に浮かび、文字の輪郭を無くした希望調査を掬う。それを見ても、幼い日の思い出へ押しやられることはなかった。

足はもう、地面を踏んでいる。


サヨナラ、小鳥。


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