2.オラクル:エミリア=オルブライト
エミリア=オルブライト。
この世界において、彼女の名前を知らない者は殆ど居ないと言ってもいいだろう。
史上最年少でオラクルとなった彼女は、その年齢にも関わらず悪神の使徒を幾度となく撃退し、ついにはその内の一体を消滅させるにまで至った――謂わば、人類の最高戦力が1人である。
両親譲りの剣と魔法をもって人類の脅威を打ち払うその姿から、彼女は人々から『剣の聖女』と呼ばれていた。
彼女は、誰にでも等しく優しかった。老若男女問わず、別け隔てなく平等で――才能の貴賤さえも、問う事はない。
この世界では偽善とも取られかねないその在り方は、彼女がオラクルであるが故に正しく聖女として認められていた。
「――あの、姉さん」
「どうしたの、ウィル? あ、もっとぎゅーってしてほしいのかしら」
「その、そろそろ」
――だが、多くの人は……と言うよりは、家族や同じオラクル以外は知らない。
「そろそろ、離してくれないかな……?」
「ダーメ、何年ぶりだと思ってるの? しっかりと補給しなくちゃ」
彼女、エミリア=オルブライトは。
家族に対してだけは、信じられない程に甘かったのである。
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――そう言えば、そうだった。
昔から姉さんは、事あるごとに僕を抱っこしたり、猫可愛がりしたりしてたっけ。
流石にもうあれから大分月日も流れたのだし、そんな事も無いだろうなって思っていたけれど。
「ね、姉さん、ほら、皆も見てるから」
「どうでもいいじゃない、そんなの。ふふ、久しぶりのウィル分は効くわねー」
どうやら、姉さんのそういう所だけは全く変わっていないようだった。
変わっていないのは安心するけれど……正直、今この場においては、とても困る。先程から奇異の視線が全身に突き刺さって痛い。隣のギースなんて、愕然とした表情で言葉を失っているし。
でもまあ、昔と変わっていないなら対処も多分同じで大丈夫だろう。
「姉さん」
「ん? どうしたのウィル」
「――怒るよ?」
僕がその言葉を口にした途端、姉さんはビクッと震えると僕を抱いていた腕を解いてくれた。
一旦離れれば多少は落ち着いたのは、申し訳なさそうに笑っていて……うん、やっぱり変わらないなぁ、姉さんは。
「……ごめんね? お姉ちゃん、久しぶりの再会で興奮しちゃって」
「ううん、僕も久しぶりに会えて凄く嬉しかったし。でも、大丈夫なの?」
「え、何が――」
姉さんはきょとんとした様子で首を傾げていたが、段々とその表情が青ざめていく。
そもそも、オラクルである姉さんがここを訪れたという事は、当然なんらかの大事な要件が有るわけで――
「ご、ごめんねウィル!また後でお部屋の方に行くから――!!」
「うん、また後で……って、行っちゃった」
――僕が返事をするよりも早く、姉さんはあっという間に視界の外へ。昔はあんなに速くなかったし、きっとオラクルになってから更に強くなったんだろうなぁ、としみじみしてしまった。
固まっていたギースも姉さんが去ってようやく意識を取り戻したのか、どこか信じられないものを見たと言った表情で眉間を抑えていて。
「……何だか、イメージとは随分違ったが」
「あ、あはは……まあ、家に居る時の姉さんはあんな感じだったよ」
「まあ、誰しも家族の前では素になるわなぁ」
僕の言葉にギースは苦笑しつつもそう言うと、気を取り直すように立ち上がる。
周囲の人々は先程の光景がにわかには信じ難いのか、戸惑っている様子で……今の内に立ち去ったほうが、多分いいだろう。
「いや、しかしとても美しい姿だった!眼福眼福!」
「うん、自慢の姉さんだもの」
しかし、どうやら姉さんに幻滅したかといえば、そういう訳ではないらしい。
正直、『剣の聖女』ではなく姉さんの事を褒めてもらえると、自分のことのように嬉しかった。
さて、姉さんは後で部屋の方に来るらしいし、今日は部屋でのんびり過ごすことになりそうだけれど――
「そう言えば、サインはどうする?」
「是非!貰いたい所だな!」
――うん、それならちょうど良さそうだ。
姉さんと会えるなんて中々無いのだし、この機会に皆のことも紹介しよう。
今僕がどういう事をしてて、こういう人達と一緒にパラディオンの仕事をしてるんだよって。それで、姉さんの最近の出来事とかも……それは、オラクルの事だから難しいかも知れないけれど、聞けたらいいな。
きっと楽しくなるだろうなんて、そんな事を考えながら僕は皆を僕の部屋に呼んで――
――この判断があんな事を招くなんて、この時は想像もしていなかった。
/
皆を部屋に呼んでから、1時間程過ぎた頃。
こんこん、とどこか控えめなノックの音が聞こえると、僕は部屋の扉を開けた。
「ごめんなさい、待たせちゃって」
「ううん、今日は任務も無いから。どうぞ、姉さん」
扉の前で申し訳なさそうに笑っていた姉さんを部屋の中に招くと、部屋の中で待っていた皆が一斉に立ち上がる。
ギースは兎も角として、他の3人は初めて見る姉さん――剣の聖女に、酷く緊張しているようで。
部屋に僕以外がいた事に、姉さんは目を丸くしていたが……直ぐに柔らかく笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。
「ウィルのお友達かしら? 初めまして、私はエミリア=オルブライト。ウィルの姉で……それ以外は、説明不要かしら」
「は、はいっ!ご高名はかねがね……!!」
「ふふ、緊張しないで大丈夫よ。いつもウィルに良くしていてくれて、ありがとう」
緊張してガチガチになっていたラビエリに優しく微笑みながらそう語りかけると、まるで子供にするかのように優しく頭を撫でて――ラビエリは子供扱いされるのが嫌いな筈なのに、それにどこか感動しているようだった。
「皆も、緊張しないで。座って、ね?」
姉さんのその言葉に、皆の緊張も多少は解けたのか。
それぞれ元いた場所に腰掛ければ、部屋の空気も多少弛緩して、姉さんもそれを見て笑みを零しながらベッドに腰掛ければ――何故か、ちょいちょいと僕を手招きした。
「……姉さん?」
「ウィルはここ。ね?」
姉さんが指し示したのは、膝の上。
ああ、そう言えば昔は膝の上に座って本を読んでもらったりしたっけ――じゃない。
ギースはさっき見たから平気みたいだけれど、ミラとかが凄い顔してるじゃないか。
「流石に、皆の前でそれは……」
「もう、恥ずかしがり屋さんね。じゃあ、隣に座って?」
「……まあ、それくらいなら」
……まあ、姉さんも久しぶりなのだし仕方ない。
僕はおずおずと隣に腰掛ければ、姉さんは「むふー」と、どこか満足気に笑みを零して……それを見ると嬉しくなってしまう辺り、僕もどうしようもない。
「ウィルは、最近はどうしていたの?」
「ん、僕は――」
その後、僕は姉さんに色んな事を話した。
養成所での話。演習での話。パラディオンになってから初めての任務の話。今ここに居る仲間達の話。それと、割とどうでもいい世間話を。
――養成所や柔肉の沼の話の時だけ姉さんが纏っていた空気が変わった気がしたけれど、多分気のせいだろう。
始めは姉さんに遠慮がちだった皆も、徐々に話に参加するようになれば大分打ち解けてきたのか。僕と姉さんだけではなく、皆で和気藹々といった様相になってきた。
「ウィルは沢山頑張ってきたのね。いい子、いい子」
「ちょ、ちょっと、皆の前で……」
「何、恥ずかしがる事はない。思う存分姉に甘えたらどうだ?」
「中々会えないんだから、こういう時くらいは甘えないとねー」
「ラビエリくんは良い事を言うわね!そうよ、こういう時くらい思いっきりお姉ちゃんに甘えて良いんだから」
ぎゅう、と抱きしめられてしまうと心地よさに流されそうになってしまう。
元々美人だったと思うけれど、久々に再会した姉さんは昔より更に綺麗になっていた。
顔立ちも、スタイルも――身内びいきという訳じゃなく、絶世の美女と言って差し支えない程で、眩しいくらい。
そんな姉さんが密着して、ぎゅーっとしてくるのだから……いや、ダメだダメだ。
「ん、ぷは……っ、それで、姉さんの方は大丈夫だったの?」
「私? そうね、そういえばウィルの事ばっかりでお姉ちゃんの事を言ってなかったわね」
僕をぎゅうっと抱いたまま、姉さんはうっかりうっかり、と悪戯っぽく笑みを零すと、抱いていた腕の力を緩め、自身の唇に指をあてて。
少しの間、何かを考えていた様子だったが――丁度いい話題があったのか。
「――そうね、それじゃあ……私がオラクルになってから相手にした、とある悪神の使徒との戦いについて話しましょうか」
「おお、オラクルの戦いについてですか!」
「……きい、て……みたい、です」
姉さんは僕らの反応に柔らかく微笑みながら。
吟遊詩人や噂話を介したものではない、オラクルと悪神の使徒との戦いについて語り始めた。
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――悪神の使徒とは、謂わば悪神にとっての『オラクル』である。
アレらは才能に依らぬ超常の……神が如き力をもって、常に人類を滅ぼさんとしてきた。
エミリア=オルブライトは様々な悪神の使徒と刃を交えてきたが、その中でも特に彼女にとって印象深い相手がいた。
オラクルの間での通称は、『黒犬』。全身を黒い甲殻で覆われた、狼のような形をした獣である。
その甲殻はあらゆる物を切り裂いて来たエミリアの刃をも受け付けず、その牙はいとも容易く大地を抉り取り、その脚は音も無く間合いを無にした。
エミリアは魔法をもって対抗しようとしたが、それさえも黒犬の咆哮に掻き消され、エミリアはこれまでに無い苦戦を強いられたという。
剣も通じず、魔法も通じず。しかし黒犬もまた、エミリアに致命的なダメージを与える事が出来ない、正に千日手。
戦いは幾日も続き、草原だった筈のその場所は荒野となり――そして、10日が過ぎようとした頃、唐突に均衡は崩れ去った。
黒犬の牙がついにエミリアを捉え、喰らいついたのである。
大地をも削り取るその顎は、柔らかなエミリアの腕を肩口から食いちぎる。
利き腕を失ったエミリアを見て黒犬は勝利を確信し、今度はエミリアの命を食いちぎろうと襲いかかり――その瞬間、その体の内側から何かが突き出した。
黒犬の体の内側から吹き上がったのは、光の刃だった。それが何処から起きたものかを理解した黒犬は、直ぐにその原因を吐き出す。
それは、先程食いちぎり、飲み込んだエミリアの腕だった。光の刃はその腕から発せられており……外側からは如何に堅牢な装甲も、内側からの攻撃には意味をなさず。
黒犬は口元から、ドス黒い血を垂らしながら――忌々しげに一鳴きすれば、その場から立ち去った。
エミリアは片腕を失い、黒犬もそれなりの手傷を負った痛み分け。
屈辱とさえ言える、撃退とはとても言えないその結果に、エミリアは歯噛みしながら次は必ず仕留めると、そう誓ったのだった。
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「――まあ、私のちょっとした失敗談ね」
「い、いや、ちょっとまって」
事もなげに笑顔でそれを語った姉さんの腕を見る。
もしかして義手なのかと思って触ってみたけれど、柔らかくて、暖かくて――とても、偽物には思えない。
「あら、ウィルったら大胆ねっ。お姉ちゃんの腕が気になるの?」
「そうじゃなくて、今の話だと――」
「ああ、これのことね」
何故か少し残念そうにそう言うと、姉さんはその腕を動かしてみせた。
……うん、やっぱりどこからどう見ても普通の腕だ。
「治っちゃった♥」
「そんな訳無いでしょ、もう……脅かさないでよ」
「ううん、さっきの話は本当よ? オラクルにはね、治せる人が居るの」
「……ほん、とう……?」
「にわかには、信じ難い話ですね」
「んもう。嘘なんか言わないわよ」
当然のようにそう言いつつ、姉さんはその治ったという手のひらで僕の頭を撫でる。
訝しげなミラたちの言葉に苦笑しつつ、姉さんはそう言って……いるのだから、多分本当なのだろう。
姉さんは嘘を吐く時は大抵、自分のほうが耐えられず白状してしまうからだ。昔から変わっていないのであれば、先程の話もそういう事になる。
……何というか、僕には想像もつかない世界の話だ。
黒犬という悪神の使徒も、それと互角に渡り合う姉さんの強さも、想像することさえ難しい。
パラディオンになってから不可解で理不尽な害獣と戦った事はあったけれど、姉さんの話に出て来る相手はきっと……というか間違いなく、それを一笑に付してしまうのだろう。
「んー……お姉ちゃんの話はあんまり面白くなかったかしら。それじゃあ、次はもっと楽しい話を……」
「エミリア、さん」
今の話の受けが良くなかったと感じたのか。
姉さんは少し申し訳なさそうにしつつ、次の話をしようとして――それを、突然ミラが遮った。
何事か、と僕らはミラに視線を向ければ、彼女は何故か酷く真剣な表情をしていて。
「あら、どうかしたのかしら? ミラさん、だったわよね」
「はい。エミリアさんは、この後は時間は空いていますか?」
「そうね、しばらくはここに滞在するつもりだけれど」
「でしたら――」
その言葉と同時に、ミラは深々と姉さんに向けて頭を下げ――
「――私と、お手合わせ願えませんか?」
――一体何を考えているのか。唐突に、そんな事を言い出した。




