8.暴威の中で
――肌色の液体が飛沫をあげる。
既に、どれだけの数の疑似餌を斬ったのか、突いたのか、判らない。
炎で一時的に遠ざける事は出来ても、それはあくまでも一時的なものに過ぎず――焼き払った分だけ、肌色の沼地から湧き出てくるのだから堪らない。
ウィル達にとって幸いだったのは、新たに生まれたギースとラビエリの形を模した疑似餌は、粗製だったという事。
装備も持たず、力任せに襲いかかってくるそれらは、単体ならさほど驚異でもなく。ウィルもミラも、武器を振るう事で退けることが出来ていた。
そして、不幸だったのは「何とか出来てしまう力量だった」という事に他ならない。
力がなければ、とっくの昔に疑似餌に組み伏せられ、肌色の沼地に引きずり込まれ、彼らの仲間入りをしていただろう。
「――っ、ミラ、下がって!!」
ウィルの声と同時にミラは体を屈め――そして、ウィルの躊躇うこと無い剣閃は疑似餌の首を切り飛ばした。
どぶ、と音を鳴らしながら肌色の体液を噴き出しつつ、ミラの背後に居た疑似餌は溶け、崩れ落ち……何度めか解らない窮地を脱しながら、2人は呼吸を整える。
(……これは、遊ばれているな)
しかし、言外にせずとも2人は察していた。
相手が――柔肉の沼がやる気であるのなら、とっくに自分たちはあの沼の中だと。
こうして何とか切り抜け続ける事が出来ているのは、そう――
「あら、上手上手。でも、そろそろ諦めたらどうかしら?」
――遊ばれているのだ。害獣の余興として、2人は扱われているのだ。
ベールの姿をした疑似餌は楽しげに笑いながら、挑発的に肉感的な体を揺らし、2人を見下すような視線を向ける。
既に、2人の周囲には10を超える疑似餌。倒しても倒しても、それは減る事はなく――延々と続く地獄のような作業に、2人の心は削り取られていく。
「なあ、お前さん達も俺達と一緒になろうや」
「心配しないでも心地いいよ?」
「――ッ、黙れ!!」
気安く二人の声で話しかけてくる疑似餌に、ミラは苛立った声をあげながら槍を振るう。疑似餌の首を切り裂けば、目の前で二人の顔は溶け崩れ――勢いよく、肌色の体液を撒き散らした。
「……っ、わ、ぷ……っ!?」
「ミラッ!?」
肌色の体液は、ミラの全身に浴びせかけられるかのように飛び散り、粘液のように纏わりつく。
手で拭っても拭えない、そんな体液に顔を顰めるミラを見ながら、ベールの姿をした疑似餌はその口をぐにゃり、と。喜悦に歪めた。
「――あ、え?」
かまうものか、と改めて槍を構えようとしたミラの手から、槍が落ちる。
口から力のない声が漏れ、膝から崩れ落ち、まるで女子供のように――実際女性ではあるが――ぺたん、とミラは座り込んでしまった。
「ミラ、大丈夫!?」
「なん、だ……これは……力が……はいらない……!?」
体に力を込めようとしても込められず、声にも力が入らず――全身を覆うような強烈な倦怠感に、困惑を口にして。
ウィルがミラを守るように身構えれば、疑似餌達はゲラゲラと、クスクスと、一斉に笑い始めた。
人の声だというのに、とても人とは思えない笑い方。口だけが三日月型に歪んだ顔で、一頻り笑い終えれば、ベールの姿をした疑似餌はへたりこんだまま動けないミラを見下して――
「どう、とても心地良いでしょう? もっと、心地よくなりたいでしょう……?」
――そう、甘ったるい声でさ囁きかけた。
ミラは依然として全身を覆い続ける倦怠感と戦い続けていたが、ともすればその囁きに頷いてしまいそうな程に、心にまでその倦怠感が染み込み始めていて。
それが、柔肉の沼の真におぞましい所だった。
それ自体に毒性は無いものの、一度触れてしまえば心まで蝕まれてしまう程の、麻薬のような心地よさ。
極上の毛布に包まれているかのような、決して脱したくない心地よさと倦怠感で相手を満たし、快楽の中で捕食するのだ。
琥珀の沼も似たような特性があるものの、柔肉の沼のソレは更に強烈で。鼻孔を蕩かせる甘い香りと、触覚を犯す心地よさに抗える者など、居よう筈もない。
「ふ、ぁ……うぅ……に……げ、ろぉ……」
「……っ、く……!!」
何とかぺたん、と座り込んだまま堪えていたミラも耐えきれなくなり。女の子座りのまま上体をぺたり、と地べたに押し当てて――両腕も投げ出したまま、普段の凛々しさなどまるで感じさせないようにだらしなくとろけ、緩んだ表情を晒しながら、ミラは身動き一つ取れなくなってしまった。
ミラの最後の言葉に応える事もできないままに、ウィルは周囲を睨む。
周囲には既に10を超える疑似餌。逃げるには全てを同時に倒し、かつ脱力しきったミラを抱えて走らなければならないが――それが無理なのは、ウィルにも解りきっていた。
「――っ」
「ふふ、諦めたのかしら……大丈夫、貴方達も私が上手く扱ってあげるわ……?」
一瞬固まったウィルに、ベールの形をした疑似餌は楽しげに、歪に笑う。
それを聞きながら、ウィルは――
「……冗談。まだ、出来る事は有る――!!」
――燃料を取り出せば、ありったけの力で炎の魔法を放った。
炎は渦をまき、疑似餌達を巻き込みながらウィルとミラの周囲を壁のように囲む。強烈な熱気に肌が焼けるのを感じつつも、ウィルはそれを維持して。
それを見たベールの姿をした疑似餌は目を丸くしてから、失笑する。
「何? 最後の抵抗という奴かしら――知っているわよ、貴方の魔法は長くは保たないって」
「……っ」
それの言葉に、ウィルは言葉を返す事もせずに炎を維持し続ける。
1分、2分。その間、疑似餌はウィルたちを攻める事無く眺め――3分も経たずに、炎の勢いは弱まれば、中からは疲弊しきったウィルの姿があった。
「はぁっ、はぁっ、は、ぁ……っ!!」
「全く、無駄な抵抗だったわね。でもまあ、よく頑張ったからご褒美をあげようかしら」
呼吸を荒くし、肌を軽く焦がしたウィルを見ながら呆れたように疑似餌は言葉を紡ぎ。そして、艶かしく笑みを浮かべればウィルに一歩一歩近付いていく。
肉感的な体をわざとらしく揺らし、裸体を晒しながらウィルの元まで辿り着けば、視線を合わせるように跪き――
「――貴方は、体の中から蕩けさせてあげる」
「ん、ぐ……っ」
――両手でウィルの頬を支えるようにすれば、甘ったるい香りを漂わせながら、その口を開いた。
口の中には歯も舌も無く、どろりとした肌色の液体が満ちているばかり。
それでウィルの体内を満たそうと、疑似餌は愉しげに告げて――ウィルは口を閉じて抵抗をしていたものの、それも長くは続かない。
頬を包み込む倦怠感と心地よさに、どうしても、どうあがいても口は緩んでしまう。
「無駄な努力、ご苦労さま――」
それを嘲るように、疑似餌は優しい声色でそう告げて――
「――!? な、何……!?」
――その余裕たっぷりだった顔は、次の瞬間に崩れ去った。
驚きに見開かれた目をそのままに、ぐるん、と上体を反らして背後を見た疑似餌の目に映ったものは、若草色の髪をした、ビーストの少女。
その少女を、柔肉の沼は知っていた。
柔肉の沼は包み込んだ者の知識を、経験を、記憶を得る。その少女が誰であるのかは既に知っていて――その上で、驚異になりえる筈もないと捨て置いたのだ。
ギースとラビエリの知識では、あの少女は目が良いだけの存在感の薄い弓使いだったはず。弓使いであるなら、それだけなら自分の驚異にはなりえない。
だが、柔肉の沼は知らなかった。
少女の存在感の薄さが潜伏の才能であり、近距離に居るか、或いは注意して周囲に気を配らない限り認識出来ない程のモノであるという事を。
存在感が薄かったのは――少女が自分自身に自信が持てず、周囲との関わりを断とうとしていたが故だったという事を。
少女の手には、火の灯った矢。それは既にギースとラビエリの入った繭を射抜いており――火に弱い柔肉の沼は、途端に形を失っていく。
「しま――っ」
ギースとラビエリが繭から溢れた瞬間、周囲を囲んでいた2人の疑似餌が、ばちゅん、と間抜けな音を立てて崩れて落ちた。
包囲が崩れ、ウィルは辛うじて残っていた力で立ち上がればミラを担ぎ、走り出す。
――やられた。だが、まだ問題はない。
未だに2人――名前は、何だったか――は自らの体の内。
再び繭にしてしまえば何一つ状況は変わらない。そう、疑似餌は考える。
――柔肉の沼が知識を得られるのは、繭で包んでいる者だけである。故にそれは忘れてしまった。思い出せるわけもなかった。
今逃してしまった者こそが、自らにとって一番危険な敵なのだという事を。
「――くそ、やってくれたね」
未だに力の入らない声で、繭から出たラビエリが悔しそうに言葉を吐き出す。
周囲を火矢で射られたおかげでなんとか人心地がついたラビエリは、座り込みながら――遠くに居た疑似餌を睨みつけた。
「ぼくをだました、つみは……重いよ――!!」
――瞬間。
彼らを中心として、炎が吹き荒れる。
「ぎ――あ、あああぁぁァァァァァッ!?!?」
暴風を伴った炎は、瞬く間に肌色の沼へと広がっていく。繭は溶け落ち――囚われていた最後の人間も開放されれば、途端に残っていたベールの疑似餌も悲鳴をあげながら形を失い、弾け飛んだ。
そうして繭に囚えていた人間を全て失い、柔肉の沼は全ての知性を失った。
全身を焼き焦がす炎に、肌色の液体が声とも音ともつかないおぞましい音を鳴らしながら波打ち、のたうって――
「……っ、こ、っち!」
「きみ、は……」
「う、ぐ……すまん、手間をかける……っ」
――その波打つ沼を縫うように、燃えて地面がさらされた部分を跳びながらアルシエルはラビエリを担ぎ上げ、ギースの手を取り引っ張り上げた。
何とかギースは立ち上がれば、未だに意識を失ったままのベールを抱えながら、覚束ない足取りでなんとか歩き出す。
それは、まるで地獄絵図だった。
炎に巻かれ、おぞましき音を鳴り響かせる柔肉の沼は、荒れ狂うように無秩序に暴れだし、木々を薙ぎ倒し、その体積を失っていく。
その暴威の中を、5人……否、6人は必死になって逃れながら――やがて、その体積が琥珀の沼と大差なくなった頃。
――柔肉の沼は、最期の攻撃に移った。




