4.『琥珀の沼』Ⅰ
――琥珀の沼、と呼ばれる害獣が居る。
それは半透明な琥珀色の軟体動物のような存在であり、通常は半径5m程度の「沼」に擬態しつつ狩場で獲物を待つ。
常に甘く蠱惑的な香りを体から漂わせており、一度琥珀の沼に取り込まれてしまえば脱出しよう、という感情さえも奪われてしまい。一度溺れれば、仲間が居ない限りは――否、仲間が居たとしても殆どの場合は助からない。
琥珀の沼を相手にするに際して、最も気をつけなければならないのは「疑似餌」である。
多くのパラディオンがこの疑似餌に惑わされ、誑かされ、犠牲となった。
相手にする際にはくれぐれも惑わされず、己をしっかりと保つ事。それが、琥珀の沼に相対する時において、最も大事な心構えである――
「――これが、今回相手にする害獣みたいだね」
――というのが、今回僕らが向かう場所に居るであろう、害獣の情報だった。
パラディオンが今までに相手にしてきた害獣は多岐にわたり、その多くが確認された後にこうして書物……教本として記されている。
害獣の生態、弱点、恐るべき能力などなど。僕らは移動中の馬車の中でそれを読みつつ、いろんな事を話し合っていた。
「ふむ、軟体生物か。以前相手にしたのとはまるで違う害獣だな」
「俺が相手にしたのは岩のような奴だったからなぁ。経験は余り役に立たんか」
ミラが言っているのは、養成所時代に相手をすることになった花蜘蛛と花馬。ギースが言っているのは、岩喰いと呼ばれている害獣の事である。
琥珀の沼を含め、いずれも全く違う生態で。注意点や対処法も全く異なる害獣達を見て、これからはこんなのを相手にするのか、と改めて心を引き締める事になった。
「ラビエリさんはどういう害獣を相手にしたの?」
「ん、僕かい?僕は、えーっと……」
余りにも幼く見える――実際は僕よりも年上らしい――ラビエリは、僕が持っていた教本を手に取ると、ぺらぺらと捲り始める。
彼はリトルと言われる南方の種族で、成人しても1mくらいの身長までしか伸びず、歳を経ても幼い容姿のまま。その区分で考えるなら、1mを僅かに超えているラビエリは寧ろ身長が高い方なのだという。
「――ああ、あった。僕が相手にしたのはコイツさ」
ふふん、とちょっと自慢げにラビエリが指さしたのは――水壁と呼ばれる害獣だった。
おおよそ2m四方の立方体で、一切の物理的な干渉が通用せず、魔法による攻撃以外では駆除不能という何とも……ミラと、ギース殺しなその害獣に、2人はうげ、と顔を顰める。
「……こういうのも居るのか」
特に魔法がからっきしなミラには効いたのだろう、露骨に嫌な顔をしながらため息を吐き出した。
そんなミラを見ながらラビエリは自慢げに笑いながら、胸を張って。
「なーに、僕が入れば楽勝さ!何しろ僕は天才だからねっ」
自信満々に、当然のようにそう言ってのける。実際、彼は――彼が言うにはだけれど、養成所では神童扱いされており、実地演習でも1人で害獣を駆除してみせた、らしい。
本当なら頼もしい事この上ないし、何より僕らのパーティーの中では唯一の純粋な魔法使いだ。頼りにしていきたいところである。
「――まあ、肉体労働はからっきしだからそこは君たちに任せるけどね」
「ははは、そのちっこいなりじゃあなぁ!」
ラビエリの言葉に、ギースは大笑いながら肩を叩く。それだけで潰れてしまうのではないかと思うくらいに、ラビエリの体は小さく幼く、そして華奢だったが……そうならないのは、ギースも流石に手加減をしているのか。
それでも痛いらしく、ラビエリはがくんがくんと体を揺らしつつ、やめないか!とギースの手を両手で掴み――そのままギースはひょい、とラビエリごと持ち上げてみせて。
そんな二人の様子を少し微笑ましく見ながら……僕は、先程から馬車の隅で蹲っているアルシエルに視線を向けた。
「えっと、アルシエルさんはどうだったの?」
「……わ、たし?」
「そうだな、お前の話も聞いてみたい」
僕とミラの言葉に、アルシエルは顔をあげれば、ぼんやりとした表情を見せて。ふらふらと、どこか覚束ない足取りで僕らの元に近づくと、教本を手にしてぺらぺらと捲りだした。
ラビエリは、なんというか話してて分かりやすいタイプだったからある程度は打ち解けられたけれど――アルシエルは、未だにこう、どういう人なのかが良く判らない。
人間嫌い、という訳ではないとは思う。こうして話しかければ、嫌な顔をせずに反応を返してくれるし。
口下手、というのも少し違う気がする。言葉が下手、というよりは――何というべきか。距離感が解っていないと言えば良いのか、この場においてどういう行動が良いのかを理解できてない、と言うべきなのか。
兎も角、悪い人ではないのは何となく分かるが……もう少し打ち解けられたらな、と思う。
そんな事を考えている内に、アルシエルは教本のとあるページを開くと床に置いて。そのまま、ぺたん、と蹲った。
どうやらこれが彼女が相手にしたことがある害獣、という事らしい。
「ええと、何々……」
4人で教本を覗き込む。そこに書いてあったのは――「継接人」という害獣だった。
人の形をした、しかし決して人ではない害獣。体のいたるところに継接が有り、各人種のパーツをゴテゴテに組み合わせて出来た悪趣味なオブジェのような姿をしていて、奇声をあげながら襲いかかる外見からして凶悪な化物。
心臓を破壊するまで死ぬ事はなく、欠けた体は殺した相手で補うという悍ましい生態を持っており――気分が悪くなったのか、そこでミラが教本を閉じた。
「……凄まじいのを、相手にしたのだな」
「そ、う……?」
「俺だったら数日うなされる自信があるわい……」
「……僕も流石に嫌だなーこれは」
皆、口々にミラを褒めるがアルシエルは不思議な様子で首を傾げる。
……案外、この中で一番肝が座っているのはアルシエルなのかもしれない。僕も読んでてちょっと気持ち悪くなったし。
そんな風に互いの事を話したり知ったりしている内に日を跨ぎ、時折休息を挟みながら馬車は琥珀の沼が現れてしまったその場所へと向かっていく。
そうして、数日後。僕らはようやく今回の――そしてパラディオンとしては初めての現場に到着した。
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「では、私どもは近隣の村で待機しておりますので。毎日正午にはこちらに来ますから、2日に一度は連絡をお願いします」
「はい、ではまた後ほど」
荷物を降ろしながら、行者さんと今後の予定について軽く言葉を交わし、別れる。
行者さんとはこれから定期的にここで連絡を取り合い、定時に連絡が取れなければ本部へ連絡するという手筈になっていた。
なので、くれぐれも報告や連絡、相談は怠らないようにしないといけない。初任務からそんな失敗なんてしたら、なんと言われるか……想像もしたくない。
行者さんを見送ってから、僕らは今回の駆除対象である琥珀の沼が出没した、と言われている森に視線を向けた。
――花園が余程特異だったのか、それとも今回の琥珀の沼が大人しめなのか。外から見る限りでは至って普通の森にしか見えず、時折野生動物の姿さえ見える程で。
「……本当に害獣なんか居るのかね?」
至って平和に見えるその森の姿に、ギースは少しだけ訝しげに、そうつぶやいた。
そう言いたくなる気持ちも分かる。分かる、けれど――
「バカな事を言ってないで行くぞ。実際に被害が出てるんだ、居ない訳が無いだろう」
――そう、パラディオンが出向いたという事は、そういう事。既に被害が出ている以上、害獣が居ないという事はほぼ有り得ない。
ミラの言葉にギースも、そしてラビエリも頷けば――僕らは、森へと足を踏み入れた。
話し合った結果、前列にミラ、真ん中に僕とラビエリ、そしてアルシエル。そして後列をギースが固め、ラビエリを僕とアルシエルが守る――という形で進むことになった。
この形なら前後左右に注意を払えるし、身体能力で劣るラビエリも僕とアルシエルが守れる。
アルシエルは特に返事をしなかったけれど、やりたい事自体は理解できていたのか。ラビエリの横にぴったりとくっつきながら、周囲を見回すようにしてふらり、ふらりと歩いていた。
「――止まれ」
ミラの言葉に、僕らは足を止める。
――鼻孔には、僅かに甘い香り。花とは違う、砂糖菓子のような――人を誘うようなその香りは、教本にある通り蠱惑的で。
何も知らなければ無意識の内に惹かれてしまうだろうその香りに、僕らは警戒を強めながら――その香りが漂ってくる方へと歩き始めた。
「……ぃ」
「……今、だれか何か言った?」
ラビエリの言葉に、首を左右にふる。
ラビエリの空耳――なら良かったのだが、皆がその声を聞いたらしく。もしかしたら近隣の住民だろうか、なんて考えながら周囲に視線を這わせ――
「む、あれか。誰か居るな」
――遠くの木陰。ギースが指さした方を見れば、ここからは良く見えないけれど、確かに人影が見える。
人影は、まるでこちらに向かって手を振っているかのようで。もしかしたら近くの村の住民だろうか?先程聞こえた声も、どうやらその人影かららしい。
もしかして、害獣に襲われて――或いは、害獣の近くに居て、身動きが取れないのだろうか。
「どれ、民間人の救助も仕事の一つ。助けに――」
「――ま、って」
ギースがその人影へと踏み出そうとした瞬間。今まで余り言葉を発しなかったアルシエルが、ギースの服の裾を軽く握った。
「……どうした?」
「だ……め」
ギースが疑問を呈しても、アルシエルは首を左右に振るだけ。どうしたのか、とギースは首をひねっていたが――そう言えば、と。不意に、教本に書いてあった事を思い出す。
――琥珀の沼を相手にするに際して、最も気をつけなければならないのは「疑似餌」である。
「――疑似餌か」
「そういう事で良いのかな、アルシエルさん」
「……ん」
ミラと僕の言葉に、アルシエルは小さく頷いた。
疑似餌。つまり、あれは琥珀の沼が作り出したものだ、とアルシエルは言うのだ。
「本当かい?この距離からじゃよく見えないけど」
「み、える」
ラビエリの疑問ももっともだが、彼女が言うには――いや、口にはしていないけれど。どうやら彼女には、アレが疑似餌だという確信があるらしい。
そうでなくとも、甘い香り、琥珀の沼の生息地、遠くに見える正体不明の人影。軽々と進むには余りにも危険な要素が揃いすぎているのだから、警戒するに越したことはない。
「……ぃ」
こちらが来ないのを見てもなお、人影は同じような言葉を、そして手を振る動きを繰り返していた。
……うん、ますます怪しい。
「ラビエリ、魔法の準備を」
「了解、見つけたら一発で焼いてみせるさ」
ミラの言葉にラビエリは自信満々に頷いてみせた。
僕たちのパーティーの中で唯一の魔法使い――一応僕も使えるけれど、魔法使いと言うにはおこがましいレベルだから、少し楽しみだ。
隊列を崩さずに人影の方へと進めば、しばらくしてミラが足を止める。
見れば、人影は先程よりも遠くに移動しており。先程は見えていなかったが、そこにはきれいに輝く琥珀色の沼があった。
相変わらず人影はどんな形をしているのか、よく見えないが――
「なあ、アルシエルよ。お前さんにはどんな風に見えているのだ?」
「……ぐにょ、ぐにょ……した、変なのが……うごいてる?」
――アルシエルがそう言っているという事は、恐らくだけれど、できの悪い人形みたいな感じなのかもしれない。
それでも、遠くから見れば立派な人影で。それがこちらに手を振って呼んでいるのだから、堪らない。教本で琥珀の沼の事を知っていなかったら、僕らだってあっさり引っかかっていただろう。
琥珀色の沼から10m程の距離まで近づけば、それ以上は近づかない。
どの程度からアレが襲いかかってくるのかは判らないけれど、こちらには魔法使いが居るのだ。無理をする必要はない。
「――さあ、僕の出番だ!刮目して見てよね、神童の力ってやつを!!」
ラビエリはミラより一歩前に出れば、小さな手のひらを琥珀の沼に向けてかざし――
「おお、これは」
「……すごい」
――口から、思わず称賛の声が溢れる。
ラビエリが手をかざした数秒の後。10mはありそうな琥珀の沼は炎に囲まれ――それだけではなく、巻き起こった突風によって、それを囲むような炎の渦が巻き起こっていた。
火災旋風、とでも言うべきか。森の木々の背丈を安々と抜く程の炎の渦は、器用に木々を避けて琥珀の沼だけを焼き払っていく。
それと同時に――ギュイイィィイイィィィ、と。今まで聞いたことも無いような、生き物とはとても思えないような、そんな音が炎の渦の中から湧き上がった。
「む、う……っ」
「……きもち、わる」
不快を通り越して、直接こちらの気分を悪くさせるような音に、ミラもギースも、そしてアルシエルも顔を顰める。
断末魔だったのか、暫くその音は続いたが……やがて小さくなり、そして消えて。
体積を減らしていく琥珀の沼に合わせて、炎の渦もだんだんと小さくなっていけば――最後は、黒焦げた跡だけを残して消滅した。
「――ふふん、どうだい?これが僕の実力さ!」
琥珀の沼を焼き尽くした後、ラビエリは自慢げに胸を張って幼い顔を輝かせる。
成る程、これは神童と言われても当然だ。僕も魔法は多少扱えるし、養成所でも使える人は見たけれど……ここまでの規模の魔法を扱える人は、先生くらいしか知らない。
僕らと同じ新人だというのに、既にそのレベルの魔法を扱えるラビエリは間違いなく天才と言えるだろう。
「ああ、大したもんだ!あっさり終わって拍子抜けだがな!」
「はっはっは、もっと褒めてくれたまえよ!」
ギースも手放しで称賛し、それにますますラビエリは気をよくしてふんぞり返る。
そんな様子と少し微笑ましく思いながら――不意に、服の裾を誰かに引っ張られた。誰か、と言ってもそういう事をする相手は決まっているのだが。
「どうかしたの、アルシエルさん」
「……ま、だ」
服の裾を引っ張られつつ、アルシエルの視線の先を見て――僕は、固まった。
「……ねえ、ラビエリさん」
「ラビエリで良いよ、どうかした?」
「今の、後何回使えそう――?」
視線の先にあったのは、人影。それも、一つは2つではない。
見れば、木陰から手を振る人影がそこかしこに居て――それを見た瞬間、ラビエリは笑顔を引きつらせた。
「……今日はあと、3回くらいかな」
「大したもんだが……こりゃあ長丁場になるな」
「まあ、元より1体だけとは思っていないさ。さあ、行くぞ」
うへぇ、と露骨にいやな顔をしたギース達に苦笑しつつも、ミラは皆を先導するように歩き始める。
森を進めば進むほどに新しく増える人影に、僕らは辟易しながら――
――結局その日は、10体程駆除した辺りで僕もラビエリも精根尽き果てたので、そこまで。
終わりの見えない駆除作業に、僕らは改めてパラディオンの大変さを思い知ったのだった。




