5.彼女の戦い
深い、深い沼の底に沈んでいるかのような感覚。
生暖かな沼に沈みつつ、私はその気持ち悪くも心地の良い生温さに身を委ねていた。
……目を、覚まさなければいけない、と思った。
こんな事をしている場合では――眠っている場合ではないと、頭では解っていた。
でも、どうすれば目を覚ませるのか。
沼の底から這い上がろうと試みても、体を動かす事が出来ない。
否、それ以前に……どうにも、体の感覚が不明瞭で。
自分の体の輪郭さえ薄ぼんやりとしてしまうほどの、深い深い眠りの底から這い上がる事が、私には出来なかった。
そんな深い、深い沼の中。
どちらが上か下かも分からないような暗闇の中で、突然沼がごぽり、と波打った――ような、気がした。
ごぽり、ごぽりと沼が揺れ、波打つような感覚を私に伝える度に、徐々に徐々に体の感覚が戻ってくる。
――今しかない、と。
私はあらん限りの意志で、沼から這い上がろうと藻掻き、眠りから覚めようと足掻いた。
足掻き、藻掻き、上か下かもわからないような眠りの中を進む内に、ごぽりと波打つ音以外にも、なにやら声らしき物が聞こえてくる。
「――にを――って――」
その声は、どこか聞き覚えのあるものだった。
とは言っても、決して良い意味ではなく悪い意味で聞いた事がある、そんな声。
「今――忙し――後――」
……何やら焦っているような、そんな様子のその声を聞きつつ、段々と私は何をされたのか、どうしてこんな事になっているのかを思い出してきた。
そう、私は確か……何者かに襲われた後、撃退して。その後突然現れたカインに、斬りつけられたのだ。
その後、何やら薬のような物を飲まされて……多分、こんなにも眠りが深く重いのはそのせいなのだろう。
だが、それも覚める。
声に混じって聞こえる、何かが爆発するような音。遠くで物が壊れるような音は、何故かとても暖かく聞こえて。
私の意識はようやく眠りの底から浮かび上がり――……
/
「私は今カイン様の命令でこの女を作り変えているのです!侵入者程度、貴方達でどうにかしなさい!!」
「……っ、で、ですが!」
「私以外の幹部が居るでしょう!相手はたかだか5人、さっさと鎮圧なさい!」
「ぐ……分かりました」
部屋から出ていく構成員――当然オクタヴィアよりも格下の――を見つつ、彼女は小さく息を吐いた。
侵入者に増援が現れて苦戦している、という報告を受けたものの、彼女はまるで危機感など感じておらず。
それも仕方のない事だろう、何しろタルタロスの構成員は3桁を降らず、この最下層にいる構成員だけでも数十人居るのだ。
彼女が報告された侵入者の数は、たかだか5人。
如何に手練が居たとしても、その5人で何が出来るというのか。
オクタヴィアはそんな事を考えつつ、口元を歪に歪めるとベッドに寝かせていたミラへと振り返る。
彼女にとって、ミラ=カーバインは実に良い素体だった。
普段彼女が扱っている素体は、基本攫ってきた一般人……とは言っても、才能の有る者ではあったけれど……ばかりで。
ミラ程に鍛え込まれ、かつ才能に溢れた物を素体にするのはオクタヴィア自身初めてだったのだ。
「は、ぁ……さあ、醜い醜い、そして優れた化物にしてあげますからね」
才能の溢れる、将来有望なパラディオン。
それを自らの手で醜悪な存在――それでいて、より優れた存在へと作り変える。
想像するだけで、オクタヴィアは甘く吐息を漏らしつつ、再び小さな刃を握れば……今度は、ミラの四肢を作り変えようと手を伸ばして。
「ふふ、お待たせしました。ではここもしっかりと、作り変えて――……!?」
――その小さな刃が、彼女の肌に触れた瞬間。
オクタヴィアの細腕は、力強く――これから施術するはずの相手に、握りしめられた。
ぎり、と音が鳴るほどに強く握られれば、オクタヴィアはその双眸を見開いて。
「な……馬鹿な、まだ目覚める筈は――」
「――最悪な目覚めを、よくも有難う」
先程のオクタヴィアの言葉も、聞こえていたのだろう。
ミラはそのまま、彼女の腕を引っ張ると体勢を崩し――その美しい顔面に、拳を叩き込んだ。
ゴキン、と重たい音が鳴り、拳と顔面の間から血が飛び散って――……
「ぶ、げ――ッ!?」
……美しい容貌とは裏腹に、まるでカエルが潰れたかのような声をあげながら、オクタヴィアは床にもんどり打って転がり、顔を押さえ込みながら藻掻き。
その有り様を見ながら、ミラはふう、と小さく息を漏らしつつ……まだ全身に残っている重い、重い倦怠感に表情を歪めた。
ミラに投与された薬は深い眠りを齎すもので、眠っている間は痛覚も何も感じなくなる程にその効果は強く。
眠りから覚めたとは言えど、体はまだ目覚めには程遠く――少なくとも、容赦なく殴りつけた筈の彼女が昏倒もせずに藻掻いているのを見て、ミラは今のうちに追撃を、とベッドから起き上がり。
「――……っ!?」
――その瞬間、ガクン、と彼女は膝をついた。
決して四肢に何か異常が起きている訳ではない。
四肢にはまだ何もされておらず――無論、薬の影響で力が入りづらく、普段と比べれば鉛のようだったけれど。
彼女が不調を訴えたのは、その部分ではなかった。
「――ふ、ふふ……くふ、ふふ」
顔を押さえ込みながら、鼻から――そして歯が幾つか折れたのだろう、口からも血を流しつつも、そんなミラの様子にオクタヴィアは嘲笑いながら起き上がり。
鼻が折れた、内面同様歪んだ顔のまま彼女はミラを見下すと、徐に膝をついたままのミラの体を横合いから蹴りつける。
「っ、ぐ……っ?!」
「よぐ、も……やってくれました、ね。ふふ、ふふふ、ですが先にそちらをやっておいて、正解でした」
オクタヴィアの蹴りは素人同然。
肉体的に優れている訳でもない彼女の、ただ足を振っただけのそれはミラにろくなダメージを与える事が出来なかったけれど。
しかし、それでもミラは立ち上がる事が出来なかった。
「――そちらの具合はどうですか? くふ、ふふふふ……っ!!」
「き、さま……私に、何、を……!」
左目を抑えつつ、吐き気にも似た感覚に苦しむミラを、愉快そうに眺めながら――オクタヴィアは、部屋の片隅に有った手鏡をミラに向けて投げつける。
ミラは体にあたったそれに多少痛みを感じつつも、反射的に床に転がったそれに視線を向けて――……
「……え」
……そして。
この状況に、あまりにもそぐわない――彼女らしくもない、間の抜けた声を漏らした。
/
――鏡に映っているのは、私の顔だ。
左側には、カインによって刻まれた傷は有るものの、それは間違いなく見慣れた、私の顔。
ただ……そう、ただ。
先程から酷い違和感を放っている部分を抑え込んでいる、左手から覗いている物。
それが、私には何なのか判らなかった。
いや、おかしいと言えば先程からずっとそうだったのだ。
私の左目はカインによって断たれ、えぐり取られた筈なのに……どうして、左側の視界がある、のか。
しかもその左側の視界は右側とはまるで違い、色は判らず、視界そのものが歪んでいて。
「……な……ん、だ、これは」
だから、私は敵の眼前だと言うのに、間抜けにもそんな言葉を口にしてしまった。
何故私に、片目を失ったはずの私に左側の視界が有るのか。
左手の隙間から覗いている――明らかに私のものとは違う、瞳の色は何なのか。
わからない、わからない、わからない――分かりたく、ない。
「ふふ、ふふ……ほら、隠さないで直視しなさい!」
「ぐ――っ、あ……あ、ぁ」
硬直している私の腕を横合いから蹴りつけられてしまえば、左目を抑え込んでいた私の手が、ずれる。
――そして、見えてしまった。
左手で隠していたその下にあったもの。それは、明らかに私の目ではなく。
黒く濁った白目……否、黒目というべきなの、だろうか。
そして人ではありえない、金色の瞳はまるでヤギのような、横に広い瞳孔をしていて――……
「――っ、~~~~……っ!!!」
「あはっ、ふふふっ、あはははは!!どうです、素敵でしょう!その目は私のお気に入りなんですよ!」
……それが何なのかを理解した瞬間、私はその場で胃の中身を吐き散らした。
頭上で嘲笑われている事にも構わず、吐いた。
吐かないと耐えられなかった。耐えられなくて、吐いた。
「綺麗な害獣の目!ふふふっ、パラディオンなのにバケモノの目!ああ、なんて歪で美しいのでしょう――!」
――私の左目には、害獣の目が、植え付けられていた。
ただ植え付けられていただけなら、まだ耐えられたかもしれない。
私が耐えられなかったのは、それにはっきりと感覚が、そして視界があった事。
ぼろぼろと、勝手に涙が溢れてくる。
自分の何かを壊された、汚された感覚に、植え付けられた左目からも涙が溢れて止まらない。
怖かった。恐ろしかった。
自分が――自分の一部が人ではなくなってしまった事実を突きつけられて。
否定しようにも感覚が、視界がそれを許さない現実に。
――そして何よりも、こんな姿で、顔でウィルの前に出られるわけがないと。
彼に、この左目を……悍ましい物を見られてしまう、というその想像が余りにも、余りにも恐ろしくて。
「――っ、か、は――っ!?」
「さあ、もっともっと醜くしてあげましょう。ほら、虫みたいに転がりなさい!!」
茫然自失としている私の体に、風の弾が叩きつけられる。
床を転がりながら、私は胃液を吐き散らしながら、悶絶して――そんな私を見ながら、彼女は愉しそうに、愉しそうに嘲笑っていた。
心が、折れそうだった。
今直ぐにこの左目を抉り取りたいのに、それが自分のものだという感覚がそれを許さず。
この顔を誰かの前に晒してしまうのが、恐ろしくて、恐ろしくて――……
「くふふ……っ、カイン様がご執心なあの男にもきっと見放されるでしょうね? 体の、それも顔の一部が害獣の女なんて、一体誰が相手にするでしょう」
「……っ、ぁ」
……ただ。
奴の言葉だけは、違うと。それだけは、はっきりと解った。
「……っ、が……う」
「おや、どうしたんですか害獣女。ふふっ、まさかそんな顔で見捨てられないとでも?」
害獣女、という誹りが深く、深く突き刺さる。
……体の一部とは言えど、片目だけとは言えどそうなってしまった私には、確かに相応しい言葉なのかもしれない。
でも、それでも。
彼がそれで私を見捨てるかと言われたら、多分きっと、違うのだと思う。
「違う……っ」
「違いませんよ、貴方のような醜い化け物を好く者なんて居るわけがないでしょう?」
――それなら、きっと彼はとっくの昔に私を見放してる。
何も出来ない無能に……この世界において、最も価値のない者に成り果てた時でさえ、見捨ててくれなかった彼が。
そのくらいで見捨てるなら、見捨ててくれるのなら、どんなに良かったことだろう。
私が恐ろしいのは、この様になってしまった私を見られる、という事。
ウィルがどう思う、ではなく――こんな風になった私を見られるのが、怖くて怖くて、仕方がないというだけで。
「――っ、はは」
……ああ、なんだ、それだけだ。
目を害獣のものに替えられて、それは酷く恐ろしく悍ましく、気持ちの悪いことだけれど。
でも、それでウィルが私を嫌うなんて事は、多分ないのだろう。
それで周りからどう思われようとも、彼がそんな事で諦めてくれる程要領の良い人間じゃないなんてことは、他の誰でもない――私自身が、よく知っていることじゃあないか。
だから、後は……私が、その姿を晒す勇気を持てるのか、ただそれだけ。
そう思った瞬間、震えていた手足に僅かに力が戻った。
恐怖と混乱で麻痺していた痛みも戻り、左目からずきり、ずきりと激痛が走り始める。
視界は相変わらず半分歪んだままで、開いているだけで酷く気持ちが悪い。
「……気でも狂いましたか? まあ良いです、また眠っていなさい――!!」
――それでも、相手の動きを見ることくらいは出来た。
相も変わらず、読みやすい攻撃だったけれど……私の体は、普段と比べて酷く重く。
辛うじて初弾を躱せば、相手の顔が驚愕に染まったのが見えて――ああ、先程までの私はそれほどまでに、混乱していたのだろう。
「な……この、大人しく――!!」
戸惑いながら、乱射するように魔法を放つ彼女を見ながら……ぐにゃり、と歪む視界に吐きそうになりつつも、前に出た。
恐らく、彼女も先程殴りつけた時のダメージは残っていたのだろう。
私が前に出て、近づいてくれば酷く慌てた様子を見せて――……
「ひ、ぃっ!?」
……私の視線が、彼女の視線と混じり合った瞬間。
酷く怯えたような表情を見せながら、彼女は硬直し、悲鳴をあげて――全く、お前が私をそうしたのだろうに。失礼な話である。
私は相手に近寄る勢いのまま飛ぶと、力の入りづらい体をぐるんと回転させた。
「あ――」
相手の顔が一瞬だけ見えなくなる。
だが、幸い相手は硬直してくれていたのでこんな隙だらけな攻撃であっても、外れないという確信があった。
軽く跳びながら、ぐるん、と体を回転させた勢いのままに脚を相手の顔面に――全体重をかけて、叩き込み――
「――ぶ、ぎゅ――ッ!?」
――ぐしゃ、という何かを潰す感覚と同時に、まるで豚が屠殺されるような声が部屋に響く。
その少し後に、ガシャァンッ!と何か、棚でも壊れるような音が鳴り響いて。
私は私で、思い切り背中をもんどり打ってしまい。肺から空気が抜ける感覚を覚えつつ、軽く悶絶しながらも何とか立ち上がった。
「……く……っ、そ、閉じた方が良い、か」
ぐにゃりと歪み、左右で色さえも違う視界に倒れそうになれば、私は慌てて左目を閉じた。
それでもまだ違和感は収まらなかったものの、そのままよりは幾分かマシにはなり。
先程浴びせ蹴りを思い切り顔面に叩き込んだ彼女の方へと視線を向ければ――壊れた棚に頭から突っ込みながら、びくん、びくん、と痙攣していた。
……何やら棚に入っていた薬液やら、標本やらを浴びているようだけれど。
痙攣しているのだから生きているだろうし、何より――私にした事を考えれば、それを助ける気には到底なれず。
私はそのまま部屋から出て、何とか先程彼女が口にしていた侵入者と――ウィル達と合流しようと、して。
「……っ、あ、危ない危ない」
……そこでようやく、私は自分が全裸だという事に気がついた。
流石に全裸で闊歩する訳にはいかないと思い周囲を見るけれど、部屋には服らしき物も無かったため、一先ずは幕を適当に体に巻きつけて。
ついでに、切り裂いた布で顔の左側を巻けば……少し、ほんの少しだけだけれど、気持ち悪さも収まってきた。
「……この目の事は、後で考えよう」
左目を軽く撫でつつ、私は誰に言う訳でもなくそう呟けば、部屋を後にする。
……正直を言えば、まだ怖い。仲間に今の私を見られてしまうのは恐ろしくて堪らない。
でも、そんな事を言っている場合ではないのも、よく解っていた。
恐らくは私を助けに、ウィル達はここまで来てくれたのだ。だと言うのに、私一人の恐怖心で怯えて竦んでなど、いられるものか。
ウィル達はきっと、この場所のどこかで戦っているのだろう。
なら、少しでも彼らの助けにならなければ。
戦闘音を頼りに……まだままならない体に鞭を打ちつつ、私は廊下を走った。




