4.窮地の中で
「――ああ、準備に随分と時間がかかってしまいました」
タルタロスの施設、ウィルがたどり着いた階層のその奥の一室。
少し疲れた様子で、しかしどことなく嬉しそうな表情を浮かべたエルフの女性――オクタヴィアは、ベッドで眠ったままのミラを前にして、甘く吐息を漏らした。
「ふふ、貴女のように良い素体は久方ぶりです。それに、あの動き――きっと才能もあるのでしょうね」
以前ミラに打たれた部分を軽く摩りつつも、ソレを恨んでいるといった様子はなく。
ただ……歪に口元を歪めると、ミラの顔に刻まれた傷跡に、そっと触れた。
カインの手で刻まれた傷は鋭く、深く。手当は施したものの、傷跡はしっかりと残っており――……
「ふふっ、ふふ……まずはここからにしましょうか。ああ、安心して下さい」
……その手に握られたのは、小さく鋭い刃。そして、何かの肉片で。
「まずは、と言うだけです。ふふふっ、長い手足はもっと長く、それに増やしてあげましょう。そう、いっそ虫のように増やしましょう。ああ、その大きな胸も増やしましょう。ふふっ、ふふふ――……」
薬によって眠らされ続けているミラに、オクタヴィアは心底楽しそうに――狂気に満ちた笑みを浮かべながら、自らの体を掻き抱いた。
元より、彼女はそういった人間だった。
カインが来る以前から、害獣を利用するという名目で害獣の一部を人間に移植する、といった狂気に満ちた行為を行っていた彼女にとって、カインの元はとても、とても居心地が良く……何しろ、彼女が行う全ての非人道的な行為を認めていて。
無論ソレは、カインが楽しいから、という理由であり彼女の行為を理解していたわけではなかったけれど。
「さあ、貴女も私の手で生まれ変わるのよ――」
カインがタルタロスの頭となってから、完全にタガが外れてしまった彼女は心底愉しそうに声をあげながら、そっとミラの頬を撫でた。
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――一方、最下層入り口。
タルタロスの構成員であるものの中でも、特に才能のあるもの――同時に、人間としての倫理が欠如している者たちに囲まれたウィルは、未だに倒れる事無く奮戦していた。
十余名にも及ぶ波状攻撃を前にしてなお、ウィルは怯むことはなく。
彼がそう出来たのは、カインへの……そして、この組織自体への怒りか、それともミラを救うという愛情故か。
「追い込め!相手はたかが1人だぞ!!」
「くそ、何でこうも避けられる――!?」
……否。
それ以上に彼がこれまでに積んできた経験が、絶対的に不利な中で有っても彼がそれに立ち向かう事を可能にしていた。
相手の行動を、動きを、戦い方の先を見る。
それは今まで、信頼の置ける仲間たちと共に死線を潜ってきた彼だからこそ、出来る事。
こう動けば、こう動く。こう避ければ、隙が出来る。
まるで自分と相手を盤上の駒のように俯瞰しながら、ウィルは構成員たちからの攻撃を辛うじて躱しつつ、どうにかして状況を打開しようと試みていた。
だが、届かない。
彼が如何に状況を俯瞰しようと、相手の行動を見ることが出来ようと――躱すことが出来ようと、それだけだ。
吹き荒れる魔法の嵐に、攻撃に転じる隙など有るわけもなく。
「……っ、くそっ、くそっ、くそ……っ!!!」
過ぎていく時間に、焦燥が募っていく。
時間を掛けるという事は、即ちミラに危険が迫るという事に他ならない。
だからこそ、ウィルは速攻に賭けたのだ。
怒り狂いつつも、まだこちらを甘く踏んでくれている内に数を減らそうと斬り込んで――しかし、それで昏倒させられたのは僅かに4人程。
その辺りで相手も流石に侮れないと気づいたのか、こうして遠巻きに魔法による攻撃を繰り返し、ウィルを近づけまいとして。
「――……っ!!」
……それが悪手だというのは、ウィル自身も理解できていた。
勇気ではなく、無謀。どう考えても成功しない行為だという事を、ウィルは経験から理解していた。
だが、それでも――募る焦燥が、焦りが、そして怒りが彼を愚行へと走らせる。
射線を読みつつ、ウィルは魔法による弾幕の中を突っ切るように駆け出した。
体を掠め、時折肩を撃つ魔法に声を漏らしそうになりながらも、間合いを詰めようと足を動かして。
間合いさえ詰める事が出来たのなら、この状況を好転させる事ができると――それが出来ないと解っていながら、ウィルは走り――……
「馬鹿が!良い的だ!!」
そして、当然のごとくその体を魔法で撃ち抜かれた。
直撃、というわけではない。
けれど、圧縮された風の弾は小柄なウィルの体を弾き飛ばし、壁に叩きつけて。
当たり前の事だった。
ウィル=オルブライトはオラクルではないし、彼自身は特別天才という訳でも何でもない。
無謀を、無茶を通せるのは選ばれた一握りの者だけなのだから。
「――あ、ぐ」
「良いか、殺すなよ!カイン様の命令だ!」
「ええ、でも甚振る程度は良いんでしょう?」
「当然だ、我々をここまで手こずらせてくれたのだから――」
背中を強く打ち付けた衝撃で、ウィルは呼吸さえ難しく感じてしまう、そんな中。
それでも尚、立ち上がろうとするウィルを、構成員達は嘲笑った。
――何を無駄なことを。
――やはり無能は無能だな。
そんな言葉を吐かれても、ウィルは止まろうとは思わなかった。
壁を背にしつつ立ち上がったウィルに向けて、構成員達は手をかざす。
如何に射線が見えていようと、ダメージの残る体では回避する事は叶わない。
……それでもウィルは、諦めようとは微塵も思わなかった。
彼の頭に浮かぶのは、かつての記憶。
信じられないような巨大な害獣を前に、仲間たちと共に何とか生き延びた事。
語るのも悍ましいような害獣と対峙し、犠牲を出しつつも辛くも勝利を収めた事。
一度は彼女と別離を経験しつつも、諦めずに探して再会出来た事。
姉に連れられて、北方での遠征に赴き、手痛い怪我を負いつつも何とか成し遂げた事。
初めてのパラディオンとしての遠征で、沢山のトラブルに見舞われながらも生き延びる事が出来た事。
――ミラと、初めてパーティを組んだ時の事。
そして、それ以前の……ずっと1人で努力を続けていた頃の事を。
それを無駄だなんて、ウィルは思わなかった。
諦めずに続けてきたからこそ、ここまでこれた。パラディオンになれた。仲間も出来た。
大事な人も出来て――……
「……ああ」
そこまで考えて。
ウィルは小さく声を漏らしつつ、僅かに後悔を覚えてしまった。
そうだった。ここまで来れたのは、決して自分1人の力などではない。
昔のように1人で努力をしていたなら、とっくの昔に自分は潰れていただろう事は、ウィル自身にもよく解っていた。
仲間が居たから。大事な人が居たからこそ、ウィルはここまで来る事が出来たのだ。
……もしも。
もしも感情に任せず、仲間に少しでも相談していたのなら、違う結果だったのだろうか?
彼らまで巻き込みたくない、と言うのは真実だけれど。
その結果として、彼女を――大事な人を助けられないのなら、それは間違っていたのではないだろうか?
自分を弄ぶように放たれる魔法を辛うじて躱し、剣で受けつつ。
浮かんでしまったその考えに、甘えにこみ上げてくる物を感じつつも、ウィルは軽く頭を振り、前を見て。
それでも諦めない、諦める訳にはいかない、と勝算も活路も見えない状況に、無理やり自分を奮い立たせる。
そんなウィルを嘲笑いながら、構成員達は更に魔法をウィルへと叩きつけようと、手を翳して――……
……その瞬間、広間の入り口――階段に繋がっていた扉が、大きな音と共に開け放たれた。
さらなる増援か、とウィルは絶望にも似た感情を覚え、視線を向けて。
「……え」
「――全く、随分と時間がかかってしまったわ!何という場所だ、ここは!」
「貴方が全員助けなければ気が済まないとか言うからでしょう、全く」
広間に響く、聞き慣れた声。
大柄のドワーフの男性と、スレンダーなエルフの女性は場の雰囲気にそぐわないような明るい口調で言い合いつつ。
「な、何だ貴様ら――い、ぎゃああぁっ!?」
「なっ!? 上の連中は何を……ぐ、あっ!?」
「……一応言っとくけど、容赦はまっっっっったく、これっぽっちも必要無いと思うよ」
「ん。わ……か、って……る」
二人に向けられた腕は魔法を放つこと無く、どこからともなく飛んできた矢に穿たれれば、鮮血を撒き散らす。
小柄な――否、リトルとしてはやや長身な男性は、自分の隣を歩くビーストの女性にそう言いながら、小さく息を吸い、吐くと――ウィルの前に炎の壁を作り出した。
「……な、んで」
それを、ウィルは信じられないと言った表情で見つめていた。
彼らに居場所は告げなかった筈だ。
自分の部屋には辞表を置いてきた筈だ。
――もう、二度と彼らに会うことは出来ないと、そう思っていたのに。
「……ったく。こんなものを僕らに相談もなしに置いてかれても困るんだよね」
「ええ、全くその通りです。アルシエルが目敏くなければどうなっていた事か」
「まあそう言ってやるな。ウィルもウィルで俺らに気を使ったんだろう――が、次は許さんからな」
「……だ……め、だか……ら、ね」
ラビエリは呆れた様子でウィルが置いてきたであろう辞表らしきものを、ウィルの目の前で焼き払い。
リズは小さくため息を漏らしつつ、眉を潜め。
ギースはやれやれと言った様子で――しかし、彼らの中では一番厳しい表情で、ウィルを見て。
アルシエルは、心配だったのだろう。少し潤んだ瞳をこすりつつも、怒ったような表情を懸命に作っていた。
「皆……どう、して」
ようやくダメージから立ち直ったウィルは、まだ信じられないと言った様子で、そんな言葉を口にして。
――そんなウィルに、彼らは揃ってため息を吐き出せば。
「――仲間を助けるのは、当然の事だろうに。そんな事も忘れたか?」
「私は確かに、仲間になって短いですが……そんなに薄情だとでも思っていたのですか?」
「全く、一人で何でも出来る訳じゃないって、ウィルが一番判ってるだろうにさ」
「……っ、み……んな、で。たすけ……よ!」
「――……っ」
窮地に駆け付けてくれた仲間達に、ウィルはこみ上げてくる物を既の所で堪えつつ。
軽く頭を下げれば……直ぐに、思考を巡らせ始めた。
活路がまるで無かった先ほどとは違う。
仲間達が来てくれただけで、活路も、勝機も無数にあるのがウィルにははっきりと見えて――……
「く……たった4人増えただけだ!こいつらはさっさと始末するぞ!」
「こっちは十人以上居るんだぞ!数で圧殺してやれ!!」
「このフロアに居る他の奴らを呼んでこい!」
「――皆」
突然の闖入者に混乱していた構成員達が、叫びながらも何とか冷静さを取り戻そうとしている中。
先程までの怒りに震えた声ではなく、少し掠れてはいたけれど。
ウィルはいつもの調子でギース達を呼べば――彼の僅かな挙動を見た瞬間、彼らは一斉に動き出した。
「な――何だこいつら、突然――!?」
「おお、随分と非道な真似をしてからに……優しくはしてやらんぞ」
「骨の1つや2つ――いえ、5つは覚悟してもらいましょう」
「魔法の使い方ってやつを教えてあげるよ、ド素人共」
「ひと、り……も、にがさ……ない、から――!!」
「……行こう、皆!」
増えた侵入者は僅かに4人。
依然として、数としてはウィル達が圧倒的に不利な事に変わりはない。
――だが、形勢は明確に、大きく変わりつつあった。




