1.事の始まり
少女は、孤独だった。
物心ついた頃には両親は居らず、少女は自分の名前さえ知らなかった。
両親以外に彼女の名前を知る者など居るはずもなく、少女は10歳になっても尚、名前を呼ばれる事はなかった。
少女は引き取られた先でも、人としての扱いをされる事はなく、名前を与えられる事もなかった。
少女は、孤独だった。
少女には、とりたてて才能といったものはなかった。
ウィル=オルブライトとは違い、どれだけ努力をしたのだとしても凡人程度にしかなれない彼女は、誰にも助けては貰えなかった。
助けてくれる筈の両親も、友人も、彼女には居なかったのだから、当然だけれど。
……少女にはそれを悲しもうと思う感性さえ、無かった。
少女は、孤独だった。
彼女の目が光を失ったのは何時からだろう?
少なくとも、生まれつきではない事はその顔に深く刻まれている傷から、明らかで。
彼女は自分の周りに広がっている世界がどんな物なのかを、何一つ知らなかった。
色も、形も、何も。
少女にとって、世界というのはただ、音があるだけの暗闇で。
――だから、少女は気付かなかった。
ある日突然、彼女の世界から音が消えても……彼女が暮らしていたその辺境の村に、何が起きていたのかなど、知る由もなかった。
ずるり、ずるり、ずるり。
少女が辛うじて命を繋いでいたその小屋に訪れる何かの音に、少女は手探りで立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。
それは、少女が引き取られてから教え込まれた事。
――少女を引き取った家庭は、目も見えない不幸な少女で戯れる事で自尊心を満たしていたのだが、それを少女が知ることは二度とは無いだろう。
人ならざる音を鳴らす何かに、少女はそれでも動かない。
当然だ、少女はそれが何なのか理解できない。
――そもそも、まともな教育さえ与えられなかった少女には、害獣というものがわからない。
ずるり……ずるり。
やがてその音は少女の前で止まれば、何かに戸惑うように動きを止めた。
その何かは、少女が何なのかが理解できなかった。
人であるにしては、余りにも怯えがなく。
害獣であるにしては、余りにも頼りなく。
動物であるにしては、それなりの知性があり。
「……?」
それは、何だったのか。
目も見えず、名前もない少女は何か、生温い物にべちゃり、と撫でられる感覚を覚えると、目を細めた。
少女にとって、それは初めての事だった。
誰にも撫でられた事のない少女は、その何かに撫でられる事で、初めて心に暖かさを宿し――……
「あなた、は、だれ、ですか?」
だから、初めて。
生まれて初めて、少女は自分から、相手のことを問うた。
自分を撫でてくれた相手のことを知りたくて、少女はたどたどしく言葉を紡ぎ。
……しかし、返ってくる言葉はなく。
少女はそれに、胸に灯った熱が冷たく冷めていくのを感じながら……突然、体が浮かび上がるような感覚を覚えた。
ずる、ずる、べちゃり。
少女は自分の体が暖かな何かに包まれ、粘液のような物に乗せられるのを感じると、首を傾げ。
その何かが自分を乗せたまま、何処かへ移動している事が分かると、とくん、と胸が高鳴っていくのを感じていた。
「……あり、がとう、ございま、す」
ずるり、ずるりと音を立てるだけで、その何かは少女と言葉を交わすことはない。
ただ、少女は――生まれて初めて、生き物としての扱いを受けている事に心から感動していた。
……それから少女は、その何かに世話をされるようにしながら、生きてきた。
時折与えられる生臭く暖かで、柔らかな何かは少女が今まで口にしてきたものよりも遥かに美味しくて。
何かに促されるように何かを持たされ、それを振り下ろせば、ぐちゃり、という音と共に確かな手応えを感じ、少女がそれをすれば何かは、少女の体を、頭を優しく撫でてくれた。
時折泣き叫ぶ人の声が聞こえはしたものの、少女がそれについて何かを思うことは全く無く。
「く、来るな……来るな、化物ぉ!!!」
「……へんな、ひと。ばけ、ものなんて、いないのに」
悲痛な声を上げながら、遠ざかろうとする音を聞けば――少女はいつしか、口元に笑みを浮かべるようになっていた。
「おとう、さん。むこ、うに……いった、よ」
少女を乗せた何かは、その言葉に従うようにずるり、ずるりと地べたを這いずりながら音を追いかけていく。
その速度は、逃げていく音よりも遥かに早く――……
「ひ、ぃ……っ、ひぃっ、ひぃぃ……っ!!なんで、なんで――こいつは暗闇なら、夜なら安全だって――!!」
「あは、はは。へん、な、こえ」
必死な声を上げて逃げていくそれを笑いつつ、少女は何かに……『お父さん』に、それが逃げていった方向を知らせていく。
そうする内に、あっという間に『お父さん』はそれに追いついて。
「あ、あ――ふぎゅっ」
……ぐちゃり、と。
何かが潰れるような音と共に、惨めな音を鳴らしながら……それは、動かなくなった。
少女はこの瞬間が大好きだった。
大きな声で喚く何かが、大好きな『お父さん』に潰されて鳴らす、変な音が大好きだった。
「……やった、ね、おとう、さん」
少女の言葉に、相変わらず『お父さん』は応えない。
ただ……べちゃり、とその粘着質な何かで少女の体を、頭を撫でれば、潰したばかりのそれをちぎり、少女に与えて。
「えへへ、あり、がとう」
『お父さん』から与えられた何かに、少女は笑みを零しながら、躊躇う事無くそれを口にした。
それを確認したからか、『お父さん』もぐちゅり、ぶちゅりと音を鳴らしつつ、残ったそれを余すこと無く咀嚼していく。
そんな彼……或いは彼女か、それさえもわからない何かに少女は微笑みながら、優しい手付きでその粘着質な表皮を撫でる。
「――おおきく、なった、ね、おとう、さん」
愛おしむようにそう口にしつつ、少女は『お父さん』に倣うように、ぐちゅり、と。
先ほど受け取った、生暖かいそれを口にしつつ、幸せそうに笑みを零した。
――少女は、幸せだった。
――東の辺境の村が滅びてから、半年程。
その近辺の町は軒並み壊滅し、朽ち果て、人の住めない場所へと変貌していた。
東にあるパラディオンの支部は幾度となくその害獣の駆除にあたったが、尽く壊滅し。
そしてとうとう中隊を送ったものの、これさえも潰走。
生き残ったパラディオン達も重傷で、とても再起出来る状態ではなく。
既に人の手に負える物ではなくなっていると判断した支部は、恥を忍んでオラクルに支援を要請した。
本来ならば害獣はパラディオンの担当であり、オラクルが手を出す事は滅多にないのだが……
「害獣相手に要請されるなんて、十数年ぶりね……」
……要請を受けたオラクル、フィリア=オルブライトは書類をみつつ小さく息を吐き出した。
報告書に書かれている言葉は、長年オラクルとして生きてきた彼女にとっても疑わしいもので。
曰く、その害獣の長は二人一組である。
曰く、その害獣は千里を見通し全てを聞き取り、獲物を逃す事がない。
曰く、その害獣は言葉を話し、嘲笑う。
曰く、その害獣は軍勢である――……
――そんな事が長々と書き連ねられている報告書に眉間を抑えつつ、彼女は馬車の外を見る。
遠くにはパラディオンの本部が設置されている――否、本部の周囲に建設されている城塞都市が見えてきて。
それを見れば、彼女は口元に小さく笑みを浮かべながら、そこで立派に働いている我が子の事を思い浮かべた。
「……ウィルは、元気にしているかしら。少し真面目過ぎる所があるから、無理をしていないといいのだけれど」
心配するような口調とは裏腹に、その表情は穏やかで。
オラクルであるフィリア=オルブライトは、報告書に載っている害獣の対処に頭を痛めつつも、立派に成長したであろう我が子との再会を心待ちにしていた。




