プロローグ 暗然たる酒場にて
「あなたを大切に思う」
その言葉を初めて聞いた時、男は喜びという言葉だけでは表しきれない感動を覚えた。
別の日には、
「帰らないで、まだ傍にいて」
この言葉も、
「あなたの事が好き」
この言葉も、
「あなたと一緒にいたい」この言葉も、
「―――だから、私のためにコイツを殺して?」
この下らない願いの為についている嘘なのだろうか。
まだ確かめる術はない。
記憶を辿るとこの女は、機嫌が悪い時が多い。
明らかに良いと分かるのは、誰からか知らない手紙を読んでいる時ぐらいだ。
だが、急に何かを思い出したかのように、その態度を改める。
女の目の先に映っているのは、男なのか、それとも…
疑心案着になる己を恥じ、
「下らない事を言わないでくれ」
そう突っぱねる。
客の少ない薄暗いバーで、気分の悪くなる話を続けたくないのだ。
男は傭兵だ。それも、何度も死線を潜り抜けている。
故に、身体中に無数の傷跡がある。
左頬の大きな痕は、火炎魔法によって付けられたものだが、それは誇りである。
相手は、敵国のエリート集団の一人で、その首を打ち取ったからだ。
なぜ男は傭兵になったのか。
他に選択がなかったからだ。いや…選択権はあった。
施設から抜け出したならば、少なくとも自由はあった。
その行く末は強盗・窃盗を行う犯罪者、もしくは物乞いだろうけれど。
男に、親はいない。
それは知らない。と言い換えても問題ない。
物心が付いた時には、施設にいたのだ。
おそらくは、売られたのであろう。
施設とは、傭兵を育てるための市営の団体である。
ここは上手くいけば大きなビジネスチャンスとなりえる。
有事の際、名の知れた傭兵はすぐに雇ってもらえるが、それ以外の者はそうはいかない。
敵国のスパイの可能性もあるし、そもそも戦力として充てにできるかも怪しい。
そこで何を信用するのかといえば、先述の施設である。
ここからの紹介ならば間違いない。と思われればしめたものだ。
後は、傭兵を紹介し、その見返りとして賃金を得るのだ。
その傭兵が戦果を挙げれば更に追加で料金を得ることもできるし、仮に戦死してしまえば慰謝料を請求できる。
一度、信用さえされてしまえばどう転んでも儲かるのだ。
反面、弱小な傭兵しか育てられない施設は淘汰される。
どこの世界も弱肉強食なのだ。
男と女の間に沈黙が流れる。
「もうこんな時間か、施設に戻らなければ」
椅子から立ち上がり、自分の分とそれより3割ほど多い硬貨をテーブルに置く。
「待って、まだ行かないで。まだ一緒にいたい」
やれやれ、またそれか。と男は思う。
帰ろうと思わせる前に、何か気の利いた事を言ってくれればまだ残っていた。
「悪いが、次の仕事の打ち合わせがあるんだ」
そう言い、店を出ていく。
(もう、会わない方が良い…)
と、言いかけていた。
が、自分に好意を抱いてくれた異性は今まで存在しなかったのだ。
それだけで、その一言を告げられずにいた。
月明りすら見えない湿気た街並みに、足音だけが木霊した。