アリさんはジェノサイダー
「起きなさい、起きるのです、アリさん……」
心地よく触覚を揺さぶるその声、薄っすらと見えるそのお姿は、まさか……。────はッ!
「みーこ、新しいお友達が出来たの~」
「そうなの? よかったわね、どんな子なの?」
かすかな振動と車の排気音が体に響く。よほど強い衝撃を受けたのだろうか、触覚が麻痺している。周囲を鮮明に認識できない。チビヒューマンの服に引っかかり、体を支える右後ろ脚が微かに痛む。どうしたことだ、記憶すらも不明瞭。思い出せ思い出せ、一体何が俺に起きた?
……あ、ああ、思い出したぞ! アントは確か叩かれたんだ。こうとかいう友達一号に! でも、待てよ? なら、どうしてアントは生きている? これは大変だ、よく考えねば。思考は大切、小さなアントが生き抜くには、考え理解し、たとえ同じ危機に直面しても知恵として蓄え対処する。それがアント界での生きる道、そして考え続けたアンとは気づく。己の六足の先っちょが少しひしゃげていることに。
そうかそうか、分かったぞ。指の付け根、股の間か! 確かにあいつは手を僅かに開けて平手の形で打ち付けてきた。いくら小さな幼生体の手とはいえ、アントが生き残るには十分だ! 己が身に降り注いだ奇跡にアントは感謝する、きっと大いなる『アンツ』の導きに違いない。
……そういえば先ほどおぼろげな意識の中で何かを見たような気がする。たしか七色に輝く右複眼と、ホモサピエンスによく似た左眼球。鋭利に尖った大顎に、ホモサピエンスによく似た手が左右に三本ずつあって、なめらかで艶めかしいアントと同じ、三つの節で結びついており、全身は黒色で気品あふれる外骨格で覆われている、何かを確かに見た気がする……。いや、うん、きっとただの幻覚だろう。理解してはいけない何かとかそういうのでは決して無く。
ああ、大いなる『アンツ』よ。我がアント生に感謝します。
「ただいま~」
「おかえりー」
ガチャっと扉を開き、ホモサピエンス特有の帰還の呪文を唱え終わると共に、アントはチビヒューマンから飛び降り宙を舞う。ゼロの等しいその体重は空気抵抗を全身で受け、ノーダメージで地に降り立つ。それと同時に猛ダッシュ、目指すは憎きアクリルへ! チビヒューマンとデカサピエンスが手を洗いに行っている隙に、元の場所へ戻らねば!
目指すは3食昼寝付き、厳しい厳しいアント界。少しはアクリルに囲われた世界でのんびりしても『アンツ』は許してくれるよね? 『フローリング』という大平原を踏破して、『タンス』と名のつく断崖絶壁を駆け上る。そして無色透明の監獄の中へ自らの意志で踏み入れる。ふむ、まるで実家に帰ってきたような安心感だ。ロンリーアントには社場の空気より、監獄の風のほうが性に合っているらしい。食べかけの虫用ゼリーがいい味出してる。さてさて、いつもの場所にスタンバーイ。アントはでかけたりなんてしてないよ、ここでのんびりしてたんだからね! だから早く早く餌プリーズ!
洗面台からトットット、チビヒューマンが駆けて来る。たっぷりたっぷり、蜂蜜持って……。違う違うよ、蜂蜜違うよ。アントはもっと、高タンパクを求めてる。
「アリさんアリさん、みーこ、お友達になれたの!」
うんうん、ほーかほーか、良かったのう。しかしわしゃあ蜂蜜を求めておらんのじゃ。アントはまるで祖父の様に穏やかに、複眼を気持ち細め(細められない)ながらチビヒューマンを見つめている。すると、リトルヒューマンがチビに続いて現れた。
「いくらアリだって、蜂蜜ばっかりじゃ飽きるんじゃね?」
お、リトルヒューマンの分際で、よくぞその事実に気づいたよ。アント褒めるよ、キミのこと。俺を捕まえた恨みは、決して決して忘れないけど。てか、そういうことを言うからにはなにか持ってきたんだ……、コ、コオロギィィィィィッ!
え、なに、ちょ、おま……、『アンツ』? いやいやいや、その手にお持ちであられるはもしや、コオロギではありませんか。しかも足の一本もかけておらず、完全体ではありませんか! コリコリのお足も、カリカリの香ばしい頭と複眼も、ジューシーなお腹も全部揃ってる。さながら満漢全席、フルコース!
「う~、きもちわるいよ……。アリさん、そんなのたべないよ~」
「え~、本には書いてあったんだぜ、アリは虫食べるって」
「でも、みーこ、アリさんはあまいモノが好きだって、きいたもん!」
「じゃ、どっちのをタベルか勝負しようぜ! 同時に入れるぞ? いっせーのーで」
「「はい!」」
空から降り注ぐ濁流が如き蜂蜜を華麗にかわすアント、蜂蜜は飽きた、蜂蜜は飽きたんだ! そしてほぼ同時に天から舞い降りた豊穣の証、茶に染まった琥珀のごときその亡骸は神の供物。そう、コオロギだ。目の前に糖分の塊と、肉汁滴るステーキならばどちらを選ぶかは明白だろう。一瞬の迷いもなく、最高速でコオロギ目指す!
「ほら、やっぱり虫も食べるじゃん」
当たり前だろ、リトルヒューマン。共食いとか言ってくれるなよ。お前たちだって牛とか豚とか喰ってんじゃん。ならばアントがコオロギ喰っても無問題! さあ、久々のごちそうだ。アントの持ちえる全野生、本能のままに食らいつこう!
「アリさん……」
クッ、チビヒューマンめ、つぶらな瞳でアントを見るな。アントに夢見るのはいいが、お砂糖ばかりでは生きられぬのだ。飽きるのだ。リトルヒューマンが入れてくれた虫用ゼリーも、だいぶ干からびてカピカピしてきたしそろそろガッツリまともな食事も……。
「アリさん、ハチミツきらいなの? なら……、もうハチミツいらない?」
その時、アントに電流走る! ちょっと待った、今この状況をよく考えよう。コオロギまで後数センチ、アントは思考の迷宮に沈んでく。考える事こそアントの一番の武器なのだから。……まずは議題だ、ここでコオロギをタベルことは本当に正しいことなのか?
まず、リトルヒューマンの行動パターンを考えてみよう。ここまでこいつは何をしてきた? たまに俺の姿を見物に来るくらいで、捕獲された当初ゼリーを投げ入れてきたくらいだ。このコオロギは相当レアな気まぐれだろう、遊んでいた時たまたま見つけたとかそのぐらいの。大して、チビヒューマンはどうだ? 定期的に蜂蜜を投入して、アントに食事を与えてくれる。干からびかけたゼリーに比べればまさに甘露。コオロギに比べれば下も下だが、ゼリーとは比べるべくもなくごちそうだ。ここで、本能のままにコオロギを喰らえば今のチビヒューマンの口ぶりから察するに、蜂蜜が途絶える可能性がある。つまり……チラッと、干からびやや石化し始めたゼリーに複眼を向け、絶望する。最悪の場合、これから毎日『あれ』が主食となるということか……?
これは否、断じて否である。危ない危ない、目先のコオロギにとらわれて、大局を見失う所であったわ。アントは華麗に方向転換、触覚を強く強く惹かれながらも、蜂蜜を目指し啜る啜る。……まぁ、打算的に考えるなら、蜂蜜を食べてここは一旦チビヒューマンの機嫌を取り、夜中にコオロギを食べればいいよね。今夜はコオロギフルコース、しゃぶり尽くしてくれようぞ。贅沢三昧に思いを馳せ、幸せな気持ちでお腹いっぱいにならないようにゆっくりゆっくり蜂蜜舐める、ワンアント。
「あ、やっぱりアリさんはちみつのほうがいいんだ~! みーこのかち~!」
「うぉ、まじか~。なら、これ捨ててくるわ」
……え、え?
「うん、アリさんのお家よごれちゃうもん、ばっちぃ~」
いや、え、ちょっとまって。おいてっておいてって、つまんで行かないで、お願い返して。アントのアントの、それアントのッ! アントは必死に追いすがる、コオロギとともに去っていくリトルヒューマンの後ろ姿を。あまりの動揺にアクリルを登ることすら忘れて、ガンガンガンガン、両前足で叩きつける。
「あ~、アリさん喜んでる~!」
その言葉にとどめを刺され、力尽きたかのようにガクリとアントは項垂れ、蟻酸の雫が垂れ落ちる。……、うん、でも君が嬉しそうなのいいことだね、アントはそう思って気を持ち直す。正直、アント的に割りに合ってない気もするけどいいよ。いつかここから出た時にたらふくコオロギ食べてやる。アントに百八つの捕獲術を駆使してな!
「えっとね、アリさん、今日ね、こうくんがアリさんのお名前考えてくれたの~」
両手を上げて喜びを表現するチビヒューマンに、空元気を総動員してアントも両前足を上げて応じる。ほうほう、アントの名前とな。ホモ・サピエンスの社会に馴染むいい機会だ。名はその個体のあり方を表すもの。アント界では存在しない文化であるので大変興味がありまする! さあさ、聞かせるがいい、チビヒューマン。 友達一号の考えた我が名をな!
「これからも元気に大きくなってね、『じぇのさいだー』」
……ううん? もしかして俺の名前『ジェノサイダー』?
アリさん改めジェノサイダー、今日も明日もアクリルぐらし、蜂蜜とともに生きていく。




